第35話


第35話

 単独でエル・フェアリア王都の裏社会である闇市に足を踏み込んだガウェは、周りの物々しい視線に動じる事もなく騎乗したまま奥を進んでいた。
 誰の目にも明らかな上等な衣服は、それだけで邸宅を建てられそうなほど。
 馬にすら装飾は施され、ガウェを理解した者達は警戒するような視線を浮かべ、何もわかってはいない者達は薄ら笑いを浮かべる。
 もしまだ右頬に深い刀傷があったならガウェに気付ける者はもっと多かっただろうが、今のガウェの顔には傷ひとつ存在しない。ただ前髪に隠れた右目に穴が空いているだけだ。
「--色男さん。あたしと遊ばないかい?」
 進む道を闇市の遊女に阻まれて、ガウェは仕方無く馬を止める。
 どけと女を睨み付けるが、頭が足りていないのか、腹が据わっているのか。
 色気を振り撒くように近付いて、そっとガウェの足に触れて。
「こんな上等なもん着て、迷い込んだのかい?逃がしてやる代わりにあたしを買っとくれよ」
 厚ぼったい化粧と、体臭を誤魔化すほど振り撒かれた香水。長年培っただろう色気は下品なほど凄まじいものがあり、薄闇に誤魔化されているが下に見ても30後半ではあるだろう。
「ねえ」
「やめときなってお兄さん。そいつ万年性病持ちだよ」
 どう躱そうかと思えば、別の路地から別の女が笑いながら現れた。
「あんた!」
「何?文句あるなら早く治しなよ。早死にしちゃうよ?」
 性病の件をバラされたからか慌てる最初の女とは違い、次の女はまだ小綺麗な様子だった。
 年齢はガウェより少し年下か。
「それとも何か探してる?けっこうキョロキョロしてたでしょ」
 女は物珍しいのか羨ましそうに馬に触りながら訊ねてくる。どうやらガウェをよく見ていたらしい。
 確かにガウェは捜し物をしていた。何か、ではなく場所をだが。
「案内くらいならただでやってあげるよ。今はエル・フェアリアの城が大変でみんな暇なんだ」
 だから馬に乗せてよ、とすっきり笑う女にガウェの捜し物を解決できるかどうかはわからない。
 だが一人で捜すにもここが限界だったろう。
 この女にかけてみるか。ガウェが女に手を伸ばせば、やった、と嬉しそうに手を取って上手く馬に乗り上げた。
 最初の女が唖然と口を開けるが、彼女ではガウェの捜し物は見つからない。
 闇市であれ遊女が性病を治していない時点でたかが知れているのだ。
「高ーい!ずっと馬に乗りたかったんだ!小さい頃からだよ!!あ、ウチはアエル!あんたは?」
 エル・フェアリアでよく見かける薄茶の髪をした女は無邪気にアエルと名乗り、背後のガウェを見上げようとして。
「--それ」
 馬に乗れたことによる興奮も忘れてガウェの空洞の右目と胸元に光る領主の証に気付いて固まった。
 どうやら彼女は当たりのようだ。
「…案内を頼めるな?」
 どこにとは言わない。
 驚いているアエルは何度も黄都領主の紀章とガウェの顔を見比べて、やがてあはは、と呆れるように笑った。
「いいよ。頭のとこにつれてったげる。でも少しくらい付き合ってよ!ずっと馬に乗りたかったんだからさ!」
 金はいらないということか。
 闇市の女にしては気さくすぎるアエルの願いを叶えてやるように、ガウェは小さなため息と共に手綱をしごいた。

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 闇市をたっぷり堪能するには充分なほどアエルに付き合ってやり、ようやく辿り着いた頭の居場所は、思った以上に複雑な場所にあった。
 まるで最悪な迷宮で、ガウェ一人では見つけられなかっただろう。
 アエルに呼びかけられたことは運が良かった。
 礼の金貨を渡そうとすれば拒絶されて、それならと代わりに馬の宝飾をひとつ取って渡してやれば、それは嬉しそうに受け取って。
