第36話


第36話

 明け方近くに、頭痛が酷くなって起き上がった。
 眠れてなんかいない。
 眠れるはずがない。
 ラムタル首都上空を気ままに漂う飛行船、空中庭園の一室で、ウインドは広く感じる自分のベッドから力無く抜け出す。
 目に煩い色のバンダナを、闇色の青い髪ごと両手で押さえる。すると手のひらに湿った感覚が広がって、苛立ちの交ざるため息をついた。
 湿った手を見もせずに今まで横たわっていたベッドに擦り付ければ、手形の血の染みが白いシーツに広がる。
 一人用のベッドだ。
 ウインドが一人で使って、何の違和感も存在しない。
 だがこの二、三ヵ月、このベッドではウインドだけでなく彼の恋人も眠っていたのだ。
 闇色に黄を交ぜた、エレッテが。
 死ぬことを許さない体だというのに、シーツに付けた血の染みは身体に戻ることはない。それを見下ろせば、頭痛がさらに増した気がした。
 日の出まで放っておくか。でも、たった一人の室内は狂いそうなほど時間の過ぎ去る速度が遅い。
 バンダナごしに頭の傷に触れて改めて痛みを確認して、ウインドは部屋を出る。
 頭を押さえてふらつきながら向かう先は、この空中庭園に一人だけいる治癒魔術師の部屋だ。
 長い通路を歩いて仲間である治癒魔術師、ガイアの部屋に。自室から離れたガイアの部屋にはファントムもいるだろうが、行為の最中だろうが構うものかと扉をぞんざいに叩いた。
「…ガイア、いいか?」
 返事も待たずに扉を開けばファントムの姿は無く、ガイアもすでに起きていて。
 早朝のひと時を一人静かに過ごしていたらしく、開かれた窓辺近くのテーブルの傍にいて。
「あら、どうしたの…頭痛?」
 勝手に入ってくるウインドを咎める事もなく、ガイアは頭を押さえるウインドに気付いてわずかに眉間に皺を寄せた。
 素直に頷けば、椅子に座れと促されたので従って。
 隣に立つガイアはウインドの頭に巻かれたバンダナをゆっくりと外し、
「…っ」
 わずかに息を飲んだ。
 ウインドも、空気に触れた頭部からドロリと血がこぼれる感触を味わう。
 ウインドの頭には、たった今受けたような酷い傷が走っていた。
 骨が剥き出しになり、血が止まらずにゆるゆると垂れ流されている。
 呪いという闇色の虹の魂を身に受けたウインド達は死ぬことも体に傷を残すことも叶わないというのに、ウインドだけは頭部に特殊な傷を受けて治らないままなのだ。
 その傷は、まだウインドがファントムの仲間になる前に受けたものだった。
 ウインドとエレッテを狙うエル・フェアリア魔術兵団から逃れる途中で、エレッテを庇って受けたのだ。
 特殊な魔力で負った傷は、今になっても痛みを伴い治らない。
 いつまで経っても血が止まらないから、特殊な術式を組んだ布を当てておかないと垂れ流しになってしまうのだ。
「…少し、待ちなさい」
 ガイアは壁際にある棚から薬剤の入った瓶を持ち出すと、ウインドに渡してから傷の治癒の為に横に立った。
 ウインドは慣れた様子で固めに締められた瓶の蓋を外し、頭部に治癒の温もりを感じて。
 治癒と言ってもたかが応急処置程度だ。それでも長く持つのでガイアに身を任せ、数秒後に温もりが消えゆくのを感じて手にしていた瓶を渡した。
 中身はペースト状の薬で、ガイアがそれを適量手にして傷に塗り込んでいく。
 それも終われば後はバンダナを巻き直すだけだ。
 ファントムがわざわざ作ってくれた特殊なバンダナは、巻くだけで効果を発揮してくれる。
「…どう?」
「ん…楽。ありがと」
 静かに痛みが消えていき、苛立ちもわずかに緩和される。
 ウインドはガイアから瓶を受け取るとまた固く蓋を締めて、そのままテーブルの上に置いた。
「我慢しないで早めに言いなさい。また酷いことになっていたわよ」
「…わかってる」
 我慢か。
 確かに昨夜から痛みは酷かった。
 ガイアが再び瓶を直す為に棚に向かう様子を眺めながら、昨夜の内にガイアの元に訪れなかった理由を頭に思い浮かべた。
