第33話


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 新緑宮の穴に降りたガウェをニコルが地上に戻した後、レイトルはセクトルと共にガウェを連れて王城敷地を出た森の泉に訪れていた。
 いつからあの凄まじい穴の中にいたのか、ガウェは体の細部に至るまで悪臭が染みたように酷い臭気を発している。
 途中でセクトルが抜けて、三人分の着替えと匂いを誤魔化す為の香油を持ってきてくれて。
 季節は肌寒くなったが、レイトルとセクトルは辺りに誰もいないことを確認してからガウェの衣服をひん剥いて泉に突き落とした。
 ガウェが手離さなかったリーンの髪はそのままにしてやり、ニコルから預かったままのドレスソードは近くに置いて。
 レイトルとセクトルも上半身だけ裸になって、ガウェをへその位置まで水位のある深さの場所まで引っ張る。
 水は冷たいが透明で、水底の水草もはっきりと見えるほど清らかだ。そこに足を踏み込めば、わずかに泥が浮かび上がってゆっくりと沈殿していく。
 病み上がりのガウェを遠慮の欠片もなく丸洗いしながら香油で誤魔化し、臭いが残るようなら最初から洗い直して。
 何度も何度も繰り返し、
「--だいぶ匂いも取れたかな?」
 そろそろ臭気も取れたかとひと息つけば、セクトルがガウェの髪を軽く掴んで匂いを嗅ぎ、少ししてから眉をひそめた。
「髪くっさ…香油もう一回垂らすぞ」
「…もう全部かけようか」
「だな」
 人形のようにされるがままのガウェの頭に直接香油を全て垂らして、揉み込むように洗う。
「…コウェルズ様が来てたよ。君に頼み事があるんだって。リーン様の件でね。それも、君にしか出来ない事」
 ガウェが聞いているかどうかはわからないがコウェルズの命を告げれば、セクトルが動かないガウェの前に回り込んだ。
「黄都領主の地位を奪っといてよかったな。裏側から動けるのはお前だけだぜ」
 香油を余すところ無く満たすように頭を前からも揉み込むセクトルは、空になった香油の瓶に泉の水を満たしてさらにガウェの頭に流した。
「ガウェはリーン様捜索に駆り出されるとして、ニコルはどうなるんだろ?アリアの護衛しながら何か命じられるのかな?」
「捜索は騎士団が動いて、原因究明には魔術師団が動くだろうし、何もないんじゃないか?」
 黙ったままのガウェをそのままに、レイトルはセクトルと今後について予想を立ててみる。
 ニコルはどうであれ、レイトル達は変わらずアリアの護衛のままのはずだ。
「私達はアリアの安全が第一だからね。どこかの国では治癒魔術師一人につき三十人体制で護衛を付けてるって聞いたよ」
「多いな。ラムタル国は治癒魔術師が国王の護衛も努めてるってのに」
「それは癒術騎士の双子だろ?護衛もしてる治癒魔術師は世界でその二人だけのはずだよ。後の治癒魔術師達は守られる側さ」
「だったか?」
 魔術師でも前線にも通じる魔術騎士が存在するように、特別な訓練を積んで戦闘にも特化した治癒魔術師を癒術騎士と呼んだ。
 本来癒しの力しか持たないはずの治癒魔術師が戦闘にも特化するなど稀で、しかも双子の一人は女性だと聞く。
「昔ガウェが兄貴の方と喧嘩したんだよな…黄都嫡子と治癒魔術師の喧嘩だったから国際問題になるかと思ったぜ」
「ああ!あったね!大事にならなくて本当によかったよ」
 ガウェの昔を語ってみても、反応は見られない。
 まるで魂が抜け落ちた殻であるかのようなガウェに一抹の不安がよぎるが、気にする暇を潰すように、なおもガウェが意識を取り戻すような会話を探して語って。
「…リーン様が生きてたとなると、バインド様も動くだろうな」
「…だろう、ね」
 いくつめの話題だろうか。
 なるべく避けていた、リーンの婚約者であるラムタル王バインドの話題を口にすれば、ようやくガウェは顔を上げる。
「…ガウェ?」
「…洗浄はもういい。コウェルズ様の元に行く」
 レイトルとセクトルの支える腕を振りほどいて、先に泉から上がって。
 先程まで人形のようだったというのに突然動き出したのは、やはりバインドの名に反応したのだろうか。
 リーンが生きていたなら、リーンとバインドとの婚約関係は再度結ばれる可能性がある。
 バインドはリーンの為だけに王妃を迎えなかったのだから。
「…大丈夫なのかい?数日は落ち着けるよう時間を頂いたよ?」
「その間にも…リーン様は苦しい思いをされているのだ…」
 報われない思いだというのに、ガウェはリーンを諦めない。
「早く見つけて差し上げねば…」
 セクトルが用意した新たな兵装に袖を通して、わずかにふらつきながら、さ迷うように。
 ただリーンだけを求める幽鬼じみたガウェを、レイトルとセクトルが止められるはずもなかった。

