第16話


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「--どうして泣いているの?」
 それは幼い頃の記憶だった。
 悲しそうに泣いている美しい女性を見かけて、その人に訊ねたのだ。
 誰だったのかは覚えていない。
 母でないことは確かだった。
 今まで見たこともないような美しい人。
 そしてその記憶は必ず、息苦しさと共に終わるのだ。

「…兄さん、いいよ」
 入浴を終えたアリアを連れて兵舎内周の自室に戻ったニコルは、取り合えず着替えろとまだ沢山あるローブを渡して部屋を出た。
 着替え終わったら呼べと告げてから数分でアリアは静かに扉を開けて、ニコルに魔術師団としての自分を披露してくれる。
「…似合うじゃないか」
「…ありがと」
 部屋に戻りながら褒めても、取って付けたような気分にしかならないのはアリアが嫌がらせに最初の服を濡らされたからだ。
 ニコルの手の届かない所で、こんなに堂々と。
 侍女の生活する区画から出てきたアリアがニコルと目を合わせたとたんに頬を濡らした光景が未だに頭から離れない。
「…大丈夫か?」
 アリアをベッドに座らせて、水を一杯用意して渡してやる。
「大丈夫だよ」
 わかりやすい嘘に胸が軋んだ。
「そんなわけあるか」
「…じゃあ聞かないでよ」
 ベッドの上で、膝を抱いてアリアが俯く。
 ここでは守ると豪語しておきながら、何も守れていないではないか。
 隣に座り、アリアの肩に腕を回した。ほの甘い蜜の香りがふわりと漂い、入浴後である事を知らせてくる。だが髪は冷えきり、このままでは風邪を引くと思い頭から薄手の毛布を被せた。
 水分を吸収しやすいタオルでも予備であればよかったのに、用意していない事がこんなところで災いになるとは。
「…何があった?」
 仕方なく毛布の上から肩を抱き直して、静かに訊ねる。
 いったいどんな嫌がらせを受けたのか。
 しばらくの間返事は無かったが、ポンポンと子供を寝かしつけるように一定のリズムで肩を優しく叩きながら待っていると、甘えるように身を擦り寄せてきた。
 子供の頃に甘えられなかった分を取り戻すような仕草を、無条件に受け入れる。
 年上の分だけ、ニコルは両親の愛情を受けてきた。だがアリアはまだ愛情を与えられるべき時に母を失い、それからは父の闘病生活の面倒を見てきたのだ。
 弱音も文句も、アリアは一度たりとも口にしなかった。アリアが甘えられる居場所を与えてやることは、ニコルの心からの責務だ。
「…侍女達に何をされた?」
 服を濡らされたことはわかった。だがその程度でアリアが泣くとは思えない。
 もう一度しばらく待っていると、今度は何とか口を開いてくれる。
「…何されたとかは…どうだっていいの」
 それは意外な返答だった。
「服濡らされたりとか、他とか、何にも思わない…腹は立つけど」
 ぽつりぽつりと呟く言葉を、静かに聞き入れる。抱いた肩を少し引き寄せるように力を込めて、自分がそばにいるからと伝える。
「…村の中央に住んでたお姉ちゃん、覚えてる?」
「…ああ」
 その人物は、ニコルよりも3歳年下の村の娘だ。
 村にはアリアを含め女の子は少なかったので、少し思い返せばすぐに誰だか見当がついた。
「…もう、だいぶ前に隣村に嫁いだの」
「…うん」
 気弱な少女だった記憶がある。
 存在は覚えているが、何を話したなどは覚えていない。もちろん名前も。
「…お姉ちゃんね、結婚してから、三人赤ちゃんを産んだの」
「…そうか」
 よくある結婚だったのだろう。
 愛し合って結婚するわけでなく、村同士の結束の為の結婚は貧しい村ではよくある光景だった。
「…みんなね、冬を越せなかった」
「--…」
 それは、三人共、ということか。
 ニコルとアリアが産まれ育った村は、エル・フェアリアで最も辺境に位置し、最も寒冷な場所にある。
 赤子が冬を越せないなどよくあることだ。
 だが、産まれた赤子が全員など。
「去年ね、四人目を身籠ったの。でもお姉ちゃん、体力がもう無くて…」
 そこで言葉が途切れる。
 代わるように、喉を潰すような嗚咽が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、死…」
 たまらずアリアが強くすがって泣いた。
 ニコルがいない間、彼女はアリアに良くしてくれていたのだろう。
 手紙にも何度か書かれていたのを思い出す。
 彼女はきっと、アリアの為に、ニコルの代わりになってくれていたのだ。
「ここは酷いよ!あったかいお湯がずっと出るんだよ!?何あれ…服だって何枚も、こんな、飾りだらけでっ!!」
 泣きすがるアリアを抱き締める事しか出来なかった。
