第34話
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アリアには治癒の仕事が残っていたのでモーティシアはビアンカと二人で医務室を出て、近くの小部屋に入ってから彼女が訪れた理由を聞いた。
侍女長がモーティシアとニコルの元に来た理由などイニス以外にはなく、そしてビアンカの浮かない様子からあまり事態は良くないのだろうと推測して。
「イニスは王城侍女ではなくなります」
開口一番に含みのある言葉を聞かされて、モーティシアは眉をひそめた。
侍女ではなくなる。
侍女の任を解かれる、ではなく。
どういうことなのか。訊ねる前に重い口を開いてくれた。
「上階級の娘が侍女となる場合、その付き人が共に王城に訪れる事があるのをご存じでしょうか?」
「…耳にしたことは」
「イニスは藍都ガードナーロッド家のガブリエルの付き人になることが決まりました」
無駄な説明は省いて、先ずは結論を。
ここにニコルがいたなら長く説明をしなければならなかっただろうが、モーティシアには今の言葉だけでほとんどを理解してしまった。
つまり、イニスの件についてはガブリエルの兄に当たる騎士ミシェルが告げたように、ガブリエルが通じていたという事だろう。
イニスの行為行動は王城追放に相応しい。
しかし裏で通じていたガブリエルが、上位貴族の力を使いイニスを王城に留めたのだ。自分の小間使いとして。
「…ちなみに、ガブリエル嬢の侍女階級は?」
「彼女は以前も侍女であった時期がありましたので、内周第二棟を」
「…ニコル達は第四棟なので直接の接触は無さそう、ですが」
兵舎外周の内側に存在する内周は全四棟あり、ニコルは正面から見て右奥に位置する第四棟にいる。
ガブリエルが階級に則り手前左側に位置する第二棟を持ち場にするならほとんど接触は無いだろうが。
「付き人のいる侍女は仕事を付き人に任せて、自分は自由に過ごしているのが実情…」
「はい」
頷くビアンカは眉をひそめ、わずかに悔しげな様子を見せる。
ビアンカは侍女長となって行った悪習改善のひとつとして、上階級の出自の娘の付き人制度について、数多くの制限を設けた。
侍女の仕事は侍女以外が行ってはならないという、当たり前の制限を。
付き人はあくまでも侍女となった娘の付き人であり、侍女ではないのだから。
ビアンカは目を光らせ悪習を改善し続けて、現在の侍女達の中で付き人を呼ぶ上階級の侍女はいなくなっていたが。
「ガブリエル嬢ほどの上階級となれば、周りは口出し出来ないでしょうね。いくら貴女でも」
どれだけ仕事と家柄は別だと宣っても、聞き入れない輩は聞き入れないものだ。
特に女社会ではそれが顕著のようで、入れ替わりの激しい侍女の世界でようやく侍女長となって三年目のビアンカでは、まだまだ手の届かない場所が多かった。
「…ちなみに、現在のガブリエル嬢の働きっぷりは?」
それでももしかしたらガブリエルが真っ当に働いているかもしれない可能性を訊ねてみたが、ビアンカは首を横にふるだけだった。
「そうですか…」
「…申し訳ございません」
ミシェルから聞かされたニコルとガブリエルのいざこざも捨て置けない。
ニコルは過去を忘れている様子なのでどうしようもないが。
「ひとまずは様子を見るくらいしか出来ないでしょうね」
「何かおかしな行動が発覚しましたら、すぐにお伝えいたします」
「是非お願いします。ニコルにはこちらから伝えておきますので」
互いに今後を懸念しながら。
小部屋を出て、モーティシアは忙しい身であるビアンカを見送り、面倒臭そうな今後に頭を捻る。
ニコルがどうなろうが構わないが、治癒魔術師にお鉢が回っては堪らない。
ニコルを守るためではなく治癒魔術師を守る為に。
モーティシアは静かに計算を始めながら、アリア達の待つ治癒室に戻っていった。