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 それが最後の発作となった。
「---っ」
 ラムタル首都の王城の一室。
 神の逆鱗に触れたかのように身を仰け反らせたリーンが、闇色の目玉をこぼすほどに見開いて。
「--バインド様!!こちらへ!!」
「リーン様が目覚められました!!」
 癒術騎士であるアダムとイヴの慌てた声に反応するバインドは走り寄り、さらにその後ろを優雅な足取りでファントムが。
 ガイアはファントムの少し後ろを歩くが、その表情はリーンを思い焦りを浮かべていた。
 ベッドに突き落とされたかのようにリーンは仰け反らせた身体をくたりと仰向かせ、開かれた闇色の緑の瞳は焦点をどこにも合わせずにただ天井に向けられる。
 小刻みに震えてはいるが、体は動く気配を見せなかった。
「…リーン」
 バインドはリーンの手を取り、ようやく目覚めてくれたリーンに祈りを捧げるように握り締めて。
 リーンは口を開け、何かを話そうとする。
 しかし声帯すら衰えたのか、喉は空気の通る音だけを響かせた。
 なんて痛ましい。
 骨と皮ばかりの体にさせられて、体の自由も奪われて。
 そのリーンの様子を見下ろしながら、ファントムがふんと鼻を鳴らした。
「…失敗か」
「--ぬかせ、混沌の申し子よ」
 踵を返そうとしたファントムの耳に、若く、だが凛とした娘の声が響き渡った。
 再び視線を戻して、ファントムはそれの成功に笑う。
「…リーン?」
 ファントム以外全員が驚愕の眼差しをリーンに向けていた。
 ファントムを呼び止めた娘は、紛れもなくリーンだったからだ。
 だが15歳の娘にしては、あまりにも達観した口調だった。
 この室内で最もリーンと接してきたのはバインドで、そのバインドでさえ、こんなリーンは知らない。
 バインドに手を握られたまま、リーンは動かない体に鞭を打つようにギョロリと目玉だけを動かした。
「…私をあの闇から救い出した事には感謝しよう。だがこれがお前の望んだ結果である事実には…恨みを抱くぞ」
 そして、リーンがこうなることをファントムが知っていたという真実を。
「…な、に?」
「…ロード?」
 その言葉に、バインドとガイアは同時にファントムに目を映した。
 リーンの現状がファントムの望みであったとは、いったいどういう事なのか。
 誰もその問いかけを口に出来ない中で、またもリーンは理解しがたい説明をくれた。
「…私はまだ安静が必要な様だ。意識は“リーン”に返すが…“リーン”は闇を嫌う…夜には灯りを絶やすな」
 まるで自分はリーンではないかのような口調だった。
「約束しよう」
 ファントムは冷めた口調でその願いを聞き入れて、そんなファントムの様子を笑いながら、リーンが目を閉じる。
「………」
 しかしリーンが目を閉じたのは、わずかの間だけだった。
「…バイ、ンド、さま?」
 再び目を開けたリーンは舌ったらずな調子で、すぐ近くにいるバインドを見つけて。
「リーン!?」
「…ど、して?」
 先ほどのリーンは何だったのかわからない。だが今のリーンは、紛れもなくバインドの知る“10歳”のリーンだった。
「リーン…」
「…?」
 バインドは愛しいリーンを抱き締める。
 その様子を眺めながら、ファントムは静かに部屋を抜けた。
 部屋を抜けて、次の段階へ。
 リーンが目覚めたと同時にガウェも自我を取り戻したはずだ。
 その事実を知るのはファントムだけで、同時にその理由に、ファントムは密やかに笑みを浮かべた。

第33話 終
 
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