第36話
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ラムタルを出てから数時間、パージャとエレッテを乗せた絡繰り鳥は深い森の上空を飛んでいた。
先ほど少しだけ仮眠を兼ねて休憩に降りたが、ベッドに慣れた体は冷たい土の上ではあまり休まらなかった様子で、節々が痛いしまだ眠い。
それでもとっととエル・フェアリアに着いておきたかったので急げば、パージャはわずかに後ろを飛ぶエレッテが寒さに震えるように自分の腕をさすり押さえるのを目にした。
エレッテは何も言わないが、明け方近くなので確かに寒い。
「どった?」
「あ、え…何でもないよ…」
理由はわかりつつ訪ねても、エレッテは自分の意思を告げはしない。それどころか
「…ごめんなさい」
いったいどんな悪さをしたというのか、口癖のような謝罪の後にわずかに俯いてしまった。
ため息しか出てこなくなりそうだ。
「寒いんだろ?謝る必要無いし、それくらい普通に言えよ」
「ごめ…うん」
「エレッテの悪い癖だぜ?そうやって言いたいこと言わないの。その調子じゃ死にかけても助け呼ぶの我慢しそうだな」
手綱から両手を離して、身に付けていた防寒用の上着を脱ぐ。
絡繰り鳥を足だけで操って、エレッテと隣り合ってから上着を肩にかけてやって。
「…パージャが」
「騎士になってイヤに鍛えたからな。これくらいなら平気。それともウインド坊っちゃんに操立て?」
「…そういうわけじゃ」
わざとらしくウインドの名前を出せば、エレッテは困ったように眉尻を下げた。
その様子は、お世辞にも二人の仲が上手くいっているようには見えなくて。
「…気になってたんだけどさ」
聞くまでもないのかもしれない。だがパージャはあえて訊ねた。
「エレッテはウインドの事、どう好きなの?」
恋人だとウインドは宣言する。エレッテも否定はしない。
否定はしないが、毎度毎度困ったような曖昧な表情になるだけだ。
それははたして恋人だと言えるのか。
「男として好きなようには見えないんだけど」
「--…」
押し黙るエレッテは、唇を開こうともせずに俯き続けて。
パージャの視線から逃れるようにエレッテの乗る絡繰り鳥がわずかに速度を落とした。
「あっちはバリバリだけどさ。俺にはエレッテがウインドに、頭の傷のこととかで負い目があるから逆らえないようにしか見えないんだよね」
「そんなこと…ないよ」
「いやいや、あいつ声でかいし、半強制ってか脅し入ってる時あるし。エレッテみたいに顔色窺いしてるような奴ならまず逆らえないでしょ?ああいうタイプ」
否定も肯定もせずに、エレッテはただ口を閉じる。
気弱な様子は可愛らしさを通り越して不気味な印象すら与えた。
言葉を探しているのかエレッテの視線は右に左にとわずかに動いてはいるが、結局無意味に終わるのだ。
「嫌ってる訳じゃないことはわかってるよ。たださ、もうちょい自己主張しないとな。あんたがオドオド逆らわないからウインドもどうしたらいいのか分かんなくなってあんな性格になったってのもあるだろうし」
「……」
「何て言うかさ、二人見てたら悪循環ばっかなんだよねぇ。自分でも思う時あるだろ?」
エレッテが何も言わないから、ウインドもエレッテの意思が理解できずに困惑しているのだろう。
それがあまりにも長く続きすぎて、ウインドの思いも空回りする。
端から見れば一方的なカップルだ。
ウインドに引き摺り振り回される可哀想なエレッテ。だがエレッテがもう少し自分の意思を口にしてさえいれば、ウインドも今ほど乱暴な性格にはならなかっただろう。
形は歪にせよ、ウインドがエレッテを大切にしたいことは確かなのだ。
「ま、あっちはあっちでガイア姐さんの指導が入るだろうから、エレッテには俺から課題出してあげる」
「…課題?」
ようやくパージャに目を向けるエレッテは、顔色を窺うような眼差しをやめない。
