第33話


第33話

「--え、では髪は長かったんですか?」
 朝方の食堂で、今日の朝食当番になっているニコルはトリッシュを待つ間にルードヴィッヒに捕まっていた。
 軽い足音を響かせて近付いてきたルードヴィッヒはニコルに「ファントムの仲間に十代頃の少女はいなかったか」と訊ねてきて、一人だけ思い当たる少女の容姿を口にしたとたんにルードヴィッヒは驚いたように素っ頓狂な声を出したのだ。
 ニコルが見たファントムの一団の中で十代の少女は闇に黄を交ぜた色を持つ一人だけで、どうやらルードヴィッヒが知りたい少女ではないらしい。
「長いって言っても胸上くらいまでの髪だったが?二つにくくっていたな」
 知り合いなのかとも思うのは、ルードヴィッヒはパージャと親しかったからだ。
「それがどうした?」
「いえ…」
 その関係で何かしらの接触でもあったのかと様子を窺うが、ルードヴィッヒは項垂れるように力無く頭を下げて。
「お引き留めしてすみませんでした。失礼します」
「…ああ、それくらい構わないが」
 とぼとぼと来た道を戻るルードヴィッヒの背中を見送った後、開いてしまった時間にまた昨日の事を思い出してしまった。
 イニスの気味悪い発言から一夜が明けた。
 昨日すぐにアリア達の元へ戻ってイニスの不気味な発言を伝えれば、皆が半信半疑なように首を傾げた。
 それもそうだろう。聞いていたはずのニコルやレイトル、モーティシアでさえ信じられないような思い込みのオンパレードだったのだから。
 エルザとの仲については語らなかったが、騎士仲間から聞いているのか、セクトルだけは物知り顔をしていて。
 イニスは恐らく侍女の任を解かれて王城を出るだろう。
 追放ではなくオブラートに包んだ物言いは親しかったアリアを思っての言葉だったが、結局その日のアリアは気持ちを沈めてしまった。
 仲良くしてくれた友達が、まさか思い込みだけで兄と恋仲になっていたなど信じられないはずだ。アリアの塞ぎ込む気持ちは計り知れない。だからと言って許せるものではないが。

「うげぇ…ガッツリ鶏肉だ」
「朝から豪勢だな。力がつく」
 ようやくトリッシュと合流したニコルは、連れ立って朝食の乗る盆を手に取り皆の元に向かった。
 その途中でトリッシュが嫌そうにひき潰されたような声を発して、ニコルは何の気も無く朝から豪快な食事を喜ぶ。
 恐らくは力仕事の増えた騎士達への計らいだろうが。
「…俺、鶏の肉苦手なんだよな…」
「そういえばよく残してたよな。なんでだ?」
 今まで共に食卓を囲んだ中で、確かにトリッシュは鶏肉をよく残していたのだ。
 その度にセクトルとニコルで取り合っていたのであまり気にしなかったが、改めて深いため息を聞かされた。
「…昔小鳥を飼ってたんだよ。伝達鳥じゃない普通の小さい鳥。で、ちょっと可哀想な死に方させたから…それから食べられない」
「…そうか」
 聞かない方が良かったか。
 目に見えて落ち込むトリッシュは珍しいが、聞いてほしいのかさらに昔話は続けられた。
「…ピーちゃん、俺に一番なついてたんだけどさ…遊びに来た親戚の小さい子供が…ギュッと握り締めすぎて…なんか色々さ…」
「……それは…つらいな」
 想像してしまい、自分も当分鶏肉を食べられなくなりそうだった。
 朝から何てトラウマを聞かせてくれるのだ。
「…鶏肉と野菜、交換しない?」
 そんなニコルの胸中には気付かずにトリッシュは早速物々交換を申し出る。
 メインとサブなど割りに合わないだろうに。
「野菜でいいのか?足りないだろ」
「平気平気」
 もうじき治療室に到着する。その手前の曲がり角で、突然影が躍り出てニコルとトリッシュの盆を揺らした。
