第28話
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『また会えるよ。インフィニートリベルタ』
パージャは天空塔から去る前に、ニコルを見てそう告げた。
昨日だけではない。以前にも、パージャはニコルをそう呼んだのだ。
訳のわからない名前。
以前は思い出そうとして、頭痛に苛まれて思考を放棄したが。
「……」
覚えている。
確かにそれは名前だった。
『--覚えておきなさい』
幼少期に、彼がニコルに向かって言ったはずだ。
覚えておきなさい、と。
父を見上げながら、語られる言葉を聞いていた。
『覚えておきなさい。お前の--』
「--クソッ!!」
しかし細部までは思い出せず、ニコルは強く城壁を叩いた。
親父は何と言っていた?…思い出せ…インフィニートリベルタとは何だ?
パージャは二度もニコルにそう告げた。そしてパージャはファントムに通じており、ファントムは…。
親父
大切な家族
会いに来てくれるのを心待ちにしていた“彼”
いったい何なんだ。
だって彼が、親父がファントムなら。
違う。ファントムは自分よりも。
酷い頭痛に苛まれて、ニコルは思考を放棄するように再度拳を城壁に叩きつける。
脳内を無遠慮に掻き回されているような気持ちの悪さに目の奥も痛み始めて。
気持ち悪くて、不愉快で…
「--ニコル!」
その感覚が、突然吹き飛んだ。
視界が、脳内がクリアになる感覚に驚きながら、ニコルは名前を呼ばれた方向に目を向ける。
「エルザ様…こんなところで何を…」
走りよってくるのは、普段のドレス姿ではなく、動きやすいパンツスタイルに身を包み、髪を後ろに束ねたエルザだった。
護衛の姿は見えない。ということは、また一人で動いているのか。
注意しそうになっても、見慣れない姿に言葉は出てこず。
今の侍女達と同じ衣服だ。
この混乱にドレスでは、スカートでは動きにくいから。
だがまさか姫も纏うなど。
「あなたの姿が見えましたもので…あなたこそ、こんな所で一人で何を?」
言葉を無くしているニコルに気付いているのかいないのか、エルザはニコルに辿り着くと、腕にすがるように袖を摘まんで見上げてきた。
「いえ…」
「また秘め事ですの?」
「…申し訳ございません」
落ち着いた様子で訊ねてくるエルザは、ニコルの謝罪に仕方なさそうにクスクスと笑って。
「…秘め事をされている時の“申し訳ございません”は口癖ですわね」
今までのニコルの謝罪を思い返すように、どこか寂しそうに。
「…あの夜から…ようやく二人きりになれたのが今だなんて…リーン…どうしてあのような…」
そして涙を滲ませる。
鼻を詰まらせた声で、変わり果ててなお生きてくれていたリーンを思う。
愛する妹のその姿は、エルザの目にはどう映っただろうか。そしてどう思っただろうか。
生きてくれていたと素直に喜べるのか。
変わり果てたむごたらしい姿を嘆くのか。
ニコルは自分に当てはめようとして、しかし叶わなかった。
自分に当てはめるには、あまりにも衝撃的過ぎたから。
「…ねえ、約束を覚えていますか?」
だが嘆いてばかりではいさせてくれない。
エルザは自分を奮い立たせるように、すがるような瞳でニコルを再度見上げた。
約束。
いくつも交わしたが、今のエルザが言いたい約束は…
「…エルザ」
二人きりでは、呼び捨てにして。
親しい間柄であると、特別な関係であると教えて。
そう願うなら。
エルザにだけ聞こえる程度の声量で呼び捨てにすれば、彼女は堪えきれなかった涙をいくつかこぼして、それでも嬉しげに微笑んでくれた。
こんな程度を喜ぶなんて。
誰かに泣きすがりたいはずなのに。
エルザの頬に伝う涙を指で拭えば、わずかに頬を朱に染める。
「…で、では私は行きますね」
そして立ち去ろうとしたエルザを、無意識に掴み止めて。
「ニコル?--ぁ!」
強引に抱き締めて、腕の中に納めた。
誰かに泣きすがりたかったのはニコルの方だ。
動きやすいように装備を外していた体にエルザの柔らかな温もりを感じて、壊れてしまわないギリギリまで、強く抱き締めた。
「ニコル?…どうなさいましたの?」
驚くエルザは、ニコルの突然の行為を許してくれる。
そっと華奢な両腕を背中に回してくれて、ニコルを受け入れて。
「…ニコル?」
「…父なんだ」
それでも、ニコルが何もなく抱き締めるなど有り得ないと気付いているから理由を問うエルザに、胸の内を吐き出すように呟いた。
エルザは無言で、静かに次の言葉を待ってくれる。
父。彼。…親父。
親父と慕い、嫌い、疎み、待ち焦がれた人。
「リーン様を拐ったファントムは…俺の親父だった…」
「--!?」
声が震える。驚いて身を強張らせるエルザは、ニコルの告白をどう聞いただろうか。
「髪の色が違う…でも見た目は…俺がガキの頃から知る親父から何も変わってない…」
ニコルの知る彼は、ニコルやアリアによく似た銀の髪で。もしファントムが彼なら、父親らしくもっと老いているはずで。
だというのに、髪と瞳の色が違うだけで、後は何も変わらない。
ニコルが心待ちにしていた彼のままの姿だった。
「…それは…」
「わからないんだ…親父なのか…違うのか…」
ああ、なんて情けない声なのだろう。
大の男が、年下の、守るべき姫にすがるなんて。
それでも止まらない。
誰かにすがらなければ心が潰れそうになる。言葉にしなければ、胸が圧迫されそうになる。
エルザだってリーンの事でつらいはずなのに、それでも止まらない。
「…パージャが俺に向かって言った名前も…俺は知ってるんだ…聞いたことがある…親父から…」
ゆっくりとエルザを胸から離して、しかし両肩を掴んだまま全てを離しはしなかった。
「…何もわからない…頭が上手く働かないんだ」
「ニコル…」
「どうすればいいのか…」
涙などは出ない。だが胸が痛い。軋んで悲鳴を上げる。
何もわからない。わかるわけがない。
頭が考えることを放棄したがるのだ。心が知りたがっているというのに。
その矛盾に、吐き気が込み上げるようだった。
「…ニコル」
困惑するニコルの胸に、エルザはそっと両手を添える。
「…お兄様に相談してみます。それまであなたのお父様の事は誰にも言わないで下さいませ。…アリアにもですよ」
そして優しく微笑んで。
「…大丈夫ですわ。私がお傍にいますから」
慈愛に満ちた姿の、なんと美しいことか。
こんな情けないニコルに、失望する様子も見せずに。
「…エルザ様…」
呼び方が、無意識に慣れ親しんだ敬称に戻る。
同時にエルザはそっとニコルの腕の中に自ら戻ってきてくれた。
「--」
珍しく束ねられたエルザの緋色の髪が、一瞬だけ虹色に変化して。
思わず目を見開くニコルだったが、髪の色はすぐに元の緋色に舞い戻った。
「…ありがとうございます」
疲れて目が霞んだのだろう。そう思いながら、ニコルも再度エルザを抱き締める。
思いは伝えないと決めた娘を抱き締めるなど都合のいい話しだ。だが今は、今だけは。
どうか許してほしい。
すがることを。
そうしなければ、耐えられないのだ。
ニコルとエルザの抱擁は、誰にも見られてはいないはずだった。
その場所は城壁と木々に囲まれた場所で、新緑宮とは正反対の場所で。
誰の目にも映らないはずだった。
「--…」
後を付けられてさえいなければ。
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