 アエルに別れを告げ、騎乗したまま最奥に向かう。
 その通路にいる者達は幹部クラスばかりとなるので、ガウェの正体に気付いたように一様に警戒して。
「…ここまでだ。馬を降りろ」
 到着した先で、ガウェは素直に男の指示に従った。
 馬を降り、男に手綱を任せて建物の中に入る。
 埃と煙草と酒と。
 手入れされていないが為のありとあらゆる匂いは独特な雰囲気を彩り、美しい世界に生きるガウェを不快にさせた。
 促されるがままに奥へ奥へと向かい、ようやく到着した先にいたのはエル・フェアリア闇市を取り仕切る頭の男と、幹部の手下達だ。
 ガウェを舐めてかかるような手下とは違い、頭は静かにガウェを見据える。
 座れという合図に、足の低いテーブルと同じ高さのヤニに汚れた椅子に座った。
 衣服は捨てるか。
 ガウェが座るときに思ったのは、それだけだった。
「随分な若造が後を継いだもんだ。継いですぐに勝手な行動に出てくれたもんだが、それについてはどう弁明するつもりだ?」
 着席するガウェに、頭はまず最初にガウェの勝手を責めた。
 黄都領主の座を父親から奪ったガウェは、コレーが天空塔に隔離された頃に闇市と接触している。
 手順を踏まず、ファントムを裏のネットワークで探し出すよう命じたのだ。
 破格の報酬をちらつかせて。
 その勝手は、さぞ目の前に座る頭の額に青筋を走らせた事だろうが。
「弁明など必要ない」
 する必要もない。
 無表情のまま言い捨てて、冷めたように頭を見据え返す。
 しばらくの沈黙。
 手下の一人が苛つくように貧乏揺すりを始めた所で、ようやく頭は口を開いた。
 このままいてもガウェは口を開かないと気付いたのだろう。
「…で、あんたに何が出来るんだ?」
「以前告げた以外では何も」
 頭が話すなら言葉を返す。
 会いに来たのはガウェであるはずなのに、用件はまだ口にしなかった。
「はあ!?っははははは!!また随分と馬鹿げた返事を--」
「私が出来る事といえば…この闇市を跡形もなく消し去る事くらいだ」
 一瞬にして、室内が静寂に包まれる。
 呆けるように、しかしすぐに怒りを示させるように。
「何だとこの餓鬼!!」
「やれるもんなら」
「やめろ…ヴェルドゥーラ・ロワイエットの噂は聞いている…」
 手下の二人が同時に立ち上がり剣を抜くが、頭の制止にすぐ動きを止める。
 短気だがよく躾けられた手下らしい。
 ガウェの噂となると、ヴェルドゥーラの喜劇か、それとも三年前の剣武大会の武術試合優勝の実績か。
「…こっちもただじゃ動けねぇ…条件はあるぞ」
 ガウェの訪れた理由はすでに知られているらしい。そう思い用件は口にしなかったのだが。
 頭の告げる条件。それは。
「…あんたの親父さんが今まで許していた通りにさせてもらう…構わないな?」
「…ああ」
 何ら新しい動きもなく、闇市に利益が出るわけでなく、かといって不利益になるわけでもなく。
 現状の維持を。
 ただそこに、ガウェを通じて王家が内密に介入するだけの話だ。
 そこからは手下達は席を外され、ガウェと頭、一対一の話し合いは冷静に行われた。

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 王城騎士を経験せずに王族付きに。
 ガウェが騎士となったその年、騎士団内は荒れに荒れた。
 13歳の未成年騎士の誕生でさえ快挙であるというのに、その少年は稀に見る剣術、武術、魔力を持って訪れたのだ。
 しかしガウェは黄都唯一の嫡子であり、親の体面を保つ為に入団後すぐに王族付きに任命されたのだと噂になった。
 実力を重視するはずの騎士団が、なぜ権力に屈するのか。
 ガウェを知らない騎士達はガウェを知らないまま不平を訴え、ガウェ本人も連日続く抗議に嫌気がさしていた。
