第108話
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日は完全に傾き、じきに夜が訪れる。
朝から凄まじすぎる激動の中で舵を取り続けたモーティシアは、休むことなく最後の仕事を進めていた。
「…こちらです」
今日だけで何度天空塔を登り降りしたか分からなくなったまま、後ろを歩く人物をひとつの部屋に通す。
「君たちはここで待機していて」
モーティシアに促されたコウェルズは、自身の護衛達に命じてから部屋の扉の前まで訪れた。
中に合図もせずモーティシアが開けた扉の向こうには、不安そうなマリオンが。
「ーーモーティシアさん」
「動かないで」
ソファーに座っていたマリオンが立ち上がった瞬間に、部屋にいた警備の騎士が両手でマリオンに止まるよう優しく命じた。
コウェルズがいるのだ。マリオンはただモーティシアのそばに寄ろうとしただけかもしれないが、警備の騎士達からはそうは見えない。
「…マリオン、大丈夫なので座っていてください」
モーティシアもなるべく普段通りの口調に徹して、マリオンを落ち着かせてソファーへと戻した。
「君達、出ていてくれないかな」
マリオンが落ち着いた状況で室内に入ったコウェルズも騎士達を出ていかせて、王城正門内に用意された応接室はモーティシア達三人だけとなった。
モーティシアがマリオンをここに連れてきたのは、今から数十分前ほど前だ。
凄まじい量の仕事を捌いて時間を作り上げ、マリオンを迎えに一度邸宅まで戻った。
昨夜の時点でマリオンには説明していたので、邸宅に戻った時にマリオンはすぐに出られるよう支度を終わらせてくれていた。
ジャスミンがマリオンの為に用意してくれた備品を白い鞄に入れて、その鞄の口からはモーティシアがマリオンに贈った花がドライフラワーとなって顔を出していて。
荷物は持ってやり、連れていた馬の前にマリオンを乗せてからモーティシアも騎乗し、怖がるのも構わず馬を走らせた。
申し訳ないという気持ちはあったが急ぐことを優先して、王城に着いた後は話しを通していた警備騎士にマリオンを預けて。
そこからコウェルズを迎えに行き、ようやく今に至る。
しかし怒涛の時間はまだ終わらないのだ。
「…初めまして。呼び出しに応じてくれて感謝するよ」
微笑みを絶やさないコウェルズは、マリオンの向かいに座って視線を逸らさない。
モーティシアはコウェルズの後ろに待機するが、コウェルズの王族としての覇気に充てられたかのようにマリオンが萎縮して視線を落とすのを見てしまった。
肩は震えて、表情も白い。それでも。
「…初めまして。王都遊郭から参りました、マリオンと申します。モーティシア様から今回の任務について伺っております。ぜひお力になりたく存じます」
動くなと言われた通りにソファーから無駄に動くことはせず、座ったままゆっくりと深く頭を下げる。
王族を前に声は硬いが、それでも噛むこともつっかえることもしなかった。
「君に何をしてもらいたいか、知っているのかい?」
驚いていたのはコウェルズの方だ。
書簡にはマリオンを王城へと召集する簡単な文面しかなかったのだから。
マリオンもこれ以上口を開いてよいのかとモーティシアに目線を送ってくるから、小さく頷いた。
モーティシアが説明するより、マリオンに話させた方がコウェルズはマリオンを信頼するだろうから。
「…ニコル様の恋人として天空塔にいらっしゃるテューラ嬢の話し相手を兼ねた世話係に呼ばれたものと。それ以外にはニコル様の状況の報告、治癒魔術師アリア様の身の回りのお世話、共に天空塔にいらっしゃる治癒魔術師候補となる侍女の方々とニコル様達の間に入り緩和剤となること、それらの報告も些細な漏れなく行うこと、と」
課せられた職務を淡々と話したマリオンに、コウェルズが感心するように何度か軽く手を叩いた。
「モーティシアが伝えたにせよ、細部も深く理解出来ているようだし…なかなかの逸材だね。侍女に欲しいくらいだよ」
マリオンの言葉の端々からも、ただ単に言われたことをなぞっただけではないと気付いたのだろう。
「君のことは私も聞いているよ。大変な思いをしたね。城内にいれば危険な人物からも守られるし、重要な任務を任せるのだから、もし城下街に出たいなら護衛も付けさせてもらうよ」
