第111話
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そろそろ、皆にちゃんと会わせてほしいな。
テューラがニコルにそう伝えたのは今朝のことだった。
次に進もうと思えたのは昨日だ。
ラムタル王弟ヴァルツが突然やって来て、今までは誰とも会わせようとしなかったのにニコルは難なく会わせてくれた。
痩せてしまったマリオンに軽食を摂らせつつ談笑していた最中に現れたヴァルツは珍しいほど本心から無邪気な存在で、だからこそニコルが警戒しなかったのだとわかった。
恐らくヴァルツが特別なのだろうが、この変化を見逃すことは出来ない。
テューラ達が襲われてからのニコルは少しでも選択を誤ると完全に精神が死んでしまいそうなほどボロボロになっていたから。
テューラを守ってくれているようで、ただ殻に閉じこもっているだけの状況。
時間に解決してもらうには、ニコルの立場は危うすぎた。
テューラでもわかることだ。
王族だったニコル。
王族だなんて知らなかった。
ニコルはテューラに「まだ言えていないことが沢山ある」とは話してくれていたが、王族だなんて誰が想像出来るのか。
もし襲われることがなかったら、ニコルは一年をかけてゆっくりと説明してくれていただろう。
一年は短いが説明には充分すぎる時間。
そして準備にも時間をかけられた。
なのに状況は一変してしまった。
半月も経たないうちにコウェルズ王子の王位継承式がある。
各国の要人も集まる中で、継承式後の夜会にはニコルも出なければならないと伝えられていた。
パートナーとしてテューラも出るように、と。
あまりにも時間がない状況。
何の準備もないのに、ニコルは出ないとまで言い出す始末。
そんな勝手が許されるはずがない。
いくらエル・フェアリアが大国だとしても、いくらニコルが突然正体の発覚した王族だったとしても。
勝手が通るほど自由の利く存在だとは思えなかったから。
魔術師団長リナトはテューラの存在に納得していない態度を見せていたし、騎士団長クルーガーもあまり視線を合わせようとはしてこなかった。
テューラという存在が立場の危ういニコルをさらに崖の端に近付けていることは明白だった。
だからこそ最低限、顔を出さなければならない場所には出なければ。
テューラだって厳しい視線に晒されることがわかっている場所になど出たくはない。それでも。
テューラ自身はどうでもいい。ただニコルの立場がテューラのせいで今以上に悪くなることだけは避けたかった。
だからこそ甘える声で「皆とちゃんと会わせて」と頼んで、ニコルは渋ったが何とか説得に成功した。
それでも早朝にモーティシアの身に危険があったせいでバタついてしまい、テューラが皆に会えるのは午後に回されて。
午前中はマリオンと共に待機していた。
マリオンに軽食を食べさせながら何気ない会話を続けるが、マリオンの表情は引き攣っている。
それを少し離れた場所でニコルが見守っていて。
穏やかとは言い難い時間。
部屋の扉が叩かれたのは、説明された通り午後に入ってからだった。
呼びにきたのは少し背の低い騎士で、以前にセクトルと自己紹介してくれている。似ている名前がもう一人いたが、間違えていないはずだ。
初めて会った時もセクトルは無表情だったので最初は歓迎されていないのだと思っていたが、マリオンがモーティシアから「誰にでも基本的に無愛想」だと聞いていたので少しだけ安心する。
「全員揃ったぞ」
全員とは、若い騎士達も含めてということだ。
改めて挨拶をしたいと伝えた時に、モーティシアがせっかくなら天空塔に上がる全員を揃えると言ってくれていたのだ。
天空塔は広く、皆がいる広間まで降りていく。
前を歩いていたセクトルが開けた扉の向こうでは、中の全員が何かを囲むように一ヶ所に集まっていた。
「あの、モーティシアさんは?」
セクトルに問いかけるのはマリオンで、言葉の終わりと同時に小さな歓声が上がっていた。
「モーティシアの怪我を治してたんだ。間近で治癒魔術を見たことない奴らばかりだから、実演兼ねて近くで見せてたんだろうな」
何が起きていたのかを聞かされて、マリオンがサッと顔をさらに青ざめさせた。
モーティシアが今朝襲われたのは簡単にだが聞かされている。
以前マリオンの客だったユージーンに首を強く絞められたのだ。
マリオンは顔を真っ白に変化させて俯き、数秒経ってからモーティシアの元へと走って。
皆が集まる円の中心にいたモーティシアは、マリオンが駆け寄ってきたことに気付いてすぐ立ち上がっていた。
テューラもニコルと共に近くに寄って、セクトルが最後に訪れて。
