第20話


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 いつの間にこんな時間になったのだろう?
 地上に落ちてきそうなほど不気味な夜の闇を見上げながら、ニコルは酒瓶を片手に自室の出窓に腰を下ろしていた。
 隣の部屋にアリアはいない。
 服毒したワスドラートの治療の為に医師団と共に医務室にいるはずだ。
 護衛にはレイトル、セクトル、モーティシアが付き、ニコルは頭を冷やす時間と称されて護衛に立つことは許されなかった。
 堅苦しい礼装の胸元をゆるめ、ひっつめられた髪はほどくのも煩わしくてそのままにする。軽く苛立っているのに細かい作業などしたくはなかった。
 持たされた酒はシロップのように甘さの強烈なもので、口にするたびに嫌な胸焼けを起こすが飲まずにはいられなかった。
 いったい何だったんだ。あの茶番は。
 張本人であるニコルには知らされないまま進んだ暗殺未遂の全容。
 それにパージャが騎士団入りした馬鹿げた理由も。
 晩餐会後にクルーガー団長から直々に聞かされた一部始終に、ニコルは声も出なかった。ニコルを守るためにパージャを入れたなど。
 自分の知らない所で、こんな大事になっていたなんて思いもしなかった。それともニコルの考えが浅はかだったのだろうか?

