第32話


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 別室に移動したニコル達は、テーブルを中心にニコルとモーティシアがソファーに座り、レイトルはニコルの隣に立って様子を窺っていた。
 向かいに座る侍女長ビアンカとイニスはどちらも神妙な様子だが、連日の激務故かビアンカは目の下に隈を作っている。年齢のわりに肌は綺麗なビアンカだったが、たった数日でどっと歳を重ねた様子だ。
 この大変な時にイニスのおかしな行動の対応など、窶れもするだろうほどに。
「この度はイニスが大変な迷惑をかけてしまい、まことに申し訳ございません」
 まずはビアンカが深く頭を下げるが、隣のイニスは不満そうに口を閉ざしただけで。
 その様子にビアンカは鋭い眼差しを向けるが、無理矢理頭を押さえつけて謝罪させるような事はしなかった。
「…それで、なぜ姫にあのような事を?」
 形ばかりの謝罪などニコルも欲しくはないので話を進めれば、
「…それが」
 ビアンカは言い辛そうにわずかに視線を泳がせた。
 その様子にモーティシアとレイトルは首をかしげる。
 侍女長ビアンカの有能ぶりはここにいる男達は理解している。だというのに、そのビアンカが黙り込むなど。
 ニコルは何度目かのイニスのすがるような眼差しを受けて、無理矢理だろうが視界に入れないようにビアンカだけに注視する。その様子に観念したのか、口を開いたのはイニスだった。
「…だってニコル様、嫌そうにしていたではありませんか」
「イニス!」
 助けてくれないニコルを責めるように自分は悪くないと告げる口調だった。さすがにビアンカは咎めるがイニスは止まらなかった。
「私…見ました!ニコル様がエルザ様に抱きつかれて迷惑そうにされてるのを!」
 見たとはどこでの事を言っているのか、ニコルにはわからなかった。
 エルザを抱き締めた事は今まで何度もあり、室外で抱き締めた事もある。
 初めてエルザを抱き締めたのはアリアを王城に呼ぶ云々でニコルが苛ついた時で、そこからエルザの気持ちを知って、抱き締めたこともその逆も。
 そのどれかを見られていたのだろう。
 ニコルはわずかに視線を落として、浅はかだった行為に内心で舌打ちをした。
 しかしすでに後の祭りで、イニスも一度口を開けば止まらないらしく。
「私とニコル様は愛し合っているんです。だけどエルザ様にあんなことをされたら拒絶なんて出来ませんよ。だってお姫様ですもの!だから恋人の私が言わなければと思って…私、怖かったけどちゃんと伝えたんです!エルザ様はとても綺麗な方だからニコル様の心が揺れてしまったらとも思いましたが、そんな心配もありませんでしたし」
 否、口を開けば止まらないという問題ではなかった。
 ひと呼吸置くように言葉を区切らせたイニスに、ビアンカを含めた全員が固まる。
 ニコルに至っては完全に引いているが、イニスはそこに気付く様子はない。
 取り繕うという訳でなく、まるで真実であるかのように。
「待って、イニス嬢…ニコルと君は恋人関係にはないでしょ?」
 レイトルがイニスの言葉の続きを遮るように訊ねるが、話の途中で関係の無いレイトルに自分を否定するような横槍を入れられて、イニスは不愉快を隠すことなく眉をひそめた。
 そして再びニコルに向き直り、またもすがるような眼差しを向ける。
「周りには隠していただけです。ね、ニコル様。アリアさんはニコル様の妹だからお知らせしましたが、いつも人目を忍んで会っていましたので、誰にも気付かれなかったはずです」
 あまりにリアルな口調に、ニコルは本気で体を引いた。
 なんだこの女は?
