第13話


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「おかあさん!」

 泣きじゃくるアリアの頬に触れた母の手のひらは、命の灯火を使い果たして芯から冷えきっていた。
もう温もることの無い手にすがって、何度も自分の魔力を送り込んで。

「お父さん!」

 元気な頃の面影を一切無くして弱りきった父にかけた最期の言葉に、父は名残惜しむようにアリアの頬に触れてくれた。
 奇しくもそこは母が最後にアリアに触れた場所で、やはり父の手のひらも一切の温もりが無かった。

「いかないで!」

 村を出ていく兄にすがって泣いた時、兄には生きている人間全てに備わった温もりを確かにアリアに感じさせてくれた。
 父や母の最後に比べて、なんて熱いのだろうか。
 アリアにも存在する温もりだ。
 兄はアリアを残して彼岸に向かったりはしない。
 アリアを一人にはしないはずだ。
 アリアを置いて旅立とうとする兄にもう一度すがると、兄は振り返ってくれて、アリアの額を冷たい手で撫でた。
「----」
 冷たい、まるで両親の最期の時のような。
 そんな。嫌だ。
 兄まで失ったら、自分はどうすればいい?
 いつか訪れる別れが、こんなに早く、こんなに立て続けでいいはずがない。
 腕を伸ばせ。腕を掴め。
 その人は死んではならない。
 その人は生きねばならない。
 この世界で最も尊く、最も無意味な。
 兄を。兄を--