「--ニコル、トリッシュ!!」
「わ、何だよ…こぼすだろ」
「お腹すいた?」
 突然現れて慌てた様子を見せるのはレイトルだった。
 そしてレイトルの背後からアリアとセクトル、医師も姿を見せて、強張る表情を向ける。
 いったい何があったのか。緊張するニコルとトリッシュに、レイトルがその理由を告げた。
「ガウェがいないんだ!見なかったか!?」
 今朝までは絶対安静を告げられていたガウェがいない。
 その事実に、ニコルは息を飲むと同時に、なぜか納得してしまう自分がいることも自覚する。
「…いや」
「…あたしが昨日、朝までは安静って言ったから…」
 とにかくガウェを見てはいないので首を横に振れば、アリアが半泣きになりながら自分の言葉の甘さを嘆いた。
「朝になったから逃げたか」
「っっ…最終検査がまだなのに…」
 ため息混じりのセクトルにさらにアリアは項垂れて。
「朝の薬も飲んでいないんです。大丈夫でしょうが、万が一ということが…」
 医師はアリアほど深く思い詰めてはいない様子だが、それでもまだ安静にしていなければならない黄都領主が行方不明になった事実に冷や汗を流していた。
「…探すか」
 ニコルとトリッシュはひとまず食事の乗った盆を部屋に置いて。
 医師とアリアは魔術師達と待機になり、ガウェの捜索にはニコル達騎士が向かうことになった。
 厄介な出来事は次から次に巻き起こり、休む暇を与えてはくれない。
 リーンが拐われ、ファントムの正体が発覚し、気味の悪い女に脳内で恋仲にされていた。
 どれもこれも頭の許容範囲を超える内容ばかりで、マヒしてしまったかのように思考回路に霞がかかる。
 その中にあって、何故か今回のガウェの失踪だけは、どこかで予想がついていた。
 予想していたのはニコルだけではない。
 ガウェをよく知る者達なら、皆が。
 だからこそ、ガウェの捜索には騎士であるニコル達三人が向かったのだ。
 捜索と銘打ちながら居場所は恐らくあそこしか無いと決めて、迷うこと無くそこへ向かう。
 新緑宮。
 数日前にファントムに破壊された小さな宮殿は瓦礫が撤去されている。
 リーンが生きたまま埋められていた穴は残されていて、その深さも尋常ではなく。
 まだ早い時間帯のせいかあまり人はいないが、それでも警備の騎士と結界維持の魔術師達は数名おり、その誰もが穴の中を覗き込むような姿勢だった。
 ニコル達も辿り着いて広く深い穴を覗けば、やはりその中にいたガウェに虚しさが込み上げた。
「っ、酷い匂いだ…」
「死臭に近いだろ…これ」
 穴は異常なまでの甘臭い臭気を放って、この場にいる者達の嗅覚を潰そうとする。
 あまりに強烈な臭いに目までじくりと染みて、レイトルとセクトルは強く眉をひそめた。
 ニコルも顔半分を袖で被い、周りと穴の中を見て。
 周りの騎士や魔術師達は慣れてしまったのか平然としているが、これに慣れるにはかなりの時間と労力が必要になりそうだった。
「ガウェ!何をしてるんだ!!上がってこい!!」
「あんな場所、服にも匂いがつくぞ…」
 なるべく穴に近付かないようにしながらレイトルが叫び、セクトルはわずかに離れて衣服も懸念する。
 それでもガウェは動くそぶりを見せず、懸命に地中を掘り続けていた。
 何かに取り付かれたような様子は異常で、だがこの五年間、正常なガウェなど見たことはなかったと思い返す。
 姫が死んだとされてから五年間ずっと。
 ようやく正常に戻りつつあると思っていたのに。
「…こいつを頼む、ガウェを連れ戻す」
「え、ニコル!」
 今のままではガウェは出てこない。