 ニコルには身に覚えの無いでっち上げを、誰が聞いても信じてしまいそうな様子で。
 こんな様子でエルザにも話したならば、騎士達の誰も彼もが疑問を持たずにイニスの言葉を信じたことだろう。
「…侍女長、…これはいったい…」
 ようやく捻り出せた言葉はビアンカに向けたものだった。
 何の喜劇なのだ。
 こんな気持ちの悪い演劇など早く終わらせてくれとビアンカに視線を向けるが、
「…あの、本当にニコル様とイニスは関係を持っていないのですか?」
 ここに訪れる前にビアンカはイニスから話をいくつか聞いたのだろう。半信半疑というにはイニスの肩を持ちすぎているらしい。
 その様子にカッと頭に血が上った。
「当たり前だ!!どうなってる!?」
「落ち着いてニコル」
 何もかも蹴り飛ばす勢いで立ち上がろうとするニコルの肩をレイトルは背中から押さえつけてくれる。
 モーティシアはニコルの乱暴な動きに備えてわずかに離れたが、姿勢は静観のままだった。
「ニコル様?どうされましたの?」
「…っ」
 目を合わせないように決めていたのに、心から心配するようなイニスの瞳を見てしまい、ぞくりと背筋を冷たい何かが走る。
 はたしてイニスはこんな娘だったか?
 ニコルが苛つくほど内気な娘というイメージしかなくて、性格なんてアリアから聞かされた程度にしか知らないというのに。
 静まり返る室内で、イニスはまた口を開いて説明を再会する。
「…確かにエルザ様に直談判なんて、愚かな行動だったと思っています。でも言わなくちゃわからなかったはずですわ!エルザ様だって私が伝えたらわかってくれましたもの」
 ここに来てようやく真実が話された。しかしそれはエルザを涙に濡らせた事実だ。
 こんな思い込みでエルザを傷付けたのか。
 再び苛立ちに頭を蹂躙されてしまいそうになって、気付いたレイトルにまた肩を押し止められた。
「イニス嬢、ニコルは君がエルザ様に直談判したことだけを言っているのではないんだよ」
 ニコルに代わるように、レイトルは穏やかに会話を広げようとして。
「え?でも…」
「…待ってくださいレイトル…イニス嬢、あなたはいつからニコルと?」
 わずかに困惑の色を見せるイニスに対し、モーティシアが口を開いた。
 だが何て事を聞くのだ。
「やめろモーティシア!」
 まるでモーティシアまでニコルではなくイニスを信じるような言葉に怒りより焦りが先立って大声で止めるが、モーティシアはちらりとニコルに視線を向けただけですぐにイニスに視線を戻してしまった。
 だがわずかに向けられた視線はニコルを信じていないというものではなく“任せなさい”というもので、ニコルもレイトルも無意識に黙る。
「…答えてください」
 イニスに目を向けて、事務的に訊ねて。
「慰霊祭と晩餐会が終わった後です…私が侍女の皆さんに酷い嫌がらせをされていたのをニコル様が助けて下さって、その時にニコル様から…」
 その時の事ならニコルも覚えがある。
 第六姫コレーがファントムの狙いだと魔術師団が姫を天空塔に隔離した時だ。
 複数の侍女に囲まれたイニスを助けはした。だが会話の内容なんてニコルは覚えていない。
「何かあったら何でも言えって…」
 どうやら助けた者としてありきたりな言葉を口にしたらしい。
「…それだけ?」
 モーティシアのわずかに呆れるような口調に気付いたのか、イニスは強く首を横に振った。
「私の名前を呼んでくださって…愛しているからと」
「言ってない!!」
 ニコルの否定は間髪入れずに口をついた。
 会話の内容は覚えていないが、そんなことを言うはずがない。
 信じてくれとニコルが目を向けるのはモーティシアとレイトルの二人で、しかし肯定したのは他ならぬイニスの口からだった。
 ただし、
「ええ。口にはされませんでした。ニコル様は硬派な方ですから、言いにくいですよね。でも伝わってきたんです。ニコル様の愛が、私の胸に…」
 ときめきを覚えるように頬を桃色に染めて胸に両手を乗せるイニスの言葉に、全員が悪寒を背筋に走らせた。
