第106話
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「…………」
夜も更けて寝室に戻った時、コウェルズは待ち望んでいた女の子がいないことに一瞬で固まってしまった。
心身共に披露した身体をさらに酷使して政務棟でいくつもの会議をこなし、ニコルは来なかったがアリアやその護衛達が訪れてくれて対話し、他国との伝達鳥を使った対談も何国か済ませ、政務棟での簡素な夕食後は妹達全員と各々しっかり話し合いをした。
のに。
「……………………サリアは?」
大浴場で身体を洗うのも適当に済ませて早く会いたくて来たのに、閉じられようとしていた背後の扉を腕一本で止めて、廊下待機の護衛達に表情を強張らせたまま問いかける。
「すでにクイ殿やテテ嬢との再会を済ませて寝室に戻っていると聞いていますが…露台にでも出ているのではありませんか?」
隊長のアドルフは早く休めとばかりにコウェルズを寝室に押し込んでくるから足を踏ん張らせた。
「魔眼蝶を飛ばせる?」
アドルフの隣にいる魔眼に頼めば、フレイムローズはコウェルズとアドルフの顔を交互に確認した。
今すぐサリアの居場所を探せというコウェルズの命令を聞くべきか、とにかく休ませようとしてくる隊長の命令を聞くべきか。
「フレイムローズ、少しだけでいいんだよ?」
「コウェルズ様が帰って来た時にどうするべきか、全員で話し合ったことを思い出せ」
優しく問いかけても、アドルフの声の方が強かった。
「す、すみませんコウェルズ様!本日はお休み下さい!!」
言い逃げていくフレイムローズの背中を見守る。
走り去ったのは、コウェルズの命令を聞かないようにする為なのだろう。なんて健気な魔眼なのだろうか。
「…私が育てた魔眼だよ?」
「王族を思い誠実に忠誠を誓う良い魔眼に育ちましたね」
しゃあしゃあと宣うアドルフを睨みつけても、倍の年月を生きている彼にはいっさい効かなかった。
「諦めて今日は先にお休みください。妹姫様の誰かに会いに行っていらっしゃるのでしょう」
とにかくコウェルズを休ませたい様子が全面に出ているが、コウェルズだって癒しが本当に欲しいのだ。
コウェルズが疲れ切ろうが問題を山ほど抱えているエル・フェアリアの為に一秒すら惜しんで働き続けたというのに、サリアとひと言も話せないまま眠るなど信じられない。
「侍女達にサリアがどこに行ったか聞い」
「はいはい、お休みくださいよ。明日も早いですからねー」
強引に背中を押されて扉を閉められた。
赤子の頃からこの部屋で眠ってきたので見慣れているはずなのに、奇妙なほど静かで広すぎるような気がした。
明日も朝から政務が分刻みで詰め込まれていて、それは下手をすれば数ヶ月続くだろう。だからサリアとゆっくり出来る時間は夜しかないというのに。
本当に露台に出ているのだろうかと急ぎ足で出窓から露台を覗くが、夜の闇にでも紛れているのかサリアの姿は見えない。それとも見えない位置にいるのだろうか。
イリュエノッドから訪れているサリアにはエル・フェアリアの冬の夜は寒いはずで、風邪を引く可能性を考えてしまい露台に続く扉へと向かった。
初冬とはいえ夜は本当に冷え込む。
どこにいるのだと扉に手をかけようとして。
「ーーあなた様?」
後ろから、微かな足音と共にふわりと暖かな香りが鼻腔をくすぐった。
サリアの声が聞こえてきたのは寝室に繋がるコウェルズ専用の風呂場だ。
大浴場があるので個人用の浴室はコウェルズはたまにしか使わず、サリアもコウェルズの何かしらを察するかのようにいつも大浴場を使っていたのに。
「…………珍しいね。ここで入るなんて…」
「あ……あなた様がラムタル国へ行かれてから…寂しくて…ずっとこちらで…」
冷静を装うつもりだったのに、照れたように視線を逸らしながら胸の内を素直に教えてくれるものだから。
すぐに近付いて、待ち望んでいたサリアを抱きしめた。
「あなた様…」
逃げずにいてくれるサリアは、入浴後の為が普段よりも体温が高い。
しっとりと潤う肌も、まだ濡れている髪も、お湯に含まれた花蜜の香りも、全てを全身で感じ取る。
約半月離れていた。一瞬のような、もっと長く感じるような。
「ご無事の帰還、何よりでございますわ」
二人きりだというのに堅苦しい挨拶をして、サリアは我に返ったのか離れようとしてくる。
