第32話
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ニコルが昼前から与えられた仕事は、医療区の倉庫に保管されている薬草類の持ち出しだった。
メモに書かれた内容の薬草を、棚ごとにネームプレートを確認しながら探していく。
少し頭を捻れば薬草の保管方法にも順序があり、それさえわかれば見つけ出すのは容易で。
ただしその順序も薬草に親しんでいなければ気付けなかったはずだ。昔から薬草に馴染んでいたからこそニコルは気付くことが出来て、過去をあまり思い返したくはないが経験が役立ったことは喜ぶべきなのだろう。
『おやじ!!』
ふと、幼い頃の自分の大声が耳に響いた。
ニコルが親父と呼ぶのはこの世界でただ一人だけだ。
親父などという呼び方は彼には似つかわしくないのだろうが、幼少期から馴染んだ呼び方は今更変わりそうにはない。それに「父さん」と呼ぶ人も、この世界でただ一人しかいないのだから。
『…かあさんがまたたおれた』
幼いニコルは立ち去ろうとする彼の服を掴んで懸命に止めようとして。
身体の弱かった母親。
助けてほしくて彼にすがったのに。
『あれには夫がいるだろう。任せておけばいい』
ニコルが懸命に掴む腕をいとも簡単に振り払って、彼はまた背中を向けて。
『しんぱいじゃねーのか!!』
腹が立って、村中に響き渡る声で叫んだ。
『それでもおとこか!!』
立ち去る彼は見向きもしなくて。
村中の冷めたような、同情するような視線に晒されながら、ニコルは瞳に浮かぶ涙を決して流すものかと堪えたのだ。
ファントムの、彼の正体が発覚して、同時にニコルの出自も知れて。
ニコルにはまだ信じられないのに、周りはいとも簡単に受け入れて次へ進もうとする。
あの夜以来、彼との思い出がよく脳裏に流れた。
思い出といっても年に数えるほどしか会えなかったし、会話らしい会話もなかった。
それでも会いに来るのは、母に会いたかったのではないかと思った時もあったが。
「……」
ため息をひとつついて、メモに書き記された薬草の瓶を取って。
思い描くのはエルザだ。
エルザへの思いを胸に灯せば、彼が村に足を運んだ理由であろうひとつはいとも簡単に削除された。
今ならわかる。
彼は母を愛してはいなかった。
その素振りを見せなかったという訳ではなくて。
彼の瞳に母は映ってはいなかったのだ。
…ならなぜ村に来ていた?
気まぐれに村に訪れては、すぐに帰って。
…俺に会う為だけに?
だがそう思えるほど愛された記憶もない。
時おり頭を撫でてくれるから、その気まぐれには未だに腹が立つ。
興味がないなら捨て置けばいいのに。
…息子として扱われたことなんて
歯を食い縛りそうになって、ふと首飾りを思い出した。
彼がニコルとアリアにくれた、紅い共鳴石。
首にかけた首飾りを取り出して、潰れてしまいそうなほど強く握り締めて。
子供の頃、よく悪夢を見た。
誰かに首を絞められる夢だ。
だから首回りに何かを巻くのは苦手だったが、アリアにほだされて首飾りは付けるようにした。
最初は違和感しかなかったが、馴染めば無い方が気持ち悪くて。
「--ニコル様」
突然背後から聞こえてきた老いた声に、ニコルは目を見開いて振り向いた。
棚を背に立っていたのは、会いたくない人物の一人だ。
「決心なさいましたか?」
まるでその道しか有り得ないとでもいうように、魔術兵団長ヨーシュカは薄ら笑いを浮かべる。
あの日以来、彼は口を開けばニコルに王位を進める。
マインドコントロールのようだとコウェルズは言っていたが、確かにそうだ。
「…私は現状を崩すつもりはありません」
「真実をお受け止め下さい。あなたはこの国を背負うに相応しい血を持っているのです」
否定しても、すぐに次の言葉でニコルを絡めとる。
何を言ってもこの老いた男には伝わらないだろう。
だが、苛立ちが口を開かせる。
「私に言わず、父を探せばいいでしょう?私には関係などない。そもそも本当に息子なのかも疑問だ」
無理矢理背を向けて、薬草探しを再開して。
もう放っておいてくれ。