 何を言っているのだ、この女は。
「…イニス?」
 イニスの様子にビアンカは信じられないものを見るかのような眼差しになり、
「…何だよ…こいつ」
 ニコルの言葉は誰もが胸に抱いた思いだろう。
 伝わっただの、愛だの、何なのだ。
「…思い過ごしじゃないのかな?」
「そんなことはありません!!現にそれからニコル様は毎晩私の夢に現れて、私を…とても可愛がってくださいますもの…」
 レイトルの問いかけにイニスは目を剥いて否定して、さらにわけのわからない言葉を口走る。
 唖然としている全員の前で、イニスはどのようにニコルに愛されたかを延々と話し始めた。
 甘い睦言、激しい一夜、情熱的なニコルが独占欲を剥き出しにしてイニスを離さない。しかしそれらは全てイニスの夢の中の話しだ。
「俺がいつお前に好きだなんて言ったんだよ!!気色悪ぃ!!」
 とにかくイニスの妄想を聞きたくなくて、ニコルは全てを遮断するように叫んだ。
 イニスの妄想の中のニコルはどこまでも情熱的にイニスを求め続けており、胸焼けと吐き気を覚える。
「…ニコル様?」
 ニコルの怒りにイニスは今にも泣き出しそうになるが、
「何を怒ってますの?…二人だけの秘密を喋ってしまったからですか?でもそれはエルザ様に話さないと理解してもらえなかったからですわ…」
 イニスは妄想の世界から戻ろうとはしない。
 気分が悪くなり、苛立ちに任せて強く項垂れ、片手で押さえるように頭を抱えた。
「俺はお前と恋仲じゃないし、お前を好きになった事もない!!アリアが友達だって言うから庇っただけだ!!」
 そうだ。アリアの友達だからあの時も庇っただけで、他意なんてあるはずがない。
 そもそもアリアの友達でさえなければ未だに存在することも知らないほど目に入らない侍女だったのだから。
「…ニコル様?でも毎晩私を求めて」
「ふざけんなよ!誰が好き好んでお前みたいな気味悪い女を欲しがるんだよ!!俺はエ--」
 口走りそうになった名前を、寸前で止める。
 エルザへの思いは、まだエルザにもきちんと告げてはいないのだから。
 それに知られるわけにはいかないだろう。
「っ…」
 わずかばかりの冷静な自分を取り戻して、ニコルは重い息を吐く。
「ニコル?」
 何も知らないモーティシアはその様子を不審に感じたようにニコルに目を向けて、
「…イニス嬢、ニコルはエルザ様と恋仲にあるんだよ」
 爆弾投下はレイトルがしてくれた。
「レイトル!」
 思わず叫ぶニコルとは別に、モーティシアとビアンカは目を見開く。
 互いに思い合ってはいる。だがまだ恋仲ではないというのに。
 混乱の最中にある室内で、レイトルだけは冷静にイニスを見据えていた。
「…え、そんなはず…」
「王族付きの騎士達の間で二人の仲は有名でね。私も仕事柄ニコルとよく行動を共にしているが、君の入る隙なんてほんの少しも無いよ。断言できる」
 それはまるで長い年月ニコルとエルザが愛し合っているかのような言葉だった。
「嘘!だってニコル様は私を愛しているんです!!」
 テーブルをバンッと力一杯叩き押してイニスは立ち上がるが、レイトルは冷静に対処していく。
「どこから来る根拠?全部君の思い込みだよね。ニコルの心とか、毎晩夢でとか」
「だからそれはニコル様の思いが私に伝わってきているんです!!」
「それ全部君の願望だから」
 きっぱりと言い切るが、イニスは苛立つ様子を向けてくるだけで自分の非には気付いていない。
 こんな人間がいるのか。誰もがそう思うだろう。思い込みだけでここまで動けるなどと。
「…ニコル、君はどうなんだい?」
「そうです!ニコル様の口からはっきり言ってくだされば、皆さん信じてくれます!!」
 やや間を開けてから、レイトルは視線だけをニコルに向ける。
 真実はどこにあるのか。自分の口から言えと。
 そして自分とニコルの恋愛を信じて疑わないイニスもニコルに向き直った。
 モーティシアとビアンカの視線も感じる。
 こんな中で、ニコルはエルザへの思いを口にするのか?