 ガウェの実力に不満があるならば手合わせをしてやろうというのに、そういった輩に限って手合わせを拒む。
 そしてまだまだガウェでは敵わないような熟練者との手合わせでガウェが負けたのを見て、やはりガウェに実力など無いと宣言するのだ。
 ならば自分達は隊長クラスに敵うのか。
 騎士団内でもどこの部隊にも属せずにいた頃、初めて訓練をさぼった先でガウェは出会ってしまった。
 エルザの王族付きに任命されるだろうと告げられていた。
 ガウェに幼い恋心を抱く7歳のエルザ姫の。
 持ち場など、正直ガウェにはまだわからない。
 遊んでいたい年頃ではあったし、王城は面白いもので溢れていたし。
 幼馴染みと言っても過言ではないコウェルズ王子とイタズラをして遊びながら、腕を磨きながら。
 そうやって、初めて訓練を逃げた先の書物庫で、運命の出逢いを知ったのだ。
 何も考えず、足の進むままに任せてふらりと書物庫に踏み込んだだけのはずだった。
 エル・フェアリア最大の書物庫は、扉を開けた瞬間にガウェを圧倒した。
 膨大な情報を集めた文献の数々から、お伽噺まで。
 落ち着いた色合いの本達。でも数で圧迫されて落ち着かない。
 エル・フェアリアの全てを文字として凝縮したかのような書物庫に目を奪われ、ふらりふらりと見回しながら中を探検して。
 歌声が、ふいに聞こえてきたのだ。
 今にも消えてしまいそうな小さく幼い歌声。
 それは二階からガウェにやわらかく降り注いで、そう動くことが当然であるかのようにガウェは階段を登った。
 その途中で、ガウェも何度か訓練で世話になった王族付きの騎士と遭遇して、歌声の姫君が第四姫リーンであることに気付いた。
 当時のエル・フェアリア騎士団最強の双子騎士の片割れ、ダニエル。
 穏やかな表情のダニエルはガウェを目に留めて、クスクスと微笑みながらガウェを歌声の先へと促してくれる。
 ただし、静かにな。
 小声で呟かれて、ガウェは忍ばせていた足音をさらに小さくと気をつけた。
 リーン姫の歌声を頼りに、少しずつ近付いていく。
 もう少しだろうか。そう思った頃に、双子のもう片割れであるジャックとも遭遇した。
 容貌は双子で同じなのに、ジャックは眉間に皺を寄せた、端から見れば怒っているような顔付きが特徴の騎士だ。
 数日前に容赦なく投げ飛ばされた記憶を思い出してわずかに後ずされば、ジャックは苦笑しながらもリーン姫への道を開けてくれる。
 ただし、静かにしろ。
 ダニエルよりきつめの口調で。
 二階の最奥。
 ようやく歌声の発生源を見つけて、ガウェは目を見開いた。
 袋小路のように本棚に挟まれた薄暗い中で、わずか三歳の姫が出窓に両腕を預けて、頭をこてんと腕の上に倒して。
 窓の向こうの青空を眺めながら、幼さゆえの清らかな歌を。
「---…」
 リーン姫の噂は聞いていた。
 闇色の緑の髪と瞳。
 卑屈で醜い、緑の汚物姫の噂なら。
 だが、彼女は。
 ガウェの体重がかかり、床がわずかに軋んで歌声が止んでしまう。
「あ…」
 しまった、と思った瞬間。
 リーンはガウェへと振り向いた。
 怯えた様子で、闇色の瞳一杯にガウェを映して。
 時が止まった気がした。
 何もかもが。活動を停止してしまったような。
 それほどの衝撃を受けたのだ。
 エル・フェアリアでは珍しい暗い髪色を、ガウェは生まれて初めて目の当たりにした。
 白い肌をさらに病的に美しく見せるような、闇色の緑。
 艶やかで、月明かりに照らされた夜の泉のような。
 同じ色の瞳も。
 今まで見てきたどんな貴金属や宝玉よりも美しい。

--欲しい--

 生まれて初めて、そう思ってしまった。
「…リーン、姫?」
 見付かってしまったのなら仕方無いとばかりに少し近付いたのは、その髪に、瞳に触れたかったからだ。
 しかしリーンは近付いてきたガウェを恐れて、キョロキョロと辺りを見回した。