「そ。課題。皆から離れてこっちにいる間に、その必要以上に他人の顔色窺う癖と、挨拶みたいにすぐ謝る癖を直しな。あと言いたいことは言う。馬鹿な我慢しない。出来るな?俺に遠慮する必要ねぇから」
さらさらとエレッテに課題を与えれば、挙動不審のように慌てながら視線をさ迷わせてみせる。
「…でも、そんな…私」
出来ないとまで口にはせずに、しかし否定的に。
「誰にでも出来ることだ。あんたに出来ないわけがないんだよ。荒療治だろうけど意識して頑張ればいい」
「…うん」
ようやく頷く姿も、パージャの言いたいところを理解したというよりは、この場を上手く纏める為のその場しのぎのようだ。
その理由は。
「あんたのドぎつい過去は知ってるよ。知ってるから俺達はあんたがそんなでも平気なんだよ。でも世間一般だとその性格は卑屈すぎて気味悪い。もう17なんだろ?ここいらが直し時だ」
鳥籠の中だけで一生を終えるならば、そんな性格でも構わないだろう。
だがエレッテは、パージャ達は自由を手に入れる為にファントムに力を貸しているのだ。
自由は時として暴力的なほどに自分を苛む。そんな時に、エレッテはまた過去と同じように暴力に耐えて生きていくというのか。
他人の勝手を許して蹂躙され続ける人生とは何という名称の自由なのだ。
「ごめ」
「こら」
さっそく謝ろうとする言葉を遮れば、エレッテはまた俯こうとしたが、すぐに意識してみせた。
「…頑張る」
小鳥が羽ばたく程度の声量だが、まるで死力を尽くすように。
その姿に思わず笑ってしまうが、今までのエレッテを考えれば及第点を与えてもよいだろう。
「ま、ゆっくり頑張りなよ。怒鳴る坊っちゃんはいないんだから」
「…うん」
ウインドの方は、ガイアがそれとなくエレッテの思いを汲むよう助言してくれるはずだ。
エレッテ以上に頑なになっているウインドにそれが伝わるかどうかはわからないが、エレッテが変わることが出来たら、それが一番ウインドにとっても良い方向に動くだろう。
エレッテとウインドの今後など誰にもわからないが歪な出会いだったから歪なままでいいなど、お節介だとわかっていても見ていられない。
エル・フェアリアに早く到着する為に少し速度を落としていた絡繰り鳥のスピードを早めて、パージャは諸悪の根源のような男を思い出す。
「あんたの思い通りにはさせないぜ~」
小声はエレッテには聞こえないだろう。勿論、ファントムにも。
何をさせたくてエル・フェアリアに自分とエレッテを戻すのか。
剣武大会を控えたウインドを使えるようにする為だけに、こんな厄介払いはしないだろう。
そうすると、やはりエル・フェアリアにやり残した事でもあるのか。
混乱はそろそろ落ち着き始めただろうエル・フェアリア王城内を懐かしみながら、パージャは帰路を楽しむことに決めた。
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コウェルズを先頭に少し後ろをミモザが歩き、最後にガウェとニコルが並ぶ。
久し振りに復活した王族付きのコンビだが、ニコルもガウェも、その表情は重苦しくてならなかった。
ニコルの正体を知らされてガウェが何を思っているかなどは誰にもわからない。
ニコルは王族だった。
ニコルはファントムの息子だった。
コウェルズ達は前者を重視しているが、ガウェは恐らく後者だろう。
後者だろうが、ニコルは今の父の居場所を知らないが。
「--さあ、ついたわけだけど…ニコル、準備できてる?」
しばらく歩いて辿り着いた先は前回と同じく王城内の人気のない区画の最奥で、以前と同じく警備に立つ総隊長アドルフと魔術騎士トリックが静かに迎えてくれる。
その姿を目に映しながらコウェルズはニコルに準備を訊ねてくる。
準備とはいったい何か。この場合、ひとつしかないのだろう。
「…ヨーシュカ団長の事でしょうか?」
マインドコントロールを行うようにニコルに王座を進めてくる魔術兵団長ヨーシュカ。
誰か彼の口を縫ってはくれないか。
「そ。あの手この手で頑張るだろうから」
「…私の気持ちは変わりません」