 まだエルザを宙に吊るすような状態にしたままなのに。
 それとも昨日エルザの誤解を解いた時点で、もう二人は特別な関係になってしまっているのか。
 わからない。
 だが、唯一揺るがない思いは。
「…俺が愛しているのは、エルザ様だけだ」
 この思いだけは。
 エルザと出会ってからの七年間。
 ニコルにとって愛を向けた娘はただ一人だ。
 ひとときの性欲を満たす為に抱いた女は数知れない。だがそれらに心奪われる事など無かった。
 ニコルの中にはただエルザだけがいたのだ。
 静かに自分の思いを語るニコルに、イニスは有り得ないものを見るかのように固まる。
 わずかに青ざめて、それでも自分の理想のニコルを信じるかのように。
「…ね。だからイニス嬢、君の思いは君の勝手な妄想なんだ」
 ニコルの言葉を受けて、レイトルも諭すように険の削がれた口調になる。
 諦めろと、現実を見ろと。
「うそっ!!」
 それでもイニスは自分の中のニコルを信じて強く叫び、
「…今のニコルの言葉が真実なのです。わかったら、もうその思い込みを周りに話すのは止めておきなさい。あなたの将来に関わってきますよ」
 モーティシアは最初から変わりなく事務的な口調を変えなかった。だがその分リアルで。
 イニスはまだ若いのだ。
 これ以上の思い込みはイニス自身の身にならないと諭せば、イニスは誰の声も聞きたくないとでも言うように深く俯いてしまった。
「…イニスの行為は侍女として許されるものではありませんから、王城を出ることになるでしょう。今後のイニスについて逐一報告させて頂きます。もしまたイニスが馬鹿な妄想を口にするようでしたら、私が責任を持って対応いたします。ひとまずはそれでよろしいでしょうか?」
「…顔を会わせなくていいなら何だっていい」
 ビアンカは冷静にイニスが今後侍女として王城にはいられない事を語り、ニコルは凄まじい疲れを一気に感じて項垂れた。
 イニスが近くをうろつかないならもう何だって構わない。
 ようやくひと区切りがついて全員の肩から力が抜けたところで、
「--あの淫乱女!!」
 叫んだのはイニスだった。
 突然の下劣な言葉にモーティシアとビアンカは固まり、
「エルザ様の魔力だわ…それ以外に無いもの…エルザ様、私とニコル様の仲に気付いて、それでニコル様に--」
 イニスの言葉は最後までは語られなかった。
 妄想に満たされたイニスでも気付けるほど全てを圧迫する殺意が室内を爆発的に満たしたからだ。
 ニコルとレイトルが魔具を発動していた。
 ニコルは馴染んだ片刃の長剣を、レイトルは自身が生み出せる唯一の特殊な長柄を。
 立ち上がり刃先をイニスに突き付けて。
 二人が正気を失うほど怒りに満ちている様子は誰の目にも明らかだった。
「…エルザ様を淫乱だと?」
「お前ごときがっ…」
 怒りが勝りすぎて、二人の声が震える。
 王族付きの騎士にとって最大の禁句は守るべき姫への悪態だ。
 今はその任から外れたとしてもニコルとレイトルは姫を守り続けてきたのだ。その二人の前で、事もあろうに姫を淫乱などと称するとは。
 完全に恐怖で引きつるイニスをビアンカは庇うように引き寄せる。
「お、落ち着きなさい二人共!侍女長、イニス嬢を連れて行ってください!二度と馬鹿な発言などさせないように!」
 モーティシアは防御結界を生み出して二人の魔具を押さえながら退出を促した。
「イニス、立ちなさい!」
 ビアンカも顔色を白くしながらモーティシアの指示に頷き、強くイニスを引っ張る。
「---…」
「イニス!」
 イニスは騎士二人に刃先と殺意を向けられて完全に固まっており、わずかに身動ぐことも出来ない様子だった。
