第15話
第15話
「--まてよ!おやじ!!」
いつものように突然現れて突然去ろうとする彼を、幼いニコルは追いかけて立ち止まらせた。
足を止めてくれた彼はニコルを一瞥するだけで、その美しい顔に表情は見られない。
「…次はいつもどってくるんだよ」
もっと一緒にいたいとは言えない。両親から沢山の愛情を受けてニコルは育ったが、彼に対して素直な自分でいられるようには育たなかった。
それでも次の再会を願って訊ねたのに、つまらなさそうに背中を向けられて。
「あ…まてよ!!」
思わず立ち去ろうとする彼の服を強く引っ張った。
貧しい村に不釣り合いすぎる上等な布の衣服をくしゃりと握って、この場に留めようと持てる力を全て使って。
もう少しくらい一緒にいてくれたって構わないはずなのだ。彼とニコルは血の繋がった父子なのだから。
互いに無言になって、根比べのように時間が過ぎようとする。だがそんな戯れも彼は許してはくれない。
「離しなさい」
耳に心地良い凛とした美声が頭上から落ちてくるのに、言葉は残酷だった。
「っ…ばーか!!くそったれ!!二度とくんな!!おまえなんかおやじでもなんでもねー!!」
泣きそうになって声が裏返る。
慌てて俯いて、突き飛ばすように彼の服を手放した。
泣き顔なんか見せてやるものか。二度と話しかけてやるものか。
次に彼が来る頃には忘れているのだろう誓いを胸に立てて、口を尖らせながら下唇を噛んで。
いつだってそうだ。会いに来るくせに、数分で帰っていく。何の為に会いに来るのかもわからない。興味が無いなら捨て置けばいいのに、期待させるだけさせて、すぐに消えていく。
ニコルには彼も両親同様に大切な人なのに。
俯いたまま動かなくなったニコルを普段の彼なら興味無さそうに放って行ってしまうのに、今日はなぜかそうしなかった。
ニコルの前に片膝をついて、何かを取り出す。
わずかに頭を上げたニコルの眼前に、彼は二つの真紅の石の首飾りを見せた。
何だろう?首をかしげるニコルの手を掴んで、石を持たせて。
「アリアと二人で持ちなさい」
古ぼけた紐と、薄汚れた石。だがとても美しい。
その真紅の石が、まるで彼のように思えた。なぜかはわからないが、漠然とした確信が。
手のひらに置かれた石に見入り、これが彼からの初めての贈り物だと気付いて。
「おやじ…ぁ」
いつの間にか、彼はニコルの前から姿を消していた。
広い荒野で、ニコルが首飾りに見入った時間などわずかだというのに。
いつだって彼は気まぐれにニコルを弄んだ。
興味が無いなら捨て置けばいい。なのに、たまにこんなことをするから、ニコルは彼を心から嫌うことが出来ないのだ。
-----
明るみ始めた空を眺めながら、ふと頬に触れてきたそれを優しく掴んだ。
ニコルがいる場所は兵舎内周の三階にある自室で、目に見えないそれは窓の外、さらに言えば上空から降りてきている。
よくよく目を凝らせば可視化することは出来るが、なんせ透明な為に突然現れると肝を冷やした。
「…驚かせたいのかよ?」
ニコルに掴まれてなお擦り寄ろうとするそれに訊ねれば、わずかに温もりが広がって、透明だった体に色をつけた。
緑の鮮やかな、幼子の手首ほどの太さをした蔓だ。所々に生える葉はニコルの顔を覆うほどの大きさがある。
本来なら草のように地上に延びるはずの蔓が、なぜ上から降りてくるのか。それは王城上空に浮遊する生物がいるからだ。
普段は空に色を合わせているので目を凝らさないと蠢くそれには気付かないが、なぜかニコルはそれに気に入られており、窓の近くなどでゆっくりと休んでいるとよく蔓を下ろしてニコルに触れてきた。
遊んでくれというような仕草は無邪気な子供のようで、懐かれて悪い気はしない。
「…これは駄目だ」
姿を見せた蔓はニコルの首にかかる首飾りが気になるのか引っ張り出そうとして、ニコルの注意にしゅんと項垂れる。
それでもやはり気になるようで、様子を見ながら何度かニコルの首をつついた。
「大事なものなんだ。やれないぞ」
窘める声はまるで父親のようだと自分でも思う。こんな巨大な子供は少し遠慮したいところだが。