 そう確信したから、ニコルは帯刀していたドレスソードを外してレイトルに投げた。
 レイトルは慌てながらも上手く掴んでくれて、それと同時に滑るように穴に飛び降りる。
 大の男が三人は縦に入るだろう深さだ。わずかに臓腑の持ち上がる感覚と落ちる衝撃を感じながらガウェに近づいていく。
 穴は地上などと比べ物にならないほどの臭気で、袖で口元と鼻を被いながら強く顔をしかめて。
「ガウェ!お前いつからここに--」
 とにかく早くガウェを引き上げようとさらに穴の深くに足を踏み込んだ瞬間、突然足から全身に強烈な悪寒が稲妻のように駆け上がってきた。
 腸が煮えくり返るような気持ちの悪さと、全身の力を奪われるような虚脱感。
 何だ?今のは。
 コウェルズに連れられて地下の幽棲の間に向かった時を思い出す。
 地下でニコルが感じたのは、恐ろしいほどの何かの存在感だったが。
「っ…まだ最終検査が終わってないだろ!戻るぞ!」
 それでも何とか頭を振って進み、手を汚しながら穴を掘り続けるガウェの首根っこを掴んで無理矢理起き上がらせた。
「いい加減にしろ!上がるぞ!」
 叫ばなければ臭気に負けてしまう。
 強く歯を食い縛りながら引っ張るが、ガウェはちらりとニコルを見上げて、今まで見せたこともないような卑屈な笑みを浮かべていた。
「…ここにリーン様がいたんだ」
 そして、完全に精神を病ませた声を出す。
 思わず黙り込むニコルに、ガウェはなおも笑いかけた。
「上を見てみろ。地上が遠い…この季節に…酷い寒さだ。湿度も酷くて最悪だろ…冬場はどうなっていたんだろうな?」
 エル・フェアリア王都の冬は毎年雪が積もる。その寒さの中で、リーンは。
「…上がるぞ」
 ガウェとの会話を終わらせるように背中を押したが、踏みとどまるガウェは土の中から掘り起こしたものを、まるで宝物を見せるかのようにニコルに晒した。
「見てみろ…リーン様の髪だ…」
 酷い臭気の土にまみれたガウェの手にあるのは、長すぎる闇色の糸だ。
 それがリーンの髪だとガウェは笑う。
「…やめろ」
 ひとつひとつ丁寧に確認するように、手のひらで慈しむように。
「これが姫に…人に対する扱いか?死刑囚への扱いの方がまだ人道的だろう?」
 そのガウェの声が、涙に揺らぐ。
 体が傾ぐが自分で体勢を維持し直して、リーンの髪を吸収するかのように握り締めて。
「…酷い匂いだろ?」
「もういい。こんなところにいたら気が狂う」
 訊ねられても、どう返せと言うのだ。
 不愉快でおぞましいこの穴から逃げるように再度ガウェの背中を押すが、
「…上がるぞ」
「気が狂う、か」
 突如、ガウェは喉の奥を鳴らすように笑い始めた。
「…そうだ。こんな気が狂うような場所にリーン様はいたんだ!!」
 突然の激昂。
 膝を付き、リーンの髪と爪ごと自分の頭を掻きむしる。
「こんな場所に囚われていた…五年も?何故気付かなかった?私はどれだけリーン様を踏みつけてきた?どれだけの泣き声を聞き逃した?リーン様の護衛でありながら…最も傍にいながら!!」
「ガウェ!」
「守り抜くと誓ったのだ!!」
 胸に痛すぎるほどの叫びを上げて、拳を地に叩き付けて。
「…なぜ気付けなかった?何故あのような姿にっ!!」
 崩れ泣くガウェなど、今まで誰が目にしたというのだろうか。
 ガウェのリーンへの思いがあまりにも強すぎて、こちらの胸も掻きむしる。
「なぜ私の傷は癒されたのだ!リーン様はあのような姿で見つかったままだというのに!!」
「ここで喚いてリーン様が戻るのか!?いいから早く上がるぞ!!」
 地にすがろうとするガウェを力ずくで起こして、その手を振り払われた。
「リーン様は救われたのだ!」
