第115話
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今日という日は、この数日に比べれば滞りなく穏やかだったのではないかと思える日だった。
それでも口からこぼれるのは、重いため息だ。
「…疲れた……」
「明日が本番ですよ。今日はゆっくり休んでください」
アクセルとセクトルを左右に連れながら、モーティシアはまだまだ続きそうな夜会の華やかな喧騒を背中に感じ続ける。
「まあ、あれなら明日も大丈夫なんじゃないか」
三人の中では唯一疲れを見せないセクトルが今までの出来事を振り返り、気楽そうに正装の首元を緩めた。
夜会の初日となる今晩はこの三人で参加したのだが、明日初めて顔を出すアリアの為の下見がてら訪れたとはいえそこそこの数に話しかけられてしまった。その多くは他国勢で、エル・フェアリアに数十年ぶりに戻った治癒魔術師を観察しておこうとする人々に群がられたのだ。
そのどれもが肯定的だったのでよかったが、当たりが厳しいのは自国の者達だろう。
だがそれも、別の事態が起きたお陰で触らぬ神状態で挨拶程度に捨て置かれたのだが。
「…それにしてもまさか、虹無しとはいえ上位十四家の顔ぶれが変わるなんてな」
セクトルはその事件への興味が強い様子で、夜会で起きたアクシデントを思い出している様子だった。
エル・フェアリアの貴族の序列は大きく上位、中位、下位と三段階に分かれているが、上位貴族でも十四家あるうちの上から七家が虹の七家と呼ばれて正真正銘歴史ある貴族であり、虹無しと呼ばれる下七家は大戦により広がりすぎた国土を維持する為にこの数十年の間に領土を分け与えられ繰り上がった家門だった。
事件は昼前から起きたらしい。
上位十四家と高位貴族や高官が集まった昼食会で、ベラドンナ・ルシアがガウェ・ヴェルドゥーラにエスコートされて会場入りした。共に訪れたのはベラドンナの生家ディボルブ家の嫡子で、驚く者達の前でベラドンナ・ルシアは自身の後継者にディボルブ家の嫡子を指名した。それと同時に上位貴族ルシア家を下落させ、ディボルブ家を格上げする、とも。
今すぐの家格交代というわけではないだろうが、誰もが驚いた事だろう。
しかも誰もが納得せざるを得ない状況や証拠まで揃えていたという。
ルシア家は中位に落ちた後はベラドンナを最後に途絶えるだろうが、ルシア分家に関しては取り潰しの噂が既に立っていた。
誰もが詳しく事情を知りたがっているが、まだ情報は少なくて。
「…ルシア分家の家長、なんだかやばそうだったよな……」
アクセルが思い出すのは夜会が始まってすぐに僅かに起きた騒動だった。
コウェルズが会場入りする寸前に、ルシア分家の老いた男が哀れな様子でコウェルズに縋りつこうとしてきたのだ。
コウェルズの周りには彼の護衛騎士だけでなくミモザ姫の護衛部隊長ジョーカーにコレー姫の護衛部隊長トリックまでおり、彼はすぐに遠くへ引き剥がされていたが。
遠くからその様子を目の当たりにしてしまったモーティシア達が耳にしたのは、コウェルズの「バレていないと思った?」という冷めたものだった。
至る所であらゆることが起きている。
それに気付くには、今日の夜会だけでも充分だった。
スカイは騎士礼装姿でアギーラ国の第三王女に護衛も兼ねたエスコートをしていたが、心をどこかに置いてきたような力無い表情はセクトルも驚くほどだった。
王女に笑いかけられれば笑い返していたが、その笑顔が普段とは全く異なることくらい、セクトルだけでなくモーティシアやアクセルにも気付けたことだ。
王女は気付いてはいなさそうだったが、特に参加している騎士達がスカイを気にする様子は視線の流れからも一目瞭然だった。
挨拶もそこそこに会場内を一周した辺りでラムタル陣営とも簡単に言葉を交わしたのだが、ヴァルツと共にいたのは目を見張るほど顔も身体も目立つ美女が一人と老臣だという男、そして護衛の青年が一人の計三名で、他の者は明日以降に参加するという。
ドロシーと名乗った美女は老臣のすぐ隣に立ち、老臣も鼻の下を伸ばすようにドロシーをベタベタと触り続けていた。
その様子を見る護衛の青年は時折隠しきれない嫌悪の表情を浮かべており、モーティシア達も気付かれない程度の警戒心は強く持ってしまった。
ヴァルツを傀儡にしようと目論む者がラムタル陣営に潜んでいることは確実で、それは誰であるのか。