『災いの芽を摘み取らず放置し続けて』

 父の言葉がこだまするようによみがえる。
 アリアのことだけでなく、ニコルにも当てはまるとでも言うような。
 不味い酒を一気にあおり、空になるまで喉を動かし続けた。なんて甘さだ。
「--よろしいですか?」
「エルザ様!?」
 空になった酒瓶を割る勢いで隣に置いた瞬間に聞こえてきた姫の声に、ニコルは驚きすぎて窓から転げ落ちそうになってしまった。
 いつの間にいたのか、扉の前に立つエルザは肌触りのよさそうな寝間着に羽織を肩にかけているだけの軽装でニコルを見つめている。
「バルナ・ヴェルドゥーラ氏はもう発たれました。ガウェは各領主の元に改めて回っておられます。最後にラシェルスコット氏と話すらしいので今夜は戻られないかも知れません」
 慌てすぎて色々な場所に足やら腕やら打ち付けるニコルに近付いて、エルザは窓枠に一番強くぶつけたニコルの腕を抱き締めるように両手で触れた。
「…早くアリアのように痛みを和らげることが出来ればいいのですが」
 クスクスと笑うエルザを間近にして、ニコルは思わず顔を逸らす。
 エルザの豊かな胸元が嫌でも目についたからだ。酒に火照った身体に今のエルザの薄着は毒だ。
「…腕をぶつけた程度では治癒魔術で癒してくれませんよ」
「あら、そうなのですか?」
 無邪気に見上げてくるエルザも、ニコルのくだけさせた礼装の胸元に気付いて頬を赤く染めて俯く。純粋なお姫様に男の肌は目に毒らしい。
 お互い様ということかと胸中で笑いながら、ふとニコルはエルザ以外に気配を感じないことに気付いた。
 まさかとは思うが。
「…ここには?」
「一人で参りました!」
 案の定の返答に頭を押さえてため息をついた。
「…あなたという人は」
「今日ばかりは特別なのです!」
 フフンと鼻を鳴らしながらエルザは得意気に胸を張る。
 威張ることか。
「まったく…何を考えているのですか」
「あなたのことです」
 護衛も付けずにうろついたエルザに注意をしようとしても、エルザの好意がニコルに言葉を途切れさせてしまう。
 真剣な眼差しで見上げてくるエルザを正面から受け入れられない。
「…まだ、恐ろしいですか?」
 言葉につまるニコルの強張る頬にエルザの細い指先が触れて、半ば無理矢理顔を向けさせられた。
「あなたとアリアの命を脅かす存在はもうありません。それでも」
「わかりません…わからないのです…安堵している自分はいます。ですがそれ以上に…私だけが知らなかったという事が」
 もどかしいのはその点が最も強い。
 自分だけが知らないということが、これほどまで気持ちを掻き乱すなど。
 信頼できる仲間達ばかりだ。だからこそ遣る瀬無い思いが全身を苛む。自分はそんなに弱い存在だと思われていたのか?守られる立場だとでも。アリアの件を除いたとしても、これではあまりにも。
「…逆の立場でしたら、ニコルはどうされますか?」
 見上げて訊ねてくるエルザの瞳に涙が浮かぶ。痛みをこらえるように眉を寄せる姿は、まるで自分がニコルを傷付けたとでも言うようだった。
「…私なら言えません…父が、友の命を狙っているなど…そんな悲しくて恐ろしいこと、知られたくありません」
 ガウェの本心などガウェ以外にはわからない。しかしエルザならどう思うか。そしてニコルなら。
「…私だって…そうですよ。だからこそ…いや、だからといって知らされないままなど…」
「…ニコル」
 気まずさからうなじにちくりと針を刺すようなわずかな痛みが広がって、ニコルはなだめるようにそこを掻いた。
 気まずいと感じているのはニコルだけだろう。
 どうすればと思考を巡らせたニコルはあることに気付く。
「…失礼しました、自分のことばかり考えて…どうぞお掛けください」
 エルザから離れ、部屋の中央に備え付けられている丸テーブルの椅子に促す。
 椅子を引いてエルザに進めれば、しばらく思案顔になるエルザがニコルの腕をキュッと掴んで引っ張ってきた。
「エルザ様?」
 困惑するニコルがエルザの望むままに動けば、自分のベッドに座らされる。しかもエルザも隣に腰を下ろしてきた。ベッドの上で、互いの距離は大人の手ひとつ分だけで。
 心臓の鼓動が早くなったのは単に緊張したからだと思いたい。
「…お伺いしても宜しいですか?」
「…どうぞ…」
 エルザの方は真剣な眼差しのまま、真一文字に引き結んだ唇を開いてニコルに体を傾ける。
 怒っているようにも見えたのは、見たこともないような真面目な表情をぶつけてくるからだろう。
「以前…ニコルは私以外は愛さないと言ってくださいましたよね?」
 そして以前ニコルがエルザに約束した言葉を思い出させる。
『他の女性にうつつを抜かすことはありません。エルザ様が私を思ってくださる限り、私はあなたに囚われましょう』
 呪文めいた言葉でエルザに約束をした。同時にエルザの愛には答えられないとも。
「…はい」
「…今も変わりないですか?…私を思っていただけていますか?」
 言葉の裏に気付いたのかとも思い心臓が跳ねたが、エルザは無意識だった様子で自分の言葉の後半を自分自身でさらりと流してしまう。
「…アリアの護衛がどれだけ大切な事かは理解しています…ですが…護衛を理由に私を避けてはいませんでしたか?」
「……」
「避ける理由があるなら教えてくださいませ…このままでは…つらいです」
 だが避けられていたことには気付いていたらしい。一度はおさまった涙を再び滲ませる。今度は完全にエルザ本人の胸中の事なので、じきにこぼれるだろう。
「…申し訳」
「謝罪の言葉が欲しいわけではありません…」
 俯いた拍子にふた雫、エルザの瞳から涙が溢れて寝間着のドレスに落ちた。
 淡くとも思いを抱いた姫に目の前で泣かれるのはつらい。
 アリアの事で精一杯になっていた時なら簡単に心を鬼にできたのに、今のニコルの胸には誰かにすがりたいような穴がある。
「…今は、アリアを守ることしか考えられないのです」
「勿論です。わかっています。…ですが本当にそれだけですか?私を嫌いになったわけではないのですか?」
「そんなことありません!!」
 思わずエルザの肩を掴んで強い口調で否定してしまい、びくりとエルザが身を震わせた。
 長いまつげを涙が濡らしている。
「…ですが…避けていらっしゃいましたよね?」
 どうして?と。ニコルを真っ直ぐに見つめてくる瞳は、痛いくらいに純粋で胸の奥にまで深く突き刺さる。
「ニコル…」
 口を閉じたままのニコルを急かすのは、理由を聞くまでは逃がさないという合図だろう。きっとエルザは、ニコルが無理矢理部屋から追い出しても扉の前で待ち続けるのだ。
「…父に会ったのです」
「…お父様?」
 エルザの肩から手を離し、観念して拒絶の理由を口にする。エルザは首をかしげて言いにくそうにわずかに瞳を泳がせた。
「…ですが…ニコルの御家族は」
 両親は死んだと告げたのはニコルだ。
「私とアリアは異父兄妹なんです。亡くなったのはアリアの父で、私の父は…まだ生きています」
 知らなかった事実を耳にしたエルザの目が見開かれる。
 彼を父と呼ぶにはまだわだかまりが強い。だが彼の重い言葉こそが、ニコルの胸にエルザに対する拒絶を生み出した。
「…国立児童保護施設での事件の後に父が現れ、言われたのです。王城内で私はアリアを守りきれない、私にアリアは任せられないと」
 アリアに悲劇が待ち受けるかのような言葉だった。その原因の一端をニコルが握っているとも取れるような言葉で。