そう願うのに、ヨーシュカは黙らない。
「あの空間では真実しか語れない。フレイムローズは真実を知った上で語った。…おそらくロスト・ロード様と接触した際に知らされたのだろう。…そして貴方も、御自身の真の名を口にした」
真実なんて、何の役に立つというのだ。
「…なら血の繋がった赤の他人だ」
「その繋がった血が重要なのです。コウェルズ様はとても素晴らしく優秀な方だ。コウェルズ様が王位に着けばこの国はデルグ前王の治世よりも遥かに豊かになる。しかし結局はデルグ前王の息子だ」
すでにこの世にいない王への蔑み様に、さすがにニコルは眉をひそめた。
愚王と嘲笑われ続けた王。実際問題ニコルの育った村はデルグ王の政治の手は届いていなかった。
それでも、懸命に政務に従事するデルグ王をニコルも目にした事がある。
「ファントムとデルグ様は御兄弟なのでしょう?さらに元を辿れば同じ親だ」
血が重要だというなら、根本を辿ればいいだろう。
ファントムもデルグも、その種は同じ人間だろうに。
「ロスト・ロード様とデルグ前王の御母上は違う方。後妻の妃は愚かな女だった…それの腹から産まれたデルグ前王と、誰からも認められ愛された、優秀な魔術師であった前妃から産まれたロード様…どちらが優れているかは考えずともわかる」
ニコルも聞かされた話だ。
母体という、ロスト・ロードとデルグの決定的な違い。いくら種が同じであろうが、この違いだけは誰にも変えられない。
「知っていますか?はじめ、ロスト・ロード様の名は初代国王『ロード』様と同じ名前だったのです。しかし後妻の妃は息子デルグが見た目も中身も平凡である為、前妻の子であるロード様に嫉妬し、名前を無理矢理変更させた。そのような愚かの血を受け継ぐコウェルズ様を、私は認められない。ロスト・ロード様が生きておられるなら…」
ファントムを神格化する為の言葉の数々に、胸焼けを起こす。
その後に続くだろう話を塞き止めるように、ニコルは薬草の棚に強く拳を打ち付けた。
「奴はファントムだ!リーン様を拐ったんだぞ!!」
ガタガタと棚ごと瓶が強く揺れて、どこかの小瓶がカタンと倒れる。
大罪人であり、英雄などではない。
いくら大戦をエル・フェアリアの圧勝の下に終結させた英雄だったとしても、今は違う。
「はい。生きていたリーン姫を救い出された」
「はっ…まるで聖人だな」
姫を拐った。だというのに救い出したなどと。
だが誰に言わせても、あの光景を目の当たりにした者は口を揃えるだろう。
ファントムがリーンを救い出したと。
それが歯痒かった。
「真実を知りたくはありませんか?」
冷静になろうと倒れた小瓶を直すニコルの後ろを、わずかの距離であろうがヨーシュカはついてくる。
まるで融通の利かない護衛のように張り付いて、以前コウェルズにも囁いたろう呪文じみた言葉を。
真実を知りたくはないか。
「リーン様がなぜ生きたまま埋められたか。私達魔術兵団はそれを知っている。そして国王は全てを知る義務が課せられる」
エル・フェアリア王の義務。
ならデルグ王は、知りながらリーン姫を生き埋めにしたというのか。
愛されるべき可哀想な姫を。我が子を。
生き埋めにしたことが、それが義務だとでも言うつもりなのか。
「御自身の御父上がなぜ暗殺された事になったのか、なぜ御姿が若いままなのか、何を考え行動なさっているのか…知りたくはありませんか?」
マインドコントロールのように、抑揚の無い言葉でニコルの精神を緩ませ掴もうと。
「私ならわかります。あなたが王座に着けば、真実は全てあなたの物です」
「…やめてください。私は…そんなものに興味はありません」
屈するな。
屈してしまったらそこで全てが終わる。
諦めて口を閉じようとする癖を無理矢理蹴り飛ばして、ニコルは決心するようにゆっくりと静かに告げた。
そしてこれ以上の会話は御免だと薬草の瓶を纏めた箱を手にして、階級の下である騎士らしく、魔術兵団長ヨーシュカに頭を下げて。
倉庫にヨーシュカを置いて、ニコルは逃げるように外に出る。
カチャカチャと瓶同士が割れてしまいそうな勢いでぶつかり合うのも構わずに、足早に自分がいるべき場所へと向かった。