不安そうに瞳に涙を浮かべたマリオンが何度も何度もモーティシアに謝罪を繰り返し、モーティシアは困りながらも笑って慰めていた。
他者が割って入れないほど近く思える関係に並んでいる騎士達がソワソワとし始めた頃合いで、ようやくマリオンが謝罪を口にするのを止めて。
「心配をかけましたね。周りに報告はもう済んでいるので、今後は何もないと思いますよ」
「……そうか」
モーティシアはニコルに目を向けて、ニコルもわずかに安堵の表情を浮かべて。
テューラが改めての挨拶をするより先に、モーティシアは午前中に起きたことを皆に説明していった。
ユージーンに怪我を負わされた後はすぐに各所へ報告に向かっており、ユージーン本人には王城最上階へは上がらないよう騎士団長クルーガーから改めて強く命じてもらったという。
それだけで済ませたのは、出発式を控えるクレアに無駄な負担を掛けさせない為だ。
本来なら騎士団を追放されてもおかしくないだろうが、何故そうならないのか、テューラには想像がついた。
訳も分からず不審がっている若い騎士達にユージーンが何をしたのかを、モーティシアは過去に遡って説明する。
過去に遊郭街が門を閉じるほどの非道を行ったユージーン。そして悪びれもせずマリオンにまでその非道の手を向け、今日はモーティシアまで襲われた。
それでも騎士団を辞めさせないのは、ユージーンを野放しにしない為。
彼は根っから犯罪者気質だ。だというのに、捕らえようにも国の法にはまだ触れていなかった。
遊郭内で起きたことは遊戯の延長でしかないという現実。マリオンと、かつて被害を受けた娘が悪魔喰らいだったせいで。
今回モーティシアが襲われた件も、ユージーンも傷を負ったせいで喧嘩と判断されてしまった。
天空塔がモーティシアを守る為に行った攻撃を、ユージーンはモーティシアからの攻撃だと言ったのだ。
モーティシアは反論したが、有効となる第三者の目がなかったせいで結局遠くへ引き離すことは出来なかった。
騎士団側も苦肉の策としてユージーンを副隊長に任命していた。
中途半端ながらも立場のある地位が、ぎりぎりのラインでユージーンが最悪の一手を取らない為の拘束となっていたのだ。
それが幸か不幸かなのかはわからないが。
静かに説明を終えるモーティシアの首元にはもう痣はない。
ローブを直しながら周りの者達にも一応気を付けるよう伝えたモーティシアは、空気を変えるように一度パン、と手を叩いた。
「私事でお時間を取らせましたが、皆さんに集まってもらったのは改めて全員での顔合わせをしておきたかったからです」
本題に移るモーティシアに合わせてテューラは前に出ようとしたが、止めたのはモーティシアだった。
どうしたのだろうかと思っていれば、モーティシアは九人の騎士達に目を向ける。
ここにいる者達の年齢にあまり大きな差は無いように見えるが、その九人の騎士達はどこか不安そうな、未熟そうな様子が強く窺える。
今回新たに発足された治癒魔術師候補の者達を護衛する部隊だと聞いていたが、彼らもまた見習いなのだとテューラはここでようやく気付いた。
ミゲルという青年から自己紹介がされて、年齢も聞かされる。一番若いのが16歳のルードヴィッヒとヒルベルトで、最も年齢が上の者でもエミディオとノエの21歳。
正規の護衛では21歳のアクセルが最も若く、年長はモーティシアとミシェルの28歳。
全体で見れば、12歳のジュエルが最も若い。
テューラとマリオンも挨拶をして、空気感はまだ硬いがみな打ち解ける努力は見せようとしていて。
あまりの全体の若さに、テューラは少し表情を強張らせてしまった。
ニコルが信頼出来て、テューラも心を許せて味方と言える人達を見つけておきたかった。
ここにいるメンバーは、まだ見極められていないがせめて表向きは味方をしてくれる人達のはずだ。
だが若すぎる。
若さは時としてそれだけで軽んじられるものだ。
壮年層が身近にいないのは少し怖いものがあった。
ニコルの味方になってくれて、身近にもいてくれる人が欲しいのに。
しかしまだこの天上の城からニコルはテューラを下ろそうとはしないだろう。
そうなれば必然的にニコルも下に降りないことになる。
それではニコルの孤立が進む可能性が高く、彼が心を落ち着けられる時が遠退いてしまいかねない。
今のままではニコルの心が完全に折れてしまう。
表情だけは何とか笑顔を取り繕いながら、テューラは年長の二人に気を配った。
モーティシアは味方になってくれるだろう。
しかしミシェルは本当の意味での味方にはなってくれないと漠然と察することが出来た。
藍色の髪はテューラに恐怖の対象である女性を思い出させるが、兄なのだから仕方がない。