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普段よりわずかに遅い目覚めの後で、ニコルは食堂で食事を飲み込むように胃に詰めてからアリアの元へと急いだ。
昨夜は遅くまで起きてはいたが今朝に影響を出すつもりはなかった。しかし朝は少しゆっくりするようにモーティシアに強く命じられてしまったのだ。
やむなく命令に従ったが一人でいればいるだけアリアの噂を思い出してしまい、精神的に疲れてしまう。
「ニコル!」
簡易医療棟に足を踏み入れたところで聞き慣れた声に呼び止められて、ニコルは進行方向と反対側の通路に目をやった。
呼びかけてきたのはトリッシュで、その隣にはセクトルが普段通りの仏頂面を見せてくれる。
「匂いは取れたか?」
「…ああ」
セクトルに問われて、ニコルはわずかにだけ頷いた。
昨日はガウェが勝手に新緑宮の大穴に入り込んでしまい、その穴の発する酷い臭気を取るために奮闘したのだ。
セクトルはレイトルと共にガウェを王城外の森の泉に連れていったと聞いている。
「…疲れたか?」
「いや……いや、すまん、少し疲れたみたいだ」
無意識に否定しようとして、しかし素直に肯定してしまったのは、やはり気力が少しやられているからだろう。
「休むか?」
「…アリアの元に帰る」
モーティシアには伝えておくぞ、とセクトルとトリッシュは心配してくれるが、ニコルは頷きはしなかった。
朝のわずかな休憩だけでも心が擦りきれたのだ。今のニコルの心が休まるのはアリアの側だけだ。
アリアの側で、アリアの無事を確認していられる時間こそが。
「ただでさえファントムの件で皆が神経すり減らしてる中で、ニコルはアリアの護衛からコウェルズ様の呼び出しから、いろんなことに飛び回ってるんだぞ?しっかり休まないとどこかで倒れるぞ」
騎士は少し動いている時の方が身体が休まることを知らないトリッシュは親が子を宥めるように説得してくるが、
「…だがアリアの側にいないと」
やはりどうしても頷くことは出来ない。
「俺達だって護衛なんだ。俺達じゃ不満か?」
そこにセクトルまで説得するように口を開くが、こちらはニコルの言葉の含みに気付いての発言のようだった。
そうだ。セクトルやトリッシュもニコルと同じようにアリアを守る部隊の仲間ではないか。
それでも。
「そういうわけじゃない…ただ今は…なるべくアリアの側を離れるわけにはいかないんだ」
セクトル達はアリアの噂をまだ知らないのだろう。
「…誰かは知らないがアリアの悪い噂を流している奴がいる…」
「…どんな?」
ニコルがアリアの側にいたい理由を口にすれば、詳しい内容を求められた。
口にするのもおぞましいような内容を。
「…アリアが色欲に溺れていると」
「な!?」
「はぁ?」
重い声で告げれば、二人は唖然と口を開く。
「風呂場で騎士達が話しているのを聞いたんだ…噂だけならいいが、何かあったら…怖い」
もうひとつの噂として流れているアリアが村で襲われた件については、口にもしたくなかった。
なぜならそれは、誇張されてはいるが真実だからだ。
「いったい誰がそんな噂を…」
「わからない」
まだ流れ始めたばかりだろう噂だが、アリアはその影響を受けている。
それもアリアが懸命に癒そうとしている騎士達からだ。
アリアに傷を癒されている立場で、その一部の騎士達はアリアの体を眺めていたのだと思うと腸が煮えくり返る思いだった。
「…アリアのことが気に入らない侍女か…アリアにフラれた野郎か…」
「この際犯人はどうでもいい。アリアを守ることが先決だ」
犯人像を割り出そうとするトリッシュを止めて、ニコルは怒りを何とか噛み殺す。
「そういうわけだから休んでなんかいられない」
とにかくアリアの無事を。
そう願うニコルを、今度は二人とも止めずにいてくれた。
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ラムタル国王城の一室で大国の王が手ずから食事を与えるのは、目覚めたばかりのリーンだった。
