第114話


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「ーー何かあれば、すぐに呼んで」
 アリアの過去を静かに聞いてくれていたレイトルは、先ほどモーティシアが訪れたことにより部屋を出て行ってしまった。
 今が何時頃かはわからないが、忙しいコウェルズが天空塔を既に降りていることは確かだろう。
 メディウム家の奇妙な体質についてわざわざ説明に訪れたというのにアリアは途中から聴くことが出来なくなってしまい、部屋に戻ってからはレイトルが静かにそばにいてくれて。
 アリアの過去を、レイトルはどう思っただろう。
 無理矢理襲われそうになったのは村の男達からだけだが、思い出したくない過去ならいくらでも存在していて。
 知りたいと願ってくれたレイトルは、いったい何を思っただろう。
 薄汚いと、もし思われてしまったら。
 その恐怖が今になってアリアを新たに包む。
 話している最中はただ怖かった過去を聞いてほしくて口にしてしまったのだ。
 自分がどれほど哀れな被害に遭ってきたか。
 どれほど眠れない夜を過ごしてきたか。
 まるで自分がこの世界で一番哀れな存在であるかのように。
 しかしまだ話していないことがある。
 どうしてもレイトルには話せない過去。
 彼には一生話さないだろう。
 それほどの過去。
 ベッドの上で膝を抱いて全てを遮断する。
 なぜあんな過去があるのだ。
 そんな、どうしようもない後悔。
「ーーアリアさん?」
 ふと扉の方から落ち着いた女性の声が聞こえてきて、無意識のように目を向けた。
「あ、起きてたのね。ごめんなさい、返事がなかったから…」
 もどかしそうな微笑みを浮かべながら扉の側に立つテューラが、アリアの様子を伺ってから扉を閉めてこちらに来てくれた。
「ニコルに言われて来たんだけど…居てもいい?」
 何故訪れたかを正直に教えてくれるテューラは、見上げることしか出来ないアリアにどこまでも優しく微笑み続けてくれる。
 テューラは聞いていないのだろうか。
 アリアや、ニコルにも当てはまるだろう体質を。
「……今の顔、さっきのニコルそっくり。……確かに怖いものね…」
 アリアの様子から何を思うか感じ取ったのか、聞かされたのだと教えてくれる。
 魅力だなんて。
「怖い思い、たくさんしたのね」
 言葉通りの妖艶なものでないことは、テューラも薄々勘づいたようだった。
 ちやほやと誰からも愛されるようなものではない。
 生きて来た道のりがそれを物語る。
「…テューラさんは、どうして兄さんのことを好きになったんですか?」
 訊ねた理由は、レイトルの気持ちを疑う自分がいるからだ。
 アリアにとってレイトルは、永遠にそばにいてほしい人だから。
 同じように、テューラは兄にとって重要な人だ。
 魅了なんてもので囚われたとは思いたくなかったから。
「……いつから好きになったんですか?」
 レイトルは最初は一目惚れだったと言った。その後アリアをさらに好きになったとは言ってくれたが、一目惚れだったのだ。
 テューラもそうだったのか。
「…一目惚れ、とかしたんですか?」
「それはないわね」
 恐る恐る訊ねて、あり得ないとぶった斬られて驚いた。
「確かに顔は良いわよ?でも一目惚れって…まあ、どうなんだろう?私の場合は最初の出会いが訳ありだったから…」
 深く考えてくれる表情に、姿勢を正す。
「……好きになったら危険な人だな、っていう思いはあったわね。良くも悪くも目立つタイプだってことはすぐわかったし、…何より……」
 そこで言葉が途切れて、言うのを躊躇うように困った笑顔が浮かんでいた。
「…教えてください」