そこまで立ち入ることは出来ないとしながらも、モーティシア達はヴァルツ達から離れた後も警戒を緩めることは出来なかった。
誰もが笑い合う夜会。
そのうち無邪気に楽しめたのは全体の何割程度なのか。
モーティシア達は三人で歩きながら警戒すべき相手や挨拶するべき相手を見極め、明日の為にと夜会を切り上げた。
「クレア様も少し疲れてたな」
かつて黄姫クレアに仕えていたセクトルは不安そうに呟き、モーティシアも静かに頷く。
「姫様方は一瞬も隙を見せられない状況ですからね」
ミモザにクレア、そしてサリアの三人は共に行動して各国の者達と挨拶をし続けていた。未成年の姫達も昼食会や茶会に出席しており、唯一外されていたのはエルザだけだった。
夜会には出さない、とはコウェルズの命令だ。
「明日はレイトルがアリアをエスコートして、俺たちは護衛で…ルードヴィッヒ殿も大会四強だから別枠で参加で、えっと……」
アクセルは明日の予習じみた呟きを始め、セクトルはあくびを殺さず見せてくる。
二人とも気疲れしたようなので、明日の為にも早々に休んだ方がいいだろう。
そう思いながら王城に向かう途中で。
「ーーちょっと待て」
突然セクトルが声を殺しながらモーティシアの腕を掴み止めた。アクセルも同時に足を止めており、その腕もセクトルに掴まれていて。
どうしたのかと訊ねるよりも先に、離れた場所から口論が聞こえてきた。
とはいっても激しく詰め寄っているのは片方だけで、もう片方の声はボソボソと落ち着いていたが。
「……誰だろう?喧嘩?」
アクセルは関わることを躊躇うように足を止めたままいたが、その声に向かったのは意外にもセクトルだった。
「ユージーン副隊長とミシェル殿だ」
「え、ミシェル殿?」
ユージーンの名を聞いてモーティシアは嫌悪感に身を撫でられるが、ミシェルの名を聞いてアクセルも慌てたようにセクトルの後をついていく。
ミシェルも今は治癒魔術護衛部隊に正式に籍を変更したので、騎士達から変に絡まれたというなら助け出すべきではあるのだろうが、相手がユージーンならモーティシア個人としては本当は離れたい。
それでも已む無くセクトルの後を追えば。
「ーーふざけるな!!」
激昂と同時に、ミシェルがユージーンに掴みかかるところに遭遇した。
普段の冷静なミシェルでは有り得ない状況。
だが相手はミシェルより階級の高い騎士で。
「っ…」
実力が階級に直結する騎士団において、たった一瞬で、ミシェルの伸ばした腕と首筋の間にユージーンが細身の長剣の魔具を生み出した。
ミシェルもすぐに気付いて身を引くが、剣は離れていく袖に触れて裂かれた。
血が滲まないので皮膚は免れた様子だが。
「副隊長!!」
次に叫ぶのはセクトルで、状況に驚きながらかつての上官の元へと駆け寄って。
掴みかかっていたのはミシェルだが、彼が大した理由もなく他者に暴力を振るう男ではないと全員がわかっていた。
わかっていたからこそ、セクトルは狼狽えながらも二人の間に割って入り、どちらかといえばミシェルを庇うようにユージーンへと身を向けた。
「……副隊長、何があったのですか?」
その間にモーティシアはアクセルと共にミシェルに近付き、斬られた袖に触れて怪我がないことを改めて確認する。
突然訪れたセクトルに驚くこともせず、ユージーンは手にしていた魔具を霧散させた。
それと同時に視線はモーティシアに向き、なぜか奇妙な笑みを浮かべてきた。
あまりに不気味な笑みに思わず一歩下がるが、挑発されたと勘違いしたのかミシェルが体を強張らせてユージーンにまた向かおうとするからアクセルと共に何とか止めた。
「…ミシェル殿、治癒魔術師護衛部隊と関係のあることでしょうか?」
現在騎士団とモーティシア達が争うとすればその立場からでしかなく、また似たような諍いが起きたのかと訊ねてみたのだが、ミシェルは何も言わずにユージーンだけを睨み続けている。
ガブリエルが亡くなったことが尾を引くように顔色は恐ろしく悪いのに、眼光だけは凄まじく強かった。
ミシェルが口を開かないというなら、ここにいる必要はない。
ユージーンと絡みたくないモーティシアはセクトルに目を向けて、まだこちらを見つめるユージーンのことは視界に入れないよう努めた。
「セクトル、戻りましょう」
「……いや、でも…」
「戻りますよ」
かつての上官が気になるのかセクトルは戸惑うが、モーティシアは強く呼びかけた。
