第14話


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 互いに読みたい本を探しながら、エルザとクレアは書物庫の中をゆっくりと歩いていた。
 エルザはニコルを、クレアはレイトルとセクトルを失った。
 それは今生の別れというわけではないのだが、今まで側にいてくれた者が少しだろうが離れるのはやはり寂しい。
 エルザとクレアが共にいるだけで護衛の騎士と魔術師の数は二倍になる為に書物庫の中を自由に散策できてはいるが、今後はこの中にあの三人の姿は見られないのだ。
 ニコルは妹が安全だとわかればエルザの姫付きに戻ると言ってくれたらしいが、まず戻ることは無いのだろう。
 アリアの身に何かあるというわけではなくて、アリアが安全だろうが、ニコルはきっと自分の傍には戻ってきてはくれない。
 生真面目で、なおかつエルザより大人の彼は、エルザの気持ちを理解した上で馴れ合うようなことはしないだろう。
 はっきりと線を引かれて悲しくはあった。だがニコルは約束をしてくれたから、今はその約束を信じたい。
「そろそろ合流したかな?」
「…早ければ今頃でしょうね」
 互いに本を見つけて、近くの椅子に座る。護衛達は少し離れた所に居てくれているので、小声なら内緒話は聞こえないだろう。
 ひそひそと隣に座るクレアに訊ねられて、エルザはニコル達が出発したであろう時間と城下町正門までの距離を計算して答えた。
 馬の足ならあまり遅くはならないはずだ。
 王都は広いが、城下町ならそれほど時間がかかることはない。
 互いに他国の文字で書かれた書物を開かずに、思いを馳せるのは。
「…姉様、治癒魔術師を目指すって本当?」
 クレアの問いかけに思わず口を閉じたのは、今まで治癒魔術師を目指しているということを隠し続けていた為だ。身に付いた“隠す”という行為は、すぐには取れないだろう。
「前から思ってた事なんだけど…もう隠さなくなったでしょ?」
 それでもクレアには些細な変化だろうが気付いていた。気付かない方がおかしいのかもしれないが。
「…ええ」
「そっか…」
 頷く姉をクレアはどう見ているのだろうか。
「来年を目処にイリュエノッドに渡って治癒魔術師から教えを請うつもりでいたのですが、もうその必要はありませんし」
「…ニコルの妹さんが治癒魔術師として来てくれるなら、わざわざ国を出ること無いもんね」
 はい、と肯定しながら、エルザは自室に置いている一冊の書物を思い出す。
 兄がエルザの為に、島国イリュエノッドの治癒魔術師達に頼んで書き記してもらった、世界で一冊だけの教本。
 基礎から全てを書き記してくれたその書物はとてもわかりやすくて有り難い。後はエルザがどれだけ訓練に励めるかがポイントになるだろう。生まれつき治癒魔術を持った者と、後から会得しようと訓練に励む者とでは訳が違うのだ。
「…王位継承権をお返しして訓練を重ね、治癒魔術師として国に仕えようと考えています」
 エルザの決心にクレアがわずかに息を飲んだ。
「…それって」
「クレアも、愛しい方の元に向かう決心がついたのでしょう」
 エルザが決めたように、クレアも決めたのだ。
 だから一度に二人もクレアの側から離れることに繋がった。
「…私はとっくに決心ついてたわ。あっちが内乱を理由に私を避けていただけ。本当なら二年前に…」
 本当なら二年前、クレアは成人を迎えると同時に隣国の婚約者の元に嫁ぐ手筈だった。
 小国ながら大戦時代に領土をどこにも奪わせなかった強国スアタニラ。
 エル・フェアリアと正面衝突こそしなかったが、一触即発状態であったことは確かだ。
「…あの方の呪いはまだ解けていないのでしょう」
「かまわないわ。それでも私の心は変わらなかったもの。…もう避けられるのは嫌」
 そのスアタニラの第一王子ヤマトは、二年前に王族間の争いに巻き込まれて身体に呪いを受けた。
 ヤマトがどのような状況にいるのかは知らない。だが先方から婚約者をヤマトから第二王子に交替させるとまで言われたのだ。酷い呪いを受けたことは確かだろう。
 クレアがスアタニラに嫁ぐ条件は、クレアが次期王妃となる事なのだから。
 先方から出された案をクレアは飲まなかった。
“私の夫はヤマト様だけ”
 エル・フェアリアだけでなくスアタニラ全土にも公言したクレアの決意を、スアタニラの多くの民は受け入れてくれた。
 それはスアタニラの次期王はヤマトであると公言したも同じで、第二王子を推す者達はさぞ悔しがったことだろう。
 そこから二年、ヤマトの呪いを解くために、クレアも出来ることをやってきたのだ。
「クレアらしいですね」
 二年の間、クレアの気持ちはヤマトから離れなかった。
 スアタニラからはヤマトがどれほど醜く変わり果て、第二王子がどれほど優れているかを説く文と、ヤマト王子を信じて待っていてほしいという文の二種類が今も届く。
 どちらの文も必要ない。クレアはヤマトが好きなのだ。それだけで充分だろう。
 ヤマトからは数回伝達鳥が文を持ってきた。
 いずれもヤマトとは思えないほど醜く歪んだ文筆で、だが文面は悲しいくらいヤマトの実直な性格を見せてくれた。
