第30話
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エレッテの手首を力任せに掴んでいたと気付いたのは、船内に戻ってしばらく歩いた先だった。
慌てて力を緩めて、でも離しはしない。
広い空中庭園内には有り余るほどの部屋があるが、エレッテとミュズには向かい合う部屋を与えられていた。
部屋が近いから、ミュズの泣き声がエレッテの部屋まで届くのだ。だからエレッテがいつも寝られなくて--だから俺が…
そんな使命感を胸に抱きながら、ウインドはエレッテの部屋から離れた自室に毎晩彼女を連れ込んでいた。
エレッテとは恋人同士だが、パージャが言うように強引に手を出してはいない。
本当は手を出したいが、そんなことをしたらエレッテが苦しむとわかっているから。
それでも、ウインドはまだまだ性に溺れていたい年頃で。
ちらりと背後のエレッテに目を向ける。
肌を露出しない衣服からはエレッテの身体のラインを推し測ることは難しいのに、細い手足が、白い首が、甘そうな香りを漂わせる。
もう一人の仲間であるガイアに比べればエレッテの体など子供も同然だが、ウインドにはエレッテこそが。
「ウインド、私やっぱり…」
ウインドの妙な視線に気付いたのか、エレッテの足取りが重くなる。それに気付いて、その先を言わせないようにまた強く腕を引いた。
「ミュズの呻き声で寝れないだろ」
「…でも」
「俺なら何とも思ってねえよ!!」
静まり返る船内にウインドのがなる声は遠くまで響く。
掴んだ手から、びくりとエレッテが怯えた事には気付いた。そして、掠れた声で謝罪を口にされる。それでも手を離さないのは、エレッテの為なのだ。
歩みは止めない。無言になってしまったエレッテをひたすら引っ張って、ようやくたどり着いた自室の扉を開き、エレッテを中に引き入れた。
ベッドは一人用だが毎夜二人で使う。
このままこの部屋にずっといればいいのに、エレッテは毎日最初は自室に入るのだ。
だから毎晩、ミュズが泣くから寝れなくなるエレッテを連れ出して。
「…座れよ」
ようやく手を離しても、扉の前で申し訳なさそうに立ち尽くしてエレッテは動かない。
緊張するような場を和ませたくて、ウインドは先にベッドに座り、隣にエレッテを促した。
このベッドで行為に及んだ事など無いというのに、必ず毎回エレッテは身を強張らせる。
おどおどと近付くエレッテが子供一人分ほどの距離を保って隣に座る。その手の上に、ウインドは自分の手を重ねた。
このまま身を委ねてくれたらいいのに、エレッテは俯いたままこちらを見てはくれなくて。
恋人同士になってから、どれほど時間が経っただろうか。
世間ではもう結婚だって考えていい年だ。
特殊な状況下にいるが、結婚できないことはない。前例がいるのだから。
だがエレッテが怖がる限り、肌を重ねる事も許されない。そしてなぜ肌を重ねる事を怖がっているのか。
一番理解しているのはウインドだ。
最後にエレッテと愛し合えたのは、もう随分と前だ。
「…ごめんなさい…私が怖がるから…」
「関係ねえよ…パージャの言ったことなんか気にすんな。あいつの頭の中がそればっかりなだけだ」
エレッテが気にやむ事は無いのに、ウインドの思いを理解してか、申し訳なさそうにまた謝罪する。
パージャが変なことを言うからだ。
「自分が手を出せないから俺達からかって遊んでんだよ」
ミュズが好きなくせに、現状で満足して恋人関係になろうとしないパージャ。
格好付けたって、どうせ頭の中ではミュズとやりまくってるくせに。
自分が動けないからと、ウインドとエレッテの間に入ろうとするな。
こちらにだってペースがあるのだ。
エレッテを一番思っているのはウインドのはずだ。だというのにエレッテがパージャを頼ろうとする節があるのは、きっとパージャがウインドより少し歳上だからというだけで。
頼られていないわけではない。エレッテは優しいから、ウインドに負担をかけたくないだけなのだ。
そう自分に言い聞かせてから、ウインドはエレッテの手を握ったままベッドに上半身を横たえた。
「…そういや、お姫様、ヤバイらしいぜ」
話題を作るように、ガイアから聞かされたリーン姫の容態を知らせてやる。
「え…」
「助けるのが数日早かったから…目覚めるかどうかわからないってさ。目覚めても正気でいられるかどうかって…」
土中に埋められたリーンを救い出すのは数日先のはずだったのに、パージャがへまをやらかして正体が発覚したのだ。
パージャなんか放っておけばいいのに、ファントムは動くことを選んだ。
ファントムがパージャの腕を買っていることは知っている。ウインドより魔力の扱いが上手くて、ファントムの仲間に加わるのもパージャが先だったから。
だから、エレッテもパージャを頼るのだろうか?