「…ミシェル殿、あなたも行きますよ」
怪我をしていないならと腕を引っ張るが、殺気立ったままユージーンから目を離さない姿にため息をつく。
視線を遮る為にミシェルの前に立って、もう一度彼の名前を呼ぼうとして。
「ーーミシェル、私は国の命令に従っただけだ。文句があるなら刑務部に言うことだな」
モーティシアが背中を向けたユージーンが、面白がるようにミシェルにだけ理解出来る言葉を発した。
「っっ、貴様あああぁ!!!!」
途端にミシェルが激しく怒り狂い、モーティシアを前にしながらその先にいるユージーンへと掴み掛かろうとする。
「落ち着きなさい!」
「うわぁ!ミシェル殿!!」
モーティシアは前から、アクセルが後ろから慌てて止めるが、鍛えたミシェルを抑えるには二人では足りなかった。
「ミシェル殿!落ち着いてください!!」
一瞬置いてからセクトルも止めに入り、何とかミシェルの動きを封じる。
「そもそも赤子袋になるような馬鹿な女の為にそこまで怒れる情がどこにあった?」
赤子袋、その言葉に全員で固まった。
ユージーンは今、何と言ったのか。
モーティシア以外の三人の眼差しは、ユージーンに向かっていた。
モーティシアは呼吸を忘れた。
赤子袋。
それを抱くよう命じられる可能性があるとは、モーティシアもセクトルも言われたことだ。
アクセルは原子眼についての魔力の調査がある為に可能性は低くはなるだろうが、それでも可能性段階では伝えられていたかもしれない。
護衛でありながらアリアを守れなかった罰として。
ユージーンは抱いたというのか。
ユージーンの語り口調とミシェルの激しい怒りから察する赤子袋の母体は一人しかいない。
そして彼女は、亡くなったと聞かされた。
平気で遊女を殺そうとしたユージーンのことだ。赤子袋となった女性に一切の容赦などしないことは明白で。
ハッと我に返るようにミシェルに目を向け、その視線の動きに気付いたミシェルとはっきり目が合った。
これまでずっと自信に満ち溢れていたミシェルの顔が苦痛に歪んでいる。
それが全てを物語るようだった。
「……帰りますよ!」
強く吐き出すように、アクセルとセクトルに命じる。
「ミシェル殿、あなたも、今度こそ従ってもらいます」
全員でここから離れる。
今はミシェルもモーティシアの部下なのだから。
気持ちの悪すぎたユージーンから離れる為に。
ミシェルの身体から力が抜けてから、二人と頷き合って。
モーティシアはユージーンに顔を向けないまま、ミシェルの肩を押して。
「待て」
「ーー痛っ!?」
突如衝撃が頭部を襲った。
頭皮を引きちぎられるような強烈な痛みに頭が首から外れそうになる。
その後すぐにまた頭を強く引っ張られて、モーティシアは自分の長い髪がユージーンに掴まれていることに気付いた。
「なっ…離せ!!」
あまりに突然すぎてすぐには対応出来なくて。
振り払おうにもユージーンは手を離さず、さらに強く髪を引かれた。
あまりに遠慮のない強さによろけて、ユージーンの方へと引き寄せられて。
「…お前と話せる機会を窺っていたんだ、モーティシア…いや、クイン・ダルウィッカー・モーティシア」
ゾワリと、背筋から全身へと凄まじい悪寒が走った。
口元だけ微笑みの形を作り上げた状態のまま、奇妙に熱い眼差しで見下ろされる。
「なぜ…私の名を……」
視線が間近でかち合い、動揺するモーティシアへとユージーンはさらに笑いかけてきた。
クイン。
その名は、モーティシアが魔術師団入りする際にモーティシアという隠し名で覆った本当の名前だ。
古くから伝わる身を守る為の手段で、本来の名前を隠し名で覆って存在をわからなくするというものだ。
所詮は気休めで何の効果もないが魔術師団には伝統として残り、モーティシアも入団と同時に戸籍からもその名を隠した。なのに。
凄まじい悪寒は、本当に全身を絡め取ろうとするかのようだった。
「……調べたのですか。気持ちの悪い」
隠したとはいっても、今の時代なら結局は簡単に調べられるもの。
冷静に戻って気を落ち着かせる為のため息を吐けば、ユージーンはさらに顔を寄せてきた。
「っ…いい加減に髪を離せ!!」
強い口調にしてみても、奇妙な笑みを浮かべたまま髪を掴む手を緩めようとはしない。
「ふ……副隊長!離してください!!」
あまりに突然の状況に後ろの三人は固まっていたようだが、先に助けに来てくれたのはセクトルだった。