小さな両手でコウェルズの胸元を押して離れようとするものだから、薄着の肩に両腕を置いたまま完全に離れることは拒絶した。
そのままうなじを指先で撫でれば、頬を真っ赤に染めながらサリアは怒ったように睨みつけてきて。
「あなた様!お戯れが過ぎますわ!今日はゆっくりお休みになって!」
どうやらサリアもアドルフ達に何か言われている様子でコウェルズを休ませようとしてくる。
せっかくの再会だというのに、少しだけ腹が立った。
話したいことは山ほどあり、報告しておきたい大切な事項もあるというのに。
ラムタル国で何度も目を通した歴代のエル・フェアリア王と王妃の文献。王妃となった途端に謎の不調に悩まされ苦しんできた高貴な女達。
サリアは体調を崩してはいないか、どれほど不安に感じていたか。
それに加えてイリュエノッド国から姉のルリアが突然訪れた。
姉妹仲が拗れてしまったのはコウェルズの責任で、姉のルリアが近付いてきたことをどう思っているのか。
イリュエノッド王の兄であるレバンにはサリアへの扱いを責められた。
サリアの弟である王太子のホズは、最後までコウェルズに不信の目しか向けてこなかった。
どこまでサリアの耳に入っているのか。
不安を感じさせたくはないのに。
「ねえ、サリア…」
何を聞こうか、何を言おうか。
腕の中にいるサリアの見上げてくる様子に、言葉を続けられなかった。
抱きしめたいという思いだけに駆られる。
なのにコウェルズの胸元にはいまだにサリアの両手が拒絶の為に添えられていて。
「あなた様…どうかお休みくださいませ。これから大変な時期に入ると聞いています。休める時に休んでいただかないと…」
心配してくれる声にすら、吐息混じりの呼気に身体が反応しようとする。
疲れていても、コウェルズはまだ若いのだ。
「私に休んでほしい?」
訊ねれば、切実な眼差しで頷かれる。
「……じゃあ…ベッドの中で、抱きしめてもいい?」
続けた言葉に、コウェルズの本当に言いたいところに気付くように固まられる。
強張る表情。見たいのはそんな顔じゃない。
しかしコウェルズがそんな表情をさせてしまったのだ。
エル・フェアリアに訪れたサリアに客室を案内せずコウェルズと寝室を共にさせた。
それがどういう意味かわかっているのだろう。
サリアが嫌がるからコウェルズも我慢しているだけなのだ。
「…安心して。ただ抱きしめて眠りたいだけだよ。サリアを傷付けたりしない」
本当は今すぐにでも貫いてしまいたい。
我慢するのは、全てサリアの為。
腕の中のサリアは様子を伺うように、そしてどこか怯えるように見上げ続けてくる。
大会に向かう前にも抱きしめたり口付けたりしていたはずなのに、なぜこうも不安に震えるのか。
眉を顰めてしまい、己の犯したその仕草に気付いて天井を見上げた。
「…ごめん。怖がらせてしまったね」
笑っていなかった。
今の自分が、だ。
大会に向かうまでのコウェルズは、サリアが怖がらないように微笑むことを心掛けていたのだ。
優しい戯れだけだよ。だからこれくらいは許してほしい、と。
なのに今の自分はどうだ。
ぎらついた眼差しで見つめ続けて、サリアが浴室を使ってくれていたことに性急になりかけて。
サリアの為に我慢しようと思っていたのに律しきれていなかった。
「……あなた様…」
「大丈夫…本当にごめんね…」
腕の中からサリアを離す。そのまま右手で額を抑えて俯き、ため息をついた。
笑え、と自分に言い聞かせる。
「言い訳だけさせてほしい。多くのことがありすぎて神経が擦り切れそうなんだ。サリアの気持ちを考える余裕を無くしていたよ…」
「そんな、私は…」
コウェルズの言葉にサリアの表情が申し訳無さそうになる。
そんな表情を見たいわけではないのだ。
笑ったり恥ずかしがったり嬉しそうだったり。愛らしい表情が見たいのだ。
「……手を繋いでいいかな?」
何とか微笑みを口元に浮かべて、額を押さえていた手を差し出す。
サリアは何も言わずにその手に触れてくれた。
絡めるように手を繋ぎ合って、サリアをそのままベッドに連れて行って座らせて。
コウェルズが我慢する為の空間を開けて隣に座った。
「…………多くのことがあったんだ」
ぽつりと、言葉は溢れた。
溢れた瞬間に、このまま口を開き続ければ弱音を聞かせることになると理解した。