「--兄さん!!」

 叫んだアリアが伸ばした腕とは逆の手で掴んだものは、額に乗せられていた濡れた手拭いだった。
 夢から現実に引き戻される感覚に、脳内がついていかない。
「アリアさん!」
 呼び掛けられたが、その男が誰であるかも最初わからなかった。
 だが記憶がすぐに戻ってくる。
 領兵隊の隊長だ。
 確か自分は馬に乗って、二階から飛び下りて。
 そこからの記憶が無くて、代わりだと言わんばかりに頭の右側が鈍く傷んだ。
「痛っ…」
 起き上がろうとしたが、隊長に肩を優しく押さえられて横になった姿勢のままにされる。
「…ここは?」
「紫都ラシェルスコット領兵団の敷地内です」
 紫都。
 いつの間にそこまでたどり着いたのか。問いかければ、五日間意識を失っていたのだと教えられた。
 あの小さな街の兵舎から逃れる為に二階から飛び下りた。だが民衆に気付かれ、ちょうどアリアが飛び下りた時に興奮した男が松明をアリアに投げ付けたそうだ。
 たしかにアリアの記憶には、勢いよく自身に向かってくる熱い光の存在が焼き付いている。
 アリアの頭の右側に容赦なくぶち当たった松明によろけ、制御を失った馬が暴れてアリアを振り落としたのだ。
 アリアを拾い上げたのは後に続いた領兵だった。後続の者達で市民を威嚇する間に、気絶したアリアを馬に乗せて何とか逃れてくれた。
 護衛隊の中にいた医療兵から手当てを受け、命に別状がないなら紫都ラシェルスコットまで飛ばしてでも向かうようにと王城から伝達鳥が届き、簡易の馬車を見繕いアリアを乗せて三日三晩休まず走り続けたらしい。
 そうして辿り着いた紫都ラシェルスコットの領兵団の中で、アリアはようやく本格的な治療を受けることが出来た。
 自分が五日間も眠っていたなんて。だがそう言われてようやく、身体中を苛むような空腹に襲われる。
「…あの、起きてもいいですか?」
「ゆっくりとなら大丈夫です」
 隊長の手を借りて何とか上体を起こせば、身体中に包帯が巻かれ、頭にも巻かれていて。
 他の領兵達の姿は見当たらない。広い部屋は今までの兵舎とは異なり、完全に賓客用に誂えられた部屋だった。
 大きなベッドも、いくつかの家具も。
 細部にまで美しい彫刻が施され、ここがエル・フェアリアを代表する虹の七家の一つが統治する領土なのだと理解する。
 今まで見てきた中で一番の美しさだ。紫都ラシェルスコットでここまで美しいのに、この先にはまだ王都が待ち構えているなど。
 頭の傷に響かないように部屋をぐるりと見渡したアリアは、ベッドから離れた場所にあるテーブルの上に大切な本と首飾り入りの木箱が揃えて置かれているのを見つけて目を見開いた。
 母が残してくれた本と、ニコルの父がニコルとアリアにくれた首飾りと、アリアの父が作ってくれた木箱。
 その木箱が、遠目から見てもわかるほど潰れている。
「--…あ、の…」
「どうされました?」
 労るように訊ねてくれる隊長に、指で差し示して木箱を取ってくれるよう願う。示された先にある木箱に視線を移した隊長も、あからさまに眉をひそめて。
「…アリアさんが落馬した際に……」
 取ってくれた本と木箱がアリアの膝の上に置かれる。
 馬に踏まれたのか、木箱は完全にひしゃげていた。
 本も表紙ごとページの半分以上が千切れ、残ったページも取り払われた形跡は残るが、泥にまみれてもはや見る影もない。
 表情が強張る。
 アリアが幼児の手の傷を治した結果がこれなのか。
「…仕方無い…ん、ですよね?…あたしが…自分勝手に力を使ったから…」
 幼児の手のひらの傷は、アリアがわざわざ治さずとも手を動かすのに支障はないものだった。ただ大人になっても少し跡が残るだろう程度の。それを治したがゆえに、アリアは大切な形見を潰されたのか。
 やり場の無い悲しみを自分の中に留める為に責任を自分自身に見つけたのに、隊長は「いえ」と静かにアリアに責任は無いと告げる。
「今回の暴動に関しては、アリアさんに非はありません。兵の一人が酒場で嘘を付いたのが始まりでした」
 淡々と説明される事の真実に、アリアは目を見張る。
 あの母親がアリアの力を皆に告げたのだと最初は聞いた。
 だが実際は、宿泊先の兵の一人が、治癒魔術師であるアリアに伝染病を治してもらったと酒場でホラを吹いたのだと。
 兵が治してもらえたなら、自分達だって治してもらいたい。大切な家族が苦しんでいるのだ。愛する者が苦しんでいるのだ。
 兵だけでなく、どうか我々にも。
「嘘を付いた兵が冗談だったと言うには、話が広まりすぎて収集がつかなかった様子です。アリアさんが助けた子供の母親は、傷を治して貰ったのであって病気まで治してもらえるとは考えていなかった様子でした」
 それじゃあ、アリアには何の非も無いじゃないか。
 そんな嘘の為に、アリアは心身共に傷つけられたのか。
 頭に松明を投げつけられ、落馬したせいで全身を打ち、五日間も意識を失って。
 ようやく目覚めてみれば、大切な形見を潰されて、しかも自分に責任が無いなど。
 自分に非があれば、まだ心は救われただろう。
 あたしが悪かったんだ。
 あたしがもっと冷静にいられたなら、と。
 だが非など無いと言われてしまったら、このやり場のない悲しみはどう消化すればいいのだ。
 もう会えない両親が残してくれた唯一の形見を。
 アリアにはこれしか残されてはいないのに。父親が死んだ時に、村の掟で何もかも奪われたのに。
 唯一残された形見すらアリアから奪うのか。
 身体の傷は、食事を体に入れて力を蓄えれば自分で治せる。だが形見は。
「…ですから、アリアさんは何も」
「…もう、やめてください…」
 形見を胸に抱いて、アリアは振り絞るように告げる。
 形を留めているのは木箱に守られていたペンダントだけだ。
 これらがどれほど大切なものかは旅の途中に領兵達に話している。
 同じものは手に入らない。変わりもいらない。
「…少し、一人にさせてもらえませんか?」
 圧し殺すように吐き出した願いを、隊長は何も言わずに聞き入れてくれて。
 何かあればすぐに呼んでくださいとだけ告げて、部屋を後にして。
 パタリと扉が閉められ、静まり返る部屋に外で訓練に励む紫都の兵達の声だけが小さく響いた。
「----」
 眉根を寄せて、唇を強く噛んで。
 形見を抱き締めて、涙が溢れるに任せて泣いた。
 すがれるものが胸の中の潰された形見だなど。
 なぜ運命はここまでアリアから大切なものを奪うのだ。
 母を奪い、父を奪い、恋人を奪い、故郷を奪い。
 これからもアリアから大切なものを奪い去るのだろうか。
 アリアがどれだけ強く抱きしめて守ったとしても、あっさりと、アリアを嘲笑いながら。
 これ以上は、もう嫌だ。
 もう奪わないで。
 頭の中に浮かぶのは、兄と、もう一人の父親だ。
 兄さん、ととさん…
 この二人をも奪おうとするなら、アリアは世界を許さないだろう。
 何があっても、絶対に。


第13話 終
 
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