第116話
第116話
室内に静かに響くのは鋏の音。
耳心地の良い、テンポも良い。
昼食後などに聞けばうたた寝してしまいそうなほどの穏やかな音楽のような鋏さばきは、モーティシアの髪を整える為にわざわざ訪れてくれたガウェの手の先から響いていた。
短くなった髪を櫛で梳かれ、気持ちを落ち着かせるように整えられていく。
「ーー出来たぞ」
終わりの言葉が聞けたのは、始まってから十分も経たないくらいだろう。
「……ありがとうございます」
寝起きすぐの早朝だからというだけでは誰も納得しないだろうほど掠れて弱い声で感謝を伝え、昨夜からさらに短くなった髪の先に触れる。
肩にかからない程度となってしまった髪。
自分の長髪はそれなりに気に入っていた。
故郷の海に潜った時、髪がゆらゆらと揺れて綺麗だったから。
「こんなことの為に呼んでしまって、本当にすみません。あなたも忙しいでしょうに」
「構わない。むしろいつでも呼んでくれ」
騎士としてだけでなく黄都領主としても継承式や出発式の準備に忙しいだろうに、ガウェは慰めるように優しい。
昨晩モーティシアの髪を切られた理由を話した後に、レイトルとセクトルがガウェに連絡を取ってくれたのだ。
モーティシアは適当に束ねるから構わないと慌てたが、無惨に斬られた髪のばらつきが酷かったらしい。
ガウェに整えられる段階で切り落ちた髪を見下ろせば、確かに長いものから短いものまで差が激しかった。
昨夜は恐怖と怒りや苛立ちが激しかったが、今は奇妙に沈んだ心がある。
ユージーンに奪われた髪がどんな扱いを受けるかは考えないようにしながら、小さなため息をひとつ吐いてしまった。
「終わったのか」
奇妙に静まり返る室内。そこへ聞こえてきたのは、ニコルの声だった。
天空塔を占拠した時から比べれば随分と顔色の良くなったニコルだが、その表情はまだ憂いに満ちている。
モーティシアとガウェの元に訪れるニコルは、ガウェと視線だけで何かを伝え合っていた。
長く組んでいた二人だから出来る信頼からの芸当。
「……本当に報告しないのか?」
その後ニコルは、わずかに責めるように訊ねてきた。
「昨夜も話したでしょう。まだ私達の立場は危ういのです。そんな時に候補達が動揺してしまったら、すぐに足元を掬われます」
ニコルが天空塔を占拠した後、モーティシアは元々準備していた資料と共に高位高官達から有無を言わさず強引に天空塔の使用許可をもぎ取った。
提出資料を作る上で味方となってくれた者ばかりではない。むしろ頷かなかった者の方が多かった。なのに、強引に奪ってみせたのだ。
そんな状況で、弱みは見せられない。
反対者達がまだ黙って静観している理由はモーティシアの資料が適切だったからではない。天空塔を奪うに至る理由を持つニコルが王族だったから。
悲劇の王子、ロスト・ロードの息子だったからだ。
「今晩はアリアも出席するんだろう?準備はもう出来ているのか?」
話題を逸らすようにガウェに問われて、わずかに言葉に詰まってしまう。
ガウェがこんな時に率先して話題を逸らすような人間でないことはモーティシアもうっすら理解していた。
無意識にガウェに目を向けてしまい、ガウェも少し戸惑うように目を逸らして。
彼なりに気を遣ってくれているのだろうかと予想して、肩の力を抜いた。
「実は一昨日、アリアが少し傷付く事実が発覚しまして…準備に抜けは無いとは思いますが、もし夜会でアリアが固まるようでしたら手助けしていただけますか?レイトルがエスコートとして、私とアクセルとセクトルが護衛として側にいる予定ではありますが、私達も王室主催の夜会は経験がありませんので」
準備は恐らく大丈夫だ。だが本番はどうかはわからない。
気にしてくれるというなら夜会で気にしていてほしいと頼めば、ガウェは安堵するように微笑みながら頷いてくれた。
「……ガウェ、俺からも頼む」
ニコルも申し訳なさそうに消えそうな声で頼む。
今日の夜会に出席しないのはニコルだけだ。
テューラを一人にさせられないとはいえ、アリアのことも心配するのは当然だった。
アリアはあの事件以来初めて人前に出るのだから。
それに懸念点もひとつだけあって。
「王室主催はむしろ一番安全な夜会だろうから安心していろ。ここで失態や無体を行えばどうなるかくらい誰もが理解しているんだからな」
ある意味で無法地帯よりも気を張る場だ。
ニコルも少し考えた後に、理解したかのように少しだけ頬を緩めていた。
モーティシアが引っかかっている懸念点も、夜会では大丈夫だろうと考えすぎることはやめておいた。
考え続けてもキリがないので仕方ないが。
「夜会の最中は魔眼蝶もわずかに飛ぶ予定らしいが、ユージーン副隊長の動向も監視するようフレイムローズに伝えておこうか?もしモーティシアか天空塔に近付こうとするなら止めることも可能だと思うぞ」
