第16話
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欠伸を噛み殺す様子を見られて、ニコルはわずかに俯いた。
「また眠らなかったのですか?」
クスクスと笑いながら訊ねてくるのは、隣を歩くモーティシアだ。
泣きつかれて眠るアリアをそのまま抱き締め続けていた結果、また睡眠の機会を失ってしまった。
フレイムローズと共に露台にいた頃もそうだったが、さすがに二夜完徹は体が重い。
朝になり冷静さを取り戻したアリアは今度は別の意味で泣きそうになりつつ、ニコルに平謝りだった。
朝食前に見せてもらった両親の形見は悲しいくらい形を崩されて胸が張り裂けてしまいそうになった。
木箱はもう使えない。
本は、内容は全て覚えているらしいが、もう読むことは出来ないだろう。
形見などただの物だと、思い出さえあればいいと、そう言い切るにはニコルもアリアもまだ若い。
部屋を出て食堂へ行き、そこで案の定アリアの泣き腫らした目元は注目を浴びることになった。
酷いとは言わないが、腫れぼったくなっているのだ。近くによれば嫌でも気付く。
その場は適当に誤魔化し、今日の予定をモーティシアに発表され、昼過ぎにニコルとモーティシアはアリアの部屋の件で皆から離れた。
「それにしても、大臣は少し厄介になりそうですね」
「…ああ。…断れないのか?」
今日は朝からエル・フェアリアの政務を担う大臣の一人の治癒があった。
治癒といっても持病の腰痛を癒すだけなので医師団のマッサージで充分事足りるのだが、女好きで有名な大臣はアリアをわざわざ指名し、ニコル達の目を盗んではアリアに触れようとするのだ。
もちろんそんな行為は許さないが。
今朝は全員でアリアの護衛についた理由がそれだった。
最初に舐められたら尾を引く。そうならないように、特にニコル達騎士三人は思いきりガンを飛ばしまくっていた。大多数はその威嚇に首を竦めさせるが、重鎮の大臣はそうもいかず。
アリアの困りはてた様子が忘れられない。
「フレイムローズの治癒が大臣と似た筋肉疲労の緩和ですからね。フレイムローズは出来るのに大臣は出来ないとはいきませんよ。我々が目を光らせる以外にありません」
「…そうか」
「侍女長がビアンカ嬢に代わってからは大臣も侍女達に手を出しにくくなったと聞きますので、なおのこと気を付けましょう。アリアにお鉢が回らないようにしないといけません」
「……ああ」
無駄に地位があるので、強く出られないのが歯痒い。
「モーティシア様、ニコル様」
兵舎内周に入り目的地まであとわずかという所で、ニコルとモーティシアは背後から女性に声をかけられた。
同時に振り向けば、後ろにはビアンカを筆頭にエル・フェアリアでも特に優秀と名高い侍女達が十名ほど揃っている。
二人に深く頭を下げて、ビアンカ達が近づいてきて。
「丁度良い時間だったみたいですね。私達も手伝いますよ」
「いえ、お気遣いは無用です。すぐに済ませますので、しばらくお待ちくださいませ」
必要だと思っていた男手をやんわりと断り、侍女達はニコル達を抜かして先に目的地に辿り着く。
そこはニコルとガウェの部屋の隣で、現在は第六姫コレー付きのスカイとトリックが使用しているのだが。
大丈夫なのか?
それは昨日から思っていたことだ。
アリアが隣の部屋に来ることはとても魅力的だった。しかも真下はレイトルとセクトルの部屋だ。
何かあればすぐに守れる。
だが先客はどうなるのだ?