「…兄さん」
じゃれるように何度か蔓と攻防戦を繰り広げたところで、煩かったのか朝日に気付いたのか、アリアがゆっくりと体を起こした。
蔓はアリアの存在に驚いたのか、慌てて姿を透明に隠して上空に戻っていってしまう。
「まだ寝てていいんだぞ」
「ううん、起きる。…ここは…?」
目を擦りながら寝惚けた様子で部屋を見回しているが、アリアが気絶した後に運んだのでわからないのも当然だろう。
ゆっくりと近付いて、隣に座るようにベッドに腰を下ろす。アリアの束ねた髪がくしゃりとよれていたので、少しだけ直してやった。
「俺の使っている寝室だ。手違いでアリアの寝室が用意されていなくてな」
「そうなんだ?」
「…今日中には何とかする」
アリアはまだ何もわかっていないだろうが、侍女からの嫌がらせだと気付かせたくなかった。
こんなくだらない始まり方で不安にさせたくない。
しかし申し訳ない気持ちが先立って、顔に出てしまいそうになる。
ニコルがわずかに視線を外すと、アリアはふと何かを思い出したように目を見開いた。
「…あ、あたし王子様とお姫様の前で!!」
「同室の騎士が寝てるんだ」
どうやらコウェルズとエルザの前で意識を手放したことを思い出したらしい。
静かにな、と向かいで眠るガウェを指差せば、アリアは慌てて口を押さえた。ガウェの様子を窺っているが、向こうはうんともすんとも反応がない。
「…まあ煩く喚こうが起きる奴じゃないからいいか。めし食いに食堂に行くか?これからの事も聞きたいだろ」
ガウェは地震が起きようが寝続けるつわものだ。
どうする?と訊ねれば、口を押さえたままアリアは何度も頷いてみせた。
それならと腰を浮かせ、連れだって部屋を出て。
ガウェが起きないことはわかっていたのでいつも通り部屋を出るが、アリアは気を使ってか微妙にコソコソと動いていた。
「同室の騎士って、手紙に書いてあったガウェさんよね?…あたしが勝手に部屋を使っちゃって怒らないかな…」
「怒るような奴ならお前を部屋には連れてこないさ」
ガウェのことも手紙で何度か書いたので、アリアはすぐに寝ている人物がガウェだとわかったらしい。
そのガウェが昨晩まさかアリアの胸の大きさを見ようと布団を剥ごうとしていたことは口が裂けても言えないが。
下心があってやったのではない辺りが恐ろしい。ガウェは噂されるアリアの胸を単純な興味から確認したかっただけのはずだ。
眠気のこないニコルを放置してさっさと寝入り、次に目を覚ますのは昼前か。
「兄さんの部屋、広かったね。あの広さで二人部屋とか、すごい贅沢な気がする」
「有事の際は戦闘に使える設計になってるからな。壁を見てみろ。模様が刻まれてるだろ?」
廊下を歩きながら、天井や壁に刻まれた薄い模様にアリアが見入る。何も知らない者が見れば、それはただの上品な模様細工でしかないが、
「…あ」
「な?」
魔力を持つアリアは気付いた様だった。
模様を伝うように流れている繊細な魔力に。
それは魔術師団の結界のひとつであり、万が一の場合はこの結界が力を発揮し、敵に襲いかかるのだという。
とはいっても大戦時でさえ使用されなかった形だけの結界だが。
兵舎内周と王城に施されたこの結界をニコルが知ったのは最近のことだ。
モーティシアから頭に叩き込むように渡された五冊の本の中に書かれていた、王城の常識の一つ。と言っても兵舎内周の結界については魔術師団の常識であるらしくガウェも知らなかった様子だが。
なぜ兵舎内周は二人部屋であるのに一室がこれほど広く作られているのか。ニコルはただの道楽だとしか思っていなかったが、そこにも理由は存在したのだ。
魔術師達の魔力が滞りなく隅々まで行き渡るように。そして騎士達の魔力にぶつかり相殺されないように。
騎士が多ければそれだけ多種の魔力が集まることになり、魔術師達の流す魔力に影響が出る可能性が高い。繊細な細工のような魔力は、それだけ壊れやすいものでもあるらしい。
アリアは興味を持ったのか指先で模様をなぞりながら、窓の外にも目を移して。