この大変な時に、ヨーシュカの思考は何を差し置いてもそこに向かっていた。
ニコルを王座に。
ファントムを探せばいいものを。
ニコルとコウェルズのやり取りがわからないガウェはわずかに眉根を寄せて困惑し、ミモザがそれに気付いてわずかに歩みを遅め、ニコルとガウェの間に入った。
「ニコルは魔術兵団長ヨーシュカに、王座につくよう乞われているのです」
長身の二人に挟まれて、頭ひとつ分ほど身長の低いミモザは少しばかり懸命に見えるほどガウェを見上げる。
ガウェの方は、ミモザの語る理由がまだいまいち掴めない様子だった。
「…なぜ」
「王がいないからだよ」
その様子を横目に眺めていたコウェルズが根本を教えてやれば、言葉にならない様子でガウェが目を見開いた。
王がいない、だからヨーシュカは早く早くとニコルを急かす。
「エル・フェアリアの王座は現在空位。勿論お兄様が座られますが」
「…なぜ王が」
「…今は、何も聞かないでちょうだい」
困惑した雰囲気はガウェには珍しい。リーンの事で頭がいっぱいになっているだろうと思われたが、まだ脳内には余裕がある様子だ。
王のいない理由を聞くなとミモザに願われて、やがてガウェは静かに頷く。
「さあて、今回はエルザはいないから、結界は私が張ろうかな」
「いけません。私一人で出来ますわ」
都合の良いところで区切られた会話の後にコウェルズは室内での結界について語るが、ミモザが許すはずもなかった。
「…まだまだ信用を得るには遠いか」
「ふん」
以前のようにアドルフとトリックにコウェルズが命じて、トリックが通路全体に細かい結界を張り巡らせていく。
その様子を今回もニコルは目の当たりにして言葉を失いながら、クルーガー達の待つ室内に入った。
以前と変わらず、形の異なる椅子やソファーの鎮座する不思議な室内。
先に待っていたのはクルーガーとフレイムローズ、魔術師団長リナト、そしてヨーシュカの四人だ。
「コウェルズ様!」
入室したコウェルズに一番に駆け寄るのはフレイムローズだが、自分の身の上を理解している為か殊勝な様子で三歩分ほど離れた位置で立ち止まる。
「だいぶ顔色が戻ってるね。食事は取ってるみたいで安心したよ」
側に行きたいが行けない。そんな様子のフレイムローズに自分から近付いて、コウェルズは優しく肩に手を置いてやる。
「…心配かけてごめんなさい。おれ…私もいていいのですか?」
「ロスト・ロード伯父上から直接リーンの過去と現状を見せられたのは君だけだ。話を聞いておきたい」
「…はい」
まるでリーンを救い出す為にはフレイムローズが必要だったかのような言葉に、わずかにガウェが苛立ちの反応を示し、フレイムローズがビクリと身を強張らせた。
「おいガウェ…」
不穏な空気が流れそうになるのをニコルが咎め、ガウェは無視を決め込んでとっとと適当なソファーに腰を下ろしてしまう。
コウェルズに促されてフレイムローズも座っていた場所に戻り、ミモザが結界を張るために意識を研ぎ澄ませた。
ミモザの赤い魔力の輝きが室内を満たして、その結界はやがて目に見えなくなる。
「--結界は以前と同じく“真実”のみを許します。語る時は注意なさって」
以前はこれにクルーガーが捕まった。
ニコルの存在を隠そうとしたが為に呼吸が止まった様子を、ガウェ以外の全員が覚えている。
難しい結界をたった一人でも完璧に張り上げたミモザを感心するようにヨーシュカは笑い、リナトが反応してヨーシュカを睨み付ける。
「ヨーシュカ殿には別に“語り”の術を使った方がよいのでは?」
リナトの何かを疑うような口調は、ヨーシュカだけでなく魔術兵団そのものを怪しんでいる。
「無駄だ。我々魔術兵団には特殊な術がすでにかけられている。我々から『真実』を知りたければ王になるより他にない…いかがですかな?ニコル殿」
ヨーシュカは思考をどこまでも王座に繋げて、そこにニコルを持ち込もうとする。
ニコルはヨーシュカを見ないようにして、聞こえてはいないかのように俯き続けた。
