第33話


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 ガウェを無理矢理引きずり上げた後、ニコルは一人で新緑宮からもっとも近い兵舎外周棟の風呂場に訪れていた。
 頭から熱い湯を浴びながら、先程までのガウェの様子を思い出す。
 ガウェはリーンの髪を離さず、まるで五年前にリーンを失った時のように酷く病んでいた。
 ガウェの体に付着した酷い匂いはしっかり何度も洗わないと数日は取れないと思えた。
 騎士達の風呂場を使えば匂いが移りかねないという懸念から、レイトルとセクトルに王城外の森の泉へと連れていかれたところだ。
 ニコルの体にまとわりつく臭気はガウェほどではなかったので、一人で風呂場に訪れたのだ。
 自分に染み付いた匂いは取れたかと背中に張り付く濡れた銀の髪を掴んで鼻先に持ってくるが、鼻が匂いに慣れたこともあり湯の香りが強くていまいちわからない。
 念の為にあと数度湯を被ろうとした所で、
「--やっぱりいい体をしているよな」
「またそれか…」
 他の騎士達が風呂場に訪れた気配に気付いた。
 いくつかの仕切りのせいで向こうはニコルには気付いていない様子だが、気配の数は三人分だ。
 兵舎外周棟の風呂場なので王城騎士だろうが、さすがにニコルは少し躊躇った。
 兵舎内周を使う騎士が外周にいるなど向こうもやりづらいだろうと。
 ニコルに気付かない故か女の話をしているらしい様子に苦笑いを浮かべながら、どう出るべきかと考えれば、
「太ってる訳でもないのにあの胸と尻だぞ?」
「しかし大臣も狙ってるとか」
「…嘘だろ?」
 妙な内容に、無意識に聞き耳を立ててしまう。
「魔術師団にいる従兄弟からの情報だから確かみたいだ。治癒魔術師の相手候補に無理矢理名乗りを上げたらしい」
 なぜここでアリアの話になるのか。
 その理由にうっすらと気付きながらも、ニコルは黙ったまま耳を傾け続けてしまった。
「可哀想に…あの大臣のせいで侍女辞めた子だっているのにな」
「大臣も護衛部隊のお陰で手を出せないって話はよく聞くけどな。俺も魔力が高かったらなぁ…」
「で、貧民を兄と慕うわけか」
「…そうだった、狂暴兄貴がいるんだったな…」
「お前がバカな事を言わなければニコル殿だって訓練で酷い事はしないさ」
「…まぁそれは俺だって思うけどさ」
 聞き間違いならと願っていたが、やはり会話の中心にいるのはアリアらしい。
 ニコルがいるとはつゆほどにも思っていないだろうから仕方無いだろうが、三人の会話はヒートアップしていく。
「何とか一回だけでも相手してくれないかな」
「無理だろ。護衛部隊に入れば話は別なんだろうけど」
「…本当なのか?その噂…」
--…噂?
 若く体力が有り余るのだから性方面を考えてしまうのだろうが、さらに妙な単語にニコルは眉をひそめる。
 噂とはいったい何なのか。
 堂々と割り込んで話を聞き出そうにも、息を殺す自分がいて。
 動かないままのニコルの耳に届くのは、
「でも婚約者はいたって話だろ?処女じゃないのは確かなんじゃないか?平民なんだし、下の方もだらしないものだろ」
--!?
 あまりにも下劣な言葉だった。
 馬鹿みたいに舐めくさった口調で、自分は高貴だとでも言うように。
「護衛部隊も魔術師三人は下位貴族の中でもさらに下の方の階級だし、下品なものだ。平民と変わりないだろ」
「レイトルセクトルは巨乳好きで有名だし、貧民だって治癒魔術師から離れないらしいし。兄妹にしては距離が近すぎるからな。おかしいって有名だ」
「…まあ、どうせ噂だろ」
 どうやら会話に否定的なのは一人だけで、後の二人はアリアの身体を目当てにしているらしい。
 それだけでなくニコル達護衛部隊をも嘲笑って。
「お前だって出来るならやりたいだろ?あんなにいい体の女、たとえ平民でも。顔は小綺麗なんだからな」
「いや、私は……」
「城下の遊郭街なら確実に高給取りになっているだろうな」
「いいね、それ。治癒魔術師なんだし、そっちの治癒もあってもいいはずだ」
「暴力兄貴の暴力の分癒してくれってな。平民なんて金払えば何でもするだろう」
 二人の騎士は沸々と沸き上がるニコルの殺気にも気付けないまま笑い合っている。
 平民だというだけで、そんな話にまで発展するのか。
 ニコルが味わった嘲笑よりも下劣な言葉で、アリアを。
 女の身であるというだけで、平民というだけで。
「エル・フェアリア唯一の治癒魔術師だぞ!そんな言い方は無いだろ!!」
 唯一否定的だった騎士が苛立ったように怒鳴るが、二人には怒りの意味がわからない様子だった。
「…なにムキになってるんだよ」
「ただの冗談だろ?感じ悪いぞ」
 そしてニコルの我慢の限界はとうに越えている。
「--冗談にしては悪意が籠りすぎてはいないか?」
 ゆらりと歩み寄り、背後から怒りを噛み殺した声で。
「な!?」
「ニコル殿っ…ど、どうしてこちらに…」
 三人の騎士は突然のニコルの出現に驚き、馬鹿な言葉でアリアを汚した二人は取り繕うように慌てる。
 否定的だった一人も、俯いて視線を合わせようとはしなかった。
 いずれもニコルより歳上らしい騎士ではないか。
 あんなガキじみた会話をするから若騎士だとばかり思っていたのに、とニコルは思わず鼻で笑ってしまった。
