第107話
第107話
白む吐息が視界の邪魔をするのを見つめながら、ガウェは自身の邸宅からも王城からも離れた城下町の外れにある公園に訪れていた。
昨夜は簡単な任務があり邸宅に戻っていたのだが、戻るのは一夜明けた今だ。
しかし少しだけ寄り道をしたくて、馬とゆるりと歩きながらここまで来た。
昨日命じられたのは、ガウェの邸宅にいるビデンス・ハイドランジアに王城へ来るようにという召集令状を手渡すという簡単なものだ。
治癒魔術師の今後についての相談役に彼が選ばれたと知った時は驚いた。
魔術師団長リナトは凄まじく嫌そうだったが、何か遺恨でもあるのだろうか。
ビデンスは受け取った令状に静かに目を通し、隣でうつらうつらと眠りに落ちる寸前だったキリュネナ夫人を優しく起こして自分の今後について少し話した。
ガウェに任を受けるか否かを伝えるより先に夫人への説明を優先した姿は、少し羨ましいものがあった。
キリュネナが眠そうに微笑みながら「いってらっしゃい」と行った後でようやくガウェに姿勢を戻し、いつでも合わせると約束してくれて。
その夜はリーンの為だけに集めた収集品を眺めて過ごし、どうしても持っていたくて一つの髪飾りと共に邸宅を出た。
リーンの為に全て拘って作り上げた髪飾りは、イエローダイヤを削り出して作り上げた至高の作品だ。
愛しい姫の為に、空洞の右眼に彼女を示すエメラルドを自身の魔力を眼球に見立てて入れて、いつか戻ってきてくれるその時を待つ。
寒い冬の早朝では穏やかな公園であれ人の姿は無く、一人きりになってしまったかのような空虚に心が苛まれた。
「……お前もいたな」
ガウェの切なさに気付いたかのように、慣れた馬はガウェの背中に鼻先で軽く触れてくれた。
身体を撫でてやりながら遠方の王城を見つめる。
愛しい姫のいない城は、豪華なだけの廃墟のようだ。
ファントムはいつかガウェの元にリーンが戻ると告げたが、それはいつなのか。
胸元に大切に仕舞い込んだイエローダイヤの髪飾りに服越しに触れながらリーンを思い。
「ーーやっべ…大当たりじゃねぇか」
突然現れた気配に、身体は一瞬のうちに戦闘体制となった。
「死なねえって。わかってんだろ」
背後に訪れていた若者の首元に、悍ましいほど大量の棘付きの鞭を剣のように突き立て。
ゴプ、と口端から血を滴らせる若者は、逃げることもせず笑っていた。
見覚えのある状況に魔具を消せば、溢れた血は黒い霧となって若者へと戻り、傷口も塞がる。
以前パージャにも同じ傷を負わせた。あの時は不死の事など知らず、パージャ自ら刺さりに来たが。
「貴様は…」
「ファルトムに言われて来たぜ。…お姫様に会いたいだろ?」
蔑むような笑みを浮かべる若者から数歩離れて、警戒を見せる。
捕縛に動けなかったのは、リーンが話題の中心だとわかったからだ。
何かしらの取引でもするつもりなのかと見つめ続ければ。
「…エレッテ連れて来い。そうしたらお姫様が会ってもいいってよ」
笑みを消した若者は、今すぐにでもガウェを殺しそうなほどの眼差しで呟いた。
髪と同じ闇色の青い瞳の奥は、凄まじい憎しみに染まっている。
底の無いだろう憎しみは、ガウェの心にわずかな恐れを持たせた。
「…それでリーン様を私に返すのだな」
問い掛ければ、また蔑むように口元に笑みを浮かべてくる。
「戻るかどうかはお姫様が決めるんじゃないか?」
そこに関与はしないと。
「……貴様」
「エレッテ助ける為に城の中ボコボコにしてやってもよかったのに、我慢してやってんだぜ…」
互いに睨み合う。
この若者なら容易に城に入り込んで平気で混乱の渦となることが想像出来た。
その眼差しがガウェと似ていたから。
ガウェがリーンの為なら何でも出来るように、彼もエレッテの為なら何でも出来るのだろう。
我慢すら出来てしまうのだ。
「………彼女を連れ出せたら、どこに行けばいい」
城からエレッテを出すなど不可能に近いが、必ずやり遂げる。
若者は突然ゲラゲラと大声で笑い始め、ガウェの肩に無遠慮に手を置いてきた。
「いつでもお前を見張っててやるよ。だからとっとと助け出せーー」
肩に置いた手の指先に力を込めてくる若者はそのままに、ガウェは胸元から髪飾りを取り出す。
なぜ今日この髪飾りを持っておきたかったのかわかった。
「…なんだよ、これ」
「リーン様にお渡ししろ。…私のこの身は今もリーン様と共にあると」
ガウェの肩にある若者の手首を掴んで髪飾りを持たせる。
リーンの為の髪飾り。
ガウェの心は離れていないと伝える為に。
「…気持ち悪ぃ奴…ーー」
髪飾りを掴む若者は、心底嫌そうに吐き捨てて気配ごと消え去った。
突然いなくなるので背後で大人しくしていた馬が驚いて小さく嘶くが、ガウェが驚くことはなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように静まる中、ガウェの胸元に髪飾りはもう無い。
エレッテを城から出せば、リーンはガウェの元に戻る。
ガウェはじきに黄都に戻らなければならないので時間は無いに等しい。
黄都に戻る時、ガウェは取り戻せたリーンをどうするのだろうか。
城に返すのか、ひた隠すのか。
考えてしまいそうになるが、馬を撫でて心を無にした。
決めるのはガウェではない。
リーンの言葉こそ全てだから。
ファルトムは、リーンはガウェの元に戻ると言った。
リーンが望んでくれるなら。
「…リーン様……」
私は身も心も全て、あなたのものです。
だからリーンの望むままに。
ガウェにはリーンが全てなのだから。
-----