「あれも結界でしょ?村とは大違い…やっぱりここはお城なんだね」
窓の外には朝日にぼやけた薄い青空が広がる。しかし魔力を持つ者なら見える、虹がかかるように美しい結界がいくつもあるのだ。
村ではわずかな量がたまに流れてくるだけだった。それが結界なのか、はたまた自然現象の虹なのかわからないほどに。
エル・フェアリアの土地なら末端まで安全であるという話は夢物語だ。
「…あまり楽しそうじゃないな?」
城下の街の娘達は、綺麗なものをよく好んだ。王城近くが娘達を口説くスポットになるほど、城は外壁ですら美しいのに。
「…村を出てね、いろんな街を見たの」
窓の外を眺めるアリアの声は遠くの土地を懐かしむように憂いを帯びている。
「立ち寄る街を見る度に、こんなに綺麗な所、見たことないって思った。ここより綺麗な場所なんてありっこないって」
壁の模様をなぞりながら、窓枠に指先を滑らせながら。ニコルの隣を歩くアリアの表情が窓ガラスに写り、どうしようもないもどかしさを表している。
「でもね、王都に近づく度にどんどん綺麗になってくの。みんなが着てる服もそう。食べ物だって沢山あったよ。子供や赤ちゃんも沢山いた」
今まで知らなかった格差を思い知らされたのだ。自分を憐れんでいるわけではない。ただ、同じ国であるはずなのにこうまで違いがあるのかと、辛くなる。
乳飲み子の半数が冬を越せずに死に逝く土地に生まれたのだ。きっと豊かな場所ではそんなことは有り得ない。
ニコルも、王城に連れてこられた時に同じことを思った。
大戦で広げられた領土は、優秀すぎたロスト・ロード王子の暗殺を期に持て余す結果になったのだ。
それでも、コウェルズとミモザが王に代わり政務に深く従事するようになってからは改善されてきたはずだ。
まだ末端まで力が及んでいないとしても、少しずつ着実に良い方向に進んでいると信じている。王の力量で国は変わるのだから。
いずれ故郷もよくなるはずだと信じることしか出来ないのが辛い。
その故郷がアリアに牙を向いたのだから苦しいところだが。
兵舎内周を出て長い渡り廊下を歩き、外周に入る。
内周とほぼ同規模の外周には内周とよく似た模様が壁に刻まれてはいるが、こちらは単なる模様でしかない。
それでも指先に凹凸を伝える模様をなぞりながら、アリアはニコルに連れられて食堂の扉をくぐった。
「…ここが食堂?」
そしてその広さに息を飲む。
「初めは俺も驚いたよ。無駄に広いんだからな。兵舎内周には食堂が無いから外周まで来ないといけないのが難点だが。…さすがに明け方は人も少ないな。持ってきてやるから適当に座ってろ」
「あ、うん」
整然と並べられたテーブルの一角にアリアを導いて、自分は給仕の侍女の元に向かう。
侍女の顔を確認しながら、たまに見るその娘が毒を盛らない娘だと思い出して安堵した。最近は妙に毒を盛ってくる侍女を見なくなった気もするが。
二人分の用意を頼めば、笑顔で手際よく用意をしてくれて。治癒魔術師様ですか?と問うてくるから微笑んで肯定すれば、侍女も祝福するように笑ってくれた。
歳はアリアより少し若いくらいか。アリアと仲良くなってくれたらいいのに。そんな過保護な事を思っていると、ニコルの近くにいた王城騎士がアリアを見つけて無遠慮な視線をぶつけていた。
「…女?」
「ほら、妹。治癒魔術師」
「貧相な服だな」
すぐ近くにいるニコルには気付いていないらしく、頭で言葉を吟味する事もなく口にして。
騎士達の会話が聞こえたらしく、アリアがわずかに体を縮こまらせた。
それでも彼らは遠慮なく声を張る。
「また平民臭くなるのか…」
「…ようやく見つかった治癒魔術師だぞ、そんな言い方無いだろ」
「この平和な時代に必要無い気もするけどな…」
三人いる中で、治癒魔術師の重要性を説くのは一人だけだ。
用意を終えた侍女から朝食を受け取り、わざと騎士達の隣を歩いた。
とたんに慌てるように息を飲む様子が背後からでも窺えて、立ち止まり、振り返って睨み据えて。わざとらしく立ち去る彼らを見送ってから、ニコルはアリアの元に戻った。
