第30話
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「幽棲の間を知っているかい?」
ニコルが朝からコウェルズに連れてこられたのは、王城地下に通じる扉の前だった。
そこを降りるのかと思ったが、コウェルズは勿体ぶるように立ち話を始める。
「以前、魔術師団がコレー様を隔離しようとしていた地下の広間ですよね?話だけは聞いています」
昨夜の衝撃が未だに頭から離れずまともにコウェルズの顔を見られないが、それでもニコルは自分の知る限りの幽棲の間の情報を告げる。
王城地下に存在する幽棲の間に、ニコルが近付いた事はない。エルザの護衛であった頃は、エルザが地下に対して何か恐れる素振りを見せていた事は知っているが。
「誰も降りない場所だからね。私も昔に一度だけ、肝試しに降りたくらいかな」
ニコルが幽棲の間をほとんど知らない事はさほど気にしていないのか、コウェルズはようやく扉の鍵を開ける。
「…鍵穴が…」
扉に鍵穴など見つからなかったはずなのに、コウェルズが手にした鍵を扉の模様に差し込んだ瞬間にカチャンと歯車が外れるような音が響き、ニコルは少しだけ驚きで目を見開いた。
「面白いだろ?魔力で描かれた模様で鍵穴を隠しているんだ。基本的には開かずの間だからね。たまに換気で騎士か魔術師達に開かせるくらいかな」
説明をくれながらコウェルズが扉を開ける。その向こう側は螺旋状に下る階段で、コウェルズの無言の合図と共に二人で冷たい中を降り始めて。
コウェルズの表情がわずかに固くなった事に気付いたのは、降り始めて少ししてからだった。
薄暗い闇の螺旋階段。
わずかに照らしているのは、魔術師団が王城中に張り巡らせている防御結界の輝きだ。
壁中に刻まれた紋様を伝うように、魔術師達の魔力が淡く輝き流れている。まるで地下の最奥にニコルとコウェルズを案内しているかのような。
「昔…まだ君がいない頃かな?私とミモザ、エルザ、クレア、ガウェ、フレイムローズで集まって肝試しをしたんだ。幽棲の間に行ってはいけないと言われていたんだけど、子供って入っちゃ駄目な部屋に入りたがるだろう?」
昔を懐かしむように、コウェルズが過去を語ってくれる。
ニコルのいないとなると、七年以上前か。
「辿り着いた幽棲の間でね、不思議な現象に見舞われたんだ。」
「不思議な、ですか?」
「ああ」
その不思議な現象の内容を、コウェルズは話してはくれなかった。
降り続けた先に現れた扉に、コウェルズはニコルに開けるよう促す。
わけもわからないまま巨大な扉を開け、
「--っ!?」
あまりの悪寒に体が凍り付いた。
「…以前よりキツいな…」
ニコルが感じた悪寒を同じく身に受けたのか、コウェルズの声も強張っている。
「…何なんですか?この気配は」
思わず訊ねた問いかけに、コウェルズは答えてはくれなかった。
中に入りたくない。進みたくないと体が小刻みに震えようとする。
扉の向こう側は何も見えない空間だった。この最奥に幽棲の間があるのだろうが。
「…何を感じる?」
「…わかりません…ですが、何かが…」
とてつもなく、この上なく恐ろしい何かが両手を広げて待っているような感覚。
「…わかった、もう扉を閉めよう」
コウェルズの指示に、ニコルはすぐに扉を閉める。
するとようやく全身の震えが止まり、ニコルは扉から離れて壁に背を預け、緊張しておかしくなっている心臓を押さえた。
「…あの奥に何が?」
「…何も無いよ」
次はコウェルズも答えてくれたが、その返答にニコルは有り得ないと語るように視線を向ける。
何も無いはずがない。
「そんなはずが…」
「本当に何も無いんだ。この扉の向こうが幽棲の間…昔の私達は幽棲の間の内部を見た。だが何も存在しなかった…現に何もなかった…見えなかっただろ?」
言葉を無くしたのは、やはり有り得ないからだ。
気配だけで死に絶えらせるほどの何かが。
「何も無かった。…でも何かある」
ニコルの疑問を肯定するように、コウェルズは疲れた微笑みを浮かべる。
「…戻ろう。ここにいたくない」
ニコルが感じていた恐怖を同量感じていたのだろう。コウェルズは踵を返して階段を登り始めた。
その後に続きながら、ニコルは一瞬だけ扉に目をやって。
「---…」
扉の向こうに、女の気配を感じた。
一瞬だ。
それ以上は、ニコルの本能が知ることを拒絶した。
「幽棲の間に入った時にね、私達は完全に二つの意見に分かれたんだ」
「…と言いますと?」
「何かあると怯える者と、何も無いじゃないかと平気な者にね」
過去を語ってくれるコウェルズの声は、当時を思い出したくないとでも言いそうなほど淡々としている。
「私とミモザとエルザとクレアは怯えた側。ガウェとフレイムローズは、そんな私達を見て困惑顔さ」
ということは、ガウェとフレイムローズが何も感じなかった者達か。
「君は見事に怯えた側だったね」
「…はい」
この歳で怯えるなど認めたくはなかったが、確かに恐怖しかなかったのでニコルは静かに頷いた。
「…何か気付かない?」
そしてその答えに、コウェルズはさらに問いかけて。
何か。
何が?