「……んー、どうしようもない男女の違いなんだと思うんだけど…我慢はしてくれてたけど、向けてくる視線がやっぱり、ねえ…」
 曖昧に濁されて、優しそうな眼差しで見つめられた。
 その笑顔はまるで、記憶の片隅にひっそりと残っていた母のようだった。
「レイトルさんは、我慢してくれてる?」
 そして、不思議な質問。
「…何をですか?」
 よくわからなくて問い返せば、また困ったような笑みに戻ってしまった。
「たとえば、あなたを無闇矢鱈に抱きしめたりとか…」
「……ないですよ。近くにはいてくれますけど、なんだか、壁があるみたいな…」
 それは純粋な不満だった。
 レイトルが大切にしてくれていることは強く伝わるが、アリアには不満な点でもあって。
 そしてテューラが言葉を濁した意味も理解する。
「…レイトルさん、優しく抱きしめてくれるだけなんです。やっぱり貴族の人だからとかもあるんでしょうか…」
 貴族だから身持ちが固いという意味ではない。まだ恋人になってから日が浅いという意味でもない。
 アリアが、貴族からすれば薄汚い貧民だから。
 不満はすぐに不安に変わるが、テューラはパッと表情を明るくした。
「すごく真剣に愛されてるのね」
 どこか羨ましそうに、微笑ましそうに。
「…どうしてですか?」
 アリアにはすぐには受け入れがたい感想だが、縋りたい思いもあって。
「大切だから手を出せないのよ。今のお城の状況だと、もし手を出してしまったら、その後アリアさんが外圧で傷付くことが多くなるから」
 短い期間、さらには天空塔で隔離されているような状況だというのに、テューラはまるで長く見てきたかのように王城内の様子を察する。
「あなたも客観的に見ればわかるでしょう?このお城に住んでたんだから。私からすれば、レイトルさんはニコルよりも誠実で良い男よ。……ベラドンナ様の言葉を借りるなら、正しく女を守れる人」
 名前を出されて、少しだけ肝が冷える。
 ベラドンナ。
 兄を容赦なく引っ叩いた人。そして長い間父を助けてくれていた人。
 ベラドンナはニコルのテューラやエルザに対する扱いに容赦なく怒った。
 死ねとまで口にしたのだから。
 父の薬をずっと送り続けてくれていたことを感謝したいが、初めての出会いが強烈すぎて怖くもあった。
「…レイトルさん、魅了の力なんて関係なくあなたを心から愛してるわ」
「……そんなこと、わからないじゃないですか」
「ニコルから聞いたけど、魅了された人って、盲目的に崇拝するか、強引に手に入れようとするらしいじゃない。そんな素ぶりあったの?」
「…………」
 不安はどこまでも消えない。だがレイトルは、今まで出会ってきた者達のようにアリアを掴もうとはしなかった。
 二人きりの夜があっても理性的でいてくれた。
 その事実は不満であっても、不安を消してくれる事実でもあって。
「ベラドンナ様がレイトルさんと話したら、きっとニコルに“見習え”って言うはずよ。あなたとのずっと先の未来までもしっかり考えてる人だなって思えるもの」
 力説するように拳を握りしめながら言われてしまい、思わず口元はほころんだ。
 アリアを大切にしてくれる人であることは、もうわかっていたはずなのに。
「…レイトルさん、さっきもあたしの不安を全部知ろうとしてくれたんです。あたしがレイトルさんの気持ちを信じられないって話してしまって、住んでた村や働いてた町で出会ってきた人たちから受けた嫌なこととかが全部魅了の力のせいだったのなら、納得出来てしまうから…」
 強引に腕を掴まれて裏路地に連れ込まれそうになったことは何度もある。
 村までの帰路を追いかけてくる者もいた。
 そうした被害は多くの女性達に当てはまるからこそ、アリアは特段自分だけが狙われているとは思わなかったが。