 災いの芽を摘み取らず放置し続けて

 もしそれがバルナ・ヴェルドゥーラの件も含まれているなら、ニコルは確かに災いの芽を放置していたことになる。
「…父はアリアを連れていこうとしました。私は止めなかった…その方がアリアを守れるのではと本気で思った…止めたのはレイトル殿です」
 父がアリアを連れていこうとした時、ニコルは動けなかった。
 父の言葉が脳天から突き刺さり、地面に縫い付けられたように。アリアを思うならば彼と共にいた方が。長く離れていたのに、その存在感に委ねてしまいそうになったのだ。
「…その後に私がアリアを取り返したのは…アリアを守りたかったからじゃない…今さら父親面をするあの男が憎かったからです…」
 父にアリアを任せた方がという思いは、段々と父に対する恨みに変わった。何年も放っておいたくせに、今さら口を出すなと。
「アリアを守りたいと言いながら…私は私のことしか頭には無かった」
 兄貴失格だと、自嘲気味に笑う。その頬をエルザは優しく撫でてくれた。
「…あなたは本当に…真面目な方」
 クスクスと笑うように微笑みを浮かべたエルザの美しい顔を見下ろす。
「…真面目などでは」
「いいえ。とても真面目ですよ」
 全てお見通しだとでも言うように、エルザは微笑みを絶やさない。どこか嬉しそうに笑うのは、理由を知れた喜びからだろうか。
「…お父様にそう言われて、その時のあなたのように振る舞われる方は多いでしょう。あなただけではありません。…そしてそう思ってしまった自分が許せないのでしょう?それこそ、あなたが真面目である証拠です」
「…そんな」
 なおも否定しようとするニコルの唇を、エルザが両手で押さえた。
「私だって今、自分の事しか考えていませんもの」
「…どういう」
「…あなたに嫌われた訳ではないとわかって、とても安堵しています」
 胸中を告白するエルザに、少し間を開けてから思わず笑ってしまった。
 確かに、ニコルは自分を許せなかった。
 父の言葉に憎しみで返した自分を。そしてそれを正当化する為に、エルザを拒絶した。アリアを守るという大義名分の下、思いを抱いたはずの姫を。
「…あと初めて、あなたが私に胸の内を教えてくださった。…私にはそれが一番嬉しい…」
 頬を染めて、エルザがはにかみながら顔を伏せた。
 エルザの言う通りだ。今まで何度、ニコルは真剣に向き合ってくれるエルザを躱してきただろうか。
「…ご心配をおかけしました」
「本当ですわ!償いをしていただきます!」
 謝罪をすれば、頬を膨らませながらエルザは両腕を胸の前で組んだ。
 わざとらしく怒る様子に、また笑いが溢れる。
「何でも仰ってください」
 色恋関係無く、勝手に拒絶したのはニコルだ。
 エルザの気がすむならと促せば、わずかに驚いたようにきょとんとして。
「…でしたら…」
「どうぞ?」
 数秒何やら考えてから、エルザは思いきるように口を開く。
「…二人の時は、堅苦しく話さずにいてください…」
「…それはいったい?」
 ようやく口にされた“償い”に、ニコルは首をかしげた。
 エルザの言いたいことを理解出来なかったからだ。
「…さっき晩餐会で、ガウェに砕けた言葉で話されていましたわ!アリアにはいつだって…二人の時は、私にもああいう風に接してほしいです」
 それはすなわち、ため口を希望するということだろうか。
 一介の騎士が姫に?
 他者に知られたら斬首ものの願い事にすぐにでも拒否しかけたが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 傷付けたのはニコルだ。
 それに二人の時はと言ってくれているではないか。
「…わかりました」
「違います!!」
 受け入れて頷くニコルに早速エルザの注意が入った。
「…わかった」
 言い直せば、ふにゃりと表情が緩んで。その可愛らしい仕草にやられてしまいそうになる。
「…それと」
「一つじゃない、のか?」
 そしてまだ“償い”を求めるエルザに呆れてしまいそうになった。
「まだまだ償いをしていただかないと私の心は晴れません!」