見上げるニコルを、立ち止まるコウェルズが階段の上から見下ろしてくる。
「…怯えたのは、王族だけだ」
全て納得するかのように、コウェルズがニコルを見つめる。
同時にニコルは固まった。
固まることしか出来なかった。
コウェルズ、ミモザ、エルザ、クレアが怯え、ガウェとフレイムローズは王族の子供達が怯えるわけがわからなかった。
「…お待ちください…そんな」
「真実だよ。他の騎士達も換気がてら興味本意で降りた者がいるが、誰一人何も感じなかったらしい」
でも、君は感じたんだよ。
コウェルズの言葉が耳から離れなくなる。
それはコウェルズが、ニコルがエル・フェアリア王家の血を引くと完全に認識した瞬間だった。
ニコルがまだ困惑の沼から抜け出せないでいるというのに。
「…行こう」
再び螺旋階段を登り、ようやく地上に戻って。
「まだ気持ちの整理がついていないだろうけど、話しておきたいことがあるんだ」
「…はい」
そのまま王城の上階に上がっていく。
連れられた場所は、誰もいない露台だった。
フレイムローズはここで王城中を監視し続けたが、それも不要となれば訪れる人間はほとんどいない。
見上げた先にいる天空塔は大破しているが、天空塔自身が生命体である為に、少しずつ回復し始めてはいる。
コウェルズはだれるように手摺に身を預けながら、ニコルに体を向けて。
「…昨日の時点でわかると思うけど、王位継承について三団長が分裂した」
ニコルの意思を置き去りにして、話しは進んでいると。
「私を推すクルーガーとリナト、君を推すヨーシュカにね」
「…今気にすることでは」
「悪いね、現在この国に王はいないんだ」
拒絶するように俯くが、すぐに見上げるほどの真実を告げられる。
「…え?」
王はいない?