テューラを襲った主犯格。罰せられて当然であるはずなのに、家族の絆がそうさせるのか、ミシェルはテューラを見ようとはしなかった。
妹のジュエルの為にここにいると、醸し出す雰囲気全てで語っていた。
そしてレイトルとセクトルとアクセル。
彼ら三人は見返りなくニコルの味方をしてくれる。
だが若く、貴族としての立場も高くはない。
ニコルがただの騎士で、ここがただの棟の一室ならそれで構わない。
ただの騎士ではないから、今のままでは恐ろしかった。
きっとこれから、テューラが考えるよりさらに複雑で面倒で怖い状況が待っている。
その時にニコルが暴力に任せるような事にならないように、導いてくれる味方が欲しいのだ。
「ーーあと」
どうすればいいのか。眉を挟めそうになったところでモーティシアが付け足すような声を発した。
「日にちはまだはっきりと決まっていないのですが、数日中にビデンス・ハイドランジアが訪れてくれます。元々は治癒魔術師とその周りの助言師として来ていただく予定でしたが、コウェルズ様と相談した結果、あなた達新米護衛騎士の訓練にも付き合っていただけることになりました」
ビデンス・ハイドランジア。
その名前を聞き、ハッと顔を上げた。
テューラがニコルに連れられて黄都領主の個人邸宅に招かれた時にいた人。
年齢の数だけ強さを手に入れたかのような人だった。
「あの、その人はいつ頃…」
「恐らくコウェルズ様の式よりは先に来てくれるでしょうが、はっきりとは言えませんね」
思わず前のめりながら訊ねてしまい、モーティシアがわずかに首を傾げた。
「ビデンス殿が来てくれるなら百人力だね」
レイトルも早く歓迎したいかのように微笑み、アリアも満面の笑みで何度も頷いている。
ちらりと見たニコルの表情もホッと安心するような様子だったから、テューラも気持ちを少しだけ落ち着けることが出来た。
どんな人物かはまだわからないし、テューラをどう思うかもわからない。
それでも年齢を立派に重ねた人物がそばにいてくれるなら、これほど心強いことはないだろう。
あとは少しずつ、ニコルを日常に戻すだけ。
顔合わせを終えて深呼吸をしたテューラはマリオンと目配せし合い、皆にお茶でも振る舞おうとして。
「ーー…」
突然ニコル達四人の騎士が同時に扉へと目を向けた。
ニコル、レイトル、セクトル、ミシェルの四人が一斉に。
その一瞬後には、ニコルが強くテューラの腰を掴んで隠すように引き寄せてきた。
「ニコル?」
突然どうしたのか。
テューラがニコルに引き寄せられた時には他の者達も全員が扉の方に目を向けていて、テューラもたくましい胸から何とか顔を離して扉側を見て。
そこには、美しい人がいた。
光を浴びた緋色の宝石のように艶やかな髪と、同じ色の瞳。
身に纏う美しいドレスも霞むほどの美貌は、呼吸を忘れるほどだった。
たった一人で立っているその人は、呆然としたままニコルを見つめている。
他など見えていないかのように、ニコルだけを。
しかしすぐに腕に抱かれているテューラに目を向けて、また視線はニコルへと戻っていった。
「……ニコル…どうして?」
小鳥のように可憐な声で、彼女はニコルの名前を呟いて涙を溢す。
同時に動いたのはレイトルとセクトルの二人だった。
「エルザ様!どうしてこちらに!?」
エルザの視線をニコルから外す為にレイトルが間に入り、セクトルも扉の向こう側を見てからレイトルに首を横に振っていて。
「一人だ」
「まさか…エルザ様、戻りましょう」
二人はエルザを離そうとするが、一歩たりとも動きはしなかった。
エルザ姫。
エル・フェアリアで最も美しいと称される第二姫。
そして、ニコルと関係を持った姫。
ニコルに恋焦がれる姫。
あまりの美しさから目を逸らすようにテューラはニコルを見上げた。
あれほどまで美しいだなんて思いもしなかった。
想像を絶するほどの美姫。
彼女を前にしたら、どれほど努力を重ねた女でも霞んでしまう。
凄まじい不安に襲われて見上げたテューラをニコルは見つめ返してくれた。
目が合い、テューラを抱き寄せる腕の力も増して。
「…ニコル」
「ニコル!!どうしてですの!?」
言葉が被る。
被るが、ニコルはテューラの眼差しを優先してくれた。
庇護欲をそそるほどの泣き声となるエルザへとまた視線を戻せば、姫はボロボロと涙を溢してニコルに切実な眼差しを向けていた。
レイトルとセクトルが何とか宥めようとするが聞き入れず、ニコルを求めて呼び続ける。
二人が強く止められないのは、王族だからか。
「…ニコル…嘘ですよね?他の女性がいるなんて……私、まだ、私は…あなたと……」
声を震わせて、一歩近付いて。
「エルザ様、戻りましょう」
「嫌!!ニコル!!」
レイトルが触れないようにしながらもエルザを離そうとして、だが止まるはずもなくて。