 受けてきた被害をレイトルに話せば話すほど、彼の眼差しは重苦しいものに変わっていった。
「……女ならよくあることだと思ってたんです」
 レイトルに話した内容を、アリアは端折りながらテューラにも話していく。
 被害、頻度、毎日というわけではない。
 対策だってしていた。
 最後まで親身に相談に乗ってくれたのは村長と夫人だけ。それ以外の人たちに相談しなくなったのは、つらい思いが増えるだけだと悟ったからだった。
 アリアの過去を聞かされて、テューラの表情も段々とレイトルと似たようなものに変わっていった。
 その様子を見るだけで、自分は他の女性達よりも被害を受けた数が多いのだと悟った。
 被害が多すぎる場合、女側にも非があると見るものが大半なのだ。
「…一応聞くんだけど、元婚約者の人…って、そばにいてくれた?」
 一通り話し終えた後に言いづらそうに問われて、彼を思い出す。
「毎日ではなかったですけど、村への帰りはよく送ってくれてました。……あの人なりに助けてはくれてたんですね」
 ケイフ。
 偽りだとしてもそばにいてくれた彼は、彼なりにアリア守ってくれていたのだろう。
「だと思うわ…その人がいなかったら…」
 ケイフがいなかったら。
 忘れてしまいたいほど苦しい思いをさせられた相手だというのに、そばにいてくれた時の顔は忘れられなくて。
「……怖い思い、沢山したのね」
 テューラも悟るように少しだけ話題の筋を横に逸らした。
 恐怖の道筋の中に、テューラも巻き込まれたのだから。
「…ひとつだけ、レイトルさんに言えなかったことがあるんです」
 恐怖と隣り合わせの毎日、それでも助けてくれた人もいる過去。
 ケイフと出会うより以前にも、アリアを助けてくれた人がいた。
 助けてはもらえたが、レイトルや、兄にすら言えない過去がある。
 恐らく一生をかけて口を閉じていた方がいいものだろう。しかし今は、話してしまいたかった。
 相手がテューラだからなのかもしれないが。
「……まだあたしが未成年だった頃なんですけど…」
 掠れる声を懸命にしぼり出す。
 まだ、アリアが成人ではなかった頃。
 病を患っていた父の容体を落ち着かせる為の薬が届かなくなった時があった。
 その薬はニコルが年齢を偽って地方兵として戦闘に出た報酬の一部として、地方領主からわざわざ父の為に内密に送られていたものだった。
 非常によく効く薬で、それを飲んでさえいれば父も共に働けるほど。
 兄のおかげで届いていたその薬は、ある日突然届かなくなってしまった。
 代わりに届けられたのは“戦況が原因で必要な薬草が手に入らなくなってしまった”という謝罪の手紙と代わりの薬だったが、その薬は格段に効果の薄れたものだった。
 日毎に寝込むことの増えてしまった父の姿に、アリアは恐怖で震えた。
 どうすれば薬が手に入るのか、どうすれば父がまた元気になるのか。
 狼狽えるアリアに、ある日一人の男が声をかけてきた。
 父が何日も連続で寝込んだ頃だった。
 アリアの求める薬草を売っている場所を知っている。だが非常に高価であると。
 どうすればその薬草を買えるのか、何でもするからと幼いながらに懸命に問うたアリアに、男は身体を売れと告げた。
 一番手っ取り早く稼げるからと。
 頭が真っ白になり震えるアリアを、男は服越しとはいえ身体中を舐め回すように見つめながら説得してきた。
 薬草は非常に希少価値が高いので他にも狙っている女達がすでに身体を売っている。急がなければ売れて無くなるだろう、と。
ーーお父さんを助けたいだろう?
 両肩に手を置かれて問われて、震えながら頷いた。
 その後はいとも簡単に町の花屋へ連れて行かれ、そこの店主だという老婆の前に出された。
ーーまだ子供じゃないのか?