 ニコルの言いたい所を理解して、エルザが照れ隠しのようにそっぽを向く。
「…何なりと」
 失笑を隠さずに呟けば、拗ねたのか下腹を軽く小突くように押された。
「…二人の時は、様付けも禁止です!」
 二つ目の“償い”は、さらに踏み込んだものだった。
 ため口の次は呼び捨てなど。
 いくら親しかろうが姫と騎士である以上許されないラインを飛び越えて来てと、エルザはここぞとばかりに願ってくる。
「…呼んでくださいませ…」
 上擦る声に色香が漂う様だった。
「…エルザ」
 ねだられるままに名前を呼んでやれば、案の定エルザの頬が一気に上気していく。
「…様」
「!!…もうっ!」
 しかし急に呼び捨てなどニコルにも難しく、自分の中でしっくり来ないので「様」を付け足せば、エルザが一気に唇を尖らせて拗ねた。
「あはは…すみませ…いや、悪い。慣れなければ…難しい」
 ため口も呼び捨ても、仲間内なら簡単なのに。
 さすがにつっかえつっかえ謝罪するニコルに、エルザも最初は仕方無いかと割り切ってくれたように表情を穏やかに戻してくれた。少し不満そうではあるが。
「…では最後に」
「何でもどうぞ」
 二度あることは三度あるかと予想してみれば、やはりエルザは“償い”を求めてきた。
 いったい何を願うのか。
 ため口に呼び捨てと来たので次は何だと考えてみるが、これといったものは浮かばない。
 ふとエルザを見やれば、彼女は熱を帯びた瞳にニコルを映していて。
「…恋人の口付けをくださいませ」
「--…」
 切実に願うように、エルザはニコルから目を離さない。
 あまりに真剣な姿に、目を逸らしたのはニコルの方だった。
「な、何でもどうぞと言われましたわ!!」
 泣き声のような悲しげな声に胸が軋んだ。
 だがそれは…
「…エルザ」
 目線は伏せたまま、ニコルはエルザの両肩に手を置く。
 距離を取るために。
「…それは駄目だ。叶えられない」
 たとえ神に命じられた償いだったとしても、それを受け入れたらもう、歯止めが利かなくなってしまう。
「言ったはずだ…エルザの思いには答えられない」
「っ…」
 傷付いたようにエルザが口元を引き結ぶ。
 エルザがニコルを思う間は彼女以外の女性は愛さないと約束した。だからといって、エルザを受け入れることも出来ない。
 エルザは大国の王族なのだ。どれほどエルザが歩み寄ろうとしてくれても、互いの出自は変わらない。
「もうだいぶ時間が経った。送るから帰ろう」
 立ち上がり、エルザに手を差し出す。
 これ以上一緒にいるわけにはいかない。
 エルザが今以上を望むなら尚更。ニコルにも我慢の限界があるのだから。
 エルザはちらりと差し出されたニコルの手のひらを眺めたが、ぷいとそっぽを向いてしまう。
「…いや」
「我が儘は駄目だろ?」
「何でもどうぞと言われました!!」
 意地でも帰るものかと身体で伝えるように、エルザはベッドの壁際に移動する。
 ぺたりと背中を壁に預けて、拗ねた表情のままニコルを見上げて。
「…ごねても駄目なものは駄目だ。無理矢理帰されたいのか?」
 わざと怒気を含んだ声を聞かせても、意固地になったエルザも引かない。
「…やってみてくださいな」
 挑発的な口調はエルザには珍しい。
「…では」
 それなら遠慮などするものかとエルザを無理にでも立たせる為にかがんで近付いたところで。
「--…」
 エルザもニコルに近付き、頬に柔らかな感触が広がった。
「--なっ!?」
 甘味がじわりと滲むような感触に、ニコルはすぐに身を引く。
「…ニコルの行動などお見通しですわ!」
 意地悪な笑みを浮かべるエルザも、頬を染めていた。
 不意討ちの口付けを頬に受けて、エルザのそれ以上は知らなさそうな表情を瞳に映して。満足したようにベッドを下りるエルザはとても嬉しそうに笑っている。
「では帰りましょうか!」
 手を繋いでと伸ばされた細い腕を、ニコルは掴んで引き寄せて。
「…これもお見通しか?」
 頬に口付けられた瞬間から、もう歯止めなど効かなくなっていた。
 何とか堪えようとしていた理性を壊したのはエルザだ。
「--んっ…」