髪を掴んだまま離さない腕をセクトルも掴んで、困惑したままユージーンを見上げて。
「副隊長、もうやめてください!副たーー」
かつての上官に強くは出られない様子で必死に呼びかけるセクトルの声が不自然に途切れた瞬間、モーティシアの眼前にあったユージーンの顔がさらに近付いた。
そして。
唇に奇妙な感触が静かに広がった。
あまりに突然の出来事に全てが時を止めるように動かなくなる。
なすすべもなく、思考すら吹き飛んだ。
目の前にあるのは闇のようで、壁のようで。
「っっう、うわあああああああ!?!?」
突然真横からセクトルの凄まじい叫び声が聞こえてきて、ドン、と身体を押された。
その瞬間に唇の感触は離れるが、髪はいまだに掴まれたままだったせいでまたも頭に引っ張られるような凄まじい痛みが走る。
だがその痛みのおかげで、停止状態となった思考が戻ってくれた。
戻らなかった方がよかったかもしれないが。
「………て、めぇ!?何しやがった!!」
すぐそばに仲間達がいることも忘れて、自分の口元を押さえながら叫ぶ。
普段のモーティシアからは考えられない口調に仲間達のさらに驚いた眼差しが向けられたが、気にしてなどいられなかった。
ユージーンは、この気持ちの悪い男はたった今、モーティシアに口付けを行ったから。
怒りなのか悍ましさなのか、訳のわからない最悪の感情に全身を苛まれるのに、いまだに髪を掴まれたままいたせいで見上げるように睨みつけることしか出来なかった。
気持ち悪すぎて吐き気が込み上げる。
自分が何をされたのか、理解したことを激しく後悔するほどの苦痛が全身から濁流のように溢れ出てくる。
そんなモーティシアを嘲笑うように、ユージーンは口角をひり上げながら見下ろしていて。
「なぜマリオンがお前を選んだのか、今もわからないんだ」
見下ろしながら、マリオンの名前を出す。
ユージーンが執着する、モーティシアの女の名前を。
「だが…わかろうとなんてする必要はないと察した。クイン、お前が私のものになれば、必然的に彼女も私のものになるのだからな」
誰もが唖然とするほどの、訳の分からない思考回路。
「マリオンごと私の元に来い。お前の容姿なら男でも充分に可愛がってやれる」
あまりにも意味不明すぎる言葉。
今のは本当に言葉なのか訊ねたくなるほど理解の出来ない不協和音。
「…最初から私を全て受け入れろとは言わないさ。私にだって時間を与えてやれるだけの余裕はある。だが、そうだな…お前に私が本気であることを伝える為にも……」
誰もが固まることしか出来ない状況で、ただただ自分の世界観の中だけでユージーンは話し続けて。
「ーー副隊長!?」
セクトルが何かを察して慌てた声を上げるのと、モーティシアの髪がまた引っ張られるのは同時だった。
頭皮からちぎられるような激しい痛み。
その後視界の端に一瞬垣間見えた、魔具を生み出した黒い霧の痕跡。
ゾリ、と何かが削り取られるような感触は右から左へと伝達するように頭に流れて。
全て一瞬の出来事だった。
一瞬のうちに、モーティシアは髪を掴まれていた手から解放された。が。
「ーーーー」
長かった自分の髪が、不自然に短くなっていて。
ユージーンの手の中には、まだモーティシアの髪が掴まれていて。
解放されたはずだというのに、モーティシアの一部はまだユージーンの手の中にあった。
自分の髪が肩にかかる程度に短くされてしまったと妙に冷静に察したのは、不慣れな感覚に視線が肩に向いたからで。
また、視線を戻してしまって。
モーティシアだけでなく、全員が見ている前で。
「クイン、お前に私が本気であることを伝える為にも一本ずつ、お前をしっかり味わっていこう」
わざとらしく舌を晒したユージーンが、モーティシアから切り離した紫の髪を一本だけ指でつまみ取り、ゆっくりと絡めとりながら口に入れた。
一体何が起きたのか。
誰に理解できるというのだ。
得体の知れない化け物を目の当たりにしたかと思えるほどの言葉にならない恐怖心に全身を撫でられる。
「朝も昼も夜も、お前とマリオンを思いながらこの髪を味わって身体に染み込ませていこう。そして全てが私の身体に収まった時、お前達は私の深い愛を受け入れて共に愛し合える存在になるんだ。ふ、はは…今まで見たことも聞いたこともない美しいまじないだと思わないか?きっと多くの詩人達も後世に残すほどの傑作になるだろう」