 ビアンカは引きずるようにイニスを立ち上がらせて、扉を開けて先にイニスを放り出した。
 そして申し訳程度に頭を下げて、ビアンカも部屋を後にする。
 足早に去る二人の気配を感じながら、ニコルとレイトルは手にした魔具を強く床に打ち付けた。
「あの女…」
「……クソッ」
 衝撃で床が欠ける。
 イニスがいなくなったのでようやく魔具を消して、ニコルはテーブルを、レイトルはソファーを蹴りつけた。
 正気を取り戻しつつはあるが、まだ怒りが勝るのだ。
 二人が元姫付きであることを改めて思い出すかのようにモーティシアは息をひそめて。
 ニコルはともかく普段は温厚なレイトルでさえここまで怒りに我を忘れるなどモーティシアは思いもしなかっただろう。
「…私達も戻りましょう。彼女の思い込みの件は皆に話しておいた方がいいでしょうし」
 二人が落ち着いた頃を見計らってモーティシアは口を開き、後味の悪い一件を仲間達に知らせる為に三人も部屋を後にした。

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 吐き気をもよおすほどの不愉快な時間は怒りを残したまま終わり、陰鬱な足取りで皆の元に戻る道はまるで全身に重石を取り付けられたかのようだった。
 本当に会話にならない会話を、ニコル達は産まれて初めて味わった。
 妄想など誰もが考えるものだ。だが現実との区別は出来て当然のもので、それが出来ない人間がいるなど。
「…気味の悪い子だったね」
 言葉に棘は抜けてはいないが、ニコルより先に平常心を取り戻したレイトルは呟く。
 それは単純にレイトルの守る姫がクレアだったことが理由で、もしイニスが下劣な言葉を向けたのがクレアだったなら、まだレイトルは怒りに身を任せていた事だろう。今のニコルのように。
 色恋など関係無い。ニコルは仲間達と共にエルザを守り続けてきたのだ。その愛しい姫を、勝手な妄想で傷付けて。
 沸々と怒りが再度限界を越えようとするのを何とか押さえ込みながら、ニコルはただアリア達のいる場所に戻ることに頭を使う。
「思い込みだけでああも…まあ、お二人に刃物を突き付けられましたし、大人しくなるでしょう」
 イニスの発言にモーティシアは呆れ返っているが、最後に怖い思いをしたのだからとそれ以上責める様子は見せなかった。
「…やりすぎだったかな」
「仕方ないでしょう。エルザ様を淫乱女だなどと。王城追放も当然です」
 ビアンカはイニスの侍女の職を取り上げると口にした。
 勿論侍女長といえどもビアンカの一存だけで決められるものでないが、そうなることは明白だろう。
 侍女として際下級の娘が妄想だけでエルザに申し立てて、ありもしない内容でニコルを振り回したのだから。
 そこに同情の余地など存在しない。
 誰ともなくため息をついて、暫くの沈黙が生まれて。
 おそるおそる口を開いたのはモーティシアだった。
 ニコルの方に目をやり、少し言い辛そうにしながら。
「それとその…本当なのですか?…エルザ様と恋仲だというのは…」
 それを口にしたのはレイトルだが、ニコルは否定はしなかった。
 エルザの愛を受けて、自身もエルザを愛して。
 手を出してはいけないはずの姫と深い愛情の口付けを交わしたのだ。これで逃げるわけにはいかない。
 だがまだ。
 まだエルザの愛を真正面から受け入れるわけにはいかないのだ。
 覚悟はできているが、それでも。せめてエルザが自分に課した夢を掴むまでは。
 否定も肯定もせずに黙るニコルに代わるように、レイトルはニコルも知らない事実を教えてくれる。
 恋仲だと告げたその事実は。
「昨晩王族付き達が静かに喜ぶ妙な酒盛りをしていたから聞いてみたら、ようやく二人が、だってさ」
「はぁ!?嘘だろ!?」
