第36話


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 知らせを受けたガイアが慌てて空中庭園を降りて城内の隔離区に入った時、ふわりと抱き締めるような気配を感じて無意識に後ろへと振り返った。
「--ロード」
 慌てるガイアとは正反対に、優雅な足取りでファントムが近付いてくる。
 ファントムはいつも通りの笑みを浮かべたまま、ガイアの隣に来た時にようやく口を開いた。
「リーン姫が“目覚めた”そうだな。向かおう」
 ファントムを先頭にわずかに後ろを歩きながら、ガイアは少しだけ見えるファントムの横顔を見上げる。
 リーンが呼んだのは最初はファントムだけだった。しかしすぐに、ガイアにも訪れるよう願ったのだ。
 自分が呼ばれる理由などガイアにはわからない。
「思っていたよりも姫の回復が早い。あの双子はとても優秀なようだ」
 ガイアの胸中を知ってか知らずか、ファントムは視線に気付いたかのようにガイアに顔だけを向けて癒術騎士の兄妹を誉めた。
 癒術騎士にリーンを癒す手順を教えたのはガイアで、まるで兄妹を通してガイアを誉めるかのように。
「…ルクレスティードはどこに?」
「心配はいらない。城内で気儘に遊んでいた」
 ファントムの視線を逸らすように息子の居場所を訊ねれば、今まで一緒にいたのか、その様子を教えてくれた。
 実際は遠目からちらりとルクレスティードを見つけただけだろうが。
 ファントムが父親らしい様子を見せることは滅多に無い。
 たまにあるとすれば、それは本当に気が向いた時だけの気紛れだ。
 二人揃ってリーンの休む部屋に向かい、扉はファントムが開けて先に入り、ガイアを待ってくれる。
 やわらかな明かりに満たされた室内では、ベッドに横たわるリーンを囲むようにいたバインドとアダムとイヴが静かにこちらに目を向けてくるところだった。
 少し警戒するような眼差しはガイアでなくファントムのみに向けられているが、彼はわずかな痒み程度にも感じていないだろう。
「目覚めたか」
 ベッドに近付き、視線だけを向けてくるリーンを呼んで。
 リーンはわずかに微笑むように口元を歪ませるが、まだ筋肉が上手く動かせずにあまり代わり映えはしなかった。
「…外してくれぬか?バインド王よ」
「…リーン」
 呼び寄せたファントムとガイアの到着に、リーンは早速バインド達に立ち退きを求める。
 兄妹は互いに顔を見合わせて困惑するが、バインドは動く気配を見せなかった。
「案ずるな。全て終われば私は消え去る。この体は晴れてリーンだけのものだ。そうなってから、好きにすればよい」
 リーンを心配しているのだろうバインドに、他ならぬリーンがまるで自分自身を捧げるかのような口約束を語って。
 あまりに違和感のある言葉遣いに、ファントムが喉の奥を鳴らすように笑う。
「その言い方ではまるでリーン姫ではない様だが?」
 最初の頃といい今といい。
 10歳のまま止まり、数えてもようやく15歳になる娘の言葉遣いでは無い。
 ファントム以外が様子を窺う中、リーンもファントムによく似た仕草を見せるように少し笑う。
「私はリーンの苦しみを取り除く為だけに生まれた存在だ。全て終われば舞台を降りる他無かろう」
 つまりは、リーンではない、と。
 リーンが作り出した紛い物のリーンだと言うのか。しかしそう考えてしまった方が、辻褄は合わせられるのだろう。
「…外せ」
 ファントムはバインドと双子に命じ、双子が抗議の眼差しを向けるが、他ならぬバインドが素直に立ち上がったのを見て言葉を飲み込んでいた。
「…行くぞ」
 バインドは最後にリーンの姿を目に映してから、双子と共に静かに室内を出ていく。
