第114話


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「ーー…まさか、ずっと起きてたの?」
 その愛おしい声が聞こえてきた時、アリアはすぐに顔を上げて、しかしすぐに唇を強く閉じて目を逸らした。
 天空塔で迎える朝日は地上より眩しい気がして、その強さで誤魔化すように朝日の方へと顔を向け続けて。
「…おはよう……ございます」
 誤魔化したいのに声は正直だった。
 アリアの寝室にニコル以外では唯一いつでも深く入ることを許されたレイトルが、静かに近付いてくれる。
 一人で使うには大きすぎるベッド。
 まだ座ったままのアリアの足元にレイトルは腰を下ろして、大きな手でアリアの手を覆ってくれた。
「…寒い?」
 訊ねられた理由が一瞬わからなかったが、すぐに自分の手が氷のように冷たいのだと自覚する。
 自覚しても、返答することは出来なかった。
「……午前中にコウェルズ様が来てくださるって。説明してくれるみたいだよ」
 説明。
 その言葉に肩がびくりと跳ねた。
 昨日を思い出してしまったから。
 昨日、アリアは突然ジュエルから拒絶にも近い言葉を浴びせられた。
 手に古傷のあったミシェル。
 その古傷を癒そうとしていた時のことだった。
 アリアとレイトルで大広間に向かった時、すでにミシェルがジュエルと共に個人的な訓練を行なっていたから輪に加わった。
 他愛無い会話と、今後にも関わる会話と。
 その後小鳥と茜が窓から戻ってきたのでジュエルとレイトルが窓を開けに向かい、ミシェルと二人で待っていた時に。
 どこか見覚えがある気がするミシェルの手の古傷。それが目について、古傷も治せると伝えて。
 ガウェの右目の古傷も治療したので大丈夫だとミシェルの手に治癒魔術を施した時、突然ジュエルが。

ーー魅了の力を使わないで!!

 聴いたこともない力。
 考えたこともない力。
 走り寄るジュエルがミシェルを庇いながら叫んで、その後丁度モーティシア達も現れて。
 泣きじゃくりながら、ジュエルが話した。
 コウェルズから聞いたのだと。
 魅了の力。それはメディウム家の持つ力だと。
 アリアにとっては寝耳に水の能力だ。なのに困惑よりも先に、突然全てが恐ろしくなった。
 その後部屋に閉じ籠ったのは、全身から血の気が引いて立っていられなくなったから。
 昨日最後までそばに居てくれたのはレイトルだった。
 顔も見れずに俯き続けるアリアを、レイトルは触れることはせず適度な距離感を保ってそばに居続けてくれた。
 魅了の力などと、訳のわからない言葉が突然出てきたというのに。
 もしそれが本当なら、レイトルの心すら。
「ーー早いな…」
 考えてしまいそうになる思考を逸らしたのは、レイトルの小さな呟きだった。
 騎士達特有の、誰かが近付く気配に気付いたのだろう。
 扉に向かおうとするレイトルを、アリアは慌てて掴んで止めた。
「……アリア…」
「ーー起きていますか?」
 名前を呼んでくれる優しい声と、扉の外からの声が重なる。アリアは言葉もなくレイトルへと縋るような眼差しを向けたが、すぐに手の力を緩めて離した。
「…………待っていてね」
 どこまでも優しい声がアリアを優しく苛んで離れていく。
 訪れたのはモーティシアで、アリアには聞こえない声量で何かしらを話し合い、やがて様子を伺うように一歩分だけ室内に入ってきた。
「…おはようございます。コウェルズ様が既に来られています」
 説明をくれる為に、コウェルズが。
 普段の様子とは異なる緊張したモーティシアを見つめながら、アリアは少しも動くことができなかった。
「……少しだけ準備に時間をもらえない?起床の確認をしたばかりだから」
「わかりました。先に向かっていますよ」
