第115話


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「ーーミモザ様、こちらの資料にもサインを」
 護衛騎士に見落としを指摘された瞬間、ミモザは振り返ると同時に眩暈を感じてしまった。
「ミモザ様!」
 慌てた声がどこか遠くから聞こえてくるような感覚。同時に、背中に熱くて大きな手が添えられる。
「…ありがとう……大丈夫よ」
 ふらりと傾いた身体は騎士の片腕で簡単に体勢を取り戻すが、騎士の表情までは戻らなかった。
 いつも守ってくれる見慣れた顔。その眉間に深い皺が刻まれるのは、ミモザの無茶な働き方を不快に思っているからだろう。
 目まぐるしい政務をこなしながら、兄の為に、妹の為に奔走する。
 来賓へ顔を見せる為に施す化粧も顔色を隠す為に少し厚くなった。
 食事も兄が食べている簡素なパンを口に放り込む時が増えた。
 初めてそのパンを食べた時はあまりの甘さに口内が吹き飛ぶかと思ったが、慣れてしまえば一番効率が良い。
 その分体力を削り続けていると自覚もしているから、兄のように連続では食べないが。
「…本日からはクレア様がフェント様、サリア様と共に率先して賓客対応に出られます。夕方ごろには時間の都合が付きますので、夜会まで休んでいただきますよ」
 有無を言わさない迫力を出されて、久しぶりに背筋が伸びた。
 成人するよりはるかに前から護衛騎士達から叱られることなど無くなっていたのに、久しぶりの感覚だった。
「お兄様は?」
「本日も深夜まで働かれます。真似はなさらないでください」
 ぴしゃりと命じるように冷たく言われて、また背筋が伸びた。
 その後小さくため息をついて、見落としていた書類にサインをして。
 アリア達が天空塔に上がってからは拠点を政務棟の執務室に戻していたが、どうやら治癒魔術師とその護衛達に王城内にあるミモザの執務室を使わせたことにミモザの騎士達は若干の不満を募らせていたらしい。
 頭では理解出来ても、気持ちまでは仕方ない。
 兵舎内周で喧嘩騒動を起こしたニコラに特別な温情を与えたことも不満に繋がっている様子で、しばらくは正しく平等に騎士達の相手をしなければ不満はさらに膨らむだろう。
 理由があるとはいえ己の騎士達に平等性を欠いたのはミモザなのだから、仕方ない。
「…そういえばコウェルズ様には午後からジョーカー隊長も護衛に立たれると聞きましたが、何かあったのでしょうか?」
 ふと疑問を思い出したように訊ねられてしまうが、ミモザは曖昧に首を傾げることしかできなかった。
「さあ、私も深く聞かされてはいないわ」
 本当は理由を知っているが、どこから情報が漏れるかはわからない。
 自分の騎士達を信じてはいるが、さすがに政務棟では口を開けなかった。
「ーーミモザ!ここにおったのか!!」
 たった今起きた出来事のように、突然の来訪者もいるから。
 突然開かれた執務室の扉。
 突然現れたのは、年下の婚約者。
 ヴァルツの頬が酒を飲んだように少し赤いのは、気のせいではない。
 騎士にちらりと目をやれば、彼は慣れたようにヴァルツに頭を下げてから壁へと離れた。
 突然訪れることにも気付いていたのだろう。
 ヴァルツも扉を閉めつつ寄ってきて、初めて外交の仕事を任されたことが誇らしいかのように胸を張っている。
 ファントムの噂が経ってから長くエル・フェアリアに勝手に居座っていたヴァルツだったが、コウェルズの王位継承式とクレアの出発式にラムタル使節団を取りまとめることになったのだ。
 ラムタルからはすでに他のメンバーも訪れているが、今はヴァルツ一人のようで。
「今日もお薬をきちんと飲まれたのですね」
「う……あれ、朝からはものすごくキツいのだぞ…」
 ラムタル使節団の中にヴァルツを傀儡にしようと目論む者がいることが発覚したのはたった数日前だ。
 味方側の者がヴァルツに先に情報を流し、ヴァルツは服毒させられるだろう薬の無毒化をこちら側に頼った。
 ニコルやベラドンナのおかげで薬はすぐに手に入れることができたが、それは強烈な酒だったのだ。それを毎朝。
 水やお湯などでなら薄めても構わないと後に教えられたらしいが、地獄の時間が長引くだけだとヴァルツはひと匙で済ませることを選んでいた。
 滋養強壮としても飲めるということでミモザも気になってひと匙飲んでみたが、申し訳ないが二度と御免だ。