いったいどういう事なのだ。
受け入れがたい言葉に、困惑が強くなる。
王の姿はこの四年見ていない。だが死んでいたわけではないはずだ。
「魔術兵団はリーンの件に絡んでいる。だけど魔術兵団は王にしか従わないからね」
気持ち悪いほど冷静なコウェルズの言葉に、その真実を汲み取る。
「…まさか」
「ああ。私が討った」
呼吸をするように簡単に。
真実が、現実が。
視界が眩んでニコルを押さえつけようとする。
それと同時に違和感を覚えた。
「その時は君が従兄弟だなんて知らなかったからね。私が王になる気満々だったよ」
「…コウェルズ様?」
コウェルズに違和感を。
気さくな態度は普段と変わらない。だがコウェルズの言葉はまるで、王位に興味が無いとでも言うようだった。
それを肯定するように、コウェルズはなおも言葉を続ける。
「私が王になれば、魔術兵団がリーンに何をしたのかがわかる。『真実を知りたければ王になれ』とヨーシュカは言った。だから王位を求めたんだけど」
自分が何を言っているのかわかっているのか。
コウェルズはニコルが聞きたくもないその先を、
「伯父上が生きているなら、現在の王位継承第一位は伯父上…君の御父上だ」
いとも簡単に話して聞かせた。
「奴はファントムです!!リーン様を拐った大罪人だ!!」
絶叫するように否定して、ニコルは強くコウェルズを睨み付けた。
伯父上?違うだろうが。あいつはファントムだ。
極刑に当たる大罪を犯した犯罪者だろうが。
「それでも伯父上が一番王座に近いんだよ。そしてその次は君」
コウェルズの言葉はどこまでも他人事のようで、先ほどとは別の寒気に襲われる。
ニコルが王族だと、コウェルズの従兄だと信じて疑っていないのだ。
たかが地下に降りて怯えただけで。
「私は三番目になるね」
「…なぜ、そんな簡単な話のように…他人事のように言えるのですか」
「性分かな?すまないね。私は別に王座そのものはどうでもいいんだよ。国が潤うなら、それでいい」
信じられないコウェルズの一面を見たような気がした。
優秀で有能で、英雄ロスト・ロードの再来とまで謳われたコウェルズの無頓着な一面に。
英雄、悲劇の王子。44年前に暗殺されたはずの、ロスト・ロード。
ファントムであり、ニコルの…
コウェルズには同じ一族としての血が流れているのだ。
「私はリーンがなぜ死んだことにされたのか、なぜ五年も囚われていたのか…なぜファントム…伯父上が生きていてリーンを拐ったのかを知りたい。知るために王位が必要だっただけだよ。それがなければまだ王子のままいたさ」
「…まだ、ファントムが王族と決まったわけでは…」
なおも否定するニコルに、コウェルズは彼に似た妖艶な微笑みを浮かべる。
「君は幽棲の間の“何か”に気付いた。それは君が王族である何よりの証拠だよ。君が王族なら、君のお父上もそうなるよね?」
幼子をなだめすかすように、優しい口調。
だがコウェルズが口にするのは、この国の未来に関わる重いものだ。
「私が王になろうが君が王になろうが、私にとってはどちらでもいい。君が王になりヨーシュカが君に真実を伝えれば、その情報は私の手にも入るからね。その後は私はサポートとして国を良くしていくだけだ」
なんてことを口にするのだ。
次期エル・フェアリア王として育てられていながら、民にその地位を望まれていながら。
たった一夜明けただけの今だというのに。
「やめてください。…私はただの平民騎士です」
「そうは言ってもねぇ…たぶんヨーシュカは諦めないよ。私を殺そうとはしないだろうけど、何としても君を王座に座らせようとするだろう」
ヨーシュカ。魔術兵団長である老兵は、異常なまでにニコルの存在を喜び讃えた。
ファントムに心酔するように、その息子であるニコルを崇拝するように。
「なぜですか…私など」
いくらニコルが本当にコウェルズより王位継承順位が上だったとしても、今まで貧民として存在したのだ。
コウェルズとニコル、どちらが王に相応しいかなど、考えるまでもないことのはずだ。
「ヨーシュカは“血”を見るんだ。エル・フェアリアに永く続いた伝統を。エル・フェアリアは創始以来変わることなく王の長男が王座に座り続けていた。父上は唯一の例外だよ。ヨーシュカはそれが不満だった。父上は王に向いていなかったから余計にね」
ヨーシュカがニコルを王座に座らせたがる理由を、コウェルズは当たり前であるかのように教えてくれる。
それが本来の姿だと、たしかに昨日ヨーシュカは口にしていた。
異国語のようにニコルに理解できない理由で。
「どのみち今のままではいられないよ。君が王族とわかった以上、私も君を放ってはおけない」
まるで絡めとるように、コウェルズはニコルを見据える。
「…アリアは」
その視線から逃れるように口にした大切な妹の名前。
ニコルが王族だとして、アリアはどうなるのだ。
「彼女は異父兄妹だからね…王家には入れられないが、親族として近しくいられるよ」
「っ…」
親族として近しく?