 口にするのは拐われたリーンの最後の光景だ。
 ファントムに横抱きにされたリーンは、誰の目にも救い出されたように映った。
「私ではない…他の男の手で!!」
「…ガウェ」
「あの男っ…ファントム!!」
 強く憎しむように、ガウェはニコルの肉親の名を呼ぶ。
 ガウェはそれを知らない。だがニコルは無意識に体を強張らせた。
「…奴がいなければ…私はリーン様の悲鳴を聞き逃したままだったのか?」
 しかしそれに気付かないガウェは動揺したままさらにくずおれて。
 あまりにも見ていられない光景だった。
 黄都領主であるガウェが。
 騎士として凄まじい魔力と剣武の才に恵まれたガウェが。
 たった一人の幼い姫の為に。
 ガウェをここまで苛むなど、リーン以外には存在しないのだと改めて理解させるには充分だった。

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 地上からニコルとガウェの様子を見守っていたレイトルとセクトルは、近付く気配の主に気付いてすぐに体をそちらに向けて頭を下げた。
「--相変わらず、酷い匂いだね…」
 臭気に苦笑しながらも歩みを進めて向かってくるのは、護衛の騎士を一人も付けていないコウェルズだ。
 レイトルとセクトルだけでなく穴の周辺にいた者達が全員頭を下げる中で、コウェルズは楽にしろと指示を出して。
「二人は下りたのか…よく下りたな」
 レイトルの隣に立ちながら中を覗き込んで、感心とも呆れともとれない口調で呟く。
 瓦礫撤去の騎士達でさえすぐに根を上げていたというのに、と。
「どうして二人は下に?」
「ガウェ殿が病室を抜け出して…恐らく日の出と共にここへ」
 簡単に説明をすれば、中を覗き込む為に屈めていた背筋を伸ばしながらコウェルズがため息をついた。
「…五年前に何があったのか聞きたかったし、黄都領主として別路線からリーン捜索に加わって欲しかったけど…今の彼では無理かな」
 まるで切り捨てるような台詞に、レイトルは固まる。
 確かに今のガウェでは何の役にも立たないだろう。だがあまりの言い草だった。
「ガウェは瀕死の状態から回復したばかりで、ここへもようやく来られたばかりです」
 同じ思いをセクトルも感じたのだろう。訴えかけるようにコウェルズに直訴する。
「…せめて数日、ガウェ殿が落ち着ける時間をいただけませんか?」
 つられるようにレイトルも願い出れば、コウェルズは吟味するように目を閉じて少し思考を巡らせた。
「…そうだね」
 やがて静かに目を開けば、どこか穏やかになった様子で呟いて。
「リーンが死んだとされた五年前、彼の精神は病んだ。そこから立ち直って新たな道を踏み出すのに五年かかったが…今回はリーンが生きていたんだ。すぐに立ち直ってくれるだろう」
 楽観的というよりは、そうであることを望むかの様子だった。
「伝えておいてくれないか?ガウェには気持ちの整理が付き次第、ニコルには侍女の件が落ち着いたなら、私の元に来るようにと」
 コウェルズの指示に二人は同時に頭を下げて了解を告げる。
 立ち去るコウェルズはやはり普段とは様子が違い、レイトルとセクトルはわずかに顔を見合わせてから再度コウェルズの背中に目を向けた。
「…コウェルズ様、少し変わったか?」
「こんな事があったんだ…仕方ないよ」
 誰もが疲れきっていて、それは王子も例外ではないのだ、と。
 そして穴から魔力の発動を感じ取って振り返った二人は、ニコルの魔具の鷹が羽ばたくのを目の当たりにした。

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