「コウェルズ様、そこまでは…」
「そこまでするべき事なんだよ。テューラ嬢が安心できる人物が今現在ニコル以外にマリオン嬢だけだというなら、私達は彼女を守らないといけない。…じゃないと、ニコルがどうなるかわからないからね」
恐ろしいのはニコルだと。
「マリオン嬢、君はニコルと面識はあるかい?」
「はい。一度だけですが」
「それはいつのこと?」
「……申し訳ございませんが」
話すことはできない。それは彼女が遊郭の掟を守るからなのだろう。
「構わないよ。大まかなところはこちらも把握しているからね。寧ろ洗いざらい話さない子でよかった。…報告はモーティシアだけにすること。他の者達が何か訊ねてきても話さなくていいからね。長いヒゲを生やしたおじいさん辺りが何か聞き出そうとしてくるかもしれないけど、口を閉じていて」
暗にリナトのことを話すコウェルズに、モーティシアはため息を溢しそうになってしまった。
マリオンは素直に頷くだけだが、リナトならニコルのことを聞き出そうとマリオンにしつこく訊ねる可能性は高い。
「…マリオン、私の上官だと言う者が現れても口を開いてはいけませんよ。コウェルズ様直々の命令だと逃れなさい」
コウェルズの曖昧な説明だけでは駄目だと念押しすれば、コウェルズ本人から笑い声が溢れた。
「私からリナトに言っておこうか?」
「恐らく無駄でしょう。しつこい人なので」
困惑するマリオンを尻目に、自身が所属する団の頂点だとしても堪えていたため息を溢してしまった。
リナトを尊敬はしている。癖が強すぎるのが難だが。
「……マリオン嬢、他に何か気になることはあるかい?」
確認したいことは全て聞いたとばかりにコウェルズは終わりの為の言葉を発し、マリオンも何も言わないだろうと思っていれば。
「あの…ひとつだけ…よろしいでしょうか」
不安そうな眼差しで、マリオンはコウェルズに口を開いた。
「……何でも聞いて?」
何も訊ねてこないだろうとコウェルズも思っていたのか、言葉は少し遅れていた。
「すみません…あの……天空塔という場所には、決められた人しか来れないんですよね?」
その不安そうな声に、モーティシアも気付いてしまう。
王城にはマリオンを殺そうとする闇市の男は入ってはこれない。しかし、もう一人は。
「…遊郭側から報告は受けているよ。大丈夫。天空塔には訓練の騎士と治癒魔術師候補の侍女以外には隊長以上しか上がれないよう通達してある。君が恐れている彼は副隊長だから天空塔には上がれないし、上がらないよう本人にも伝えているから安心して」
第三姫クレアの護衛部隊副隊長、ユージーン。
対策は取っていると聞かされて、ようやくマリオンは少しだけ安堵に微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
時間を惜しむようにコウェルズが立ち上がれば、外で待機していた護衛によりすぐに扉が開かれた。
モーティシアもマリオンを促して、コウェルズの後に続くよう視線だけで説明して。
不安がるマリオンは何度もモーティシアに視線を送ってくるから、少しだけおかしくなって笑ってしまった。
護衛騎士が最前を歩き、コウェルズは慣れた足取りでその後ろを続く。モーティシアはマリオンの後ろを歩くが、不安そうなマリオンは隣へと来てしまった。最後尾にも護衛騎士がいて、向かう場所は王城最上部だ。
距離はあるが、コウェルズは気にせず最前の騎士と会話しながら進んでいく。
歩く道のりに誰もいないはずがなく、わざと人目に付く場所で最初にマリオンと顔を合わせたのだと察した。
城外への無駄な箝口令は敷かれている。しかし城内で起きていることをコウェルズは隠すつもりがないのだろう。
ニコルが恋人の遊女を連れて天空塔を陣取ったことは既に知られていて、その遊女がどこの誰であるかももう城内には流れているのだ。
突然いなくなったガブリエルや数名の侍女についてもほとんど当たっているも同然の噂も流れ、無駄な詮索などするなと言える状況ではない。
ニコルが王族であることについてだけは騎士達が普段通りであるかのような空気を無理矢理出してくれているので、奇妙な威圧感の中だが不穏な流れにはなっていないが。