違う。アリアは家族だ。
親族なんて離れた間柄じゃなく、大切な妹。
何を犠牲にしてでも守り抜くべき唯一の存在なのだ。
「君はどうしたい?まだ考える時間が必要かな?」
「…私が考えたい内容は親父のことだけです…本当に親父が44年前に暗殺されたはずの王子なら、今はクルーガー団長よりも歳上なはずです」
逃れるように、自分の胸中を。
ニコルより少し歳上程度の男が本当に父なのか。もし全て事実であるとしたら、なぜ見た目が変わらないのか。
「何かしらの呪いなんだろうね…」
「…呪い?」
耳慣れない単語に、思わず聞き返した。
「パージャの言葉を覚えているかい?」
パージャの言葉。
ニコルをインフィニートリベルタと呼んだ、パージャのおかしな言葉の群れが押し寄せる。
コウェルズがどれのことを言っているのか、今のニコルに思い出せとは酷な話だ。
「言っていただろう。『ある男の“絶対に死なない”という強い意志が生み出した呪い』と」
それは、体を刻まれても生き返ったパージャが、リーンが生きていると告げた時の言葉だった。
「…親父の?」
ファントムの呪い?
呪いを自分自身にかけたとして、なぜパージャやリーンにまで?
「全て知ろうと思ったら、44年前の暗殺事件から見直さなければならなくなったわけだ」
全てを。
なぜリーンがあのような目にあったのか。
なぜニコルが、平民として育ったのか。
「知りたくないかい?」
問われても、言葉など出てくるはずがない。
押し黙るニコルに、コウェルズは急かすように続ける。
「…言葉が違うね。君は知らなければならないんだ。悪いけど、あまりアリアの側にはいられないことを覚悟しておいてね」
ニコルにも責務があると、コウェルズは拒絶させない強い口調で告げる。
責務の為にアリアから離れろ、と。
「ああ、あと父上が亡くなったことはまだ伏せておいてくれ。知っているのは我々の他にミモザとサリア、そして三団長にフレイムローズだけだ。混乱がおさまってから発表するから」
「…わかりました」
そう答えるしかなかった。
目まぐるしすぎて、何ひとつ理解できていない。
信じられないものを立て続けに並べ立てられて、自分の意思がついていかない。
「あともうひとつ」
「…はい」
早く解放されたくて従順に見上げれば、コウェルズの表情がわずかに軟化した。
「エルザの事なんだが…君が王族の地位を望めば、堂々と婚約出来るが…」
ニコルが淡い思いを抱くエルザ。
互いに思い合いながらもニコルがエルザを拒絶し続けたのは、エルザが姫でニコルが平民だったからだ。
もしニコルが望むなら、ニコルが自身に流れる王家の血を認めるなら、エルザが手に入ると。
「…申し訳ございません…今はまだ、そこまで頭が回りません」
だが拒絶するように、ニコルは返答を先伸ばしにした。
愛しい姫だ。
昨夜はニコルを支えてくれたというのにその優しさを蔑ろにしてしまい、それでもニコルの側にいようとしてくれた優しいエルザ。
それでも、今のこの状況では。
「…まあ、そうだろうね。でも無下にはしないであげてくれ。エルザはまるで自分の事のように君の苦しみを抱いているんだ」
「…そう、ですか」
コウェルズは今までも、ニコルとエルザに懇意になるよう告げてきた。元より平民と王族が繋がろうが何も思ってはいないのかも知れない。
しかしコウェルズがそうだからと、ニコルまで同じであるはずがない。
「…ゆっくり考えてくれればいい。君はエルザを愛しているんだろう?」
問われて、絡繰りのように静かに頷く。
「…今はそれだけ教えてくれたら充分さ。君達が共になってくれたら、こちらも安泰だからね」
「…安泰?」
訊ね返したニコルを無視するように、コウェルズは手摺から離れて。
聞こえなかったのだろうかと考えて、それ以上の問いかけは口にしなかった。
口にしても無駄だと諦めたからだ。
「それじゃあ今から、ヨーシュカとリナトの所に行こうか」
「…私もですか?」
「勿論。あとクルーガーとフレイムローズはもうじき解放するよ。クルーガーには五年前の件を聞いてから、リーンの捜索隊に加わってもらう」
共に王城内に戻りながら、今後の展開を聞いて。
自分も中心に添えられた事実を受け入れるには、まだ心は混乱しすぎていた。
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