第106話
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厚い雲に覆われた夜空の下で、セクトルは離れた場所で一人俯いているアリアを眺めていた。
天空塔の露台は寒いはずなのに、アリアは羽織りを肩にかけずに手すりに両腕を預けて眼下の王城を見つめる。
一人でいたいとアリアが願うものだから、護衛として邪魔にならない場所から見守って。
ひたすら地上に目を向けるのは、レイトルを探しているからのはずだ。
帰ってきたコウェルズと話をした過程でアリアとレイトルの関係が発覚してしまい、レイトルだけが団長に呼び出されて今ここにいないから。
ニコルは最奥の部屋にテューラという恋人を匿い、モーティシアも城内を駆け回っているだろう。アクセルは恐らくガブリエル嬢の近くで、トリッシュは…
トリッシュは「悪い」とそれだけを皆に伝えた。
婚約者のジャスミンの為に、城を出たのだ。
「ーーここにいたんだね」
小声で呼びかけられて、セクトルはアリアに向けていた眼差しを正面に戻した。
気配に気付いてはいた。アリアから目を離さなかったのは、護衛だからという理由だけではない。
露台に続く回廊からレイトルがモーティシアと共にこちらに歩いて来ていた。
何も言わずに指先の合図だけでアリアの居場所を伝えれば、レイトルだけがそちらに向かった。
モーティシアはセクトルの隣に訪れて、アリアとレイトルを共に見守る。
一人にしてと願ったアリアは、レイトルが訪れた途端に駆け寄って縋りついた。
離れないでと伝えるように強く抱き縋って、二人にしか聞こえないほどの小声で会話を初めて。
「…離れましょうか」
恋人達の逢瀬を盗み見るものではないと、モーティシアは疲れきった声でセクトルを呼びながら回廊へと戻った。
夜の闇の中でもわかるほど顔色が悪いのは、モーティシアにかかる重圧が凄まじいからなのだろう。
回廊を少し歩き、拠点にしている小部屋に入る。
「ニコルは相変わらずだ。そっちはどうだった?」
部屋に設置されたソファーにそれぞれ座りながら、セクトルは報告にもならない報告をしておく。
ジャスミンは心をひどく病ませてしまっていたが、ニコルの恋人であるテューラも身体の震えに時おり悩まされていて、彼女が眠っている時以外ニコルは傍を離れないのだ。
悲惨な時間の後、アリアによってテューラは身体を治癒されてはいた。
しかし心の傷は深かった。
何があったのか、何をされたのかは今も全てはわかっていない。テューラが話さないからだ。
元は強い女性なのかセクトル達にも笑顔を見せたりと気丈に振る舞おうとはするのだが、心が追いつかずにいた。
ガブリエルと共にいて生き残っていた侍女達から聞けたのは、前日から長時間ずっとイニスがテューラを罵りながら棘付きの鞭で全身を打ち続けていたということだった。
ガブリエルの付き人として共にいたシーナ・スルーシアとその夫はアリアと関係はあったが、こちらからは全くと言っていいほど情報を得られなかった。
地下牢に捕えてはいるが、アリアが情状酌量を求めていることと二人の立場を踏まえて比較的軽い刑罰だけで済みそうだ。
侍女達とガブリエルはそうも行かないだろうが。
モーティシアは一人でその辺りの説明や対話も全てこなしてくれているはずで、疲れが凄まじそうだ。
「…トリック殿からの情報ですが、刑罰が決まりそうです。コウェルズ様が命じて、三人の侍女達は表向きこそ身分の剥奪とアリアへの接近禁止…もとい王都を含めた七都全域への立ち入り禁止となりますが…」
そこで言葉が止まった。
コウェルズが戻ってきたなら、多くのことが一気に決まっていくだろう。
その中で今モーティシアがわかっていることが、それほど言葉に出し辛いことなのか。
「…どうなるんだ?」
「……三人とも赤子袋になるでしょう…恐らくガブリエル嬢も傷が落ち着き次第…」
滅多に聞かない刑罰に、セクトルも頬を引き攣らせた。