 薬という名の酒はラムタル使節団に潜む敵に見つからないようにミモザの私室に置いており、ヴァルツは朝に飲みに訪れていて。
 今朝はミモザと会えなかったから、ここまで来てくれたのだろう。
「ラムタル使節団の皆様はよく眠れたでしょうか?」
 既に訪れている彼らの動向を訊ねるが、ヴァルツは簡単に手のひらを振って。
「あまり気にせずともよいのだ。どこでもリラックスできる奴らばかり揃えておるからな」
 気の長い者ばかりだと伝えたいのだろうが、曖昧な笑みしか返せなかった。
 言葉を換えれば、肝の据わった者ばかりだということだから。
 ラムタルでも実力者ばかりを輩出しているマオット家の長男と末っ子を除いたアクの強い三人娘と、老臣が一人。あとは護衛の兵が四人だったか。
 その中にヴァルツを傀儡にしようと目論む者が潜んでいることになるが、この件に関してはエル・フェアリアは静観することになっている。
 全てヴァルツに任されたのだ。
 ミモザとしては手を貸したいと心から思うが、現状ではどうすることも出来なかった。
 ヴァルツのことだから、助けが必要な場合は他者に頼み込めるだろう。副毒物を無毒化できる薬を手に入れられた時のように。だがきっと、ヴァルツの中にある助っ人リストの中にミモザは含まれていない。
 力になりたいのに、ヴァルツにとってミモザは弱みを見られたくない婚約者だから。
「ドロシー達がミモザと久しぶりに話したいと言っていたから、夜会の時に少しだけ時間を分けてくれるか?」
「いつでも構いませんわ。夕方から時間も空きますしーー」
 そこで、騎士がわざとらしく咳払いを聞かせてきて言葉を止めた。
「…今のミモザは休める時に休んでおくべきだと私も思っておる。無理はせずいてくれ!」
 ヴァルツも騎士の咳払いの理由を察したように、ミモザの休憩時間を重要視してくれた。
 ヴァルツの方が身に危険が迫っているというのに。
「では私はそろそろ行くとしよう!面白いことがもうすぐ始まるからな!絶対に見逃せぬ!」
 どうやら本当にミモザの顔を見に来ただけの様子で、ヴァルツはさっさと背中を向けてしまった。
 嵐のように訪れて、騎士が扉を開けるより先に自分から開けて去って。
「……何かあるのでしょうか?」
 ヴァルツが見逃せないと口にした事柄を気にするように騎士は首を傾げるが、ミモザはさあ、と同じように首を傾げ返した。
 本当は何があるか知っているが。
 そしてそれは、コウェルズの護衛にミモザの護衛隊長まで立つことに繋がる。
 今日は忙しくなる。あらゆる意味で。
 もしかしたらヴァルツ達が望んでくれるミモザの夕方からの少しの休憩時間すら潰れるほどの出来事が。
 だが残念なことに、その理由にミモザ達は関われないのだ。
 関わるなとコウェルズが直接言われたのだから。
 歴史上初めてとなる、上位貴族と中位貴族の交代が。
「…ガウェ殿はルシア氏をエスコートされるのでしょうか?女性を伴うとは珍しいですね」
 職務に戻る騎士が何かに気付いたかのように窓の外に目を向けて、遠い地面を散歩中であるかのように歩いていくガウェ達を見つける。
 同じ場所に目を向ければ、ガウェとベラドンナ、そしてガウェと歳の近そうな見知らぬ青年が一人。
「……あの方は初めて目にしますね」
 その青年が誰なのか、恐らくこの王城どころか王都に住まう貴族達ですら見かけたことはないだろう。
「ああ、あの方はディボルブ家の嫡子でしょう」
「ディボルブ…というと、ルシア氏の生家の者ですか」
 ベラドンナ・ルシアが上位下家に嫁ぐ前まで、彼女は誇り高いディボルブ家の才女だった。
「やはり王位継承式に出発式が重なりますから、多くの人々が集まってくださりますね」
 騎士はディボルブ家の次期当主まで王城に訪れていることを素直に受け取って微笑む。
「……そうね」
 今から彼らが向かうのは、歴史的な局面だが。
 ヴァルツは影から見るつもりか、それとも堂々と見物するのか。
「さあ、残りも早く終わらせてしまうわ」
 これから何が起きてもいいように、書類整理はとっとと済ませてしまおうと。
 再び机に戻ったミモザへと、騎士は重要な書類から手渡し始めた。

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