でも、力技ならウインドの方が。
「私たちも、もし助けが来なかったらリーン姫みたいにされてたんだよね」
ようやく視線を向けてくれたエレッテの言葉には、何も返さなかった。
ウインドとエレッテがファントムの仲間に加わったのが、パージャに救われた時だったからだ。
気に入らない。
パージャの何もかもが。
エレッテに頼られるから。
歳上だから。
余裕ぶるから。
「…寝ようぜ」
上体を起こして靴を脱ぎ捨て、眠る体制にエレッテを促す。
エレッテも靴を脱いで自分とウインドの靴を並べてから、いつも通りベッドの壁際に向かった。
布団をかけてやりながら二人で横になれば、エレッテは壁を見ようとするから。
「…こっち向けよ」
肩を抱いて、エレッテを振り向かせて。
ミュズが悪夢で煩いせいでエレッテが眠れなくなるから、毎晩こうして。
ほら、ウインドの方がパージャなどよりよっぽどエレッテを思ってるじゃないか。
その事実に溜飲を下がらせながら、エレッテが「おやすみ」と瞳を閉じるのを眺め続けた。
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あの日--
顔面右側に灼熱を浴びたような凄まじい痛みを感じながら、ガウェは必死に前方にいるリーンへと手を伸ばしていた。
立ち上がれないのは、クルーガーに容赦なく叩きのめされたから。
ようやく20代に突入した当時のガウェでは、大戦を勝ち残ったクルーガーに勝てるはずがなかった。
訳もわからぬままに打ち倒され、それでもリーンを救おうとクルーガーの足にすがるガウェを切り裂いて。
血にまみれたガウェを、リーンはどう思っただろうか。
『ガウェ!』
「…リーン…様…」
遠退く意識を繋ぎ止められたのは、リーンの声があったからだ。
『ガウェ!ガウェぇ!!』
「逃げ…て…」
ガウェに駆け寄ろうとする幼いリーンを捕まえるクルーガーの表情は見えない。
『いやぁ!離して!!ガウェ!!ガウェ!!』
背後から捕まれて、ただただ泣きじゃくって。
「--リーン様!」
ガウェの目の前で、リーンの胸から剣が生えた。
クルーガーが背後から刺し貫いたのだ。
両刃の剣が、確実にとどめを刺す為に手首の許すだけ回される。
こぷり、とリーンの愛らしい唇から真っ赤な血が溢れ、クルーガーが剣を抜くと同時に床に倒れ伏す。
まるで羽が空から降りてくるように軽やかに、ガウェの目の前に。
「----」
生気を無くした闇色の瞳が、鏡のように血濡れのガウェを映し出す。
「いやああああぁぁぁぁあぁぁぁぁあっ!!!」
甲高い悲鳴は末姫オデットのもので。
「…死んだな?」
オデットを押さえつけていた王が、クルーガーに確認する。
クルーガーは無言だった。あまりの光景にオデットが気絶し、ガウェの世界もそこで暗転した。
「----っ!!」
目覚めると同時に上体を起こし、目前にいたはずのリーンへと腕を伸ばした。
だがリーンはいない。新緑宮でもない。
「ガウェ殿、大丈夫ですか?…酷い汗ですよ…」
自分が今いる場所が簡易医療棟内でアリア達が拠点としている医務室の隣室だと気付いたのは、心配そうに近付く魔術師、アクセルに気付いたからだ。
ガウェの身体の異変にはアクセルが気付いてくれた。
「--起きたか?」
「タオルと毛布を持ってきて!全身が冷たい!医師も呼んで!!」
隣室からトリッシュが顔を見せると同時に、アクセルは気弱な様子をかなぐり捨ててトリッシュに叫ぶ。
ガウェの体が強く震え始めたからだ。
寒気に襲われて、ガクガクと全身が勝手に震えた。
「わ、わかった!」
慌ててトリッシュが離れ、アクセルは手元にあるかぎりの毛布や布団をガウェに頭から被せてくる。
医師が訪れたのはすぐだった。