「その話は後だよ。今は五年前の件について話を聞かせてもらう。当事者はガウェとクルーガーでいいね?」
無駄話はいらないとコウェルズは早速五年前の件を訊ね、ガウェとクルーガーはほぼ同時に頷いた。
五年前の、リーンが死んだとされた事件の当事者。
ガウェやパージャが語った言葉を信じるならばデルグ王もこの場に必要なのだろうが、死者を呼び戻すなど誰にも出来ない。
コウェルズは予めクルーガーから簡単な話だけは聞いており末姫のオデットも五年前の新緑宮にいたことを知っているが、この場に幼い妹を呼ぶことも不可能だ。
「ヨーシュカ、お前はどうなのだ?」
リナトは疑いでなく確信を持つようにヨーシュカも絡んでいる事を問うが、ヨーシュカは笑ったままだった。
不穏な空気になろうが、ヨーシュカには痛くも痒くも無いといわんばかりに。
「語らぬなら当事者と見なすが?」
「『真実』に通じる場合、私に結界の魔術は通用せん。そう言っただろう」
「貴様っ!!」
リーンを軽んじるかの言葉に、ガウェが殺意を隠すこと無く立ち上がり、
「おやめなさい!!」
「っ…」
近くにいたミモザがすぐにガウェを咎め、まだ冷静な部分が姫の声に反応して無意識に動きを止める。
「…ミモザ、悪いがガウェの隣にいてくれないか?頭に血が上ってしまっては話も進まない」
「わかりました」
コウェルズに命じられてガウェの隣に向かい、ミモザは真っ直ぐにガウェを見つめてからリーンの証である手袋のはめられた手を取った。
ガウェはミモザと共に静かに座り、その様子を挑発するようにまたヨーシュカは笑って。
「流石は王族付きだな。短気でも姫に無体を働かないようよく躾けられておる」
「黙っていろ」
ヨーシュカを強く睨み付けるガウェに代わるように、コウェルズが口を開いた。
「…ガウェ、君から話せるか?」
静まり返った所を見計らって、早速当時の様子を知る為に全員の眼差しがガウェに向かう。
ガウェは静かに頷き、わずかに目を伏せてから、感情を殺すように当時を思い出し始めた。
「…リーン様が“殺された”日、私はリーン様とオデット様と三人で新緑宮に向かいました」
淡々とした口調が室内に響き渡り、それが余計に物悲しさを色濃くする。
「…なぜ新緑宮に?」
「…リーン様が唯一自由にいられた場所だからです」
コウェルズの問いかけに律儀に答えるガウェは、自分こそが一番リーンを理解していると暗に告げるかのようだった。
リーンの愛した新緑宮。
いつだってそこだけは、リーンを貶めることなく受け入れてくれたのだと。
「…それ以前にも何度か新緑宮に侵入した事はあります。いつもはリーン様と私の二人きりでしたが…その日はオデット様に知られてしまい、三人で抜け出して新緑宮に向かいました」
いつもは二人だけだったが、その日に限って三人で。
ニコルは自分の想像力にしては妙にリアルにその様子を思い浮かべることが出来た。
木々の合間を、五年前のガウェとリーンとオデットが隠れるように進んでいく様子。
想像にしては、細部まで認識できる光景を。
「----」
気付いたのは、突然だった。
突然ニコルの頭の中だけで、パズルのピースがはまるように答えが。
「いつも通り新緑宮の鍵を開け、中に入り…私の魔力で蝋燭に火を灯しました」
『どうした?ニコル』
ガウェの声が耳に、五年前のクルーガーの声は直接ニコルの頭に。
なぜ忘れていたというのか。
静かに緩やかに血の気が失せていくのが自分でもわかる。
「リーン様とオデット様はのびのびと遊ばれ…」
『いえ…あっちの木の影にガウェとリーン様が見えたので』
ガウェの声に、今度は五年前の自分の言葉が重なる。
まだ荒い敬語。
五年前、ニコルはガウェを見たのだ。
レイトル、セクトル、フレイムローズと四人でクルーガーから訓練を受けていた。
本来ならガウェも共に訓練するはずだったのにサボっていたらしく、その姿を見た気がしたからクルーガーに告げたのだ。
「…しばらくしてから」