 最低限の会話だけで離れていくモーティシアを見送ってから、レイトルはまた戻ってきてくれた。
「…髪を梳かしてあげる。コウェルズ様も忙しいから、カーディガンだけ羽織ろうか」
 何も言わないアリアを気遣いながらも、行動は迅速だった。
 コウェルズが現在忙しすぎることは知っている。
 アリアもされるがままにレイトルに髪を優しく梳かれ、淡色の羽織を肩にかけられた。
 濡れタオルを作って顔まで拭いてくれて、少し考える表情を見せてから羽織の袖に腕を通されて。
「もう少し温かいものにしようか?」
 冷え切っていた指先。
 自分ではあまり理解できていないが、きっと肩まで冷たかったのだろう。
「……平気です」
 気付いてくれるその優しさを素直に受け取れなくて、涙が滲みそうになった。
 レイトルに手を引かれて、廊下に出る。
 向かった部屋にはコウェルズとモーティシア、セクトルとアクセル、そして兄もいてくれた。
 王都から去ったトリッシュを除いた元々の護衛部隊メンバー達は、ようやく訪れたアリアに緊張したような視線を向けてくる。兄も同じように。
 アリアはただ俯き続けて、レイトルに促されるままにコウェルズの向かいに座った。
 この話し合いが行われる原因になったジュエルはおらず、当然のようにミシェルもいない。
「…おはようアリア。……昨日は驚かせてしまったね」
 ジュエルの失言を自分の失言であるかのように話しかけてくるコウェルズに顔を向けられないまま小さく頭だけを下げたのは、声が喉に張り付いたままだったからだ。
「皆も動揺しているだろうから端的に言わせてもらうよ。…メディウム家の者達には、恐らく無意識に発される魅了の力が備わっている。確証があるわけじゃないけど、メディウム家の女性達が天空塔に住んでいたのは隔離の意味もあったんだろう」
 静かな声が、耳を閉じたくなるほど室内に響いていた。
 自分の膝の上で強く手を握りしめて、アリアはその後も続くコウェルズの説明に我慢し続けた。
 全ては確実ではないと口にしながらも、コウェルズはまるで体験したことがあるかのように歴代のメディウム家について話していく。
 内容は女神エル・フェアリアもメディウムの者で、当時の魅了の力が凄まじすぎた為に騒乱まで巻き起こったのだろうと。
 推測、憶測、恐らく、だなどとコウェルズは強調しているが、どれもこれもまるで確証を持つかのような話し方が耳をナイフで刺すようだった。
 コウェルズ以外は無言のままで、でも微かな衣擦れや息遣いは聞こえていたから。
 後ろにいてくれる大切な人たちが、突然怖くなった。
「……アリーー」
「っ……」
 誰かに肩を触られて、激しく動揺して拒絶する。
 見上げた先にいたのは兄だった。
「…………兄さ…ちが……」
 驚いた表情でいる兄に凄まじい罪悪感が芽吹くのに、まだすぐ近くにあったその大きな手が怖かった。
 アリアにはいつも優しかった、大好きな手のはずなのに。
 ニコルは視線を逸らして手を引いてしまう。
 悲しそうな表情のまま。
「…つらいなら席を外す?」
 どこまでも優しい口調で訊ねてくれるのはレイトルだった。ニコルの隣から訪れて、ニコルを拒絶してしまったアリアの手を代わりに握りしめてくれる。
 その温もりは怖くなどなくて。
 ほっと安心するのもつかの間、次はモーティシアが一歩分だけ近付いた。
「ーーっ」
 そのたった一歩にまた呼吸が止まる。
 モーティシアだとわかっているというのに、心臓が恐怖を示すように強く早く全身を打ち始めた。同時に血の気が強く引く。
「…レイトル、連れて退室して下さい。……よろしいでしょうか、コウェルズ様」
 神妙な声で指示を出して、何らかの返答を待ったらしいごく短い時間の後にレイトルによって身体を支えられながら席から離された。