 部屋にはリーンとファントム、そしてガイアが残されて、リーンは視線だけをファントムの後ろに立つガイアに向けた。
「…呼びつけてすまなかったな、奥方」
 ガイアを奥方と呼ぶということは、ファントムとの仲を知っているという事なのだろう。
 名ばかりの夫婦。
 真実は単なる隷属関係だ。ガイアはファントムから離れられない。それをこのリーンは知っているのだろうか。
「構いませんわ。いつでもお呼びください」
「…この男には勿体無い女よ」
 殊勝な言葉と共に微笑めば、リーンは蔑むようにファントムを扱き下ろす。
「ふ…御託はいらん。要件を言ってもらおうか」
「要件だと?それはお主が一番よく理解しているだろう」
 わざわざ呼びつけた理由を問うファントムに、わざわざ聞くなとリーンは告げる。
「しばらく休み、頭も冷えたわ。お主もよう考えたことだ。このような手の込んだ悪戯をの」
 ガイアには到底理解できない会話にガイアを含めて、リーンは何を語るつもりなのだ。
「どれほど憎しみを移動させようが、最終的にはお主の望む方へと私の憎しみもたどり着く。私がこうなった原因はお主だが、そのさらに先にある根底が私に訴えかけて、煩くてかなわぬわ」
 それはリーンが生きたまま埋められたことを言っているのか。
 ならやはり、リーンが生き埋めにされた理由はファントムだと言うのか。
 ガイアの動揺に気付いたかのように、ファントムがわずかに後ろのガイアに目を向ける。しかしすぐにリーンに視線を戻してしまった。
 リーンが生き埋めにされた、その根本となる理由とは。
「それで、どうするというのだ?」
 問いかけられて、リーンは先程のファントムとよく似た、喉の奥を鳴らすような笑いを発する。
「…お主の思い通りに動いてやろう。それが“リーン”への慰めにもなろうぞ」
 ファントムの思う通りに。
 それが、身体の動かないリーンの結論。
 満足そうにファントムは微笑み、だがガイアは戸惑ったまま動けなかった。
 リーンはファントムが何を狙い、自分に何をさせようとしているのか知っている。
 知った上で手を貸すというほどの憎しみとは何だ。
「迷うな奥方。そなたはこの男を支えてやればよい。奥方がいなくなれば…それこそこの世が終わる」
 迷わずただファントムの傍にいてやれと告げられて、素直に頷けるような絆は二人には無い。
 俯くガイアからは視線を外して、リーンは再びファントムを見据えた。
「だがロスト・ロードよ、私がお主の思い通りに動く前に、やらねばならぬ事があるぞ」
「わかっている。最低限動けるように、だろう?」
 ファントムの狙いの為の条件。
 最低限とは言うが、今のリーンは指先すら動かすこともままならないのに。
 瞳や声帯は魔力が動かしているのだろう。
 ならば体も魔力を使えば動かせるのではないかと思ったが、それは望むべき姿では無いらしい。
「期限を聞こうか」
「半年以内だ」
 最低限身体を動かせるまでに、半年以内に。その無謀な期限に、リーンが強く笑った。
「面白い!やってやろうではないか。半年以内に歩けるまでになってやろう。体に肉も付けねばな。あれを籠絡するのは簡単だろうが、その後に続かねば意味がない」
「ほう、そこまで理解済みか」
 リーンを使い、誰かを味方に。そしてその後にも何かを。
 ファントムの望みを理解し尽くすリーンに、珍しくファントムは驚いて見せるが、
「ぬかせ。私を誰だと思うておるのだ」
 次の言葉までは計算外だったらしい。
「--お主が真の父であることを誇りに思おうぞ」
 ファントムによく似た冷めた眼差しで、ファントムを瞳に映しながら。
 たったそれだけの言葉で、ガイアの思考は一瞬で消し飛んだ。
 リーンの言葉の意味がわからない。
 ファントムが真の父?