『新緑宮の方です。…もう一人いて…たぶんオデット様だと思います』
「…クルーガー団長と王が現れました」
五年前と現在がリンクする。
ニコルの中で。
『…お前達は自主訓練を続けなさい。私は急用が出来た』
『え?』
『わかりました…?』
五年前のあの日、クルーガーはニコルの報告の後に様子を一変させ、ニコル達から離れた。
共に訓練に励んでいたレイトル達は訳もわからず互いに顔を見合わせて。
五年前の真相など、関係無いと思っていたのに。
こうなってしまった理由は。
薄暗い室内は顔面蒼白になったニコルを誰にも気付かせない。
誰もがガウェに注目して、五年前の事件を知っていく。
その中でニコルだけは、そうなってしまった原因を知った。
「…王は私達を見るなりリーン様を…殺すよう、クルーガー団長に命じました」
新緑宮で自由に遊んでいたガウェ達の元にクルーガーと王は現れて、リーンを。
我が娘を殺せと命じる父親の言葉にさすがにコウェルズも息を飲み、ミモザは信じられないというように肩をすぼませる。
愚かで優しかった父王の、知らなかった一面。
「クルーガー団長はまず私の動きを封じました。顔の傷はその時のものです」
『ガウェ、お前の顔の傷、いつからだ?』
ガウェの酷い傷の真実に、また過去の自分の言葉が重なる。
それはまだ数ヵ月前の言葉だったはずだ。
ふとした疑問だった。
ニコルが初めて会った時のガウェの顔には両目は揃っていたのだから。
「王はオデット様を庇い、何度もリーン様を殺すよう…」
五年前、ニコルがクルーガーに告げてしまった。
ニコルがリーンを最後に目の当たりにしたのは、あの時のはずだ。
「団長はリーン様を背後から刺し貫き…」
なぜ忘れていたのだ。
「私の意識もそこで途切れました」
ガウェの唯一を奪う手助けを、ニコルはしてしまったのだ。
感情無く語り終えたガウェはそのまま力を使い果たしたかのように項垂れ、ミモザが支えるように腕に触れて。
「…ありがとう…すまなかったね。つらい話をさせてしまった」
ガウェはコウェルズの悲しい感謝の言葉に少しだけ首を横にふって反応を見せるが、それだけだった。
コウェルズはそのままクルーガーに向き直り、
「…異論はあるかい?」
違いはあるかと。
発言には気を付けろ。言葉の裏に秘められた意味は、真実の結界に通じている。
「…いえ」
「じゃあ君の話を聞かせて」
なぜリーンを殺したのか。
クルーガーはリーンが生きて土中に埋められた真実を知らなかった。
ファントムが訪れるまで、自分の手で殺してしまったのだと罪を背負い続けてきたのだろう。
ガウェとオデットがそれを目の当たりにしていたというのなら。
クルーガーに対してガウェが深い憎しみを抱くのも、オデットが泣き叫んで嫌うのも理解できた。
ニコルは凍り付くように固まる喉の奥に痛みを感じながら、静かにクルーガーの言葉を待った。
ニコルのこの記憶が確かならば、クルーガーはニコルの報告を受けて動いたことになる。
だがクルーガーの話は、五年前よりもさらに前から始まった。
「リーン様を…殺すように命じられたのは、リーン様が産まれてすぐの頃からです…デルグ様からは数年間、顔を合わす度に命じられてきました」
リーンが生まれた頃から。
その事実に、ヨーシュカ以外が目を見開く。
ならばリーンは十年もの間、命を狙われ続けていたというのか。
「あの日までは聞き流していましたが…あの朝は…リーン様が新緑宮に向かったことを確認し、デルグ様に報告してしまいました」
まるで上手くニコルを隠すように、クルーガーは真実を語る。
クルーガーが語る度にガウェの身体から殺意が現れ始め、ミモザが懸命にガウェを押さえていた。
「なぜ、その時だけ?」
「…わかりません。なぜかあの時は…デルグ様の命令を無視できなかったのです」
「っ…」
その日は命令を受け入れてリーンを。
クルーガーに怒りの全てを叩きつけるようにガウェは立ち上がろうとするが、すぐにミモザに抱き締められるように押さえ付けられた。