 無防備な唇を奪い、手前勝手にもてあそぶ。怯えるように固くなる身体を引き寄せて、口内を蹂躙して。
 経験が無いことを物語るように固まりながらもニコルに全てを委ねるエルザがたまらなく可愛かった。
「…は、ぁ…」
 長く味わい、ようやく唇を離せば新鮮な空気を求めるようにエルザは呼吸を繰り返す。
 細い身体に回した手を離せば、すぐにでも腰を抜かしてしまいそうなほど、エルザの身体には力が入っていなかった。惚けるような表情には、男を誘うような色気がある。
 互いに見つめ合う姿は、もはや姫と騎士とは言えないほどに心の距離が近い。
「…今の、は…」
 まるで自分が何をされたのかわかっていないように、自分の唇にそっと指で触れながら訊ねて。
「…少し刺激が強かったか?」
 先ほどの仕返しとでも言うように意地悪く告げても、とろけるように夢見心地なエルザは何度も確認するように自分の唇を指でなぞっている。
「大丈夫か?」
「…はい」
 反射的な返事に、申し訳なさが先立った。
「…悪い」
「どうして謝るのですか?」
 エルザが自分の唇から指を離して、その手でニコルの唇をなぞる。
「お願い…もう一度…」
 ニコルに身を委ねるように傾いで、エルザが瞳を閉じた。
 一瞬躊躇ったのは、申し訳ないと思った瞬間に冷静な自分を少し取り戻したから。
 後戻りの許されない行為をしてしまった。
 そうだ。もう後には引けないのだ。
 先ほどの強引な口付けを謝罪するように、今度は優しく唇を合わせる。ゆっくりと隅々まで味わうように舌を絡め取り、次第に性急になって。
 二度目の口付けは、最初よりずっと長かった。途中で何度かわずかに唇を離してエルザが呼吸出来るようにしてやったが、甘い吐息がかかってさらにニコルを煽ったからだ。
 ようやく唇を離せば、エルザは力無くニコルにしなだれた。
 はだけさせていた礼装の胸元にエルザの髪がふれてくすぐったくなる。
「…エルザ」
「…私、とても幸せです」
 至上の喜びを味わったかのように、エルザの声は幸福に満ちた色を灯していた。
「でもこれ以上の口付けは駄目なのですよね…」
「…え?」
 しかしすぐに不満そうな寂しそうな色に変わって、どうしたのかと言葉の続きを待つ。
「だって、今赤ちゃんを授かってしまったら大変ですわ」
「…ん?」
 的を得ない言葉に素で聞き返してしまった。
 とても物騒な発言を聞いた気がするが気のせいだろうか。
「夫婦の口付けは、赤ちゃんを授けてくださるのでしょう?」
 ニコルの反応に戸惑うように、頬をニコルの胸元に合わせたままエルザが見上げてくる。
「ニコルの下さった口付けは…夫婦の口付けですよね?お姉様がヴァルツ様とされていた恋人の口付けとは違いますもの」
 男女のまぐわいなど知らないだろうとは思っていたが。
 口付けは互いの関係性で場所が変わると信じて疑わないエルザを見下ろしながら、ニコルの口元は次第に緩んでいった。笑いを堪えるといった方が的確か。
「…どうして笑うのですか?」
「いえ…いや、エルザがあんまり…」
 エルザのあまりの純粋な様子に、高ぶる熱が穏やかに冷めていく。
 大切に大切に育てられた結果か、婚約者がおらずその手の話をされる機会がなかったからか。
 とにかく何とか完全に一線を越えるまでには至らないで済むだろう事実に、ニコルは安堵のため息をついた。
 完全に熱が冷めたわけではないので、しばらくは生殺しの拷問時間が続くだろうが。
「ニコル?」
「…戻ろう。送る」
「…はい」
 今度こそ、エルザを帰さなければ。
 肩を優しく掴んでエルザを離す。
 素直に応じてくれたが、やはりどこか寂しそうに眉尻を下げて、甘えるように細い両腕をニコルの腕に絡めてきた。頭もニコルに預けて、それでは歩きにくいだろうと思ったが、今日ばかりは咎めはしなかった。
 エルザに合わせるようにゆっくりと歩いて扉を開けて。
 せめて誰にも会わないようにと願ったのは、エルザを身体に感じていたかったからだろうか。
 エスコートするように静かに歩き、兵舎の廊下に響く二つの足音にニコルはただ耳を傾けた。