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「--だからさ、お礼ってだけだよ。深い意味とか無いよ?」
アリア達が拠点を置く一室では、手の甲から肘にかけて深い傷を受けた騎士が傷に似合わない軽い口調でアリアに話しかけていた。
「お気持ちだけで充分ですよ」
椅子に座り騎士の手をとるアリアは困ったように微笑みながらやんわりと拒絶するが、護衛のレイトルやセクトルもいる中で堂々とアリアを誘う騎士にはアリアの気持ちを汲むことなどできるはずもない。
「君が居てくれるから私達は傷を早く治すことが出来るんだ。お礼くらい受け取ってほしいな?」
まるで断るアリアの方が悪いかのような言い草に、さすがにアリアも引き結ぶように唇を閉ざす。
助け船はまずレイトルが先に出した。
「お礼なのに二人きりで王都廻り?王都廻りなら御自身の婚約者となさってくださいね」
アリアに大丈夫だよと伝えるように肩に手を置きながら爽やかに、だが険のある口調で。
アリアもアリアでどこか安堵するようにレイトルを見上げる。
「…私はアリア嬢と話しているので、割って入ってほしくないですね」
その親しげな様子を不愉快に感じたのか、騎士はわずかに声のトーンを落とした。
邪魔をするなと言い切る騎士を、
「お前が喋れば喋るだけアリアの集中力が欠けて治癒に時間がかかるんだよ。まだ治癒を待ってる奴らは大勢いるんだ。邪魔すんな、黙ってろ」
次にセクトルが普段通りの口調で責めて。
歯に衣着せぬ物言いはセクトルの悪い癖でもあるが、この場では大いに役立った。
レイトルの穏やかな口調の後なのでセクトルの言葉は尚更きつく聞こえてしまい、騎士がわずかに怯むように息を飲む。
「…御身分を考えて話すことを忠告しておきますよ、オズ家の次男殿」
それでも騎士が引かなかったのは貴族階級がレイトルやセクトルより上であるという驕りが強いことが理由だが、その言葉こそレイトル達が待っていたものでもあった。
「騎士団に貴族の御身分もクソも無いんですよ。ついでですからお伝えしますが、身分を鼻にかけて腕を磨かないから今だに騎士階級が上がらないことを御理解しておいた方がよろしいですよ。もう良い歳なのですから、そろそろ魔力皆無の私より階級が下という現実の意味を考えないと」
「っっ…」
顔を屈辱で赤くしながら今度こそ騎士が言葉を無くした。
家柄がどうであれここは王城で、レイトル達は騎士団に所属する騎士なのだ。
ここでは実力こそがものを言う。
レイトルは血の滲む思いで訓練に明け暮れ、魔力をカバーするだけの剣武の力を手に入れた。
そして王族付きにまで任命されたのだ。
治癒魔術師であるアリアの護衛は立場上は降格だったが、それはレイトルの望むところであったので痛くも痒くもない。
それでも王城騎士達の一部は降格だと笑い、彼もその一人だったのだろう。
だが降格とはいえ、彼はレイトルの足元にも及ばない。その事実を突き付けられて、これ以上の醜態を晒すことはさすがにプライドが許さなかったのだろう。黙り込む騎士をレイトルは清々しく、セクトルは鼻で笑った。
騎士の相手がレイトルとセクトルに変わった時点でアリアは早速と言わんばかりに治癒を始めており、
「--はい、終わりです!腕は痛くないですか?曲げた時に違和感とか」
騎士が黙って数分後には、先ほどの困惑も忘れたような満面の笑みを浮かべていた。
「…いや」
「では大丈夫でしょう!一応薬をもらっておいてくださいね。では次の人お願いします」
腕を動かしつつアリアの治癒に不備がない事を告げた瞬間に、アリアは次を求めた。すでに癒した騎士に興味を持っていないのは、次の騎士を癒す為であり他意はない。
「はいはーい」
扉の近くにいたトリッシュが戸を開いて騎士に退出を促す。
何か言いたげにしていたが口を閉じたまま騎士は立ち去り、
「たまにいるよな…アリアの集中を妨害する人」
「家の身分が半端に高い騎士は特にですね。我々のような下位には完全無視ですし、やりにくい」
