第107話


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「ニコル、コウェルズ様が来られましたよ」
 天空塔に降り注ぐ朝日を浴びながら、モーティシアは最奥にある巨大な扉ごしにニコルへと話しかけた。
 コウェルズが早朝にこちらまで来るということは昨夜話しているが、ニコルは頷いてはいない。
 話したくないという意味でないことはわかっているが、憔悴が凄まじかった。
 モーティシアが話しかけてから数分経つ頃に、ようやくニコルは扉を開けて顔を見せてくる。
 眠っていないのか隈が深く、表情も読み取れない。
「隣室に来てくださっていますから、急いでください」
 天空塔から出てこないニコルの為にコウェルズがわざわざ合わせてくれたというのに、ニコルは俯いてしまった。
「…行かない」
 掠れた声で拒絶される。
「……昨日話したはずです。お忙しい中、眠りすら妨げてここまで来てくださったのですよ?」
「テューラが起きてるんだ。離れるわけにはいかない」
 来ない理由はテューラだと。
 彼女が眠っているだろう朝早い時間を狙ってみたが、起きてしまっていたのか。
 今のニコルは、彼女が眠っている時以外でこの部屋から出ようとしないから。
「隣の部屋に行くだけです。それも無理だと言うつもりですか?」
 眉を顰めて問えば、目を逸らされて無言になる。
 思考は生きている様子だが、それでも最優先はテューラとなっているのだろう。
 アリアでさえ、ニコルをテューラから離すことが出来なかったから。
 そのアリアもニコルの許可がなければ天空塔から降りられない状況だが。
「ニコル、ここは安全なのです。あなたもよくわかっているでしょう?あなたの大切な人達に危害を加えるような者は朝も昼も夜も入ってこれません」
 空に隔離された塔なのだから。
 ニコルも分かりきっているはずの説明をしてもこちらを見ようとはせず、それどころか扉を閉めようとまでしてきた。
「ニコル!」
「…ニコル」
 慌てて扉を腕で押さえるモーティシアの耳に、か細い女性の声が聞こえてくる。
 室内から、弱々しい声が。
 見守るモーティシアの前で、テューラがゆっくりとニコルの腕に触れた。
 遊郭で見た健康的な美しさが霞み、やつれた姿は病的に見えるほどだ。それでも毅然とあろうとする姿は美しいと思えてしまう。
「…テューラ嬢、おはようございます。……うるさかったですね、すみません」
 謝罪を口にするモーティシアへと、テューラは微笑みながら首を横に振る。
「ニコル…私は大丈夫よ。あなたのおかげでこんなにも元気になれたんだから…あなたも日常に戻っていかないと」
 諭すテューラに視線を向けたニコルは、それでも一言も発そうとはしない。
 じっとテューラを見つめて、まるで聞こえていないかのようだ。
「……この部屋から出ないわ。だから早く帰ってきてね」
 テューラもニコルを見つめてから、そっと背中を押す。
 それでもニコルは動こうとしなかったが、テューラが何度か押すとようやく足を動かした。
 テューラは弱々しいながらも笑っている。
 ニコルの精神の方が危険なのだと改めて痛感した。
 トリッシュがここにいてくれたなら持ち前の器用な行動で場を動かしてくれただろうが、モーティシアにその技量はない。
「あの、モーティシアさん……後で少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
 扉を閉める間際にテューラは意を決するように問いかけてきて、モーティシアはすぐに頷いた。
 マリオンのことか、遊郭のことか、そのどちらもか。
 扉を閉めながら、未明に遊郭から届いた書簡を思い出す。
 遊郭で何があったのか。なぜ遊郭の深部にいるはずのテューラが攫われたのか。
 テューラを攫う手引きをした者の末路と共に知らされた。
 ニコルには話せない内容で、もしテューラが遊郭のことを聞きたいというのならニコルには別室にいてもらわなければならないだろう。
 疲れた、と本気で思ってしまいながら、ニコルの背中を押しながら隣の部屋の扉を叩く。
 すぐに開いた先にはフレイムローズがいて、中に通されて。
 フレイムローズはニコルが天空塔に上がることを許した数少ない騎士の一人だ。