 老婆は怪しんだが、男に言われるままに成人していると偽った。
 幸いなのか、アリアの身体の発達は早かったから。
 男の前で服を脱ぐ程度の知識しか持たないアリアは、老婆と男がどんな会話をしているのかもわからなかった。
 ただ、経験がないアリアに働き方の流れを教えてやるという名目で、その男が最初の客として名乗りを上げていた。
 早口すぎるほど饒舌に、いかに自分が最初に相応しいかを老女に説得し続けていた。
 アリアにとってひとつ目の救いとなったのは、花屋を営む老女に絶対的な決定権と筋を通す気概があったことだった。
ーー遊び方も金払いも良い男がたまたま来ている。この子はその男に任せる
 老婆の一存で、アリアは男と離された。
 連れて来たのは自分だと引かない男を、さらに屈強な男達が店から追い出して。
ーーここは“花屋”だ。お前が本当に成人で、身体を売ってでも金を稼ぎたいというなら置いてやる
 老婆に最後に問われて、また頷いた。
 どうしても父の薬草を買う薬代を作りたかったから。
 ため息を吐く老婆に薄暗い小さな個室に通され、そこで衣服を脱いで待つよう命じられ。
 個室とは名ばかりで、薄い布で仕切られただけの場所だった。
 服を脱ぐ最中、女の苦しそうな声が離れた場所から聞こえて来た。
 今まで聞いたこともないような呻き声が、短い間隔で連続的に。
 それが何を示すのかなどわかるはずもなく、恐怖でひたすら身はすくんだ。
 次は別の場所からクスクスと笑い合う男女の小声が聞こえてきて、そのあとはピチャピチャと奇妙な水音が。
 何も分からなくて身体は強張り、思考も停止する。
 衣服を脱いだまま物置のようになるアリアがどれほど固まっていたかはわからないが、突然背後で仕切りの薄いカーテンが開く衣擦れ音が響いた。
 その動きに震わされたゆるい風が、アリアの背中をおぞましく撫でる。
ーー本物の初物だ。まだ何も知らない。あとは頼んだよ
 老婆の声はアリアに向けられたものではなく、人の気配を残したまま立ち去っていった。
 人の気配。
 ずっと、背中側に。
 父の為に稼ぐと決めたはずなのに、意識した途端に全身が震えて腰が抜けた。
 すとんと床に座り込んだアリアをどう思ったのか、人の気配はゆっくりとアリアの正面に回った。正確にはアリアの前にあったベッドに。
 ベッドとはいっても、腐りかけた木で出来た安いもので、敷かれた布も汚れて薄い。
 アリアの視界に入るのは客の足元だけで、暗い室内だというのに靴や衣服は浮くほど上等に見えた。
 何か喋らなければと思うのに、ガタガタと震えるだけで声が出るはずもなくて。
ーー申し訳ないが、本当に成人済みなのか?子供に見えるんだが…
 しばらく経ってから聞こえてきたのは、まだ若そうだが落ち着いた男性の声だった。
 理性的なほどゆっくりと問われて、ハッと我に返る。
 怖くて顔は上げられないまま、成人していますと何度も伝えた。
ーー今日が初めてだと聞いたが、どうして働こうと思ったんだ?
 足を組み直す青年に問われて、つっかえながらも素直に理由を伝えた。
 ここで働いて大金を稼いで、父を助けなければならない。
 懸命に伝えている最中に、遠い場所から女の凄まじく甲高い悲鳴が聞こえてきた。
 一気に全身が強張る。
 連動するように別の場所からも女の悲鳴が上がり、男の低い呻き声も響き始めた。
 何が起きているのか分からず固まってしまう。
 ガタガタと震えすぎて、視界も滲んだ。
ーーそんなに怖がって、働けるとは思えないな
 ふと顎を大きな指先でつまみ上げられ、初めて客に顔を向けた。
 アリアの視界は涙で滲みきって顔を把握することは出来なかったが、鮮やかなほどの栗色の長い髪は滲んだ視界にもすぐに入ってきた。
 アリアの銀髪も珍しい色だったが、他のもの達の薄茶の髪とは全く異なる美しい栗色だった。
 青年はアリアの泣き顔を見て息を潜める。
 その後逞しい両手が近付いてくるのがわかったが、ぐっと身体を強張らせてしまった途端に青年の動きが止まり、その後小さなため息が聞こえてきた。
 何をすればいいのかわからないアリアは困惑を続け、やがて青年は隅に置いていたアリアの衣服を掴み、触れないように優しく肩にかけてくれた。
ーー君が探している薬草は、残念だがしばらくは手に入らないだろう。唯一栽培に成功していた土地を敵兵に焼かれてしまったんだ。自生している分は見つかっても少量で…こんな所で働いた程度では手に入らないぞ
 現実を突きつけられて、また全身は強張った。
 今度は恐怖からではない。
 理解が追いつかなくて固まったのだ。
 でも、と何とか続けようとした言葉は、青年に首を横に振られただけで途切れてしまった。
ーー君は騙されたんだ
 騙された。
 ガン、と頭を強く殴られたような衝撃を受ける。
 騙されたのか。
 父ともよく笑って話していたはずの男に、アリアは。
 騙された。
 不思議と涙はそれ以降止まり、呆然としてしまった。
ーー…もう一度聞くが、君は本当に成人なのか?