 ガイアに遠慮した訳ではない。
 激しい怒りに身を染めていて、それどころではなかったのだ。
 戻ってくるガイアを見上げながら、強く拳を握り締めた。
「…なんでエレッテがパージャと一緒に?」
 ウインドがその事実を知らされたのは、昨日の夕方だ。
 エレッテの姿が見えないとは思っていた。
 探して探して、空中庭園とラムタル王城を何度も行き来して。
 エレッテがパージャと共に任務の為にエル・フェアリアに戻ったと教えてくれたのは、ミュズとルクレスティードだった。
「…俺にひと言も無かったし」
 まだ未成年の子供二人が知らされていて、なぜウインドには黙っているのだ。
 どんな思いでエレッテを探したと思っているのだ。エレッテがまた酷い目に合っていたらと、どれほど焦ったか。
「エレッテの防御力は私達の中で一番よ。もしエル・フェアリアで何かあっても、あの防御力さえあれば二人は無事よ」
「…パージャの仕事ってエル・フェアリアで待機だろ?ガキにだって出来ることだろ!」
 危険だろうが、たかが待機だ。それならパージャだけで充分ではないか。
 子供にも出来る簡単な任務になぜ今エレッテを。
「…あなたには別にやってもらわないといけない事があるから」
「大会はもうじきなんだぞ!?俺の方がエレッテは必要だろ!!」
 何もかも、取り繕う為の言い訳にしか聞こえない。
 ウインドにはもうじき大切な役目が待っているというのに。
「ミュズは悪夢でうるせぇし、お姫様は使いもんになんねぇし!!」
 苛立ちが解消されること無く溜まっていく。
 上手く行かない事柄全てがウインドの邪魔をするようで、怒りに任せて強くテーブルの足を蹴り付けた。
 ガタンと強い音が静かな室内に鳴り響いて、テーブルはエコーをかけるように揺れながら静まっていく。
「その調子でエレッテにも怒鳴ったの?」
「--っ…」
 ガイアの冷めた言葉は、頭に血が上ったウインドをわずかに固まらせるに充分だった。
 この調子で、エレッテにも。
 違う。
 確かに怒鳴りはしたが、あれは全部周りが悪いのだ。
「冷却期間が必要なのよ。あなた達には」
「俺は…ミュズのせいでエレッテが眠れないから…」
「最初の頃だけだったでしょう?後はあなたが無理矢理エレッテを引き入れていたわ」
 わずかにウインド自身も気付いていたやましさを告げられて、言葉が揺れた。
 しかしエレッテの為であることは本当なのだ。
「…エレッテが寝れるように…手も出してねぇし…」
 我慢していたのだから。
 その体に触れたかった。だがエレッテの為に我慢し続けた。
「怒鳴って従わせていたら手を出そうが出すまいがあの子には同じよ」
 その我慢も認めてはもらえないのか。
 本気で怒鳴ってなんかいない。
 多少は声を張ったかも知れないが、元はと言えばミュズが煩いせいで、その原因はパージャで。
「あなたはあなたなりの親切心でいたんでしょうけどね、押し付けていたら意味が無いわ…もう少し、あの子の声も聴いてあげて。あの子がどんな目に合ってあんなに人の顔色を窺うようになってしまったのか…あなたが一番理解してるはずでしょう?」
「……」
 俺は悪くない。
 そう思ったから、ウインドは静かに席を立った。
 勝手な説教などまっぴらだ。
 もう18歳だ。子供ではないのだ、と。
 黙って立ち去ったから、ガイアがどんな顔をしていたのか、ウインドは見てはいなかった。
 通路を歩いて、いるはずのないエレッテの部屋に向かう。
 下劣な野郎共に酷く傷付けられた女の子なのだ。そのエレッテが、唯一安心出来るはずのウインドから離されて、パージャなどと。
 苛立ちに任せて、壁に拳を打ち付けて。
 パージャ。
 なぜいつも、あいつだけが優遇されるのだ。

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