 そしてニコルの正体も知っていた人物。
「おはよう、ニコル」
 ソファーに座って待っていたコウェルズは、帰ってきたばかりの昨日よりも顔が疲れて見えた。
 目の下の隈はニコルやモーティシアよりも薄いが、普段のコウェルズには珍しい。
「……無事のご帰還、お喜び申し上げます。大会の優勝も…」
 ニコルは無理やり言葉を紡ぐが、喉が引っかかるように途中で止まった。
 また背中を押してやり、コウェルズの向かいに座らせて。
「ありがとう、モーティシア。君も座ってくれ」
 重苦しい空気を振り払うようにコウェルズは笑顔を浮かべ続けて、フレイムローズは扉の前に待機姿勢を取った。
 ニコルを気にしながら着席するモーティシアを待ってから、コウェルズがまず口にするのは。
「…何があったか、全部聞いたよ。…大変な思いをしたね」
 事件の全貌。
 コウェルズもニコルも互いに顔を合わせることをしなかった。
「君に恋人が出来ていたなんて驚きだけど…会わせてもらえないだろうか?」
 訊ねながらようやくコウェルズはニコルに目を向けるが、ニコルは俯いたままだった。
 返事すらしない。
「…ニコル」
「いいんだよ。……もう少し落ち着いてから会わせてもらうよ。君が王族と知られた以上、彼女をそのままには出来ないからね」
 平民騎士だったはずの王族。その恋人は遊女。
 諸外国からも注目を浴びるだろう。大半が悪い意味で。
「私の戴冠式には多くの招待客が訪れることになる。君にも出てもらわないといけないんだよ。それまでには会わせもらうよ」
 最後に語尾がやや強くなり、コウェルズはニコルとの対話は無理だと早々に見切りを付けたかのようにモーティシアに身体を向けた。
「トリッシュが抜けた穴を補わせることもできるけど、どうする?」
 その申し出は嬉しいものだった。
 アクセルも実質別の仕事を任されているので、人手は喉から手が出るほど欲しいのだ。
「…いいえ」
 しかし、冷静な頭は現状では不可能だとすぐに理解してしまった。
「魔術師団員の中にニコルが心を許せる者は恐らくいません。リナト団長の今までの言動を含めても信用はされていないはずです」
 リナトはアリアを縛りすぎたのだ。
「…そうだね。……私も悪かったことだ…」
「コウェルズ様は…」
 それは違う、とは最後まで言えなかった。
「……今は何とか、現状のままやり遂げてみせます。コウェルズ様が戻られた時点で、あらかたの解決の目処も立ちましたので」
 それに、トリッシュほどの人物は見つからない。
「わかった。なら補充の話はここまでだね。次は君が提出してくれた治癒魔術師育成と護衛候補達のことを話そうか」
 モーティシアが準備した資料はそれなりの量になったというのに、全てに目を通したというのだろうか。驚くモーティシアへと、コウェルズは優雅に微笑んで見せた。
「さすがに全ては読んでいないよ。必要性の説得力しか私は目を通さないからね。あれほどの資料なら、最初のページの完成度合いであらかた予想はつく。充分全員を納得させられるよ」
 モーティシアの表情から言いたいところを汲み取って説明をくれて。
「治癒魔術師候補にレイトルがいたのは面白かったよ。あと侍女の二人も魔力量だけでなく思想も良いみたいだし、王族付き候補達を治癒魔術師候補の護衛に回して訓練させるのも良い案だ。…でも一つだけ、付け足していいかな?」
 コウェルズは胸元からペンを取り出し、テーブルに広げていた資料の治癒魔術師候補の欄に一人の名前を書き足していく。
「彼女にも訓練を課してほしい」
 書き足された名前に、ピクリとニコルの肩が揺れる。
「……なぜ、彼女を?」
 モーティシアもさすがに眉を顰めた。
 今その家名を出すなど、と。
「実はラムタル国で向こうからも個人的に打診があったんだよ。今のままでは藍都も危ういから、国の為にも姉の尻拭いをしてもらう。ジュエルにも訓練を課すんだ」
 ジュエル・ガードナーロッドも治癒魔術師育成に回す。
 ニコルがジュエルに対してどう出るかもわからないというのに。
 コウェルズの微笑みに、モーティシアはさらに眉間に皺を深く刻んでしまった。

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