第16話


第16話

 絢爛豪華な書物庫に集まった一同は、アリアとエルザの邪魔にならないようにわずかに離れた場所に待機していた為に、二人の娘が真剣な様子で話している内容までは耳に届くことはなかった。
 基本的に話しているのはアリアだ。
 簡単な傷の手当てから教えているのか自分の腕の袖を捲り、晒した腕の血管の道筋を辿るように指でなぞって。
 エルザはアリアの言葉の端々を拾っては手元の用紙に書き記し、質問をしている様子だった。
 いったいどんな会話が繰り広げられているのか、気にはなるが聞いたところでニコルの身にはつかない技術だ。
 本気で学ぼうとすればニコルも会得出来るのかもしれないが、暴力的なまでに戦士として己を鍛えたニコルには自分が他者を癒すなど考えもつかない。
 敵を倒すことは出来ても、癒すなど。
 ニコルが違和感を覚えたのは、エルザとの治癒魔術の訓練だというのにアリアが母の教本を持ってこなかったと気付いた時だった。
 テーブルに予め用意されていたのはエルザが見繕った自国や他国の書物と、コウェルズから譲り受けたという島国イリュエノッドの文字で書かれた治癒魔術に関する教本のみで、アリアが持つ唯一の教本はどこにも見当たらない。
 持ってくるのを忘れたのか。単純にそう考えて、辺りを見回す。ニコルと共に訪れていたトリッシュは窓の近くにおり、パージャはマイペースに書物庫の二階に上がって本を物色している。ガウェは扉の近くにいて、他の魔術師達も散らばるように待機していた。
 一見ばらついているように見えるが、エルザとアリアを守るための陣形は組まれていた。
 アリアは時々力を発動しながらエルザに治癒魔術について説明し、エルザも真剣に取り組んで。
 魔術師達はアリアの力が気になるのだろう、治癒魔術が発動される度にソワソワと落ち着きなく眺めていた。
 始まる前は上手く教えられるかわからないと不安がっていたアリアだが、今のところスムーズに進んでいる様子だ。
 もしかしたら母の教本は頭に全て叩き込んだので持ってくる必要が無かったのかもしれないなどと思っていると、ガウェがわずかに身動ぎ、書物庫の扉が少し開かれた。
 二、三言会話してから中に入ってくるのは、モーティシアとレイトルだ。
 あまりに静かに入室を果たした為にアリアとエルザは気付いていない。
 二人もそれを良いことに、まっすぐニコルに近付いてきた。
「…どうした?」
「部屋決めが難航しています。今日も決まらないことは確実でしょう。申し訳ありません」
 いつも穏やかなモーティシアの忌々しそうな発言に、何かあったのだと気付いた。
 時刻はじきに夕食時だ。現段階で決まらないとなると、もう明日に回した方がいいのだろう。
 アリアには今日もニコルのベッドを使わせればいいかと考えていると、モーティシアが耳打ちするように少し近付いた。
「…少し抜けられますか?あなたの替わりはレイトルが勤めてくれますので」
 促されてレイトルと視線を合わせれば、任せてくれと頷かれる。一体何があったというのか。
 わずかにアリアに視線を移せば、目が合うのはエルザで。エルザはニコルの視線に気付いて、頬を染めて俯く。
「…任せる」
 今はその様子を愛らしいと思えるほどの余裕もなかった。
 レイトルに護衛を頼み、ニコルはモーティシアと共に書物庫を後にする。
 ガウェが静かに扉を開けてくれて、そのまま立ち去り。
 扉が閉められたのを確認してから、どこに向かうかも教えられずにモーティシアの後について歩いた。
「…何があったんだ?」
「侍女の班長が全く使い物にならないのですよ」
 苛立った言葉には蔑みの色が浮かんでおり、モーティシアでも他人をそんなふうに扱き下ろす事があるのかと驚く。
 詳しく話を聞いてみれば、アリアの部屋を用意すると告げた侍女達が見つかったのだそうだ。
 しかも悪びれる様子もなく、騎士団と魔術師団が勘違いしただけだろうと宣って。
 アリアの部屋を探していただけのモーティシアとレイトルは犯人探しなどしていなかったが、どういうわけか見つかった犯人達に、さらに彼女達の班長が現れ。
「--どうか侍女長には内密に!」
 謝罪も何もなく、それが開口一番の班長の言葉だったそうだ。
 班長は年の頃はモーティシアより少し上くらいだろうに、上司への報告よりも揉み消しを選んだのだ。
 開いた口が塞がらなかった。告げ口など考えてもいなかったというのに、まさかそんな勝手を口にするなど。
「どうやらアリアの部屋の件に関しては、最初は侍女長が動こうとしていた様子です。ですがその班長が自ら手を挙げたのだとか」
 ポイントアップを図りたかったのか。しかし班長がさらに部下任せにした事で、今回の件に陥ったのだろう。
「…もう侍女長に頼むか」
「それを口にしたとたんに謝罪の嵐ですよ。同じ言葉ばかりで保身に走ってばかりでしたがね」
 どうしたものかとため息が漏れる。
 侍女達の中にアリアを入れたくはないが、その班長は侍女達の部屋の空きスペースにアリアを入れようとしているらしく、それは駄目だと告げると何故かと質問で返されて。
 そもそも治癒魔術師は国の保護対象であり、侍女と同じ場所に置いて万が一何かあった時に守れるのかと訪ねれば、何を勘違いしたのか「年頃の娘が多数生活するのだから、小さな嫌がらせは日常茶飯事だ」と返ってきた。
 そんなことは聞いていない。モーティシアが訊ねたのは、有事の際についてだというのに。
 とにかく話が通じない。
 その為にレイトルと抜けてきたのだと告げられて頭を抱えた。なんて馬鹿馬鹿しい。
「何にせよ侍女長には“何らかの形でも”伝えなければならないそうで、いっそ直接行こうかと。その際は副隊長である貴方も必要ですからね、呼びに来た次第です」
「…じゃあ今から侍女長の所に?」
「ええ。それ以外に方法は無いでしょう。侍女長は優秀な方だと聞いていますので、とっとと捌いてくださるでしょうよ」
 最初は忙しいだろう侍女長には任せない方向で行こうとしていたが、アリアが女である以上そうもいかないというわけか。
「お忙しい侍女長には申し訳ない話ですがね」
 侍女長が無能から有能な女性に代わったのは今から三年前の話だ。統率されてきたといっても、まだ末端までは力が及ばないのだろう。
「俺は何をすればいい?」
「とりあえず一緒にいてくださればいいですよ。気に入らないことがあれば仰って下さい。アリアの安全を一番思っているのは貴方なんですから」
 部屋のことに関しては恥ずかしながらニコルにはわからないので任せようと思っていた手前、何も考えていなかったという事実を晒すのは気が引けたが、モーティシアは気にする素振りは見せなかった。安全ならとしか頭に無かったのだ。モーティシアならうまい場所を見つけてくれるはずだから。それが訳もわからないほど絡まり、まさか自分が出ることになるとは。
 あてにしていないから交渉については任せていろと穏やかに告げるモーティシアの後に続きながら、ニコルは疲れを呼び寄せるような重いため息をついた。

-----
 
1/6ページ
応援・感想