 逃げるべき道を探したのだ。しかしそこは袋小路のようになっており、逃れる為にはガウェをすり抜けることになる。
「ぅ…ふぇぇ」
 パニックに陥ってしまったのだろう、幼い姫は太陽の光を浴びながら、ぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。
「あーあー、だから静かにしろって言っただろ」
「ガウェ殿、こちらへ」
 リーンの歌声が止んだことに気付いた双子の騎士が、泣きじゃくるリーンと固まるガウェを見て呆れたように声をかけて。
 怒り顔のジャックがリーンに近寄れば、リーンは救いを求めるようにジャックに手を伸ばして抱き上げられる。
 ジャックは幼児をあやすようにリーンを優しく揺さぶりながら、その背中をポンポンと叩いて落ち着かせていく。
 リーンも最初こそ泣きじゃくっていたが、ジャックがいることに安堵したのか次第に泣き止んでいった。
 その光景がひどく羨ましい。
 リーンを抱き締めるジャックにそんな嫉妬心を抱いて、ダニエルに止められるのも聞かずにリーンにまた近付いて泣かせてしまった。
 結局。
 リーンがガウェを見ても泣かなくなったのは、ガウェが連続でリーンに会いに行った十日目の事だった。
 訓練をサボり続けて、リーンの笑顔が見てみたくて女の子の喜びそうな玩具やお菓子、花を手土産に会いに行って。
 十日目の夕暮れ時。
 深い緑の葉に包まれた淡い虹色の花束を、リーンは初めて受け取ってくれた。
 まだジャックの腕の中から警戒はしたまま。
 それでも、ありがとう、と。
 ガウェの努力はそれからみるみるうちに実り、リーンが打ち解けてくれるまで時間はかからなかった。
 リーンの信頼を得たことは当時非常に珍しく、訓練をサボり続けた事については大目玉を喰らったが、代わりにガウェはリーン姫付きの証である緑の宝玉と刺繍の入った手袋を勝ち取ったのだ。
 リーンを守りながら、リーンの傍で、リーンの笑顔を独り占めして。
 長い幸せに終わりなど来ないと思っていた。
 終わりなんて知らない。
 リーンは永遠にガウェのお姫様なのだと。
 辛すぎる別れを、七年後に迎えるまでは。

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 闇市から戻ったガウェは衣服もそのままに、王城に向かって中庭を歩いていた。
 普段着は王城内では浮くが、着替えるより先にコウェルズに話しておこうと考えたのだ。
 その途中で、リーンと歩いた中庭を懐かしみながら、隣にいるべきリーンを強く思い描く。
 大切な娘なのだ。
 あんな悲劇さえなければ、きっとリーンは美しく成長してガウェの傍にいてくれた。
 ラムタル国など知るものか。バインド王などに渡すものか。
 リーンはガウェの隣に立つべき姫だ。
 その為に産まれてきてくれたのだ。本心からそう思っている。
「--兄さん!」
 ふと視界の隅に馴染んだ気配を察して立ち止まれば、まだ若い声が慌てたようにガウェを呼んだ。
 ガウェを兄と呼ぶなど、世界で一人しかいない。
「…どうした」
 大声を出さなくても話せる範囲まで駆け寄ってきたルードヴィッヒに、ガウェは静かに問いかけた。
 王族付き候補であるルードヴィッヒは教官の一人が煩いスカイであるせいか、最近気配が大雑把になってきた気がする。
 せめてもう片方の教官である魔術騎士のトリックに似てくれたらよかったのに。
「あ、いえ…酷く負傷されたと聞いていたので…」
 ルードヴィッヒはガウェの右頬の古傷すら癒されている事に目を丸くして、少し間抜けた口調になってしまっていた。
「…もう治った」
「そうですか…よかったです」
 ファントムの件から数日、ルードヴィッヒはさぞ心配してくれた事だろう。自分はそれほどの深手を負ったのだから。