「恐らく王族付きには全員通達事項として流れてるよ」
 さらりと告げられる事実に頭の中が真っ白になる。
 昨日は確かにニコルとエルザの仲をコウェルズが言い触らして回った。だがそれはニコルの誤解を解く為であったはずだ。
 しかしそこまで想像して、もはや諦めた。
 あの状況でニコルとエルザがまだ恋仲でないと思う者はいないだろう。
 それにしても平民と王族なのだ。誰か拒絶してくれてもいいはずなのに。
 ニコルの血筋にエル・フェアリア王家の血脈があるなど、騎士ではフレイムローズとクルーガー団長しか知らないのだから。
「姫と騎士の恋ですか…吟遊詩人が放っておかないでしょうね」
 モーティシアも満更でもなさそうに呟いて、ニコルは驚いた。
 以前アリアを次代作りの物のように語ったのだから、姫と平民など一番拒絶しそうなのに、と。
「やめてくれ…まだそんな関係じゃ」
「まだ?ということは…」
「俺で遊ぶな!!」
 俯きながら先を進むように逃れれば、レイトルは意地の悪い笑みを浮かべて隣に張り付いた。
「まあまあ…今後の展開を期待していますよ」
「モーティシアまで…」
 さらにモーティシアまで微笑みながらレイトルとは逆側に張り付いて。
 両隣を挟まれて、これでは逃げられない。
 モーティシアはあまり良い顔をしないと思っていたので尚更だ。だが彼はさらりと祝福する理由を教えてくれた。
「魔術師団としても歓迎できる出来事ですよ。エルザ様が訓練を続けて治癒魔術師になられたなら、エルザ様にもアリアと同じように治癒魔術師の次代を産んでいただくことになります。その相手が純血の治癒魔術師であるアリアの兄上ならば、誰も文句は言いませんよ」
 それはなんてモーティシアらしい思考なのだろうか。
「…純血なんて」
 思わず言葉に詰まったニコルははぐらかすように話をかえようとするが、モーティシアはさらに笑みを浮かべて。
「治癒魔術の力を生まれ持っていることこそが、純血の治癒魔術師である証拠です。あなたのお母上も治癒魔術を扱えたのでしょう。ならば王城に治癒魔術師が舞い戻った以上、次代を産むのは必須です」
 なんて喜ばしい。
 そう無邪気なまでに微笑むモーティシアは、魔術兵団長ヨーシュカに似ている気がした。
 アリアだけでなくエルザですら。
 モーティシアがニコルの出自を知ったら、ヨーシュカよりも厄介な存在になりそうだ。
「その考え方だと、まるでアリアやニコル、エルザ様が人形みたいだよ」
 レイトルも少し苛立ったようにモーティシアの言葉を咎めた。
 いくら騎士と魔術師という別機関に所属しているとしても、考え方があまりにも非人道的ではないか、と。
「…申し訳ありません…そういう訳では…」
 そこでようやくモーティシアも浮かれすぎていた自分に気付いた様子で、先ほどまでの笑みを一変させて頭を下げた。
「…わかってるよ。治癒魔術師の獲得は今も大切なエル・フェアリアの重要事項だからね」
「…かつて十数名もの治癒魔術師を抱えていたエル・フェアリアの悲願です」
 レイトルも折れるように軟化して、治癒魔術師の重要性を理解して。
 まるでニコルだけが蚊帳の外のような気分だった。
 物事の中心にいながら、未だに納得し難いのは、アリアもエルザも特別で大切な人だからだ。

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「…すごい、もう完全に治ってるなんて…」
 アリアの驚きの声は、すぐ側から聞こえてきた。
 およそ男女にしては近すぎる距離だが、怪我人であるガウェの体の傷や体調を確認するのだから仕方無いのか。
「失った血液も充分戻っていますね。体の不調も無く、古傷すら癒えている…これも治癒魔術の力ですか」