そういった刑罰があると噂される程度の、今では闇物語でしか扱わないだろう罰。上質な魔力を持つ貴族の女の罪人に言い渡される刑だ。
死ぬまで子供を孕まされ、産み続ける。
産まれた赤子は両親が不慮の事故で亡くなってしまったと偽られ、どこかの貴族の家に養子として迎え入れられるのだ。
「…マジかよ」
実在するとは到底思えない刑に本当になるのか。
「覚悟はしておいた方が良いでしょう。…私達はアリアの護衛でありながら守れなかった。私とあなたの魔力も上質ですから…赤子袋を抱くよう命じられる可能性は高いとトリック殿からの忠告です」
「……は?」
理解し難い状況に、思考が止まる。
セクトル達にも何かしらの罰は仕方ないことだが、だからといって。
後味の悪すぎる状況に強く眉を顰めた。
「……トリッシュはやはり戻って来ないでしょう。引き留めはしましたが、無駄でした」
話を逸らすモーティシアが、自分の髪をくしゃりと掴む。
せめてトリッシュがいてくれたら、モーティシアの苦労はマシだったはずだ。
「…明日からは俺も下に降りようか?」
「……気持ちだけ頂いておきます。アクセルもニコルもレイトルも動けない以上、あなたには天空塔内のまとめをしていただかないと。それに下ではリナト団長も手を貸してくれると約束して下さいましたから、明日からは駆けずり回る必要は無さそうです」
力なく笑いながら告げてくる名前は、レイトルと共に会いに行っていた人物のものだった。
昼頃にコウェルズ達が訪れて状況を報告した際、アリアはレイトルの隣から離れようとしなかった。
コウェルズの護衛騎士達に少しだが怯える様子を見せて、レイトルの袖を握りしめ続けて。
その仕草から発覚したアリアとレイトルの関係にコウェルズは笑いかけてくれた。
モーティシアはすぐに準備していた治癒魔術師育成の為の資料を手渡していたので話の大半はそちらになってしまったが、後にリナト団長から呼び出されてしまったのだ。
「リナト団長、なんて言ってたんだ?」
リナトはアリアを上質な魔力を持つ者と結婚させたがっていたので恐る恐る訊ねれば、意外にもモーティシアは表情を暗くせずに肩をすかしてみせて。
「アリアが選んだのなら仕方ない。今はアリアの精神を落ち着かせることに集中して、新たな治癒魔術師育成に早く着手出来るよう心がけること、と」
不満そうではあったがコウェルズの言葉でもあったのか団長は大人しかったと説明されて、思わず笑ってしまった。
「今すぐとは行きませんがビデンス・ハイドランジアを呼んでいただけることも約束してくださいました。…団長の視野狭窄を緩めるのに、この事件は一役買ってしまいましたね」
リナトは欲を言うならば孫のトリックとアリアを結婚させたがっていた。トリック自身が年齢が離れすぎていることを理由に断ってくれていたが、諦めていなかったことはセクトルもモーティシアから聞かされている。
これでレイトルとアリアの恋の障害が消えたと願いたいが。
友の恋を純粋に応援したいのに、胸は抉られるような痛みを伴わせてくる。
諦めたのはセクトル自身だというのに。
セクトルがアリアから目を離せないことを、恐らくレイトルも気付いているだろう。
「…そんな顔をするなら、アリアを諦めなければよかったでしょう」
突然の痛い指摘。モーティシアにも気付かれていたのかと、俯いて笑ってしまった。
勝負の土俵にすら立たなかったのはセクトルなのに、顔に出るほどに。
アクセルと共にアリアに気があると装ってリナト達の目を欺く必要が無くなってしまい、アリアの近くにいられる口実は失った。
今は見守ることしか許されない。万が一アリアに気持ちを気付かれてしまったら、側にすらいられなくなるのに。
今までだって失恋は何度か経験したというのに、ここまで胸が締め付けられることはなかった。
悲惨な事件に巻き込まれて、ニコルが王族だということが発覚して、天空塔に軟禁状態と変わらない状況に陥って。
落ち込むアリアの肩を優しく抱きしめられる立場が、今更になって喉から手が出るほど欲しくなるなんて。
「……下はニコルのこと、なんて言ってるんだ?」