ガウェの休む別室で作業をしていたアクセルとモーティシアもちらりと顔を出してため息をついた。
護衛部隊の魔術師であるモーティシア達三人は下位貴族の出自である為によく侮られるのだ。
特に力自慢の騎士はそれだけで男として弱そうな魔術師を馬鹿にする節があり、魔術師からすれば迷惑極まりなかった。
舌戦ならば騎士は頭の回転の早い魔術師にはまず敵わないのだが。
「ああいう人はレイトルとセクトルがいてくれたら楽だね」
「その度に喧嘩を売るのもどうかとは思いますが…」
騎士団員のことは騎士団員に任せたと笑うアクセルとは違い、モーティシアはわずかに呆れる。
「でも言い返さなくなるだろう?」
笑いながらレイトルは先ほどの騎士の押し黙る様子を告げて、隣でセクトルも頷いて。
「アリアも治癒に集中してる時はあまりこっちの話は耳に入れていないしな。な、アリア」
「……え?」
一度集中してしまえば、アリアはあまり妨害を気にしない。
先ほどのレイトル達と騎士とのやり取りも自分に注意が向かなくなってすぐに治癒を始めていたアリアの耳には入っておらず、わざとらしく確認してくるセクトルの言葉に首をかしげていた。
「こっちの話だよ。まだいける?」
「はい」
気にしないでと笑いかけられて、つられるように言われた意味を理解していなさそうな笑顔を返して。
次の騎士はまだかとアリアが扉に目を向けたところで、部屋に入ってきたのは大きな箱を手にしたニコルだった。
おかえりと軽く呼び掛けるトリッシュに「おう」と返して、そのままガウェのいる別室にノンストップで突入して。
「--薬草これでいけますか…」
探している人物がいないことに気付いて、ニコルはひょこりとアリア達に向き直った。
「医師殿は?」
医師に頼まれた仕事だったので居場所を訊ねれば、すぐ隣のモーティシアが残念そうに笑いかける。
「先ほど新緑宮の瓦礫撤去で負傷した者を見に行かれましたよ」
「そうか…」
仕方無いとニコルは薬草の入った箱を机に置いてひと息ついた。
「--ニコル!来たぞ」
だがゆっくりさせてくれる暇など無く、トリッシュのわずかに固い呼びかけに眉根を寄せながら顔を上げる。
そしてニコルは皆が見守る中で、扉の向こうに立つ侍女長ビアンカと、すがるような眼差しを向けるイニスを目に映した。
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ニコルとモーティシアとレイトルがビアンカとイニスと共に部屋を後にして、残されたアリアは目の前に負傷した騎士がいるというのに上の空になってしまっていた。
ニコルを気にするのは妹として当然で、同時に親しかったイニスの事も気になるのも当然で。
「集中出来てないよ。アリアは仕事優先」
「…だ、大丈夫ですか?」
アクセルにたしなめられて、騎士には心配されて。
先ほどの騎士と違い、今回の騎士はどこか気の弱そうな若騎士で、上の空になっているアリアに不安な表情を見せる。
「すいません…大丈夫です」
大丈夫と口にするが、どこが大丈夫なのか訊ねたくなるほど集中力は欠けていた。
「心配なのはわかるけど…。ニコルの事はモーティシアとレイトルに任せれば間違いないから」
トリッシュは柄にもなくアリアを励ますが、隣でセクトルが騎士の露出した傷口を食い入るように見つめた。
「…集中しなくて神経が別に繋がったりとかもあるのか?」
「ヒィ!!」
脅すような言葉に、何の罪もない騎士が背筋を凍らせて震えた。
「…すみませんでした。ちゃんとできます」
セクトルの言葉はアリアをたしなめるものだったが、アリアの不注意の餌食になるのは目前の騎士だ。
涙目になる騎士は恐怖に怯える子犬のようにトリッシュとアクセルに救いを求める目を向けて、完全にアリアを信用できない状況に陥っている。
アリアはそんな騎士を目の当たりにして自分をいましめるように丁寧に集中するが、やはり普段ほどの集中力は発揮されなかった。
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