第16話
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夕食は全員で囲んだ。
村にいれば食べたこともないような柔らかな肉と、色とりどりの野菜。アリアが今まで見たこともない世界が広がっていて、困惑ばかりが先に進もうとしてしまう。
兄のように慣れる日が来るのかはわからない。
でも今日一日は、上手くやりとげたと思っている。
レイトルにエル・フェアリアの文字も半分しか理解できていないとバレた時は、屈辱感に苛まれたが。
兄には告げておくべきだろうか?
でもやはり恥ずかしい。
食事を終えたアリアは今朝と同じくニコルの部屋に戻る。
同室のガウェは今日はフレイムローズの部屋で眠るらしく申し訳なかった。部屋はどうなったのか聞くと、兄は少し難しい顔をして明日にはとだけ告げて。
そして、渡された大きな荷物を見て驚いた。
沢山の衣服が詰まったそれは、贅沢以外の何物でもなくて。
村の女達みんなで分けられそうな量の衣服を、アリア一人で使えという。
感謝の言葉を述べなければいけないはずなのに、絶句してしまった。
一生分どころか親子孫三代は着られそうな量。しかも、こんな綺麗な生地で。
昼間にエルザのドレスを見た時は素直に綺麗だと思えたのに、シンプルなデザインとはいえ美しい衣服を渡されて、体は強張った。衣服を与えられることがどういう意味なのか。きっと伝えても貴族達には理解してもらえないだろう。
固まるアリアに気付いた兄は、少し痛いくらいの力で頭をポンポンと叩いてくれる。
だから唇を噛んだ。
何もかもが村とは違う。
慣れなければとは思うが、慣れてしまうと大切な思いまで消えてしまうのではないかという不安にも苛まれた。
そして今日は、兄に連れられて風呂場まで案内された。兵舎内周を出て王城へ。辿り着いた先は侍女達が住まう王城一階の区画だった。
さすがにアリアが兵舎の男達が使う風呂場を使用することは阻まれた結果だ。
少し遠いが仕方ないと兄は笑った。向かった先では一人の凛と立つ女性が待ってくれており、ビアンカと名乗った侍女長は男子禁制の区画内をニコルに代わり案内してくれた。
簡単な案内の後に、最も使用することになるだろう風呂場へ。
じろじろと見つめられる事には慣れていたが、同性というだけでやりにくさは倍増だ。しかも、投げつけられる視線のほとんどが蔑みを帯びて冷たい。
いったい何だというのだ。
彼女達の気に障ることをした覚えはない。会話すら交わしていないというのに。
案内された風呂場の脱衣所でビアンカと別れる事になり、本当は少し心細くはあったが深く頭を下げて侍女長を見送った。
侍女長が忙しい身であることは、区画に足を踏み入れた時からわかっていた。侍女達がこぞって彼女を頼るのだ。
侍女長も一人一人との以前の会話を覚えているらしく、時折怒りながらも適切に指示を出していく。その姿は同じ女でありながら憧れるものがあった。
格好良い。まさにその言葉がピタリと当てはまる女性を、生まれて初めて見たかもしれない。
侍女長と離れてからはアリアに向けられる視線はさらにきついものに変わったが、アリアはもう気にしないように心がけた。
無視を決め込んで、一張羅を豪快に脱ぐ。渡されていた魔術師団のローブの隣に脱いだ服を軽く畳んで置き、令嬢達に比べれば日に焼けた肌を晒す。
「--牛みたい」
投げられた言葉に体が反応しようとするのを意地で流した。
胸のことを言われたのだとすぐにわかった。だって村にいた時から言われていたのだから。
場所は変われども、結局は馬鹿にされるのか。望んで豊かな胸を手に入れたわけではない。むしろ邪魔だ。しかし誰にもその悩みは理解してもらえず、男からは好色の目で、女からは悋気の目で見られ続けた。
ローブと同じく渡された触り心地の良いタオルで前を隠しながら、風呂場に入る。そこは、まるで未知の世界だった。
まず鼻腔を花の蜜のような香りが満たし、ミルク色で統一された美しい風呂場が眼前に広がる。
中央に噴水のように設置された湯浴み場があり、所々にくつろげるスペースまで。
湯浴み場だけで、村の広場がすっぽりと収まってしまうほどの広さがあった。
本日幾度目かの絶句を味わっていたアリアの背後で、誰かが身動ぐ気配を感じた。
「--あの!」
後ろを振り返るのと、話しかけられたのは同時だった。
アリアの背後にいたのは成人したてくらいのまだ幼さの残る少女が二人で、何やらキラキラとした瞳でアリアの全身を眺めている。
「…何か?」
遠慮もない視線の向け方だったが、他の女の子達のような蔑みは感じられない。体を完全に彼女達に向ければ、アリアが話しかけたことが嬉しいのか「キャア」と小さく声を上げた。
「あの、昨日来られた治癒魔術師様ですよね!」
「あの、あの!ずっとお待ちしていました!!」
まるで尊い存在を前にするかのように、少女達はアリアの両手を握って見上げてくる。
「え!?」
突然すぎて前を隠していたタオルが落ち、露出した胸を間近で見た少女達がまたも「きゃあ!」と嬉しそうな大声を上げた。
悲鳴を上げるのはこちらだろうと呆れるが、二人はお構い無しだ。
「初めまして!ロアと申します!私の兄が魔術師団におりますの!」
「私はケルトと申します!騎士団に兄が!お噂はずっと聞いていました!是非仲良くしてください!」
あまりに突然の申し出にまた絶句してしまった。
仲良く?