同じ国に産まれ、同じ常識や言語の中で生きているはずなのに、どうしてここまで言葉の意味を理解できないことがあるのか。
「……私としたことが…最も重要なことを伝え忘れていたな。クイン、愛しているよ」
モーティシアの髪を離さないまま、固まるモーティシアに微笑みかけながら。
その声の音質はまるで、爪で磨りガラスを引っ掻いた時のような悍ましさだった。
髪を掴んだ手とは反対側の腕がモーティシアに伸びてきて、顔に触れられる寸前で突然腕を強く後ろに引っ張られた。
ユージーンの手が空を切り、モーティシアは引かれるままに後方に走らされる。
「ーーやばい逃げろ!!」
モーティシアの腕を掴んで先を走るのはセクトルで、すぐ近くで固まっていたアクセルとミシェルに強く叫んだ。
逃げろ。
その言葉にハッと我に返る二人までもがモーティシアを庇いながらユージーンに背中を向けて走り続ける。
大の大人が、成人を過ぎたはずの男が、後ろを見ずに逃げ走った。
後を追われていたらという恐怖から全員で全力疾走を続けて、その間誰も絶対に後ろを向かなくて。
天空塔に登るには王城の最上階まで上がらなければならない。
だが何かを察してくれたかのように、天空塔は城内の玄関前で蔓を下ろして待ってくれていた。
おそらく偶然ではない。天空塔も一連の時間を見ていたのだろう。
我先にと蔓に手を伸ばし、普段よりも早い速度で引き上げられる。
冷たい風の感覚すら感じないほどの恐怖心。
そうしてようやく辿り着いた天空塔の入り口で、四人は同時に両膝を付いた。
モーティシアはアクセルと共に両手の平も床につき、セクトルとミシェルはまだ上半身は保てている。
「ーーどうしたんだい!?」
駆け寄ってくる足音の方へと無意識に目を向ければ、レイトルとニコルが不審がりながら駆け付けてくれるところだった。
「天空塔が突然揺れたんだ…そうしたら君達が……モーティシア?その髪…」
足を止められる距離まで訪れてから、レイトルがモーティシアの長い髪が思いきり切られていることに気付いて強く眉を顰めた。
「ーーやばすぎだろ…何だよあれ……嘘だろ……」
その後口を開いたのはセクトルだったが、独り言のような呟きは先ほどの光景を信じたくないと言うようだった。
「あれ、食べてたよな?絶対食べてたよな!?」
その後アクセルも震えながら訊ねてきて。
「やめてください!!」
一番思い出したくないのはモーティシアのはずだ。
強く叫べば、全員が時を止めるように固まった。
その間に真っ白に近い頭を何とか動かそうと努める。
状況報告、被害届の提出、どう動くことが最短か、どう説明することが最善か。
何とか考えようとして、モーティシアはミシェルと視線がかち合った瞬間にまた止まってしまった。
ミシェルだけではない。全員がモーティシアに目を向けている状況。だが。
ミシェルの眼差しに、嫌なほど冷静になってしまう。
何が起きたのかを団長達に報告すれば、芋蔓式にミシェルとユージーンの諍いまで話すことになるからだ。
モーティシア達が隠そうとしても、ユージーンは話すだろう。そういう男だとすでに理解している。
そうなれば、下手をすればジュエルにまで動揺が走る。
現段階でジュエル達が不安定となることはどうしても避けたかった。
なら、どうするべきなのか。
「下で何があったんだ?」
「…………何もありませんでしたよ」
自分の受けた被害を報告しないことが、現状最も最善である、と。
「モーティシア!!」
咎めるように叫んだのは誰か。
「何があったかは説明します!…ですが、ここだけで、です。団長達には報告を上げません。……今はその状況ではありません」
髪を切られただけでなく、それを喰われた。
身体的な接触までされた上で、だ。
それは報告すべき悪質な暴力と性被害となるのだろう。
だとしても。
現状で天空塔にいる未熟なメンバー達に不要な心配や動揺を与える行為は悪循環しか起こさなくなる。
「何が起きたのかは、レイトルとニコルにだけは伝えておきます。…ですが、他言しないように。天空塔にいる他の方々にも知られないようにして下さい」
言葉の途中でミシェルと再び視線が合い、彼は察したように苦痛の表情を浮かべながら唇を噛んだ。
ここでの隊長はモーティシアだ。
護衛部隊が守るべきは保護対象だが、隊長であるモーティシアには部下達も守らなければならないのだ。
第115話 終