第107話


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気絶するように眠ったガブリエルの包帯まみれの寝顔を見てから、アクセルは重いため息と共に暗い医務室から出た。

医師団が常駐しているので後は任せて、少しの休憩に入る。

首元に絡む魔具のクラゲが労わるように冷えてくれて、その冷たい心地良さに扉に背中を預けながら目を閉じてしまった。

このまま眠ってしまいたいほど疲れている。

身体を動かしたわけではないが、脳の疲労が凄まじいのだ。

あの恐ろしい時間から数日、アクセルは皆とまともに合流出来ていない。

たまにモーティシアが状況報告に来てくれる程度で、後は一度だけ、トリッシュが別れの挨拶に訪れたきりだ。

まさか彼が抜けるなんて思っていなかった。

その後リナト団長が訪れた時に理由を訊ねたのだが、婚約者の為だと。

どうして引き留めなかったのかと責めてしまった時、リナトも疲れ切った様子で引き留めはしたことを教えてくれた。

トリッシュがどれほど婚約者を愛しているか知っているから、それ以上は諦めて。

ニコルは今も天空塔に篭っていて、レイトルもアリアの傍をほとんど離れられない状況らしい。

アリアの精神面も危ういからと。

元々少ない人数でやりくりしていた護衛部隊は、ほとんど機能を停止しているだろう。

コウェルズ王子が戻った事で少しは道が開けたと聞いたが、現状が危険なのに今新たに治癒魔術師の育成を始めて良いのかアクセルは不安だった。

「どうした、こんな所で」

目を閉じていたアクセルの耳に、落ち着いた重みのある声が響いてくる。

「…休憩を」

魔術兵団長ヨーシュカが訪れてくれて、アクセルはホッと身体の緊張がほどけるのを感じた。

最初こそ怖い人だと思っていたヨーシュカは、今ではアクセルにとってリナト以上に頼れる存在になっていた。

「コウェルズ様から手土産を貰っている。分けてやるからこっちへ来なさい」

アクセルの疲れ切った顔を見たからか、労うように呼ばれて隣の休憩室に入って。

座っていろという命令に素直に応じてソファーに向かえば、ヨーシュカは手際よく何かの準備を始め出した。

「…あの、何が手伝うことは…」

「いらん。座って休みなさい」

団長クラスが動いているのに自分が休んでいる状況に落ち着かなくなりそうだったが、疲れた脳はすぐにソファーの柔らかさを享受してしまった。

あまり長く待たずにヨーシュカはアクセルの前のテーブルに盆ごと飲み物と何かを置く。

不思議な香りのお茶と、

「……宝石?」

小指半分ほどの金とブルーサファイアが小皿に置かれている。

「アークエズメル国の宝石菓子だ。聞いたことはあるだろう」

「え!これが!?」

どこからどう見ても宝石にしか見えないのに、生まれて初めて見る外国の特産に眠気が一気に吹き飛んだ。

宝石菓子は当然聞いたことがあったが、見たことはない。

アークエズメル国が離れていることもあるが、エル・フェアリアでは上位貴族や王族ですら滅多にお目にかかれない貴重な特産品だ。

「…本当なんですか?」

食べ物だなんて信じられないほど美しい宝石にしか見えなくて、貴重すぎて手も出なかった。

向かいに座るヨーシュカのテーブル前を見れば、お茶しか用意されていない。

「…え、ヨーシュカ団長の分は?」

「ワシは以前食べたことがある。それはお前の分だ」

お茶を飲みながら、気にせず食べろと。

どうしようかと困惑してしまうが、嗅いだことのない不思議なお茶の香りと美しい宝石菓子を前に、恐る恐る手は伸びていった。

先につまむのは透明なブルーサファイアの方だ。

見た目は完全に硬そうな宝石なのに、指で触れれば石の冷たさはなかった。

「…ありがとうございます……いただきます」

せっかくもらえるならと、またおそるおそる口は運んで。

「〜〜〜〜っ!!」

そのとろりと溶ける絶品の甘さに、全身の緊張がほどけていくようだった。

「す、すごく美味しいです!」

「よかったな」

感動するほどの美味しさだが、ヨーシュカはハイハイと適当だ。

「それで、藍都の娘はどうなっている?」

余韻もほどほどに美味しすぎるお茶も堪能していると、ガブリエルのことを訊ねられてしまった。

「……えっと…自然には治っている様子で…」

あの事件の翌日、ニコルを何とかなだめて説得できたと言いながら、モーティシアはアリアとレイトルと共に緊急治療室へと訪れていた。当時その場には、ミシェルと医師団長もいた。