横になったままのリーンの唇にスプーンをあてがい、ごく少量の薄いスープをゆっくりと口に含ませてやる王など誰にも想像できない事だろう。
ガイアはわずかに離れた場所からその様子を窺いながら、バインドに一心に身を按じられるリーンを少し羨ましく思った。
「…ゆっくりでいい…」
甲斐甲斐しく、壊れ物を扱うように。
「---っゲホッ!」
「リーン!!」
リーンも懸命に口から食事をとろうとするが、五年という年月はあまりにも長すぎた様子だ。
「…私が急ぎすぎたな。もう少し量を減らそうか」
バインドは少し濡らしたハンカチでリーンの口元を拭いてやり、リーンが落ち着いてからさらに量を減らしたスープを口に含ませる。
リーンも懸命にスープを飲もうとしていた。
「五年ぶりの食事になりますので…少量のスープでも嚥下するのはつらいと思います…」
ガイアの隣で癒術騎士のイヴが悲しむように告げて、
「全ての筋肉が衰えていますから…回復までに膨大な時間が必要かと」
兄のアダムはまだ冷静に物事を見据える。
バインドの背中を眺めながら、リーンが回復する為に何をするべきなのかを相談する。
とにもかくにも身体に栄養をつけなければならないので当面は食事ばかりになるだろうが、体を動かす訓練も少しずつ始まるだろう。
「…意識がはっきりとあるだけ幸いだわ…でも」
「…目覚めてすぐのリーン様の言葉、でしょうか?」
アダムに問われて頷き返して。
「まるで今のリーン姫とは違う…あれは…」
リーンが目覚めてすぐだ。達観した口調でリーンが土中に埋められた理由にファントムの策略を示した。
その様子は今のリーンとはまるで異なり、ガイアですら年少者と扱いそうな様子だったのだ。
「今後もリーン様の御世話をして参りますので、何かわかり次第お知らせいたしますわ」
「…お願いするわね」
付きっきりでリーンの治療に当たる癒術騎士に微笑みかけて、ガイアは思考を纏める為に部屋を出る。
人払いをされた通路を歩んで、鬱々とする気分を晴らす為に露台に出た。
日は高く空は青々としているが、太陽の強さは感じない。
空を見上げれば、ちょうど直射日光を遮るように透明化した飛行船の空中庭園が空を漂っているらしい。
姫を救い出せた。そして次の計画に移るはずなのに。
まさか姫が、ファントムの策略であんな姿に変えられたなど。
ファントムの考えなど最初からわからないが、それでも悲しくて唇を噛めば、ふわりと出現した絶対的な気配がガイアを絡め取るように背後から抱き締めた。
「姫の心配か?」
「…リーン姫にいったい何を?」
そしてそのまま離れて露台の先に向かうファントムの背中に、ガイアは厳しい口調をぶつける。
ファントムは笑ってラムタルの首都を眺めるだけでガイアの質問には答えようとしない。
「…ロード」
自分にだけ許された呼び名で彼を呼べば、ようやくこちらを見てはくれるが。
「何も心配する必要は無い。全て順調に進んでいる」
「順調に進めば許されると?リーン姫が五年もの間悲惨な状況にいたことが貴方の計算の内だと言うなら、私は--」
「--何だ?」
言葉の続きは、ファントムの鋭い眼差しに阻まれて口に出来なかった。
一瞬喉が凍り付いてしまうが、何とか気持ちを落ち着けて。
「…リーン姫にも宝具を握らせるつもり?緑の宝具は今の彼女には持ち上げるどころか引きずることも叶わないわ。何が狙いなの?」
最初に口にしようとしていた内容とは異なる質問に、またファントムが微笑んだ。
ファントムが不機嫌になる言葉を口にしなければ、彼はいつまでもガイアに微笑み続けてくれる。
ファントムの笑顔が見たいわけではない。
ただ、その不機嫌な姿が恐ろしくて目の当たりにしたくないだけだ。
言葉は選ばなければならない。
それが、ガイアが生まれ落ちて最初に覚えた生き抜く術だった。
「たとえリーン姫が健やかに育っていようが、姫にあの宝具は握れない」
「…どういうこと?」