ガウェは反射的にミモザを睨み付けたが、ミモザの目に浮かぶ涙を見て目を逸らし、やがて我慢するようにソファーに腰を下ろす。
クルーガーの言葉は何よりも心を深くえぐるものだ。リーンを守ろうとしたガウェと違い、クルーガーはリーンを殺す為に動いたのだから。
大切な妹の命が狙われていた話など、誰が自ら進んで聞きたがるというのだ。
「後はガウェの言った通りです。デルグ様と共に新緑宮に向かい、ガウェを動けぬようにし…ガウェに駆け寄ろうとしたリーン様を背後から…心臓を狙いました」
クルーガーからの説明はとても簡単で、ガウェから聞かされた説明に少し色付けした程度だ。
「…即死するように?」
「…はい。リーン様はすぐに息を引き取り…私はデルグ様から、気絶されたオデット様とガウェを医師団の元へ連れていくよう命じられ…後のリーン様のご遺体については関与しておりません」
だから、リーンのその後も知らない。
リーンが埋められた事実も、生きていた事実も。
その領域は、クルーガーでは力不足だったのだろう。
「…でもリーンは生きていた」
「--…」
死んではいなかった。ガウェとクルーガーが言葉を詰まらせたのは同時だった。
当事者でありながら、最も重要なその事実を知らなかったのだ。
そしてリーンは、五年もの間、冷たくおぞましい土中で生き続けた。
「…ヨーシュカ、お前はどこから関与した?」
責めるようなリナトの声に、全員の眼差しがヨーシュカに移る。
ニコルは何度もヨーシュカから視線を向けられていたので彼に目を向けたくはなかったが、真実を知る為に無意識に視線は動いてしまった。
「答えられん。それを知る権利は王だけにある」
それでもヨーシュカの態度は一貫して変わらず、
「ふざ」
「ふざけないでちょうだい!…答えなさい!あなたは何を知っているの!?」
ガウェよりも先に、ミモザが激昂した。
ミモザに浮かんだ涙はすでにひと雫こぼれ落ちている。
激しい怒りを見せるミモザの姿にガウェは一瞬自身の怒りを忘れ、逆にコウェルズは大切な妹の涙に静かな怒りを灯す。
ヨーシュカも少し驚いたようにミモザに目を向けるが、
「…答えられませんな」
結局、真実を知ることは叶わなかった。
呆然とするミモザは諦めたようにガウェの隣に力無く座り、両手の平で顔を隠すように目元を押さえる。
あまりにも絵になる悲しい姿に、騎士としてのニコルの胸の内が強く掻き乱された。
自分の中に騎士としての本能がどれほど息付いているのかはわからないが、まるで洗脳のように。
その洗脳を解くように、コウェルズは口を開き、
「ならこれだけ教えてくれないか?コレーの魂の片隅に存在した他者の記憶の断片…あれはリーンのものか?」
誰にも理解できないような謎を問いかける。
コレーの魂の片隅に存在した、他者の記憶の断片。
なぜここでコレーの名が出るのか、そして記憶の断片とは。
それは魔力暴発の後に意識を深く沈ませたコレーを掬い上げたコウェルズにしかわからない呪文のようで。
変わらず笑みを浮かべるヨーシュカだけは、やはり何かを知っている様子だったが。
「近く王になるのは私だ。答えてもらおう」
「何を言われているのか。あなたより王にふさわしい者が存在するというのに」
ヨーシュカはちらりとニコルに目を向けて、王位継承順位を重視するように眼差しだけで訴えかけてくる。
「残念だけど存在しないよ。ニコルは王にはならない」
すぐに視線を逸らしたニコルに助け船を出すようにコウェルズは宣言してくれるが、それは何もニコルの為などではない。
「頷くか首をふるか、簡単な事だろう?さあどちらだ。コレーの抱いていたあの記憶はリーンのものか?」
有無を言わさず、怒りを隠さず。
リーンを蔑ろにし、ミモザを泣かせたヨーシュカを罰するように。
まだコウェルズは王ではない、だが王に従えと、その全身をもって命じるような。
折れたのはヨーシュカの方だった。