 呆然としたまま、首を横に振った。
 こんな貧困に喘ぐ土地では、年齢を偽って働きに出るなど当たり前にあることで、自分の年齢自体を知らない者も多い。
 アリアは両親のおかげで自分の年齢を知っていたが。
 11歳です。そう伝えた時、青年がまた息を潜めたのがわかった。
ーー…いくら末端の土地でも、ここはエル・フェアリアだ。未成年に身体を売らせるわけにはいかない。発覚すれば店にいる者全てが懲罰の対象だ。…今すぐ服を着て、迷い込んだだけだというなら…見逃そう
 厳しい口調で問われて、力無く頷いた。
 今はもう男性に肌を晒した羞恥や恐怖よりも、騙されたと気付いてしまった衝撃の方が大きくて。
 お父さんの、薬は?
 小さく呟いた言葉に返事はなかった。
 憐れむような視線を感じて、さらに俯く。
 本当に騙されたのだのだと。
 今の自分は無力にも見知らぬ男に素肌を晒しているというのに、父を救えない絶望感が勝って何も考えられなくなってしまった。
 そんなアリアを憐んでか、青年は衣服を着せようとしてくれる。
 ダボついた、古臭い衣服。
 青年の纏う上等な服とは何もかもが違った。
 アリアの素肌に触れないよう気をつけてくれる優しさが伝わり、騙された自分が惨めに思えて。
 店の入り口近くが騒がしくなったのは、アリアがようやく袖を通そうと腕を動かした時だった。
 突然響き渡ったいくつもの罵声、あちこちからは困惑した女や客達の声も聞こえ始め、アリアは裸のまま身を強張らせた。
 青年が盾になるようにアリアの前に立って様子を窺う。
ーー俺が連れてきた俺の女だ!俺の金だあぁ!!!!
 暴れる男がいる様子で、そしてその声には聞き覚えがあって。
 一気に震え上がるアリアを、青年が奥へと押した。
ーー下がって!!