静かに見守る体勢に入ったニコルとモーティシアの前で、ビアンカは優雅に扉を叩いた。
すると整然と並ぶ侍女達に似つかわしくない間抜けた返事が中から聞こえてきて、
「誰だ~?…ビアッ…ン、カ…嬢…」
扉を開けたスカイが侍女長の姿に異常なほど驚いてみせた。
驚きすぎて言葉がおかしい。
「…おま、何でここに」
「トリック様から聞いていませんか?スカイ様達には本日付けでこちらの部屋を退去していただきます。クルーガー団長にもお知らせしておりますので」
「はあ!?何だよそれ聞いてないぞ!!」
淡々と宣言する侍女長とは真逆にオヤジ騎士と名高いスカイは慌てたように後ろをふり仰いでいる。
「おいどういう事だよトリック!」
大きすぎる怒声をさらりと受け流しながら、トリックも扉の付近に現れた。いつもの穏やかな笑顔に申し訳なさを追加しながら。
「…仰って下さらなかったのですか?」
ビアンカの顔もわずかに不満げになり、後ろでは侍女達が困惑するように顔を見合わせ始めた。
「いえ、昨夜ちゃんと伝えましたよ。ただ私が伝えた時にはすでにお酒に飲まれていましてね。一日休みをいいことに先程まで眠っていたので改めて伝える時間もありませんでした」
「知らねー!!」
「うるっせーぞ黙れスカイ口縫うぞ!!」
叫んだスカイに更に別の部屋の騎士が扉から顔を出して物騒な暴言を吐き、また部屋に戻っていった。
本当に大丈夫なのか?
ニコルとモーティシアも互いに顔を見合わせていると、ビアンカがスッとスカイの近くに歩み寄った。近すぎるほどの距離にスカイがわずかに動揺している。
「治癒魔術師様の部屋にこちらをお譲り頂きたいのです。スカイ様とトリック様の新しい部屋もすでに用意しておりますのでご安心下さいませ。後は荷物を運び出すのみです」
「え、いや…いや、待てよ、アリアだろ?ニコルの妹の。そっちを新しい部屋に入れてやれよ」
「こちらの部屋が治癒魔術師様をお守りするのに最も都合がいいのです。諸々の都合を合わせましても」
「何だよその都合って…とにかく急に言われてもだなっ!」
なおも噛み付こうとするスカイに、ビアンカはさらに半歩近付いた。
不敵な笑みを浮かべながらスカイの胸元に立つ姿は大人の女の色気が強く滲み出ている。
「な…何だよ」
さすがにスカイも顔を赤らめているが。
「侍女の一人から相談を受けていますよ、スカイ様。あなたに身辺を探られて非常に怖い思いをしているとか」
ビアンカの口から告げられた爆弾発言に一気にスカイの顔が真っ青に染まった。ビアンカの後ろにいる侍女達もまるでゴミでも見るような視線を向ける。
「待てよ!知らねえぞそんなもん!」
「あら…本当に?」
慌てるスカイが、含みのあるビアンカの言い方に何か気付いた様子だった。
「………ち、違うって…お前、それ違うからな!」
何が違うのか、まるで二人にしかわからない会話に皆が首を傾げ始める。
「違うも何もありません。この事、騎士団長にお知らせしましたら…どうなるでしょうね?」
最早完全に脅しだった。
ビアンカは何やらスカイの弱味を握っている様子で、スカイも上手く切り返せないのはつまり侍女に付きまとっているという話は本当なのか。
「ま、待てとにかく時間くれ!一日!こっちだって見られたくないもんあるんだよ!!」
「いついかなる時であれ王家の皆様をお守りする王族付き騎士でありながら酔い潰れて一日を無駄に過ごされた貴方が悪いのでしょう?どいて下さいませ。準備の邪魔ですわ」
「お前、血も涙もねえな!!」
さらに一歩近付いてスカイも一歩後退した隙をついて、ビアンカを筆頭に侍女達が雪崩れ込む。
「トリック様、少しだけお許しくださいませ」
「構わないよ。私はもう準備を終えているから」
「ずるいぞ!!」
ニコルとモーティシアも好奇心に負けるように部屋を覗き込めば、ビアンカの指示に従い侍女達が一切の無駄の見えない動きで機敏に済ませていくところだった。
「--ビアンカそれに触るな!!」
ビアンカがスカイの荷物に手をかけたとたん、スカイは侍女長を呼び捨てにして阻止しようと華奢な肩を掴み、何かが盛大に床に巻き散らかされた。
「--…」
まずスカイが固まり、巻き散らかされたものを見た侍女達が次に固まり、トリックがやれやれと頭を抱え、ビアンカが無言でそれを拾う。