アリアは両頬が裂けて鼻骨や顎も砕けたガブリエルに治癒魔術を施したが、治らなかった。

ただ単に治癒魔術が効かなかったわけではなく、魔術を掛けている最中は治ったのだ。

だというのにアリアが術を終わらせれば、その数秒後にガブリエルの頬に亀裂が走り、爆発するように裂けた。

全員が見ている前で。

もう一度治癒を行っても同じ結果だった。

三度目の治癒魔術を施そうとしたアリアを止めたのはミシェルだった。

もうやめてくれ。

痛みに泣き叫ぶガブリエルを抱きしめながら、ミシェルはそう懇願した。

どういうことなのか、なぜ治癒魔術が効かないのか。

アクセルはガブリエルの傷をその目の力で見ることになった。

結果は、ただの裂傷だった。

最初ニコルの魔力よるものではないかと思われたが、魔力の痕跡は無く、呪いでもなかった。

これ以上原因を突き止めようと思うなら、もう一度アリアに術をかけてもらわなければならない。

しかしそれはガブリエルに凄まじい苦痛を与えることになると却下された。

幸いと言うべきなのか、縫合による地道な治療が功を奏し、ガブリエルの傷から血は止まりつつある。

それでも元の顔に戻るはずもなく、砕けた骨を取り除いた後は消毒と縫合治療しか出来なかった。

アクセルの役目はただ傷を調べることだった。

ニコルの魔力暴走が起きた時に発生した球雷、自然現象であるはずのその球雷を圧縮させたニコルの凄まじい魔力。

ガブリエルの傷をアリアが治せない理由はそこに必ず繋がるはずで、それを調べろと無理を言われて。

ただでさえ不慣れな力の制御と共に、悍ましい傷を見せ続けられ、泣き咽ぶ苦しすぎる表情を見せ続けられ。

「…………俺、ちょっと…限界かもです」

泣き言はぽろりと溢れた。

任務だったとしても、大切な仲間であるアリアや他の女性達を襲わせた加害者側の主犯格だったとしても。

一生忘れられないほど脳にこびりつく悍ましい傷と痛みに苦しむ形相は、アクセルの精神にも不調をもたらしていた。

事実、眠れていないのだ。

事件当日の破裂して死んだ者達と共に、夢にまで苦しむガブリエルが出てくるから。

「…リナトは何と言っているんだ?」

「…出来る範囲で構わないから、傷が治らない原因を調べるように、と」

これ以上調べようもないことは恐らくリナトも分かっているだろう。

分かった上でその命令が解かれないのは何故なのか。

「…あやつ…藍都の娘がどうというより、お前の原子眼について何か知りたいのかも知れんな」

「……え?」

アクセルにはわからない任務の理由が、ヨーシュカにはわかる様子で。

「安心するといい。コウェルズ様が戻ったのなら無駄はとっとと省かれる。お前も明日明後日にはお前の部隊に戻れるだろう」

みんなの元に戻れると。

呆れ混じり呟かれたような言葉だったが、今は縋りたくなる頼もしさがあって。

「…本当ですか?」

「お前は充分やってのけた。あの呪いの短刀も、エルザ様や我々魔術兵団に絡みつく黒い糸の発見もな」

皆の元に戻れる成果はあると。

その言葉に深い安堵感を感じて、自然と涙が滲んでしまった。

限界だったのだ。本当に。

「ーーアクセル!!」

突然扉が開いたのは、こぼれそうになった涙を袖で拭った時だった。

焦るように慌てながら訪れたリナトがアクセルに強い視線を向けて、涙に気付いた様子でヨーシュカへと近付いて。

「貴様!!アクセルに何をした!!」

「団長落ち着いて!」

ヨーシュカの胸ぐらを掴むリナトを慌てて止めて引き離して。

「泣いておるではないか!!何があった!!こいつが原因なんだろう!!」

「違います!!少し気が緩んだだけなんです!!ヨーシュカ団長には何もされてません!!」

「そんなはずがあるか!いまだにお前の片目を狙っておるのだぞ!!」

「まだそんなこと言ってるんですか!?」

アクセルがリナトを引き離したはずなのに、いつの間にかリナトがアクセルをヨーシュカから離していた。

原子眼が発覚した頃のヨーシュカを思い出させるようなことを言われて呆れてしまう。

「…いや、お前の片目が今も欲しいのは本当だぞ?」

しかし、ヨーシュカはリナトの言葉を肯定した。

「……………え?」

思わずヨーシュカを呆然と見てしまう。

「ワシはワシでお前の目を研究したいからな。売る気になったらいつでも言うがいい」

さらさらと恐ろしいことを平気で言いながらお茶を啜るヨーシュカに、完全に身体が硬直した。

「よ…ヨーシュカ貴様ぁ!!」

「煩い奴だ。…アクセル、残りも食べてしまえ」

リナトの背に守られながら固まっていれば、珍しく名前を呼ばれた。

食べろとは残っている金のような宝石菓子のことだろう。煩いリナトから逃げるように腰を上げたヨーシュカは扉へと向かい。

「……そうだ、お前に聞いておきたいことがある」

何か思い出したように改めて顔を向けてきたヨーシュカに、アクセルは首を傾げた。

「お前、リステイルを覚えているか?」

問いかけられて、また首を傾げる。

初めて聞く名前なのに、覚えているか、とはどういうことなのか。

「……すみません…誰でしょうか…」

「…………いや、いい」

誰なのかわからないまま、ヨーシュカが出て行ってしまって。

「あやつめ…訳の分からんことを…お前もいちいち二人きりになるな!本当に片目を取られるぞ!」

「…それは嫌です」

せっかくヨーシュカの方が信頼度が上がっていたというのに、先ほどの発言で完全にアクセルの中での信頼度最上位にリナトが返り咲いた。

それにしても。

「……リステイルって誰なんでしょう?」

「さあな。あやつはいつも変わったことを口にするからな」

誰なのかわからない名前。

しかしヨーシュカが最後に呟いた言葉の物悲しさが、妙に耳に残り続けていた。

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