現在王座に最も近いものが誰なのか。
血だけを見る者がいるのは、ロスト・ロードがそれほど凄まじい存在感を放っていたからだろう。
モーティシアの見る限りニコルが王座を狙っている様子など全くないが、周りはわからないのだから。
今コウェルズの後ろを歩く女性が誰なのかは、きっと天空塔にいる若騎士達から広がっていくはずだ。
彼らが話題を振りまくわけではない。だが彼らは若いから、下衆じみた憶測を聞いた時にきっと黙ってはいられない。
そうやって広がって行くはずだ。
今コウェルズが連れて来た女性が誰なのか。
何の為に訪れたのか。
ゆっくりと確実に。
魔力を持たない証である薄茶の髪は目立つ。エル・フェアリア全土では最も多い髪色だが、城内ではマリオンを含めたった三人だけだから。
目立てば目立つほど、その噂をコウェルズは上手く使うはずだ。
誰も自分の足元を掬えないように。
むしろそうする為に、マリオンを呼べと言ったニコルの頼みを聞いたのだろう。
ひたすら歩き続けて、城内にいる者達から何度も奇妙な視線を向けられて。
マリオンが次第に俯いていき、隣立つモーティシアに助けを求めるように距離を詰めてきた。
それだけではなく広すぎる城内に怖気付くように顔も引き攣っていき、王城に到着した時には顔色が完全に悪くなっていた。
「…もう少しですよ」
小さな声で励ませば、見上げながら微笑み返してくれた。
しかし顔色は悪いまま。
せめて後ろに立つ騎士がフレイムローズだったならよかったのに、無駄に威圧感のある無愛想な騎士だった為に余計マリオンが萎縮してしまっていた。
長すぎる道のりが小柄なマリオンをさらに小さくさせるようだった。
「もう少し気を使うべきだったかな。さすがに初めて城内を歩く女性には遠かったね」
「いえ、そんな!」
振り返るコウェルズが申し訳なさそうに眉尻をおとすものだから、マリオンが余計に慌ててしまった。
「夕食は気楽に食べられるものを用意させているから、もう少しだけ頑張ってね」
「…お気遣いありがとうございます」
王族に気安く話しかけられて完全に萎縮したマリオンに、少しイタズラな笑みを浮かべていたコウェルズもこれ以上はやめておこうと再び前を向いた。
完全に俯いてしまったマリオンの肩が震えたのは、自身が今どこにいるのかを改めて実感したからなのだろう。
普通に生きていたなら絶対に入れない場所にいて、雲の上の人物が目の前にいて。
それだけでなく言葉まで交わしたのだ。
ただでさえ精神的に脆くなっているマリオンに持ち堪えられるのかと不安になるが、ここまで来てはモーティシアにはどうすることも出来なかった。
広く長い階段を上がり、豪華な廊下を進み。
「さあ、ここが天空塔に繋がる露台だよ」
ようやく辿り着いた頃には、マリオンは体力的に凄まじく消耗した後だった。
息を切らしながら露台に出て、目の前に広がる光景にマリオンは。
「ーーヒッ…」
広い露台一面に広がる大量に蠢く蔦に、マリオンが固まった。
昼間ならまだしも、日は完全に暮れた中で蠢く蔦など恐ろしい以外にない。
「天空塔の身体です。無害ですよ」
「きゃあああああ!!」
術式を組んで辺りを強い明かりで満たした瞬間に、マリオンは凄まじい悲鳴を上げた。
見慣れた蔦は、初めて見る者にはただ恐ろしいものらしい。
「マリオン!落ち着きなさい!天空塔は生き物なのだと説明したでしょう」
悲鳴を上げられた蔦が目に見えてしょんぼりと脱力してしまい、モーティシアは慌ててマリオンに改めて説明をする。それでもマリオンには怖い様子で、強く目を閉じながらモーティシアの背中に縋りついた。
「マリオン!」
「いやぁ!怖い!!」
「大丈夫ですから!!」
パニックを起こしかけているマリオンはモーティシアの背中から離れようとせず、やれやれとコウェルズが騎士達に合図をして下がらせた。
「このまま連れて行こう。慣れてもらうしかないよ」
コウェルズは腕を蔦に向けて伸ばし、天空塔の蔦も命令に従うようにコウェルズとモーティシア達を包み込んで。
「…マリオン、そのままでいいので、絶対に目を開けないまま私に捕まっていてください」