 誰を指してそれを言うのだ。
 ここにはルクレスティードも、ましてやニコルもいない。
 ガイアがファントムとの間に産んだ二人の息子はここにはいないのだ。
「---…」
 時間が一秒経つ毎に、脳内が勝手に整理を始めて。
「…それも理解していたか」
 ガイアの視線に気付いているはずなのに、ファントムは後ろに立つガイアを放置して、呆れるようにリーンに言い放つ。
 リーンがファントムの娘であることを否定せずに。
「でなければあの愚王があれほどまでに私を目の敵にすることはなかったろう。まあ“実の娘でない”とまでは気付いておらんかったが、本能が私を拒絶したのだろうな」
 ガイアにはついて行けない内容を、さらさらさらさらと。
「無能な己ではなく優秀な異母兄の血を引く私を、な」
 リーンがガイアの娘でないことは確かだ。
 エル・フェアリアの治癒魔術師、メディウムとして産まれたガイアの娘ならば、リーンにも治癒魔術の力が備わるはずなのだから。
 それが無いなら、リーンは。
 動揺して一歩後退するガイアに、リーンは呼び寄せた本当の理由を語る。
「奥方よ。その男には私以外にもまだ子供がおる。ニコル、ルクレスティードの他に、私とあと一人な。遺恨となる前にさっさと聞き出しておけ。でなければ、未来に差し障る」
 その事実を伝える為に。
 固まったまま動けなくなるガイアを放置して、会話だけを先に先にと。
「…余計な事を」
「必要な情報だ。せめて己が愛する女にはそれくらい知らせておけ。でなければ…本当に奥方を無くすことになるぞ…」
「…二度と馬鹿な事を口走るな」
 ファントムはどこまでも否定をしない。
 ニコルと、ルクレスティードと、リーンと、あと一人?
 そんな話、一度も。
「私が馬鹿ならば、お主は何だというのだ」
 ファントムはガイアが自身の傍から離れる話を良しとしない。
 不穏な空気が流れ始めた瞬間に、ガクリとリーンの気配が一瞬軽くなった。
 ガイアは最初、ファントムがリーンに何かしたのかと思った。だがそれにしては様子がおかしい。
「…ふ、まだ本調子ではないのか…忌々しいことだ…バインド達を呼び戻すがいい。この体、また当分はリーンに返そう…」
 初めてリーンが起きた時と同じように、この“代え”のリーンの人格はあまり長く外にいられないらしい。
 何とか言いきってからリーンの瞼は静かに閉ざされ、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。
 人格を表に出していた分だけ力を使うかのようで、幼いリーンが目覚める気配もない。
「…ロード」
「…彼等を呼んでこよう」
 ようやくファントムはガイアのいる後ろへと身体を向けるが、その時にはもうガイアはファントムを見つめることができなかった。
 堪えるように強く唇を閉ざして、泣き出しそうになる瞳に意識を集中させる。
 自分が産んだ子供以外に彼に子供がいた事実がショックなら、それだけ彼を愛していたことになるのだろうか。
 だがこの胸の苦しみは、もっと別の部分を刺激する。
 リーンを産んだのが誰なのか。
 調べるまでもなく一人しかいない。
 ガイアからは赤子のニコルを奪ったのに、彼女には育てることを許したのか。
 その事実が、どうしようもなく胸を締め付けた。
「…知りたいのか?」
「やめて!!」
 頬に伸ばされた手を弾いて、ガイアはファントムを見ることもせずに部屋を飛び出す。
 そんなことをしたって逃げられない。だがそれでも、今は傍にいたくなかった。
 通路に出ればバインドの姿は見えないがアダムとイヴが待機しており、飛び出したガイアに驚いて同時に目を見開いてきた。
「--ぁ」
 その時には既に、ガイアの瞳からは涙が溢れ出していて。
 困惑する二人を避けるように、そのまま走り去った。
 ファントムは追いかけてはこないが。
 逃げ場所が見つからなくて、悲しみを散らす場所が見つからなくて、
 本当にこのまま逃げることが出来たなら。
 だがその選択肢は、ファントムに囚われてから消え去ったままだ。

第36話 終
 
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