 安堵の表情を浮かべるルードヴィッヒは、まだ気になることがあるかのように少し困惑した様子でまた見上げてきて。
「…闇市に行かれたと…聞いたのですが」
 どこからか情報が漏れたらしい。たった今までガウェが足を運んでいた場所は、まだ若いルードヴィッヒには恐ろしい場所のイメージしかないだろう。
「ああ。ファントムの行方を探すのに使えるからな」
 勿論それだけではない。
 闇市の掌握は黄都領主の責務だ。しかしそれを表向きに公言することは出来ないのであくまでもファントムの情報を手に入れる為だと強調すれば、
「…それで、あの…」
 ルードヴィッヒの胸中はその先にあるかのように、ガウェに真剣な眼差しを向けた。
「…パージャの…家族…彼の妹を覚えていますか?」
 そして問いかけられたのは、ガウェも覚えがある痩せっぽっちの少女だ。
「…短髪の娘か?」
「はい…彼女を見つけることも出来ますか?」
 桜色の髪の、気の強い少女。
 ニコルに掴みかかり殴りかかり、パージャが遊廓街で狙われた際には血にまみれたルードヴィッヒをガウェから庇おうとした。
 血に慣れていなければ出来ないだろう。
 気の強いという表現の方法はあの少女には合わないかもしれない。
 どこかネジが飛んでいるかのような。そんなイメージだった。
「あ、その…ファントムの一団の中にはいなかったそうなので…」
 パージャの妹らしいが、確かに彼女は一団の六人の中にはいなかった。しかし巨大な空中船の中に誰もいないと考える方がおかしいだろう。
 ファントムの仲間は最低でも五名。それ以上は未知数なのだ。
「ファントムの居所が知れれば、その娘もいるかもな」
 そこにパージャがいるなら、だが。
「…もし見つかったら…捕まるのでしょうか…」
「重要な人物ではある。当然話を聞く為に保護する事になるだろう」
 保護だなどと優しい表現をしたが、実際は捕らえる事になるはずだ。
 ガウェがあの少女を見つけたなら容赦なく捕獲する。
 たとえ腕がもげ落ちようが。
 だがルードヴィッヒにはどうやら大切な少女である様子だった。
 恋にでも落ちたか。
 少女を一心に思う姿は、まだ若い頃のガウェの容姿とよく似ていた。
「…もし探したいと思うなら、コウェルズ様に申し出ればいい。捜索部隊の人選が今選ばれている。王族付き“候補”のお前ならまだ自由が効くだろう」
「--は、はい!」
 ガウェがリーンを探すように、ルードヴィッヒも少女を探したいなら。
 少女を探す為の助言を与えてやれば、ルードヴィッヒはスカイによく似た大声で返事をした。
 ルードヴィッヒの知りたい話はそれくらいだろうか。
 コウェルズへの報告義務がまだあるので去ろうとすれば、 
「あ、兄さん!!」
 まだ何か残っていたのかと、振り返ってルードヴィッヒを見やる。
「…リーン様を探されるのですよね」
 そして当然の事を。
「…ああ」
 今度こそガウェはその場を離れ、ルードヴィッヒも足を止めようとはしなかった。
 やがてルードヴィッヒも走り去っていく気配を背中に感じながら、中庭の終わりにイストワールが石柱にもたれてガウェを待っている様子に気付く。
 エルザの護衛部隊長である、ガウェの上官。
「--相変わらず、従弟には優しいんだな」
 声を張るルードヴィッヒとは違い落ち着いた声色で、イストワールは面白がるように先ほどのルードヴィッヒとの光景の感想を述べてくる。
 ガウェからすれば普段通りの対応のはずなので、どう返せばとわずかに困惑してしまうが。
 しかしイストワールの方もそれに対する返答が欲しい様子ではなく、
「エルザ様が治癒魔術を成功させた…まだ初歩の段階ではあるがな」
 ガウェがいない間のエルザの成長過程を教えてくれた。
 名目上、ガウェはまだエルザの姫付きだ。