それは現在の心細いアリアにとって非常に嬉しい申し出だが、周りが見えていない二人のお陰でさらに白い目で見られているのだが。
「わかった、わかったから、少し静かにね?」
手を離してもらい、落としたタオルを拾う。アリアの注意にようやく周りの視線に気付いた少女達は、恥ずかしそうに俯きはしたがアリアからは離れなかった。
「あの、治癒魔術師様、わからないことがあったら、なんでも聞いてくださいね!」
「ありがとう。あたしのことはアリアでいいよ。畏まる必要も無いから」
様付けなど、違和感ばかりで馴染めない。呼び捨てでいいと伝えれば、しかし二人は大慌てで両手を振って申し出を拒絶した。
「そんな!治癒魔術師様を呼び捨てになんて出来ませんわ!」
まるで重い罪であるかのようなロアの口調に、困惑するのはアリアの方だ。
仲良くしたいと言っておきながら、自ら壁を作り上げていることには気付いていないらしい。
「治癒魔術師様!こちらにどうぞ!!」
「お背中を流させて下さいませ!」
「え、ちょっと待って…」
「ご遠慮なさらずに!」
ぐいぐいとアリアの手を引き、噴水の前に連れていかれて座らせて。
美しい細工の施された木製の桶で、アリアの背中にトロリとぬめる湯をかけた。
「きゃあ!な、何このお湯!?」
「驚きますでしょう?香草や蜜をたっぷりと含ませたお湯なんですよ!」
「お肌にとってもいいんです!美容効果抜群なのですから!」
聞いたこともない湯のとろみの正体に、再び背中にかけられて「ひいっ」と小さく悲鳴を上げる。
「慣れると気持ちいいですよ」
「良い香りがしますでしょう?」
確かに花の蜜の香りが一層強まる。
風呂場を満たしていた香りの正体がこの湯だったわけだ。
それにしても噴水から溢れる湯の量は一定で多い。
使われず排水口に流れていく湯の方が絶対に侍女達が使う量より多いだろう。
侍女長はいつでも風呂場は使えると言っていた。なんて勿体無いのだ。こんな贅沢な暮らしの中で、彼女達は当たり前のような顔をして。
--駄目
卑屈になろうとする心を切り替えるように、わずかに頭を振った。
「治癒魔術師様?」
「…気持ちいいね」
本当はとろみにまだ慣れなくて気持ち悪かったが、アリアは我慢して笑った。
その笑顔にころりと騙されて、ロアとケルトも嬉しそうに笑う。二人に他意など無いのだと割り切って、やりたいように体を任せた。
結わえた髪をほどかれて、頭から湯をかけられる。とろみと表現した方がいいのだろうが、慣れないアリアにはぬめりに感じられる。
その気持ち悪さのを打ち消す唯一の救いは、緊張を解きほぐすような花の香りだった。少女が持参したのであろう櫛で髪を梳かれ、柔らかな絹で体を洗われ。
「--お風呂場が臭うと思っていましたが、まさか貧民が入り込んでいるなんて。誰ですの?乞食を入れたのは」
またも背後から聞こえてきた声に、少女達がびくりと体をすくませた。
「…?」
自分の事を言われたのだろうが、なんて酷い言い草なのだ。
濡れた髪をかき上げながら振り向けば、まだ11、2歳ほどの幼さが強く残る少女が、まるで汚物でも眺めるようにアリアを睨み付けている最中だった。
気の強そうな少女の背後には、腰巾着のような別の娘達の姿もあり、いずれも薄ら笑いを浮かべながら蔑みの視線をアリアに向けていて。
「…ジュエル様…」
「あの…その…」
少女を前に、アリアの体を洗ってくれた二人が目に見えて怯え始める。
差し詰め女王様といった所か。嫌な意味での。
「…あなた達、たしか下位貴族の出自でしたわね?下位貴族だとやはり汚ならしい物も普通に見えてしまうのね」