 視界全てにもやがかかるように自分に何が起きているのか掴めない中で、レイトルに支えられて扉に向かって。
 その途中で心配そうなセクトルとアクセルの視線に気付いたが、見慣れたその眼差しにすら全身がびくりと跳ねて恐怖に苛まれた。
「大丈夫だから…」
 唯一安心できる人に支えられながら連れて行かれる。
 どこへ向かうのだろうか。
 呼吸すらままならず、広い廊下を歩く途中で足がもつれた。
 倒れる、そう思っても身体は強張ったまま動かず、しかし床に激突するより先にレイトルによって支えられて。
「…大丈夫だから…ゆっくり息をしよう?」
 支えられた身体に浮遊感が巡り、横抱きにされたのだと気付いた時にはすでに歩みも再開していた。
 アリアを抱き上げたまま、レイトルは器用にも一定の穏やかな速度でぽんぽんと呼吸を促してくれる。
 レイトルはアリアを少しも重く感じていない様子で進み続け、到着した場所は先ほどまでいた寝室だった。
「…気分転換の方がいいかもね」
 しかしベッドに向かうことはなく、レイトルは窓近くの椅子にアリアを座らせてくれて、窓まで開けてくれた。
 強い風がすぐに室内に入り込み、身を斬るような冷たさがむしろ冷静さを取り戻してくれるようで。
「何か温かいものでも飲む?前は私に淹れてくれたから、今日は私が淹れようかなーー」
「ーーどうして……」
 あまりにも優しすぎるから、その優しさが恐怖に変わった。
 穏やかな声を遮って、見上げることもできずに問いかける。
「……どうしてそんなこと言えるんですか?……レイトルさんも…あたしの変な力で……そうなってるだけかもしれないのに」
 メディウム家の女達が無意識に垂れ流す魅了の力なのだろう。
 なら、レイトルが優しいのは、愛してくれているのは、全てそのせいではないのか。
「ど…」
 もう一度訊ねようとしたが、声は恐怖で出なかった。
 アリアを愛していると言ってくれたその思いは奇妙な力のせいかもしれないのに、なぜ優しくできるのだ。
 昨日からアリアが最も恐れたのはレイトルの心だった。
 アリアが操ってしまったのなら、レイトルの愛の言葉は全てアリアに都合良く作られた偽りということになる。
 今も与えられているこの優しさは、温もりは、レイトルの本心ではないということに。
 自衛するかのように昨日から頭の中にかかっていたモヤが晴れていく。
 そんなはずはないと思考を鈍らせていたものがゆっくりと。
 代わりにアリアを震えが苛んだ。
「ーーーーっ、ハ…ァ……」
 呼吸がおかしくなって、胸が強く苦しくなって。
「アリア!!」
 慌てるレイトルが視線を合わせながら肩と手を掴んでくれるが、狼狽えた苦しそうな心配そうな眼差しがさらにアリアの胸を強く締め付けた。
 全部ぜんぶ、何もかも嘘なのではないか。
「アリア、大丈夫だから…ゆっくり息を吸って…吐いて……アリア、息を吐いて」
 見つめてくれる眼差しから目を離せない。
 怖いのに、縋りたくて。
 思考など冷静に動くはずもなかった。
「アリア」
「っ…全部嘘なの?……」
 呼吸の合間に、ようやく訊ねる。
 同時に涙が視界を揺らした。
 見える世界が歪み、レイトルの表情も読み取れなくなる。
 それが怖くて強く瞳を閉じ、また強く開いた。
 レイトルの表情は変わらない。
 アリアを想い見つめ続けてくれる。
 それすらも操られたものなのか。
「レイトルさん…あたしのこと……ほんとは好きなんかじゃ」
「違う!」
「違うことない!!」
 叫びが室内中に響き渡る。
 開け放たれた窓からも外に強く漏れただろう。
 しかしそんなこと気にもしていられなかった。
「みんなそうだった!!レイトルさんだって!!最初の頃のレイトルさんだって、みんなと同じだった!!」