ニコルには見覚えのあるものだった。
以前、まだファントムの噂が流れ始めた当初にガウェとフレイムローズが城下に降りて買い漁ってきた春画達だ。
スカイがガウェに直々に指定して買わせたらしいそれは美脚で有名な舞台女優のあられもない姿が描かれた卑猥なものだが、よくよく見ればその女優はビアンカに似てはいないか。
「…へえ?」
春画を眺めたビアンカは凍えるほど冷めた笑顔をスカイに向けた。固まったまま動けないスカイを放置して侍女達が動きを再開させる。ビアンカも何事も無かったかのように春画を広い集めて元の箱の中に戻した。
「…スカイは以前ビアンカ嬢と懇意だったんだよ」
「「え!?」」
状況がわからず困惑したままのニコルとモーティシアにだけ聞こえる程度の小さな声でトリックが事情を教えてくれて、そんなことは知らなかった二人は驚愕しながらトリックに顔を向ける。
「…それで、ビアンカ嬢は部屋替えに関して自信があったのですね」
先に事態を理解したモーティシアが呟き、ニコルも頷き人形のようにただ頷いて。
先ほどビアンカが告げた、スカイに身辺を探られている侍女とはビアンカ自身の事だったのだろう。
素直に部屋を譲ってくれるならいいが、万が一ぐずるようなら騎士団長にストーカー行為を暴露するぞと。
トリックは元々は魔術師団の団員だった。アリアの為なら喜んで部屋を差し出すだろうから邪魔にはならない。
「…人とはわからないものですね」
「…だな」
オヤジ騎士やら幼女趣味などと呼ばれるスカイと、独身騎士達の憧れであるビアンカが付き合っていたなど。
「一応内緒にしてあげてください。あまり良い別れ方をしていませんから」
それを言っていいのかと再びトリックの方を見ながら、ニコルとモーティシアは予想だにしなかった事実に他人事ながら頬を赤くしてしまった。
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一人で使うには、その部屋はあまりにも広すぎた。
窓際に座りながら夜空を眺め、アリアは小さなため息をつく。
ニコルは隣の部屋にいるから、呼べばすぐに来ると言ってくれた。下の部屋にはレイトルとセクトルが。
まさか本当に兵舎内周に用意するとはね、とはコウェルズ王子の言葉だ。
これからアリアはここで暮らすのだ。この広すぎる部屋で。
とても広いが、すきま風は入らない。魔力により夜も明かりを簡単に手に入れられる部屋。
「もしアリアがつらいなら、ここを出よう」
ニコルはアリアを守る為にそう言ってくれた。
優しい兄。
アリアが王城にいたくないなら、王城を出ようと。
だがそれを選べない理由がある。
「--城を出ることは考えないように」
アリアが王城に着いてすぐに、魔術師団長と二人で話す事になった時。
魔術師団長リナトは、圧倒するような声色でアリアの感情を絞め上げた。
曰く、万が一ニコルがアリアを連れて王城から逃げた場合、国力を挙げてアリアは探し出され、ニコルは極刑に処されるのだと。
まるで今日のニコルの発言を予期していたかのような言葉だった。ニコルから城を出る道を示された時、アリアはただ恐怖しか感じなかった。
アリアが城を出たら、ニコルがアリアを連れて出てしまったらーーあたしがそれを望んだら、
兄さんが殺されてしまう。
兄が死ぬなど、いなくなるなど、
考えただけでも全身が恐怖に竦んだ。
ここは酷い。
楽園のような姿をしているのに、アリアを針で編まれた縄で縛って拘束していく。
あたしはもう、ここから出られないんだ。
首にかかるペンダントを握り締めながら、先の見えない恐怖に体を震わせる。
そのうち適当な人を宛がわれて、治癒魔術を操る子供を産むんだ。前向きに考えようとしても、何もかもが卑屈に向かおうとする。
--…どうせなら、彼のような人がいいな。
頭をふりながら考えた未来の相手にかつての婚約者を思い浮かべ、アリアは自嘲気味に笑った。
捨てられたくせにね。
何もかもがアリアを傷付けようとするかのようだった。
駄目だ。考えるな。もうアリアは出口の無い穴に落ちてしまったのだから。
逃げるなど考えないようにしなければ。
兄は殺させない。
絶対にだ。
第16話 終