少女の言葉にまた二人がびくりと震える。
大体の現状がようやくわかってきた。平民というだけで嫌われていたのか。今まで浴びてきた訳のわからない蔑みの視線は、アリアが何か気に障ることをしたからでなく、アリアそのものを嫌っていたというわけだ。
平民であるという理由で。
「…行って」
二人の少女にだけ聞こえるように小さく呟く。
きっとここではジュエルと呼ばれたあの少女が一番力を持っているのだろう。
その少女に睨まれでもしたら、二人は働き辛くなる。
二人はアリアの言葉に動揺するが、もう一度「早く」と告げると意味を理解したらしく、ジュエルの方にぺこりと頭を下げ、足早にアリアの前から去っていった。
視界が開けて、自信たっぷりの様子で立っている少女の姿がよく見える。
まだ未発達というよりは、あまり発達しそうにない体のラインを持った少女。
アリアはただ立ち上がっただけだった。
立ち上がれば、否応なく自分の体を曝けることになる。だがそれだけで、ジュエルを中心とした娘達が怯んだ。ジュエルを囲む娘達は皆、しっかり成人を迎えている年頃だが。
彼女達と比べれば、アリアは頭ひとつ分は背が高い。そして女としての肢体では誰もアリアに敵わない。
たったそれだけのことで数秒言葉に詰まっていた。
いつの間にか風呂場を包む空気はとても緊張したものに変わっていた。
アリアに蔑みの視線を送っていた周りの侍女達も、困惑するように嫌な空気の中を耐えている。
この状況を打開するには、アリアが風呂場を出る以外には無いだろう。
二人の少女のおかげで体は綺麗に洗われたのだから長居する必要もないので、アリアは髪を絞ると無言のまま出入り口へと向かった。
ジュエルという少女は無視だ。わざわざ話す必要も無いだろうし。
「…噂通り下品な体ですわね。あんな風になりたくないわ」
聞こえよがしな言葉も無視して、風呂場を後にする。途中で体を洗ってくれた二人の申し訳なさそうな視線にも気付いたが、後の事を思い気付かぬフリを続けた。
脱衣所で体を拭きながら衣服を置いた棚に向かい。
「----……」
水に濡らされていた魔術師団のローブに固まって。
やられた、と内心で舌打ちした。
風呂場での様子を知らない侍女達はクスクスとアリアの固まる様子を見て笑っている。
アリアが着ていた一張羅を濡らさなかったのはわざとだろう。
両方濡らしてしまえば、他者に何かあったとバレるからと。
小賢しいかぎりだ。
だが気になんてするものか。
何の迷いもなく、アリアは濡れていない一張羅に再び袖を通した。
ただでさえ夜は冷え込むようになった季節だ。王城から兵舎までは地味に距離があるので、濡れたローブを着たら確実に湯冷めどころではないだろう。今風邪を引いて周りに迷惑をかけたくはない。
服を着てすぐだった。
「やだ…汚い」
嘲るような声でなく、本心の声で。
誰が言ったかすぐに理解し、腹が立ってじろりと睨んで。慌てて視線を外した侍女達の姿に文句も出てこなかった。
深い憤りと、どうしようもない悲しみに身体中が引っ掻き回される様だった。
早くここから出たい。
ここはあまりにもアリアには合わない。
濡れたローブを絞って手拭いで包み、足早に脱衣所を出て一直線に区画を抜ける。
廊下にいた侍女達も姿を見せたアリアに異様な視線をまた向けてきて、さらに腹が立った。
夜も遅いからか、区画の扉は閉じられている。その扉を体当たりするように押し開けて。
「--…アリア?」
待っていてくれた兄に驚き、たまらず涙が溢れた。
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