天空塔も気を使うように蔦ではなく魔力でモーティシアとマリオンを包んでくれて、浮遊感に全身を満たされて。
突然の出来事にマリオンはさらにモーティシアに縋りついたが、言われた通り目を開けることはしなかった。
「明日からでいいから、慣れるようにしておくんだよ」
「…わかりました」
コウェルズもここまで怖がられるとはと少し呆れ気味だ。
当初のマリオンへの興味も薄れている様子なのは、ようやく会える人物がもうすぐそこにいるからなのだろう。
コウェルズが直接頼んでもニコルはテューラと会わせようとはしなかったが、マリオンを連れてくるならと了承したから。
天空塔の蔦での移動は十数秒ほどで終わり、ようやく足に床の感覚を感じて。
「到着しましたよ」
マリオンも浮遊感から解放されたことに驚きながらも、モーティシアに縋りついたまま目を開けた。
キョロキョロと辺りを伺って、視界の高さに驚いて。
「ーーコウェルズ様、こちらです」
正面口の奥にいたセクトルが迎えに訪れて、モーティシアに頷く程度の合図を送ってきた。
大丈夫だという合図に安堵するのは、ニコルがテューラの僅かな機微だけで会わせなくする可能性があったからだ。
ようやくコウェルズとテューラを会わせられる。
ひとつの難関を突破できる状況に、まだ終わっていないというのに肩の力が抜けそうになった。
マリオンをまた促して奥へと進み、途中に見えた露台にアリアとレイトルを見かける。
アリアもこちらに気付いて寄ってくる気配を見せたが、すぐにレイトルに止められていた。
夜に静まり返る広い廊下を進み続けて、最奥にようやく辿り着いて。
セクトルが扉を叩き、中にいるニコルを呼んだ。
室内からは返事はないが、セクトルは構わずに扉を開けて、コウェルズを中へと促した。
その後でモーティシアはマリオンに中に入るよう背中を押してやって。
硬く強張っていた小さな弱々しい身体。
その身体が、室内に入った途端にモーティシアの側から飛び逃げるように離れて行った。
「ーー…」
淡い薄茶の髪が、残像を残すようにモーティシアの視界をかすめて逃げていく。
視線で追いかける先で。
「マリオン!!」
「テューラ!!」
二人の娘が同時に強く互いを抱きしめ合った。
もう離れないと言い出しそうなほど。
二人はそのまま床に座り込んでしまい、どちらも涙までこぼし始めて。
さすがのコウェルズもテューラと話せる状況ではないと察した様子で、やれやれとモーティシアに向けて肩をすかしてみせた。
「あんなに顔色の悪い女性に色々と話しは出来ないね。しばらくは諦めるから、報告だけ頼むよ。王位継承式の事だけはしっかり伝えておいて」
ようやく会えたテューラを前にコウェルズは背中を向けてしまった。
モーティシアにそれだけを命じた後はセクトルを呼び寄せて、共に部屋を出て行ってしまう。
政務において無駄を嫌い省くコウェルズが対話を諦めるほどの状況。
それほどの状況を、テューラは切実な涙と共に見せたのだ。
マリオンに泣き縋るテューラの姿は、モーティシアの個人邸宅でマリオンがモーティシアに見せた表情と酷似していた。
心が限界であることが誰の目にもわかるほどの。
テューラはニコルの為に、自分自身が限界であるにもかかわらず気丈に振る舞っていたのだと理解する。
その張り詰めた最後の糸を、マリオンは優しく切ったのだ。
泣きじゃくるマリオンとテューラから目を離して、立ち尽くすニコルへと視線を向けて。
なんて顔をするのだ。
そう、心の中でニコルに話しかけてしまった。
ニコルは呆然とテューラの背中を見つめ続けていた。
弱々しい背中を。
心からの弱さをテューラは曝け出したというのに、その相手はニコルではなかったのだ。
そのことに気付いてしまったのだろう。虚にも見えるほど呆然としていた。
互いの無事を確認しながらも、不安を消し去ろうとするかのように互いを求めるマリオンとテューラ。
モーティシアでは癒せない領域が、ニコルでは守れない領域があるのだと。
はっきりと気付かされるほどの二人の絆に、モーティシアとニコルが愛しい女から目を逸らしたのは同時のことだった。
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