隣に座ろうと横から朝食を乗せた盆を置けば、びくりと体を跳ねさせる。先ほどの騎士達と間違えられたか。驚かせたことが申し訳なくて、仕方なく向かいに回った。
「--気にしてたらきりが無い。気分は悪いだろうが悪口には慣れろ」
「…大丈夫。村で散々行き遅れ決定とかバカにされてきたから」
椅子を引いて腰を下ろしたニコルに、アリアは目も合わせずにやさぐれた声を投げてよこした。
ニコルが思わず固まったのは、アリアが強姦されかけたことを知っているからだが。
「ごめん今の無し」
ニコルが無言になったことをどう受け取ったのか、アリアは俯いたまま前言を撤回した。
だが今更だ。知っているとはいえ、知らないふりを上手く出来るほどの技量が自分にないことをニコルはわかっている。
もしアリアにそれがバレたら。
自分がどんな酷い目に合ったか知られていたと気付いたら、そちらのほうが傷付くはずだ。静かにアリアを見つめて、言葉の先を促した。
アリアは気付かないふりをしようとサラダの器に手を伸ばしたので、その手に優しく包むように触れて。
話してくれと、アリアを見つめ続ける。
「…わかった。何でか分からないけど婚約解消が決まってすぐくらいから村での当たりがキツくなったの。…村長のいない時とかに」
ようやく口を開いたアリアの手を強く握り締めた。
「…何で黙ってた」
「…言ったら困らせると思って」
胸がざわついたのは、そんな辛い状況に直面しても相談できないほど自分は頼りないのかと思ってしまったから。
きっと逆の立場ならニコルもアリアと同じ選択を選ぶ。だがたった一人の兄として、唯一の家族として、もっと頼ってほしかった。
「それだけか?」
「…うん」
「…誤魔化す時のクセは変わらないな。こっち見て話せ。全部だ」
それ以上のこともニコルは知っている。聞かされた。他人の口からという、最も情けない状態で。
癖などとかまをかけて、もう一度アリアを見つめて。
アリアの口から聞きたい。聞いておきたい。そうしなければ、ニコルは傷付いたアリアをさらに傷付けてしまうから。
つらいのはわかってる。
でも--頼む。
今はニコルに身をゆだねてくれないか。
「…アリア」
懇願する自分の声があまりにも情けなくて、無意識に唇を噛んだ。そして。
「…村の人たちに何度か襲われかけた。村長と奥さんだけが味方してくれたけど、もう年だし時間の問題だったと思う」
早口で語られたその事実に、知っていたはずなのに気が遠退いた。
どうしてだ。
どうしてこんなことになる。
平民というだけで王城では蔑まれるのに、特殊な力を持つというだけで故郷で虐げられるなら、自分達はどこに向かえばいい?
アリアの手を離して、額を押さえて項垂れる。
世の中が不平等で不条理であることにはとっくの昔に気付いていた。だがあまりにも仕打ちが酷すぎやしないか。
「…もうこれで全部。もう話したくない。これからどうすればいいのか教えて?誰かを治療したりすればいいの?」
「…悪かった」
話題を逸らそうと訊ねてきた質問を無視して、謝罪の言葉は自然にこぼれた。
アリアの悲しむような視線が突き刺さるのを、甘んじて受け続けて。
今までアリアを放置した報いだといっそ言ってはくれないか。
「ここでは俺が絶対に守るから…」
二度と傷付けさせるものか。誰にもだ。
誰かを傷付ける結果になったとしても、アリアが傷付かないで済むならそれを選んでやる、と。むしろそうしなければ、世の中の帳尻は合わないだろう?アリアばかりがこんな思いをするなど許されるはずがない。
ひねくれきったニコルの胸の内側を、その思いなど知らないはずなのにアリアは笑って流してしまう。
「呼んでくれただけで充分だよ」
ありがとう、と。
感謝される立場ではないのに、まるでニコルを英雄のように。
「…王都に呼ぶつもりではいたが、治癒魔術師として王城に来る事には…反対だった。王都に呼ぶのも、もう少し後にと考えてたんだ」
「あたしもう治癒魔術師になっちゃったし、ここにいる。兄さんの側で働けるなら一番幸せだよ。だからそんな顔しないで」
今が全てだと笑う姿に、気持ちを楽にしてもいいのだろうか?