 初めて会った時を思い出す。
 物心ついた時から、アリアを初めて見て惚けたように動きを止める者は多くいた。
 自分の美醜が田舎には珍しいほど優れていたことには気付いていたから、そのせいだと思っていた。
 必要以上に優しくしてくれる者も、嫉妬から酷く当たる者もいた。
 多くの者が初めてアリアを目にした時、惚けたのだ。
 おかげで働いていた小さな町ではあらゆる意味で目立った。
 王都に来た時もそうだった。
 レイトルもそうだった。
 思考を停止させるようにアリアに見惚れたのだ。
 それは魅了の力が発動したからなのだろう。
 アリアが意図せずとも、無意識のうちに。
 それが答えなのだろう。
「レイトルさんはあたしのこと好きじゃないんだ!!」
「違う!!」
「あたしが操ってるだけ!!」
 拒絶の言葉がさらに心を深くえぐる。
 突き放そうと両手でレイトルを押したのに、強い力で引き寄せられた。
「アリア…聞いて……君を本当に愛しているんだ」
 抱きしめられて、諭すように耳元で呟かれる。
 どこまでも優しい声。でも。
「……本当だって、わかるわけない……」
 縋りたい。信じたい。でも信じられるわけがない。
「魅了の力って…操る力でしょう?操るなら……操られてるなら…本当なんかじゃない……わかるわけない」
 掠れていく声、音を発するたびに喉をナイフが切り裂くようだった。
 痛くてつらい。
 喉が頭が胸が、心が。
 痛くてたまらない。
 怖くてたまらないのに。
「……本当に君を愛しているんだ」
 落ち着かせようと温もりを分け与えてくれるレイトルから離れられない。
 一度はつかえさせた両手で、今度は強くレイトルの衣服を握りしめる。衣服のさらに奥にあるレイトル自身には触れられないまま、でも衣服を。
「…もしそれが嘘だったら?」
「嘘じゃない。絶対に。確信もあるよ」
 抱きしめてくれる腕に力がこもる。まるで離さないと言わんばかりの優しい力強さだった。
 その中に閉じ込められていると分かるのに、身体は強張ったまま。
「その確信だって…きっと嘘よ……」
 涙が視界を濁流で潰す。
 言葉だけの確信など、縋りたくても信じられるものではなかった。
「レイトルさんだって…今までの人たちと同じ!!」
 信じられない理由を口にした瞬間、強く両の二の腕を掴まれて引き剥がされた。
 目まぐるしい視界の混乱は一瞬のはずなのに永遠に思えて、その後目の前に真剣な眼差しを向けるレイトルがいて。
「……誰に何をされたのか教えて?」
 アリアがレイトルの言葉を信じられない理由。
 アリアが今までどんな目に遭ってきたのか。
「全部教えてほしい。……あの元婚約者以外に、何をされたの?」
 アリアの少ない言葉から察したように、真剣な眼差しが離れなかった。
 頭がさらに混乱する。
 今そんなことどうでもいいはずなのに。
 レイトルが魅了の力で操られているかどうかの話のはずなのに。
「な、んで…」
「大事なことだよ。……私の本心を知りたいと思ってくれているなら…話してほしい。全部だよ」
 力強くて優しい声で。
 全て、包み込むではなく、まるで丸呑みにするかのように。
 自分の身に起きた全て。
 無意識に逃れようとしていたのだろう、レイトルの手の力がさらに強くなり、逃げられなくなった。
 アリアの全てを知る為に。
 アリアに何があったのか、何をされたのか、アリアですら忘れようと懸命に消そうとしていた過去を、記憶を。
「……私を信じて」
 脳の奥深くをこじ開けてくる声は、まるで魔法のようにアリアの強張る感覚を麻痺させていった。

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