 リーンのいなくなってしまった五年間、ガウェはエルザが真剣に治癒魔術の会得に取り組む姿を見てきた。
 ようやく、伸ばし続けた指先は夢に触れたのか。
「…そうですか」
 慈愛に満ちた美しい姫だ。
 かつては幼い恋心に似た憧れを抱かれたが、今のエルザは本当の恋を知った。
 ニコルを思い一喜一憂し、泣いて嘆いていた日々を思い出す。
 それでも彼女は夢だけは手放さなかった。
 エルザが治癒魔術の会得を志すようになった理由がリーンであることも知っている。
 もし治癒魔術師がいてくれたなら、リーンは助かったかもしれない。五年前のエルザはそう思い、自分が治癒魔術師となることに決めたのだ。
 ガウェとは別の視点から、エルザはリーンを思っていた。
「…お前はリーン様の捜索部隊に関わるのだろうな」
 イストワールの言葉が、決意を確かめるように鼓膜に響き渡る。
「じきにお前は騎士を辞めて黄都に戻らねばならない身だが、黄都領主として動くのだろう?」
「…はい」
 リーンが生きてくれていたなど思いもしなかった。
 だからガウェは己の出自を受け入れたのだ。
 黄都領主として。自分の使命を。
 騎士でいられたなら。何度も何度もそう思っていた。だがこれでいい。
 黄都領主にならなければ、闇市のネットワークを使うことは出来なかった。
 ファントムの情報を手に入れて、リーンの居場所を。
「…寂しいものだな。貧富コンビを見れなくなるのは」
 あと数ヵ月もすれば、ガウェは黄都の政務の為に黄都に戻ることになる。
 リーンの為に王城と連絡は取り合うが、城の者達と会うことはほとんど無くなってしまうのだろう。
 ニコルだけでなく、イストワールやエルザとも。
「…話を変えて悪いんだが…」
「はい?」
「決まった相手はいないのか?」
 それが本題だったのだろう。
 若干言い辛そうに、イストワールはガウェの思考をわずかに止めてくれた。
 決まった相手とは。
「お前もいい年だ。特に黄都領主となるなら、それなりの伴侶が求められる」
 妻を。
 未来の為に。
 それは何も最近言われ始めた事ではないが。
「今は考えてなどいられません」
「だろうがな…」
 リーンが生きていたのだ。優先すべきはリーンで。
 リーンが生きているなら、ガウェの目に他の娘など入るわけがない。
 優れた子供を養子にと考えていたのだから。
「治癒魔術師の…アリア嬢の相手候補の中にお前の名前も上がっている」
 イストワールはどこまでも言い辛い様子だった。しかしそれならすでに。
「…聞かされています」
 前向きに考えなさいとは、魔術師団長リナトの直々の言葉だった。
「驚かないのか?」
「魔力量を考えればそうなるだろうとは思っていましたから」
 黄都領主だからという訳ではなく、単純に魔力の質と量から。
 アリアとなら。そう考えた時も確かにある。
 リーンが拐われるより以前の話だ。
 娶った女を愛せる自信など無い。だがアリアならば、愛せずとも大切にしてやれるとは思った。
 アリアにとっての幸運は心からアリアを大切に愛してくれる男が現れてくれることだろうが、妻として愛せなくとも、一人の人間として大切にすることならば。
 それも、リーンが生きていたなら話しは別だ。
 リーンが生きていたなら。
 ガウェの隣はリーン以外に有り得ない。
「大臣は論外として、騎士団では私、ミシェル殿、トリック殿、セクトル…魔術師団からも名が上がっているのでしょう?」
 アリアの候補はガウェだけではない。かつて魔術師団入りを求められたセクトルやミシェル、そしてエル・フェアリア唯一の魔術騎士トリックも。
 候補に上げられている者達は全員それを伝えられているはずだが、前向きに検討しているのは騎士団ではミシェルだけだろう。
 アリアの護衛部隊が若手で固められた理由のいくつかある内のひとつも、ニコルとレイトルを抜いて四名共がアリアの夫候補だからだと聞かされた。