「いえ…治癒魔術でもここまで完全には…ガウェさんの治癒力が高いとしか言えないです」
 アリアの背後からは世話をしてくれた医師も感心するようにガウェを見下ろしてくる。
 古傷すら癒したアリアの力。
 五年前にガウェが受けた顔面右側の痛ましい傷も、初めから存在しないかのように消え去った。今はただ、不気味な闇が口を開くように眼球部分が開けているだけだ。
「これならもう大丈夫そうだ」
 ポツリと呟く医師の声を耳聡く聞き付けて立ち上がろうとするが、先にアリアに気付かれてしまった。
「あ、でも一応明日の朝までは安静ですよ!予定ではまだ治癒を続けて、二日後からだったんですからね!」
 アリアの命令は、なぜか拒否できなくて。
 不服に感じながら俯けば、カーテンで仕切られただけの扉からセクトルが軽く拍手を贈った。
「アリア、ガウェの手綱さばきが上手くなったな」
 目覚めてすぐに暴走しようとして動きを封じられてから、アリアには強く出られない。その様子を何度も見られていたのだろう。
「回復まで見守るのもあたしの仕事ですから」
「まったく、治癒魔術師は医師団にほしい人材ですよ。仕事だって魔術師団より医師団との関わりの方が多いでしょうに」
「あ、言えてますよね」
 医師のため息混じりの切実な要望には、アクセルが慌ててアリアと医師との間に割り込んで。
「駄目!です!!アリアはうちの子ですから!!」
「他国でも昔からの伝統があるらしいですよ。医師団は魔力を使わず按摩や薬にて怪我人や病人を癒し、治癒魔術師は魔術を用いて怪我人や病人を治す。魔術を使うから、治癒魔術師は魔術師団の団員だ、と」
 トリッシュも他国を引き合いに出してアリアは渡さないと告げて。
 医師はその様子に苦笑いを浮かべるが、当人だというのにアリアはあまり気にしていない様子だった。
「治癒魔術師と医師の違いって正直時間くらいですよね。風邪治すのだって免疫高めるくらいだから、人によっては医師団の出す薬の方が早く効く場合もあるし」
「ですね。風邪などは食事と薬で治しますからね」
「一番良いのは、やっぱり口から栄養を取ることですよ!」
 アリアは魔術師団にいるべきか、それとも医師団に委ねられるべきか。そんな会話だったはずなのにいとも簡単に話題は逸れていた。そんなアリアにつられている周りも大概だが。
「ふうん…ガウェはあまり食事に手をつけなかったけどな」
 そして治癒魔術などより口から栄養をと語るアリア達の言葉には、セクトルはあまり納得できていないような言葉を返して。
 自分でも自覚している。
 ガウェは目覚めてからこの数日、ほとんど寝てばかりだったのだから。
 食事が喉を通らないという訳ではない。だが必要性を感じなくて。
 体が欲していないのに無理矢理口にするのは嫌だった。
「あ、あたしも思いましたよ。だから少し驚いてるんです」
「薬は飲んでいたみたいですがね」
 アリアと医師も首をかしげながら、ガウェの回復の早さを驚く。
 そんなことをガウェに聞かれてもわかるはずがない。
 起きた時は焦燥に駆られて、眠れば必ずリーンの夢を見た。
 ああでもないこうでもないと騒がしい外野から逃れるように俯いて、リーンの存在を胸に抱いて。

 骨と皮ばかりになっていた、死んだはずの姫。
 彼女の為に、前に進む決断をしたというのに。

 彼女の為に有りたいと願っていた。
 彼女の一番近くに有りたいと願っていた。
 彼女の唯一で有りたいと願っていた。

---彼女が欲しかった

 ガウェはただ、リーンが。


第32話 終
 
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