「…ええ。あれはリーン様の記憶の断片。コレー様は無意識にリーン様から抜けた記憶の一部を拾い上げていたのでしょう。あれほどの魔力を持つコレー様なら有り得る話です」
不本意だと言い出しそうな口調で静かに肯定したヨーシュカを前に、コウェルズの瞳がわずかに細くなる。
「…わかった」
完全に相手を下等な存在と決めつけるような眼差しにヨーシュカ以外の全員が息をひそめ、
「…コウェルズ様、何が…」
リナトが代表するように訊ねて、コウェルズからの言葉を待った。
怒りを含んだ小さなため息がその唇から漏れて、あまり表に出ない冷たい一面をまざまざと露出させる。
「リーンを奈落に突き落としたのはヨーシュカだ。理由などは教えてくれないだろうがね」
誰がリーンを土中に埋めたのか。
誰がリーンを五年もの間、非人道的に扱ってきたのか。
「奈落などと、大層な」
「黙れ」
可愛くて可哀想なリーン姫。
生まれてすぐに父王から死を望まれ、死なぬ体は酷すぎる扱いを受けた。
「理由を知れば納得されますよ。必要な事でした」
「----」
その行為を肯定するヨーシュカに、今度こそガウェが抑えきれない怒りを爆発させた。
「ガウェッ!!」
ミモザは何とかガウェを押さえようとするが無理だ。
「ミモザ様!!」
ニコルがすぐにミモザを引き剥がして庇い、完全にキレたガウェは湾曲した投げナイフの魔具を生み出しヨーシュカに斬りかかる。
ヨーシュカも簡単な杖を魔具として発動し、慣れた手付きでそのナイフを止めて迫り合いを行うように両者は睨み合った。
誰も止めはしない。勿論コウェルズもだ。
ヨーシュカはガウェの相手を軽々とこなしながら、顔はコウェルズに向ける。
「早々にリーン様を見つけ出した方が宜しいでしょう。リーン様だけではない。闇の虹を宿した者達全てを。それらを早々に封印しなければ、この国は終わる」
「何?」
「御託を抜かすな!!お前はこの場で殺す!!リーン様の苦痛を思い知るがいい!!」
ガウェは己の力全てを使いヨーシュカを押しやり、わずかに開いた空間の中でナイフを振り上げてヨーシュカの頭蓋骨目掛けて一気に振り下ろした。
「やめろガウェ!」
ヨーシュカの身体が血の飛沫を放ち二つに別たれるより先に、ミモザを壁際に離したニコルがその間に入って魔具の籠手でガウェのナイフを封じる。
「黙れっ!!」
「リーン様が生き埋めにされた原因は俺だ!!」
互いにまるで嘆くような、酷い声だった。
ガウェは怒りをぶつける為に、ニコルは真実のひとつを告げる為に。
「----」
「違う!」
ニコルの言葉に、ガウェが動きを止める。同時にクルーガーが強く否定した。
「お前ではない!話すなニコル!!」
やはりクルーガーがあの日リーンを殺したのは、ニコルが報告したからだ。その“真実”が、ニコルを強く苛んだ。
自分は何てことをしてしまったのだ。
無知な自分の、生きてきた中で最も許されない罪ではないか。
知らなかったでは済まされない罪。
「…団長に知らせたのは俺だ…五年前…お前とリーン様と、オデット様を見かけたことを…団長に知らせた」
ニコルの言葉に、ガウェが手にしていた魔具が消失する。
しかし。
「ガウェを止めてコウェルズ様ぁ!!」
最初に察したフレイムローズが、ガウェの手中に集まる凄まじい怒りの塊を止めてと願う。
フレイムローズの魔眼は、現在封じられているのだ。
ガウェは巨大な太刀を生み出し振り上げ、ニコルはまるで受け入れるようにそれを見上げて。
「--…魔具を消せ…ガウェ」
「わきまえよ。黄都領主ごときが剣を向けてよい御方ではないぞ」
リナトとヨーシュカが、魔力でガウェの動きを封じ込めた。
全てはニコルを、エル・フェアリア王家の血を引く存在を守るために。
だというのに、ニコルの唇も止まらなかった。
「知らなかった…知っていれば…」
「違うニコル!お前は何もしていない!!」
互いに異なる発言だというのに、ニコルとクルーガー、どちらにも真実の結界は反応しない。
それは両者の言葉が真実であるという事だ。
どちらにとっても。
「…俺が気付いていなければ…」