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 嬉しい
--嬉しい

 娘の思いに反応するように、彼女が目覚める。

 とても嬉しい
--近くにいる

 どちらも純粋な思いだ。なのに彼女の思いは暗い闇の中にある。

 愛する人が私を
--私の元に帰ってきてくれた

 どれほど待ちわびたことだろうか。

 喜びに胸が震えている
--ようやく

 娘の淡い思いを掻き消すほどに。

 なんて幸せ
--嗚呼

--ようやく待ち焦がれた日々が訪れる

 彼女は完全に目覚めてしまった。

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 エル・フェアリア王城にて、緊急の集会を知らせる炎の矢が最後に舞い上がったのは今から44年前の事だ。
 当時のエル・フェアリア王位継承権第一位の王子ロスト・ロードが暗殺され、それを伝える為のものだった。
 そして慰霊祭を終えた翌日の明け方、まだ多くの者達が寝静まる時間帯にそれは打ち上げられた。
 44年ぶり、王城で暮らす大半の者達にとって初めて聞かされる炎の矢の奏でる耳慣れない音は、一度聞いてしまえば耳から離れなくなりそうなほどに耳障りでおぞましいものだった。
 普段の生活に戻ったはずの明け方、王城全体の監視に立つフレイムローズを中心に、彼を癒しに来たアリアと護衛に立つニコル達六人が一斉に空を見上げる。
「…なに、あれ?」
「--炎の矢…」
 耳を苛む音に眉を寄せながら、アリアは手を止めて空に流れる灼熱の矢に見入る。
 炎の矢だとすぐに気付いたのはニコルだ。
「…あれが?」
 信じられないというようにレイトルは呟くが、それ以外にはあり得ないことも同時に気付いている。
「…騎士、魔術師は全員召集だ」
 セクトルはあくまでも普段通り冷静だが、瞳の奥には驚きの色が灯っている。
「俺は監視を最優先で任されてるから行けない。みんな行ってきて」
 フレイムローズの言葉に、監視に立つ魔術師達も頷く。
「行きますよ。アリアも」
 まだ炎の矢が何なのか知らないアリアだけが困惑の表情を浮かべるが、促されるままに露台を離れる一同に続いた。
 決して轟音を轟かせていた訳ではない。
 むしろ王城以外には響かないだろうほどの音量だ。
 しかし不愉快な音はどれだけ小さくとも耳に残っただろう。
 王城中央、中庭に。
 そこに全部隊集合せよと伝える為に。

第20話 終
 
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