 青年の声と、男がこちら側に気付いた罵声が重なる。
 青年はどこから取り出したのか分からないがいつの間にか長剣を携えていて、もはや何を言っているのか分からない男の罵声がどんどん近付いていて。
 強く目を閉じてその場にしゃがみ込んだアリアの耳に怒号と金属音が聞こえ、直後に男の凄まじい悲鳴が響き渡った。
 あまりに突然のことにさらに頭を抱えて小さく身体を丸め、何が起きたのかわからないまま恐怖に震え続ける。
ーー早く連れて行け!…もう大丈夫だ……
 どれほど恐怖に震えたかはわからないが突然肩を掴まれて、全身をびくりと跳ねさせた。
 俯いたまま目を見開けば、誰かがアリアの前に片膝をついている。
 視界はまだ涙で霞んでいたが、見たこともないような上等な衣服に、目の前にいるのが青年なのだとすぐにわかった。
 何が起きたのかわからない。
 分からないが、再び伸ばされた青年の手に赤い血が。
 息を飲んだアリアに、青年は手を引きながら大丈夫だと告げてきた。
 それは、怪我をしてしまったという合図のようなもので。
 引かれた手に、アリアは身を寄せるように強く抱きついた。
 アリアを庇ってついた傷であることは明白で、ボロボロと泣きじゃくりながらその手を胸元で強く抱きしめて。
 泣いたまま、全身から癒しの力を溢れさせた。
 母が残してくれた治癒魔術に関する本で独学は続けていたが、一冊の本にかじり付いてたった一人で続ける勉強には限界もあった。
 それでも、アリアを守って傷を負った青年を癒したくて。
 ボロボロと泣いたまま、ひたすら全身から白い魔力を溢れさせ続ける。
 頭の中はパニック状態のままだったが懸命に冷静さを取り戻してから、ようやくその白い魔力を自身の手に集中させて、青年の傷の上に翳した。
 鳴き声はしゃくりあげるようなものに変わり、呼吸も難しくなる。
 それでも、懸命に、健気に。
ーーもういい。血は止まった。大丈夫だ…
 ようやく聞こえてきた静止の声。
 アリアは顔を上げるが、涙のせいで青年の顔を見ることはまだ叶わなかった。
 困惑するアリアに改めて肩へと衣服をかけてくれて、青年が離れる。代わりに老婆が訪れて、狼狽えながらもアリアの無事に安心してくれて。

「……そのあとは、その人には会えずじまいなんですけど…」
 過去、アリアの幼少期の中でも一二を争うほど怖かった被害を話し終えた後、隣にいてくれたテューラは、言葉もないままに手を握りしめてくれた。
 その手は熱いほど温かくて、話す間に過去の恐怖に血の気が引いてしまったのだと気付いた。
「花屋の店長さんが、身内の女性が営む飲食店を教えてくれて、それ以降はそこで働けるようにしてくれたんです。花屋からも近かったから、あの人が来たら改めてお礼がしたかったんですけどね。…綺麗な栗色の髪の毛だったって以外、何も覚えてないんですけど」
 アリアを騙して店に売ろうとした男のその後の消息は知らない。アリアも怖くて誰にも聞けなかったし、事情を知る周りも気遣うように黙っていたから。
 それでも、あの青年には謝りたかったし、感謝も伝えたかった。
「あたしが身体を売らずにいられたのは、きっとあの人のおかげだから…」
 男性が怖いだけでないと思えたのは、あの青年のように助けてくれる人もいたからだ。
 生まれて初めて、家族以外で素肌を見せた人。
 アリアが子供だと気付いてくれた人。
「…それにしても、11歳でかあ。…私も、11歳の時に楼主に買われたわね」
 アリアがテューラに話せたのは彼女が遊郭で生きてきたからで、テューラも過去を思い出すように遠い目をした。
 11歳で、自分の力ではどうしようもないような恐ろしい目に遭った。
 救われたのはたまたま幸運だったからに過ぎない。
「…レイトルさんや……ニコルには特に言わない方がいいわね」
 救われた過去。
 だが、救われたと美談にするにはあまりにも。
「……はい」
「あ、でも私には遠慮しないでね。あなたとは、本当に姉妹になりたいから」
 視線を落としたアリアの耳に、優しく穏やかな声が満ちていく。
 姉妹になりたいと。
 それはテューラがニコルを愛しているからで、そしてアリアとも家族になりたいという意味で。
「ーーっ…はい!」
 嬉しくて、たまらなくて、涙が滲み溢れた。
 テューラだって巻き込まれて恐ろしい思いをしたというのに、アリアを慮ってくれる。
 なんて申し訳なくて、同時に嬉しいことなのだろう。
 テューラの方が小柄なのに、アリアを包み込むように抱きしめてくれた。
 女性特有の柔らかさ。
 安心できる温かさ。
 その身に甘えるように、アリアは自分より小さなテューラに身を寄せ続けた。

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