ニコルからはガウェの表情は見えない。
逆光になっている訳ではない。
ガウェの顔に何の表情も浮かんでいないのだ。
怒りも悲しみも何もかもが存在しない。目鼻口はある。だが存在するだけで、そこには何も宿らない。
怖気が走る様だった。
リーンの影を求めて新緑宮の傍をさ迷っていた当時のガウェのような。
全てが静まり返り、わずかに時間が過ぎ去った後。
「…フレイムローズ、君は何を見せられた?」
コウェルズはフレイムローズに、ガウェでもクルーガーでもない、リーンの視点を教えるよう命じる。
「ぇ…」
フレイムローズだけが、ファントムの正体を、そしてリーンの現状を見せられた。
「…話せるね?」
それを、教えてくれと。
その時には既にガウェの腕からは太刀の魔具も消されており、全員の気配がフレイムローズに集中する
目の前でリーンを殺されたガウェの話しでもなく、十年もの間、王の命を無視し続けたのに結局リーンを背後から刺し殺したクルーガーの話しでもなく、リーンは何を思い、闇の中にいたのか。
「…闇にリーン様が落とされて…長い間呼んでた…」
フレイムローズは静かに語る。
長い間とは、五年間もの年月の全てか。
「コウェルズ様、ミモザ様、エルザ様、クレア様、フェント様、コレー様、オデット様、王妃様…バインド様…ジャック殿、ダニエル殿…」
リーンが関わり、愛し、慕った者達を。
「たすけて、って」
大の男が三人は縦に納まるだろう深さの穴の奥で、救いを求め続けていたと。
その真実に、ミモザが口元を両手で強く押さえて壁づたいに腰を抜かせて落涙する。
求め続けた救いは、誰にも届かなかったのだ。
「…ずっと呼んでた…ガウェには…ずっと謝ってた…」
その中で、ガウェにだけは謝罪を。
それはきっと、目の前でガウェが切り裂かれたからだろう。
リーンを守ろうと最後まで腕を伸ばし続けた血濡れのガウェが、リーンが五年前に最後に目にした優しい人間のはずだ。
リナトとヨーシュカに取り押さえられていたガウェが、その場にくずおれる。
「ずっと謝って…何かが…リーン様に…」
闇の中で、救いも何もない中で。
フレイムローズはそれらを見せられたのだ。
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凄まじい痙攣の後に、リーンはベッドの上で激しく仰け反った。
「リーン!!」
今までゆっくりと指の先を動かす訓練をしていたはずだ。
突然容態の変化したリーンの姿に、バインドは焦りを隠さずにリーンの手を掴み名を呼んだ。
リーンがまだ目覚めていない時は何度も痙攣を起こしていたが、目覚めてからは一度も起こしていなかったというのに。
「バインド様、離れてください!」
バインドの護衛でもある癒術騎士の青年アダムに半ば無理矢理リーンから引き離されて、アダムが向かいにイヴを呼ぶ。
リーンは今も目を剥いて激しく痙攣を起こしており、
「いくよ」
アダムが冷静さを保つように訊ねれば、向かいでイヴが少し緊張した面持ちで頷いた。
癒術騎士の双子兄妹が同時に同量の治癒魔術を駆使して、リーンの身体を内側から癒していく。
「っ…」
「……」
白く輝く癒しの魔力はやわらかなレースのようにリーンを抱き、優しく撫でるように吸収されていき。
「--よい。不要だ」
痙攣が収まり目を閉じていたリーンが次に目を開いた時、目付きから口調から醸し出す雰囲気から、全てが様変わりしてしまっていた。
「!?」
アダムとイヴはその様子と言葉に無意識に癒しの手を止めて、
「…リーン?」
異変に気付いたバインドも、探りを入れるようにリーンに近付いた。
その様子は最初にリーンが目覚めた時の不思議と達観した様子に似ていて、
「…ロスト・ロードを呼んでもらえるか?奴に話がある」
視線だけを動かして、リーンは大人びた口調でバインドにそう願った。
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