今度はセクトルから話題を逸らした。
何の説明もされていないのはセクトル達も同じなのだ。
ニコルが口を開かないから。
王族だったなんて重要なことを口にしておきながら、ニコルは全ての感情を失ったかのような無表情でセクトル達から質問されることを拒んでいた。
天空塔に訪れたガウェとフレイムローズは以前から知っていた様子を見せて、その事実にも胸は傷んだものだ。
「城内の騎士達はその話題に触れないようにしている様子でしたね…何とか日常に努めようとするかのようでした。コウェルズ様が王位を正式に継承する準備に忙しいといったところでしょうか」
デルグ王が亡くなり、コウェルズが王座に着く寸前で新たな王族が現れたとなれば、不遜な声も聞こえてきたかもしれない。
それを騎士達は抑えているのだろうと。
「政務棟の一部はやはり継承順位に戸惑っている様子でしたからね。…リナト団長が言うには、ニコルは……コウェルズ様より継承順位が上だそうなので」
「……どういうことだよ」
「あなたも聞いたでしょう…ニコルはファントムの息子で……ロスト・ロード王子の息子でもあると」
あの事件の時に発覚した事実。
ファントムの息子だったニコル。
そのファントムが、死んだとされていた悲劇の王子だと。
考えないようにしていた頭が働こうとする。
「………やめろよ」
「三団長がニコルの身分を保証し、コウェルズ様も否定していなかった…事実なのでしょう」
「やめろって!!」
そんな事実など。
聞きたくないし、知りたくもない。
「…受け入れなければなりません。ニコルの今後はもう私達の手に負えるものではありませんから…上からの命令に従いましょう。それまでは今まで通りに…」
モーティシアの疲れ切った声色がひどく虚しかった。
「明日からは治癒魔術師の育成と護衛候補達への説明に入れるでしょう。…こんな形ではありますが、天空塔を拠点に出来たのでその点の話し合いを無くせたのは良かったですよ」
本当にそう思っているというよりは、良かったと思いたいのだろう重い声。
「…疲れ切ってんな…」
「お互いに」
苦しいほどのため息は同時だった。
「……そういや、家に匿ってるって女の子は大丈夫なのか?その子、テューラ嬢の友達なんだろ?」
話し合いから逃げ出すようにふと思い出した会ったこともない女性の話題を振れば、モーティシアが先ほどよりさらに重いため息をついた。
「…帰れてないのか?」
「あの日から一度も…」
「……さすがにヤバくないか?そっちの子も殺されかけて精神面やばいんだろ?」
モーティシアが抱えている問題は王城内だけではない。
本当に困っている様子で頭を抱えるモーティシアを見ることになるとは。
「私だってこんな事になるなんて思ってもいませんでしたよ…明日からは何とか時間が作れそうではありますが…」
重苦しい問題ばかりに襲われた。
セクトルは会ったことのない女性だが、モーティシアにとって非常に大切な人物なのだと想像がついた。
「……恋人なのか?」
「…………まさか」
否定する声は掠れて弱々しい。
それ以上の追求を逃れるかのように、モーティシアは立ち上がった。
「ニコルの元に行ってきます。明日はコウェルズ様と話せるようにしておかないと」
「…テューラ嬢が寝てる時くらいじゃないと降りないだろ」
「いえ…こちらに来てくださるそうなので」
忙しい中でわざわざ出向いてくれるとなれば、会わないわけにはいかない。
「あなたは明け方まで休んでください。それまではレイトルが護衛に立ちますから」
ふらりと身体を揺らしながらモーティシアは去っていく。
まだ仕事をするつもりなのだろう。仮眠すら取らないかもしれない。
自分自身も含めて、仲間が心身共に疲弊していく姿ばかり目に入れる羽目に陥っている。
コウェルズが戻ってきてくれたことでマシになると思いたいが。
仲間の隠し事は大きすぎて、事件の全貌は悲惨すぎて。
「…どうなるんだよ……」
誰にも聞こえない呟きは、まるで悲鳴のようだった。
第106話 終