 察したらしい魔術師団のトリッシュは護衛部隊任命後に早々に恋仲の侍女と婚約したが。
「上はお前かトリック殿で通したいらしいがな」
 まだ現段階では、それぞれの候補者に伝えている程度だ。アリアには隠されてはいるが。
 それでも、現段階、という話で。
「黄都領主といえど、お前はまだ新米領主だ。決定されてしまったら覆すのに時間がかかるぞ」
 いつ上層部が命令を下すかもわからない。
 そうなってしまえば。
 そうなる前に、アリアが誰かと恋仲になってくれるのが一番なのだが。
 婚約者に裏切られたアリアは、恋愛を恐れている節がある。
「リーン様の捜索も大事だが、その事も念頭に入れておいた方がいい。どちらを選ぶかはお前次第だが」
「…はい」
 突きつけられた現実は、人の未来を左右するものだ。
「…エルザ様の相手は…ニコルに決まるのだろうな」
 押し黙るガウェに、イストワールはもう一人の治癒魔術師の件も口にする。
 まだ治癒魔術師になったわけではないが、エルザはその道を選んだ。
 ならば、その次代をより先天的治癒魔術師にする為に、アリアの兄であるニコルを。
「まだ上はエルザ様とニコルの関係は知らないだろうが、ニコルが治癒魔術師の兄である以上…血を考えれば必然的にそうなる」
「でしょうね」
 かつてエル・フェアリアに存在した治癒魔術の一族メディウムは、そろって女児にだけ力が受け継がれた。しかし男児だから無意味という訳ではなく、男児が成長して子供を儲けた場合、産まれた子が女児ならば治癒魔術の力は復活していた。
 上層部の者達はもはやニコルをただの平民とは見てはいない。
 ニコル・メディウム。並びにアリア・メディウム。
 それが、上層部でのニコルとアリアの呼び名だ。
 ニコルとエルザが互いに思い合っていることは事実で、
「…だが今のままでは、ニコルはエルザ様を選ばんだろう」
 しかしイストワールは、二人の可能性を否定する。
 確かに以前、ニコルはエルザの求愛を拒んだ。だが今は違うはずだ。なのに。
「なぜです?」
「…アリア嬢の下劣な噂を流している者がいる。多くの者は聞き流すだろうが…面白がる者もいれば、真に受ける者もいる」
 重い口調は、事の重大さを物語るには充分だった。
「…どんな噂ですか」
「婚約者に裏切られたせいで色情狂になったなんて噂だ」
 それは、なんて酷い噂なのだろうか。
 思わず言葉を無くしたガウェに、イストワールは苦笑してみせる。
「ニコルは妹の事になると目の色が変わる…どこの誰が流した噂かは知らないが、厄介な事にならないよう祈るしかない」
 アリアが苦しめられる内は、ニコルはアリアの側からは離れない。それが、ニコルがエルザを選ばない理由だと。
「ああ、それと…」
 ふと、何かを思い出したようにイストワールは腰の隠しに手を入れて何かを取り出した。
 ガウェがその様子を眺める間に投げて寄越されて、無意識に手を伸ばして。
「---」
 寄越されたそれに、ガウェは目を見開いた。
「お前には必要なものだろう?エルザ様から預かったんだ。受け取れ」
 リーン姫付きである証の、緑の宝玉と刺繍の入った手袋。
 王族付き騎士達の誇りである、大切な。
 その手袋は真新しく、ガウェが今も大切にしている五年前までの手袋とは光沢が違う。
 どこかで静かに眠っていたそれを、エルザは見つけ出してくれたのか。
「…ありがとうございますと、お伝えいただけますか?」
 心優しいエルザ姫。
 リーンとは別に、彼女の幸せを願わずにはいられなかった。
「勿論だ」
 イストワールに感謝の言葉を預けて、ガウェは静かに目を閉じ、リーンの騎士である証を強く握り締めた。

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