でも止められなかった。
ぽつりぽつりと話していく。
話せないことも多い中で、それでも聞いてほしい胸中を。
静かに聞いてくれるサリアに甘えるように、ゆっくりと。
気にするようなことではない小さな出来事すら心に擦り傷を与えているのかと思ってしまうほど、今のコウェルズは弱かった。
綺麗なものだけを揃えられて生きてきたコウェルズが初めて体験した殺意や害意、欲望を叶えようとしてくる視線、上手くいかないことだらけの異国。
濃厚な経験をした。その最たる存在はバインドなのだろう。
コウェルズにとって、誰よりも尊敬に値した人間。
同じような規模の大国の、同じ直系の王族長子、しかし安定していたエル・フェアリアとは違い、ラムタルはいつ誰が暗殺されるかわからない状況だった。
そんな国を若くして立て直した、伝記の中の英雄のような人。
無意識に強く深く尊敬していたのだ。
コウェルズはサリアに、心の虚無感を伝える。
正義感に溢れた人。道一本間違わない人。
だが実際は、コウェルズが勝手な想像で慕っていただけだった。
勝手に尊敬して、身勝手に落胆した。
その落胆は誰の責任なのか。
コウェルズの責任だけだと言えるのか。
責めてもいけないのか。
信念を曲げない人だと長年そう思わせたのは向こうではないか。
思わせるなら、なぜ最後まで貫かないのか。
人である以上、どう足掻いても人の目から離れることは出来ないのに。
バインドは己の信念よりも、いつ断たれるともわからない他人との情を選んだのだ。
国の安定よりもリーンを、コウェルズよりもオリクスを。
「……あなた様…」
いつの間にか強く拳を握りしめていた手に、サリアの柔らかく小さな手が重なる。
見つめれば見つめ返してくれる。
サリアは否定も肯定もしない。
どう口を開けば良いのかと戸惑う様子ではあったが、コウェルズを切実に見つめ続けてくれた。
コウェルズの弱さに幻滅せずにいてくれる。
その眼差しに心の痛みが少しだけ和らいだ気がした。
「……抱きしめてもいい?」
優しい表情を見せられる余裕など無いままに掠れる声で怖がるように訊ねてしまう。
見つめ続けてくれるサリアは、自らコウェルズの胸に身を寄せた。
人肌の温もりと、優しい香りと、柔らかな身体。
逃げられないように抱きしめて、首筋に唇を当てるように頭を下げた。
とたんにサリアの身体が微かに強張るのを密着した身体で感じるが、いつものようにコウェルズを咎める言葉は口にしなかった。
「…今すぐ君を抱きたい…でも実行してしまうと……君はこれからもずっと私を警戒し続けるよね?……どうしたらいい?」
答えられないような困らせるだけの質問を口にしてしまい、さらに抱きしめる腕に力を込めた。
サリアを困らせたいわけでも、言葉巧みに操って身体を開かせたいわけでもない。
コウェルズ自体がわからないのだ。
自分の本当の気持ちが多くある。
サリアを抱いてしまいたい。
このまま優しくそばにいてくれたらそれでいい。
話しを聞いて、肯定だけしてほしい。
弱いコウェルズを叱り飛ばしてほしい。
矛盾しているのに、全て本心なのだ。
そしてその全てはサリアにしか叶えられない。
心の拠り所を自分の中に見つけられないほど、今のコウェルズは弱かった。
「……あなた様…私は…」
サリアは身体を強張らせながらも、コウェルズの背中に両腕を回す。
抱きしめ合うように。
「……私の気持ちも…聞いていただけますか?」
少し震える声に混ざる決意。
頭を離したコウェルズを、サリアは見上げてきた。
「私は、あなた様を支える為に多くを学んで参りました。あなた様の隣で、あなた様を支えられるようにと」
今更言わなくても気付いている、勤勉なサリア。コウェルズの護衛達も全員が絶賛した小国の王女。
「私の全てはあなた様の為だけにあります…」
そのサリアが、切実に見つめながらコウェルズに全てを捧げる言葉を聞かせる。
まるでコウェルズの気持ちを受け入れてくれるかのように。
しかし。
「……でも、あなた様は違う…」
サリアの言葉はそれが全てではなかった。
「お姉様のお身体が弱かったことを理由に婚約を私に変更したように…あなた様はいつでも私を手放せるのです」
今のコウェルズには絶望に聞こえるような現実。
なぜ今それを口にするのかと、焦ってサリアの言葉を阻みそうになってしまった。