機嫌を直したファントムは夜の血溜まりのような禍々しい髪を風になびかせながら露台の先から離れて王城に戻ろうとする。
安心しなさい、と、ガイアに全ては教えずに。
「私も鬼ではないんだ…さあ、おいで」
子供扱いを見せる様子に、ガイアは身を強張らせる。
ファントムが上機嫌でそんなふうにガイアを呼ぶのは、大半がまぐわいの合図だからだ。
まだ日も上りきってはいないのに。
機嫌が良い理由は何となくだがわかっている。
リーンがうまい具合に目覚めてくれたからだろう。
「付きっきりで姫の側にいる役目はあの兄妹に任せておけばいい。お前は私の傍にいなさい」
「…はい」
最終的にはファントムの思う通りに足を開くのだ。諦めて素直に従ったところで、開かれた露台の扉をわざわざノックするように叩く音が響いた。
伸ばされたファントムの手に自分の手を重ねようとしていたガイアは驚き手を引いて。
「…見せつける為に呼んだわけじゃないよね?それとも乱交大会のお誘い?」
呆れた様子のパージャの卑猥な発言に頬を染めて俯けば、ファントムの手がガイアの肩を優しく抱いた。
「次の仕事だ」
「…やっぱり?」
命じられるパージャに表情は無い。
どうせろくでもない事だろうと呆れと諦めを交ぜた彼は、ガイアと違って自由だ。
ミュズさえ切り取ればの話だが。
「エレッテを連れてエル・フェアリア王都に戻れ」
そして次の任に、パージャは眉をひそめる。
ガイアも訳がわからずにファントムを見上げた。
リーンを救い出してからまだ数日しか経っていないというのに、なぜパージャを。それにエレッテまで。
「…何でエレッテ?」
パージャも同じように考えている様子だった。
それもそのはずだ。エレッテとウインドを引き離すと言っているも同然なのだから。
「エレッテの防御は万が一に備えておいて損は無い。次の段階に入るまで王都で待機していろ」
ファントムは危険なエル・フェアリアに戻るのだからとそれらしい説明をくれるが、信用など出来るものか。
「…ウインドが荒れるでしょーが」
「お前とエレッテに間違いが起こるとでも?馬鹿馬鹿しい話だ」
「その馬鹿馬鹿しい話を真に受けるのがウインドなんだってば…どうせウインドを怒らせて“使える”ようにしたいだけなんだろうけど」
引き離す意図を掴んだのか、パージャが心底嫌そうに口元を歪めた。
ウインドはじきに開催される大会への出場を命じられているのだから。
「行け」
「へいへい」
用が済んだならとっとと動けと追い払うように、ファントムはガイアの肩に回した腕を引き寄せてガイアをさらに近付ける。
パージャがその意図を理解するように。
パージャからわずかに向けられる憐れみの眼差しは、ガイアの羞恥を煽るには充分だった。
ゆらりと霞のように気配を消して姿を消していく。
彼のように自由な行動を許されていたなら。
「私達も戻るぞ」
肢体をもてあそぶように腰に大きな手が回り込み、ガイアを完全に引き寄せる。
密着しすぎて歩きにくいだろうにお構い無しだ。
どころか自分から戻るなどと口にしたというのに、ファントムは前菜を楽しむかのようにガイアの唇を舐めた。
ここまで上機嫌など珍しい。
「…パージャとエレッテに何をさせるつもりなの?」
「知る必要は無い」
雰囲気を壊す訳ではないが訊ねても、やはり簡単に流されてしまう。
「…本当に、ウインドを使えるようにする為だけに?」
「言っただろう。全て順調に進んでいる…あまり辛そうな顔をするな。お前は私の傍で笑っていればいい」
頬を撫でられて、唇を撫でられて。
深い口付けを与えられれば、ファントムの魔力が体内に侵入する感覚に気付く。
質問攻めにするガイアに、蹂躙する為の魔力が切れたと思ったのか。
ファントムの魔力が体に流れ込むごとに体の自由が利かなくなり、やがてだらりと項垂れたガイアを、ファントムが静かに横抱きにした。
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