こんな形の再会でも本当に喜んでくれるのだろうか。
おそらく二度と生まれ故郷に戻ることはないのに。
両親の墓は無い。
それは貧しい村ではよくある習わしだった。
野犬が遺体を掘り起こさないように、焼き付くして川に流すからだ。
魔術師団が命じて財産とは名ばかりの家財を全て持ち出したのも、村との決別を意味している。
両親を思い出す形見は、母がアリアに残した教本と、父が二つの首飾りを入れておく為に作った木の小箱だけのはずだ。準備や用意にごたついてまだアリアからは見せてもらってはいないが。
「思い詰めない考えすぎない。そんなに頭を悩ませてたらハゲちゃうよ。せっかくととさんに似てフサフサなんだから」
腰を浮かせたアリアが、難しい顔をしているニコルの眉間の皺を伸ばすように触れてくる。
もう一人の父は確かに艶やかな長い髪をしていたが。
思わず笑ってしまい、つられてアリアも笑った。笑顔には母の面影がかいま見えて、綺麗になったなと改めて思う。
「それで、私は何をすればいいの?」
「…ファントムの噂は聞いてるか?」
さっきはニコルの勝手で中断した今後の行動について、エル・フェアリアや近隣諸国にも広まりつつある噂の事を訊ねてみた。
噂自体は現在動きが見られないが、依然として姫達の警護は強化されたままだ。
「…お姫様の誰かが狙われてるのよね?ここに来る時に領兵の皆が言ってたけど」
「そうだ。今、魔眼という力を持つ騎士がほとんど休憩を取らずに城内全てを監視している。その騎士の消耗が激しいんだ」
ファントムについてはアリアの知っている情報量で充分だと頷いて、ニコルはフレイムローズの話をした。
ニコルを含め騎士達全員の肩に留まる魔眼蝶について簡単に説明し、それを操る為にどれほど疲労が溜まっているかを聞かせる。
二日立ち続けて半日の休みしか無いのだ。フレイムローズが意識を集中させる時間も長くなった。
「その人の疲労を取るのね」
「出来るか?」
「やる」
気持ち良いほど即答したアリアに、ありがとうと告げる。
フレイムローズは弟のように可愛い、大切な仲間なのだ。
エルザにばかり気をとられてあまり考えなかったが、フレイムローズもアリアと同じ19歳だ。
フレイムローズの精神年齢はもっと若いのだろうが、今の彼は王族に対して健気すぎて不安になる。
「それが今一番のアリアの仕事になる。生傷が絶えないのは騎士の訓練の時間だが、酷くなければ見なくていい。きりがないからな」
まだ当分は謁見やらも続くがとも伝えてやれば、アリア思案顔をしている。
「どうした?」
「…昨日、お姫様に…治癒魔術を教えるようにって聞いたと思うんだけど、それは?」
昨日の件を思い出したように訊ねてくるアリアは不安そうに眉を寄せている。仕方無いといえば仕方無いのだろうが。
「第二姫エルザ様だ。治癒魔術師を目指してる。来年イリュエノッド国に移って治癒魔術師の訓練を受けることになっていたが、アリアが師になってくれるならエルザ様は国を出ずに済むんだ」
エルザの事も、何度か手紙でアリアに教えた事がある。
エルザが治癒魔術師を目指しているとの件は最近になって知ったので伝えてはいないが。
「…それは…」
「出来るか?」
固い表情を浮かべるアリアは戸惑うように視線をさ迷わせている。
「…あたしだってお母さんの残してくれた本で勉強しただけの独学なんだよ…教えられるかなんて、わかんないよ…」
最終的に視線を下方に留めて、もごもごと聞き取りづらい声を発する。もて余すように左右の指先同士をくっつけながら、困っているような印象だった。
「無理ならいいんだ。俺から伝える」
「無理じゃないよ!…ただ、ちょっと不安なだけ。あたしなんかが…」
ニコルはアリアが王城に慣れるまでは無理をさせたくなかったのでそう示したが、慌ててアリアが止めに入った。
言い方が悪かったかと苦笑いを浮かべて、腰を浮かせたアリアの頭を撫でて。
「エルザ様は心優しい方だ。俺にも良くしてくださった」
ニコルがエルザから離れた理由の一つに恋愛感情の絡みがあると知ったら、アリアはどう思うだろうか。
「…エルザ様を守ってたんだよね」
「ああ」
アリアとエルザ。貧民と王族という真逆の出自ながら、共通点のある二人だ。
「…頑張る」
少し押し黙って、やがて開かれた唇が意志強く動く。
「…ありがとう」
エルザが治癒魔術師になれたら自分と、などとは毛先ほどにも考えてはいない。だがエルザの選んだ道は応援したかった。
エルザの側にいることでアリアへの危害も少なくなるだろうという打算もある。
どこまでも自分本意な、と思いながら、ニコルはふとあることを思い出した。
「…なあ、昔さ」
「え?」
昔、まだ両親が生きていた頃。
家を留守にした両親に代わるように現れた“彼”に格好良いところを見せたくて、小さなアリアに対して頼れる兄貴ぶった時がある。その時に“彼”がニコルの頭を撫でながら呟いた言葉を以前思い出してから忘れられないのだ。
『--覚えておきなさい。お前の--』
忘れられないと言っても、その言葉の続きは思い出せないのだが。
「いや…いい」
気にするなと、自分から振った言葉を白紙に戻して。
朝食を楽しもうと、ニコルはアリアにフォークを渡した。
-----