 ヤマトからは待つなと言われた。来るなと言われた。
 スアタニラを忘れろと。ヤマトを忘れろと。大国エル・フェアリアの姫ならば引く手数多だ。クレアがたかが小国に翻弄される必要など無いのだと。
 だがもう待たない。忘れもしない。
 他国にも行くものか。
 クレアが身を寄せたいのはヤマトだけだ。
「姉様が姫をやめるのは…ニコルの為?」
 クレアの決意は、エルザのものと似ている気がする。
 訊ねられて、少し笑い返した。
 それをどう受け取ったのか、クレアは悲しげに眉をひそめる。
「…きっと、いろんな邪魔が入るよ。王位継承権を返したからって、王家に生まれた事実は変えられない。貴族ならまだしも…ニコルは」
「違うわ…。ニコルを慕う前から、治癒魔術師になることは考えていました。王位継承権を国にお返しするのは、エル・フェアリアにいつづける為です。…今はそうすることでニコルに近付けるならとも思いますが…」
 スアタニラのヤマトほどでないとしても、あらゆる欲望がエルザを襲った。
 幼いエルザを性欲の捌け口にしようとしたラムタル前王。
 黄都の繁栄の為にあらゆる妨害を行うバルナ・ヴェルドゥーラ。
 幸運だったのは、エルザを守ってくれる存在がそれらより強かったことだろう。
 ラムタル前王は、当時の第一王子バインドに討たれ、エルザとの婚約自体が白紙になった。
 バルナ・ヴェルドゥーラに対しては、ガウェを筆頭に多くの騎士達や兄と姉が力を貸してくれている。
 そうやって守られ続けながら、エルザも彼らを守る為の力を求めた。
 エルザに出来る方法で。治癒魔術師を目指すという方法で。
 ニコルへの恋心は、口にするまでは諦めていたものだ。
 口にした今は諦めるつもりはなくなったが、絶対に叶うなどと、今も思ってはいない。
「姉様…」
「ニコルにはお願いしました。待っていてくださいと…でも、ずっと待ってくださる保障なんてありませんものね…」
 エルザの願いに膝を折り、エルザ以外には靡かないと約束してくれた日のことを思い出す。
 だがそれは約束であっても、いつでも破棄出来るものだ。
「ニコルを慕う方が多くいらっしゃるのは知っています。平民といえども王族付きに任命された方ですもの…とくに平民との結婚でも祝福される下位貴族なら、ご両親も反対などされないでしょう。ニコルに似合いの可愛らしい方がいらっしゃったら…きっとニコルも…」
 侍女達のニコルへの恋心はよく耳にする。もしニコルの心を動かす女性が現れたら、その先は。
 ニコルはエルザをずるいと言った。だがそれはニコルも同じだ。
 エルザ以外に靡かないなど、そんなことを言われたら。そんな、ニコルを諦めなければ手に入るようなことを言われたら。
 諦めずに一途にニコルを思うしかなくなるのに。
 もしかしたらと、あと少しでと。
 とっくの昔にニコル以外は見えなくなっている。盲目になった恋心をさらに絡め取ったのはニコルだ。
 絡め取られたように見せかけて、エルザを抱いて離さないのはニコルの方なのだから。
 そのことに彼は気付いているのだろうか。
「…愛って、たまに酷いよね」
「…はい」
「お母様は素晴らしいものだって言ってたけど…」
 四年前に死んだ母は、いつも愛の素晴らしさを子供達に語って聞かせてくれた。
 とても幸せそうだった母の顔は今も褪せることなく胸に残っている。
 愛が悲しくて苦しいものだとは教えてはくれなかった。
「…お母様が生きていた頃は、お父様も国を良く治めていらっしゃったわね」
「…きっとお父様も…愛に苦しめられてる一人なのね」
「お姉様は怒りそうですけど」
「とっくにもう怒ってるよ」
 楽しかった日々を覚えている。
 リーンがいて、母がいて、父もいて。
 大国でありながら現在のエル・フェアリア王家の仲の良さは他国からも珍しがられていた。
 怨恨があってもおかしくないのが王家だ。スアタニラのように。かつてのラムタルやエル・フェアリアのように。
「好きな人との距離は私も姉様も遠い、か。でもきっと、私達は良い時代に生まれてこれたわ」
 鈍った体を伸ばすように両手を上に伸ばしながら呟いたクレアに、エルザは小さく首をかしげた。
「…どうして?」
「だって、もしまだ大戦が続いてたら…私の婚約者は敵国の王子だし、ニコルは兵士として死ぬまで戦場の最前線にいたはずよ」
 出会うことすらなかったんだよと言われて、ようやく大戦の終わった現在の平和を思う。
 大戦時代、終結の為に奔走したエル・フェアリアの英雄ロスト・ロード王子は、大戦終結後に王家の争いに巻き込まれて悲劇の生涯を終えた。彼がいなければ今も大戦は終わっていなかっただろう。
「諦めなかったら、きっと大丈夫だよね。お互い頑張ろうね」
「はい」
 お互いに思い人を胸に浮かべながらクスクスと笑う。
 その姿は遠巻きに見ていた護衛達からはとても平和そうに見えて。
 諦めずにいようね。
 二人の美しい姉妹は、恋を現実にする為に互いに声援を送って未来に思いを馳せた。

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