「元々はイリュエノッドがエル・フェアリアの赤都の姫を攫ったことから始まった婚約です…その件が無事解決すれば、あなた様を支える人は私でなくても良いのです。…エル・フェアリアほどの大国を思うなら、もっとあなた様に相応しい女性が数多くいるのです」
言葉の前半は、コウェルズがラムタル国でルリアにも告げた事実だ。
サリアは謂わば人質に近い、と。
しかし言葉の後半は。
「あなた様は…いつでも私を捨てられるのです」
エル・フェアリアという国の現実と、サリアという一人の娘の現実。
頭を殴られたと思うほどの衝撃は、それだけコウェルズの中でサリアの存在が大きくなっていたから。そしてサリアがどんな思いでいるのかを自覚させられたから。
サリアを捨てるわけがない。なのに、コウェルズの存在そのものがサリアを不安にさせる。サリアの賢さが余計に現実に気付かせ思い知らせるように。
「私には耐えられません…だって……」
いつか捨てられる時が来たら、
「ずっとお慕いしてました!」
サリアの心は引き裂かれると。
「あなた様とお姉様との婚約が決まった時、私は何日も悲しみ続けました…それが、婚約者が私に代わって……私は浅ましくも喜んで…」
幼い頃から恋心を抱いてくれていたと。時と場合が今と違えば、きっとコウェルズはその告白を深く喜べたのに。
「せめてあなた様に相応しいと納得される為の努力をしました!でも、努力したところで…努力だけで解決することの方が少なくて…」
何かがサリアを傷付けていたのだ。
コウェルズの知らないところで、コウェルズの目と耳に入らないところで、何かが、誰かがサリアを傷付けた。
幼心をえぐるほどの長い間。
それは他者であり、そして恐らく、コウェルズでもある。
コウェルズがサリアを手放したくないと実感したのはつい最近のことで、それまでのコウェルズはサリアを対外的に大切にはしていたが、実際のところは。
「心は一生あなた様のものです。でもせめて、本当の意味であなた様の隣に立つ時まで…私は……せめてこの身体だけは…あなた様に委ねることはできません」
サリアがふと微笑んだ。
悲しいほど眉尻を下げながら、涙を浮かべながら、それでも強がるように微笑んだ。
「どうかご理解を…あなた様を本当に愛しているからこそ……私はもう…今以上に傷付きたくないのです」
サリアを抱きたいと言ったコウェルズへの、サリアからの返答。
王女としての矜持が婚前交渉を許さない訳ではなかった。
今までのコウェルズの行いが、今までのサリアの悲しみが、身体を許さない理由だったのだ。
サリアがエル・フェアリアに訪れて滞在することが急遽決まった時に、コウェルズはサリアの為に部屋を用意させなかった。
それはサリアにとって決定打でもあっただろう。
心の最後の扉を固く閉ざさせるに充分なほど軽んじたのだ。
サリアの心を踏み躙ったのは誰かではない。
コウェルズが長く強く踏み躙り続けた。
そんなコウェルズが、自分の弱さだけは口にして、受け入れてもらおうなどと。
「……ごめんね……中途半端に君を縛り付ける私を…許してほしい」
サリアの気持ちを知ってなお、コウェルズにはもうサリアに心の平穏を与える余裕すら無かった。
寝室も新たに用意などさせない。
コウェルズの唯一の安息時間には傍にいてほしいから。
サリアの身体をがんじがらめにするように強く抱きしめる。
「……約束するよ。結婚式を済ませるまで、君の身体が欲しいなんてもう絶対に口にしない…あんな勝手なこと…もう二度と口にしないから」
腕の中でサリアが小さく鼻をすする。
じわりと胸の辺りもぬるんで、泣いているのだと痛感した。
それは怖かったからか、それとも心の内を話せたからなのか。
サリアの心はコウェルズのものなのだと、サリア自身が口にしてくれた言葉を弱った自分の心に深く刻み付けて。
「君を愛してる…私の心も、一生サリアのものだよ」
これ以上傷付けない為に、腕の力を緩めて愛を囁く。
サリアが背中に腕を回してくれて、弱々しく服を握りしめてきて。
まるでコウェルズの愛の告白を受け入れてくれるかのような仕草に、コウェルズは花の香りの漂う髪に優しい口付けを落とした。
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