全員が固まっている。
その中で、若い騎士達を中心に同情的な表情がエルザに向けられ始めていた。
泣きじゃくる姿すら美しいエルザ。
何もかもが他の女達とは違って見えた。
「ニコル、ほら…見てください……」
エルザは懸命に微笑もうとしながら、全身を震わせながら胸元から何かを取り出す。
ネックレスなのかと思ったが、細身の美しいチェーンの中心にあったのは黒い指輪だった。
黒いが、台座に乗る宝石は鮮やかな緋色だ。
「あなたが下さった指輪…少し痩せてしまったので今は付けられないのですが…まだ、あるのですよ?あなたの魔力で……まだここに…」
テューラには理解の難しい話。
「あなたが、産まれて初めて贈るって……私に、これをーー」
大切そうに黒の指輪を両手で持つエルザの言葉がそこで途切れる。
全員が見ている前で指輪が突然、緋色の石だけを残して霧のように消え去ったのだ。
エルザの手の中に小さな石だけが残る。
「ーーぁ…」
呆然とするエルザに、ニコルは目を向けてはいなかった。
皆が強張るように固まっている。
状況を理解出来ずに困惑しているのはテューラとマリオンだけだった。
あの消え去った指輪が何だったのかわからない。
わかることは、エルザが命のように大切に持っていたことくらい。
「…エルザ様、ここへ来てはいけません。戻りましょう」
最初に我に返るモーティシアがエルザの元に向かうが、先にエルザがその場に崩れるように腰を抜かせた。
「いやあああああああ!!!!」
突然の号泣と絶叫。
残った石を強く握りしめながら、エルザは床に伏すように泣き崩れる。
「ーーエルザ様!!」
「っ…」
そこへ新たな騎士が慌てた足取りで現れた。
「イストワール隊長…」
「……ジョーカー隊長」
レイトルとセクトルが彼らの名前を呼ぶ中で、二人は泣き崩れるエルザに触れて起こそうとする。
「どうしてこのような仕打ちをなさるのですか!?私にっ、私が何を……どうして!?ニコル!!」
触られた途端に全身で拒絶して、エルザはまたニコルを見つめる。
「こんなのっ…いつものあなたじゃありませんわ!!」
強く叫んで、激しく泣いて。
それでも美しさは損なわれなかった。
ニコルを見つめ続けていたエルザの眼差しが、次はテューラに移る。
すぐにニコルに隠されたが、緋色の視線は張り付いたままだった。
「返して…」
守るように強く抱きしめられたテューラの耳に、エルザの声が響いてくる。
ニコルの腕の力はさらに強くなっていた。
「ニコルを返して!!」
テューラが奪ったのだと、エルザは泣き叫ぶ。
そのあまりにも悲しすぎる声に、全身がビクリと震えた。
視線が降り注ぐのがわかる。
ここにいる全員の目が、今はテューラに向けられているのが。
針のむしろに置かれたような恐怖に、テューラは唯一守ってくれるニコルの腕に縋った。
「お願いです…返して」
「エルザ様、戻りますよ」
弱々しくなるエルザを優しくも強く連れていこうとする落ち着いた騎士の声。
「モーティシア殿、こちらに」
もう一人の騎士はモーティシアを呼び、その後辺りに静寂が漂った。
ニコルに抱きしめられていたテューラにはわからなかったが、どこか安堵するような気配にエルザ姫が連れて行かれたのだと察した。
ようやくニコルが離してくれた時、モーティシアはいなくなっていて、全員の目がテューラに向けられていて。
マリオンやアリアは心配するような眼差しだった。
だが、他は。
困惑の眼差しの中には、テューラを非難するものも含まれている。
ニコルを返してとエルザは言った。
誰もが想像するだろう。テューラがニコルをエルザから奪ったのだと。
その非難の目。
味方がいない。
この場所で、何かあった時の力となってくれる人が。
ゾッと背筋に悪寒が走り、テューラはニコルの腕に強く縋り付く。
自分に味方はいらないと思っていた。
姫との関係が終わった後でテューラと再会したとニコルが言っていたから、その言葉を信じていたから、きっと大丈夫だと。
自分の存在がニコルの足を引っ張るのはわかっていたから、せめてニコルの味方になってくれる人が近くにいればと思っていたのだ。
だが、現実は残酷だった。
恐怖に全身を包まれている。
テューラの予想を遥かに超えた闇がここにはある。
この城では、テューラは人間ではいられない。
膿であり、癌であり、おぞましい異物なのだ。
エルザ姫を傷付けた、醜い存在。
「…テューラ……部屋に戻ろう」
ニコルの優しい声だけが、テューラの居場所であるかのような。
ニコルを殻から出したかったのに。
ニコルという殻の中に、自ら進んで入りそうな自分を戒めることすら出来なかった。
第111話 終