 だから階級が上がらないのだと。
「…今話していた噂とやら、詳しく聞かせてもらえるな?」
 階級を傘に立てて、ニコルは歳上の騎士達を睨みつける。
 元よりこの状況ではニコルを馬鹿にすることも出来ないだろう。
 怒りの気を放つニコルを前にしているのだから。
「…しかし」
「…いや、その」
 二人は口ごもり、視線を上へ下へと忙しそうに動かして肝心の内容ははぐらかそうとする。
 ニコルはまだまともらしい一人に視線を移し、彼は観念するように俯いたままだが口を開いた。
「…治癒魔術師は、毎夜男達と乱交を行っていると…」
「言うなよっ!」
 とたんに二人の内の一人が叫ぶが、ニコルが睨み黙らせた。
 それにしても、何て噂だ。
「…それだけか?」
 苛立ちと吐き気が込み上げる中で、なおも騎士達に訊ねる。
 馬鹿馬鹿しい噂だ。だが不愉快極まりない。
「…婚約者に捨てられた後に村で強姦されて、それから性の虜になってしまったのだと聞いています」
「はぁっ!?」
 だが現実に起きた出来事が噂として流れている事実にニコルは目を見開いた。
「お、恐らくは誰かの嫌がらせの類でしょう!!気にするほどの事ではありませんよ!!」
 その様子をどう受け取ったのか、気にするなと諭されて怒りは一気に噴出した。
「…お前ら噂を真に受けて、自分もやりたいと思ってんだろうが!?」
 二人の騎士の肩を掴んで、押し潰すように壁にぶち当てて。
「っが!」
「ぐ…」
 わずかの距離だろうが重い衝撃を身に受けて、二人がずるりと倒れ込む。
 呼吸も疎かになる様子で、この程度で騎士を語るなどと。
「た、ただの噂ですよ!!気になさらないで下さい!!」
 唯一残った一人は筋違いも甚だしい言葉を向けてくる。
「…自分の家族を野郎の頭ん中だろうがマワされて、気にすんなで済むと思ってんのか?」
「っ…」
 怒りの矛先を向けられて、騎士の顔色がさらに白く染まった。
 完全に恐怖に支配された三人を捨て置いて、ニコルは風呂場を後にする。
 消えない苛立ちを秘めたままぞんざいに身体を拭いて、用意していた新しい兵装に着替えて。
--どういう事だ?
 なぜ村での事が知られているのか。
 足早に脱衣所を出て、アリアの元に向かう。
 この兵舎から簡易医療棟として使用している兵舎は一番離れているので、苛立ちは次第に焦りに代わり始めた。
 とにかく、どうして。
 すぐに確認したいのに、謀ったかのように前方から魔術師団長リナトが現れて、ニコルは舌打ちを隠さなかった。
「--ニコル、今から時間はあるか?」
「…何か?」
 リナトは苛立つニコルに眉をひそめたが、咎めるようなことはしなかった。
「……何かあったのか?」
「いえ。御用件の方は?」
 とっとと用件を聞かせろと睨み付ければ、案の定リナトはニコルをさらに苛立たせる案件を持ち出す。
「…お前を…向かえるか否かの話なんだが」
「その件でしたら何度もお伝えしておりますが?」
「…考え直す気はないか?」
 今そんなことに頭を使う余裕は無いのだ。だというのにリナトはニコルを離そうとしない。
「お前は王家の」
「俺の家族はアリアだけだ!あんなクソ親父に邪魔されてたまるか!!」
 そのアリアが酷い噂の的になっているというのに邪魔しやがって。
「ニコル!」
 ファントムを蔑む言葉を使えば、リナトは語彙を荒らげた。
 ヨーシュカと同じではないか。リナトはニコルを気にしているわけではない。その向こうにいる男を神格化しているのだ。
 だからその息子であるニコルを手元に置こうとする。
 そんな勝手に付き合っていられるか。
「…それに私がそれを受け入れれば…コウェルズ様を推す貴方にも不都合というものでしょう?」
 リナトやヨーシュカの言葉を受け入れるなら、王位継承順位はコウェルズよりニコルが上になるのだ。
 それは拒むリナトに苛立ちの笑みをぶつければ、
「…コウェルズ様は王位を継がれると約束してくださった…。だからお前は何も気にせずとも」
 解決したと言わんばかりの口調に魂が強く怒りで燃え盛った。
 何も気にせずだと?
 どんな性根でそれを言うのだ。
 ニコルという個人を否定している分際で。
 アリアを次代を産ませる道具程度にしか見ず蔑ろにする筆頭が。
「あんたらはっ!!…俺を何にしたいんだ!?」
 国なんて知らない。
 ニコルが最も守りたいものは国でも思いを寄せるエルザでもない。
 家族こそが至上なのだ。
 そしてその中にファントムなど、ロスト・ロードなど存在しない。
 今のニコルが守るべき唯一はアリアで、アリア以外はいらない。それ以外は何も--
--そうだ。
 たとえエルザだろうが。
「…ニコル」
「親父が恋しいなら親父を探せよ!俺達を巻き込むな!」
 凄まじいまでの怒りをリナトにぶつけて、ニコルとアリアを放っておいてくれと。
 こんな、見た目ばかりきらびやかなだけの醜い王城で。
 アリアを守りもしない世界の分際で。
 ニコルにとってどうでもいい程度の分際で。
 ファントムの面影をニコルに被せてくれるな。
 言葉につまるリナトの横を、ニコルは通りすぎる。
 こんな城など。
 こんな国など。
 アリアが笑えないなら、いらない。

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