「お湯に花の蜜って何?必要!?あんなにいっぱい!!全然お湯使わないで、流しっぱなしでさぁっ!!」
 不必要な湯がどうして溢れかえるのだと、アリアが泣く。
 余ったその湯が村にあったなら、彼女の赤子は死ぬことなどなかったはずだと。彼女が死ぬことはなかったはずだと。
 贅沢が溢れる世界のなんと残酷なことか。
 その贅沢をひとかけらでも冬を越すことの難しい貧しい村に与えてくれたなら、きっと死なずに済んだ命がいくつもあるのだ。
 エル・フェアリアが幸せに満ちた平和な国だと誰が決めつけたのだ。
「…アリア」
「酷いよ…こんな…こんなのっ…」
「アリア」
 アリアを呼びかけて、上向かせて。
 慣れろなどと言えない。言えるはずがない。
 ニコルだってまだ全てに慣れたわけではないのだ。
 慣れてしまった部分も確実にあるが。
「…もしアリアがつらいなら…ここを出よう」
「--…え?」
 ニコルの言葉に、アリアが目を見開いた。
 それはアリアが王城に来ることになった時から何度も考えた事だ。
 王城を出る。王城を出て、どこか遠い地に。
「…たぶんこれからも…酷い思いを味わうことになる。お前を傷付けさせるつもりはないが、ずっと側にはいてやれないってわかった」
 アリアを強く抱き締める。
 まるで檻の中に閉じ込めるように、どこにも逃がさないとでも伝えるように。
「…貴族達がお前を苦しめることはわかってた。だが王城そのものがお前を苦しめるなら…俺は…」
 かつてニコルも味わい、そして今もまだ蔑まれる日々だ。慣れたとはいえ、不愉快に感じなくなる事などない。それだけでなく、この豪華な世界がアリアを蔑むなど。
「…兄さんはずっとここで、一人で頑張ってきたんでしょ?」
 強く抱き締めたせいで、アリアの声はニコルの胸元に押さえつけられてくぐもっている。
 吐息で暖まるその場所は丁度心臓の真上で、まるで優しく包み込もうとするようだった。
「ととさんにも言われたの。あたしが王城に行ったら、村にいた時よりも辛い目に会うって」
「…親父が」
「…うん」
 何でも見通す父が。
 それはなんて不吉なのだろうか。
「…大丈夫だよ。あたし、ここで自分に出来ることをやるから。今はファントムのこととか大変だし、兄さんだって不安でしょ?狙われてるの、エルザ様かも知れないのに」
 恐らくアリアはニコルがエルザに仕えていたから彼女の名前を出したのだろうが。
 アリアの決意を拒否するように、さらに強く抱き締める。
 たとえエルザでも。たとえニコルがほのかに思いを抱く相手だったとしても。
「…無理だけはするな。俺の前では、何も隠さないでくれ」
「うん…ありがと。…変なこと言ってごめんね」
 そっとアリアの腕がニコルの背中に回される。
 どちらがあやされているのかわからない状況に、今さら気恥ずかしくなった。
「…そうだ、あれ、見せてくれないか?」
 話題を逸らそうと体を離し、無理矢理記憶をこじ開ける。昼間に見せてもらおうと思っていた両親の形見を。
「あれ?」
「母さんの本と、父さんの木箱。エルザ様との訓練に本持ってきてなかっただろ?ちょっと気になったんだ」
 とたんに固まるアリアの表情を、ニコルは怪訝に思った。
「…アリア?」
 さっと青ざめる様子は、ただ事でないことをひしひしと告げてくる。
「…どうしたんだよ」
「…ごめんなさい」
 心配して訊ねたのに、謝罪で返すなど。
 困惑するニコルの前で、堰を切るようにアリアがわっと泣きじゃくった。
「アリア!?」
「ごめんなさいっ!!あたしっ…」
「落ち着け、どうしたんだ!?」
 自分自身を抱き締めるように、アリアが顔を両手で覆って泣きじゃくる。
「前、馬から落ちた時、落としてっ…」
 それは暴動の件だろうかと頭を巡らせる。アリアが落馬したという事態はそれしか知らない。何度も謝罪を繰り返して泣く様子に、何が起きたのか理解できた。
 大切なものなのだ。アリアが肌身離さず持っていたのだろう。だが落馬して--
「もういい、わかった…悪かった」
 アリアを落ち着かせてやれる方法がわからない。父ならどうした?母ならどうした?
--こんな時、親父ならどうする?
 昔すぎて、上手く記憶が引き出しを開けさせてくれない。
 何かが中でつっかえて、焦るから余計に開かない。
「アリア、悪かった…泣くな…」
 今までで一番強く抱き締めて、じわりと視界が滲んだ。
 どうすればいいのかわからないなんて。
 アリアは泣き止む気配を見せなくて、すがる指がニコルに深く食い込んでいく。
 泣かないで。どうか、泣き止んで。
 切実に願うのに、引きつけを起こしたように泣きじゃくり始めたアリアの涙が止まったのは、ずっと後の事だった。

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