水薬を飲まされ、体を暖めるマッサージを施され、何人もの熟練の医師達に介抱されて、ガウェの身体の震えはものの数分で止まる。
だがまだ寒い。
その理由は、どうしようもないものだ。
「--これでひとまずは大丈夫でしょう」
落ち着いたガウェに微笑むのは、医師団長だ。
三団長とは別の機関で王城に従事する医師団長に、アクセルとトリッシュが安堵の息をつき。
「ありがとうございます」
「いえ。黄都領主に何かあっては国も傾きますからね」
ガウェの代わりとでも言うように礼をするアクセルに朗らかに笑いかけている。
その医師団長がガウェに向き直ってから、紙に包まれた粉末薬を数個、テーブルの上に置いた。
「ガウェ殿、もしまた寒気が襲うようでしたら、この薬を水で薄めて飲んでください」
アクセルやトリッシュに言わないのは、万が一側に誰もいなかった場合を懸念しての事だろう。
だがそんなもので、ガウェの寒気の根本が払拭されることはない。
ガウェが震えた理由はただひとつだ。
唯一絶対の姫が側にいない。それだけなのだ。
「…リーン様は…」
かすれる声で訊ねたのは、現状がどうなっているのか全く把握出来ていないから。
「…我々は存じません。居場所を突き止めたければ今は安静にし、体を休めて下さい。無理をすれば、その分あなたはリーン様からは遠退きます…聡いあなたに理解できない筈がありませんよね?」
まるで挑発するような医師団長の口調に周りの者達が息をひそめるが、それは逆にガウェをわずかばかりだが冷静にさせた。
小さく頷くガウェに、どこからともなく安心するような空気が流れる。
「…意識ははっきりされています。後は動き出さないよう見張っていて下さい」
「あ…はい」
「ありがとうございます」
簡単な指示にアクセルとトリッシュは再度頭を下げ、まだ他に仕事の残る医師達は部屋を出ていく。代わるように戻ってきたのは、アリアとモーティシアだった。
おはようございます、とアリアは元気よく、モーティシアは落ち着いてガウェ達に顔を見せてくれる。
アクセルとトリッシュは挨拶を返すが、ガウェは無言を通した。
「ニコルは無事か?昨晩は酷い顔色だったんだろ?」
ガウェの無言を気にする者などおらず、トリッシュは姿の見えないニコルを心配する。
昨夜遅くにニコルが酷い顔色で戻ってきたことは知っていた。ここにいないということは、休むのだろうか。
だがアリアとモーティシアは困ったように眉根を寄せた。
「…兄さん、コウェルズ様について行っちゃったんです」
「まだ顔色は悪かったので休ませたかったのですが、我々が止めるより先に」
まるで逃げるように、と。
ニコルならば休むよりも働く事を選ぶだろうが、それ以前の問題だったと二人は心配そうに顔を見合わせて。
「兄さん、リーン様に関わるような重要な何かを見たのかな…?」
「アリア、その名前は今は…」
アリアがポツリとリーンの名前を呟き、アクセルとトリッシュが恐ろしい事態を想定して青ざめた。
ガウェがまた暴れると思ったのだろう。だがまだ何とか落ち着いていられる自分がいる。
「…いい。自分でもわかっている。…今は体を休ませることに集中する…」
ガウェの言葉に、アクセルとトリッシュがあからさまな安堵の様子を見せた。
「ガウェさん、寝てなくて平気ですか」
「…ああ」
今日最初の治癒を行う為に、アリアがガウェの隣に腰を下ろす。
背中にかざされたアリアの手のひらが淡い白の霧に満たされ、ガウェの中に癒しの温もりが広がるのを感じた。
だがやはり芯にまでその温もりは届かない。
『--ガウェ』
リーンが今まさにガウェに救いを求めて泣いている。そんな気がして、静かに強く拳を握り締めていた。
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