嬉しい申し出には一瞬舞い上がってしまった。
「本当ですか?……いえ、結構ですよ。重要な夜会だというのに、私的に頼むことは出来ません。それに長居する予定ではありませんので」
ありがとうございます、と最後に付け加えて。
本当は喉から手が出るほど頼みたい申し出ではある。
モーティシア個人ではなく、マリオンのことが気掛かりだから。
モーティシアの髪がユージーンによって斬られたことはマリオンには話していないが、何となく察したかのように昨夜はずっと怯えて震えていた。
せめてマリオンを安心させたかったが、国の重要なイベントの最中に個人的な感情を優先などさせられない。
「天空塔は俺に任せてろ。…護衛候補達も今晩は夜の警備訓練で天空塔にいるんだろ」
「…ええ。頼みますよ」
実力は別として、人手は天空塔も揃っている。
無理矢理気持ちを安心する方向へと持っていきながら、モーティシアは短くなった髪の毛先に触れた。
「最悪の場合はマリオン嬢だけでも黄都で預かることは出来るから、それも視野に入れておくといい。ユージーン殿は黄都を出禁にされているからな」
さらりと伝えてきたガウェの言葉に、また固まってしまった。
「…………あの男は黄都でもやらかしているのですか?」
「いや、何年も前にユージーン殿が遊郭で起こした事件をきっかけに、父上がユージーン殿個人に入領規制をかけたんだ。危険人物だと発覚しているのに領内に来られて何かされたらたまらないからな。他にも出禁にしている領があったかもしれないから、今日にでも聞いておこう」
「それは…助かります」
まさか先手を打っている領があるとは。
テューラの為にマリオンはここまで連れて来られたわけだが、逃げ場があるのは気持ちの面で有り難かった。マリオンを遠くへ手放したくはないが、ユージーンの奇行を考えるとせめてマリオンだけでも安全地帯に逃がすことは最優先で考えなければならない。
恋敵のはずの男に告白をして髪まで喰うなどと誰が予想できるのだ。
ただ奇行に走るだけの奇人というわけでもなく、ユージーンはどうやら頭の回転も早い。
髪を切りつけたのも、モーティシア達の状況を分析した上で行えた可能性が高いと判断できた。
首の皮一枚で繋がっているような天空塔の占拠と、何よりミシェルの件と。
モーティシアの隠した名前すら調べるような男だ。
遊郭で凄まじい騒ぎを起こしたにも関わらずいまだに王城に勤めていることからも、自身のやり口を見極めながら行動出来るのだろう。
あんなことをしておいて、と心から言いたいところだが。
「……髪を整えてくださり、本当にありがとうございました」
ガウェが鋏を専用の布で拭いてから専用の鞄になおしたところで、モーティシアは改めて感謝を伝えた。
切られた髪は魔力で一纏めにして、一瞬にして消し炭すら残さず焼き払って。
ユージーンに奪われた髪も燃やしてしまいたいところだが、会いに行くのは絶対に嫌だ。
「お前も大変だろうが、セクトルも見ておいてほしい。あいつはユージーン殿をそれなりに尊敬していたからな」
「そうなのですか?」
あの男を尊敬する人間などいるのかと驚くが、昨夜のセクトルの反応を見るに確かに動揺が凄まじかった。
「任務中のユージーン殿は、無駄な行動は一切行わないタイプだったからな。その分言葉も少なかったが、冷静なスタイルに憧れていたんだろう」
ガウェはユージーンの起こした過去を知るから敬遠している様子を見せるが、そうでない者には仕事の出来る男に見えていたということか。
人として終わっているユージーンを、セクトルは今後どう思うのか。
ショックを受けていたとしても、早々に立ち直ってほしいものだ。
「……じゃあ、次に会うのは夜だな。昨夜のようにサラッと参加して帰るだけは難しいだろうから、夜会前に少し休んでおけよ」
昨夜は所詮下見程度。
本番はアリアを連れた今晩であることをガウェから口にされるのは、改めて肝が冷えるようだった。
「手筈通りにいかないことは承知していますよ」
どんな形であれアリアを狙ってくる者は多いはずだ。
エル・フェアリア唯一の治癒魔術師に顔を覚えられる程度で構わないと思ってくれる国ばかりではないことも想像が付く。
忙しいガウェをニコルと共に見送り、天空塔の正面玄関に出て。
強風に捕らわれる長い髪は消え去った。
あまりにも虚しい軽さ。
「……大丈夫か?」
ガウェが王城に降りた後でニコルに改めて問われて、顔も向けずに少しだけ笑ってしまった。
「大丈夫であってもなくても、私のやるべきことは変わりません」
アリアを護衛し、治癒魔術師候補達を育成する。そこにモーティシアのメンタルなどかけら程度にも関係は無いのだ。
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