第1話
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慣れ親しんだ馬に跨がり、王城から一気に城下町へ駆け下りる。
まだエルザの護衛の時間であったが、他ならぬエルザの頼みに、ニコルは断りきれずに彼女の元を離れたのだ。
「ガウェは数日前に城下で騒ぎをひとつ起こしているのです!もし報復などされたら…お願いですニコル、ガウェを連れ戻してください!!」
涙を浮かべてガウェを心配するエルザの頼みを断れるはずがなかった。
同時にチクリと目に見えない針が胸に刺さるのは、エルザ姫がガウェに思いを抱いていると聞いたことがあるからだ。
黄都領主の嫡子であるガウェは、騎士になる前の幼い頃から王城に出入りし、王子や姫達とは遊び相手兼幼馴染みとして育っていた。その頃からエルザはガウェを思っているのだと耳にしていた。
「ガウェが暴力事件って珍しいね」
「リーン様絡みなら仕方ない」
エルザの護衛を一緒にいたレイトルとセクトルに任せた時に聞いた事件の理由は、とある老いた吟遊詩人が亡くなったリーン姫を扱き下ろす詩を歌ったかららしい。
不慮の事故で亡くなった幼い姫を侮辱するなど、許される事ではない。
リーン姫がどれほど愛らしく、そして悲しい存在だったか、ニコルも痛いほど理解している。
ただ髪と目の色がエル・フェアリアでは希有な闇色であったというだけで辱しめられ続けた姫を、ガウェは幼い頃から励まし続けてきたのだ。
ガウェの前でリーン姫を汚す言葉を吐くという事がどれほど恐ろしいことか、王城にいない者にはわからないだろうが。
「何もなけりゃいいが…」
そう願いながら、騎士の装備を纏ったまま馬に乗り町を走り抜ける。
あまり外で身元がばれるような目立つ格好をしていたくなかったが、この姿なら人目に付きやすいはずで「騎士がいる」と噂になればガウェなら何かあったと気付くはずなのだ。
だが、ニコルの到着は完全に間に合わなかった。
王城から最も離れた飲食地区まで来た時に謎の騒ぎを聞き付けて現場まで向かったニコルに、野次馬達が驚きの視線で出迎えてくる。
「何が」
何があったと聞く前に、珍しい騎士の登場に辺りが色めき立った。
「…騎士だ」
「ほんと…騎士様がいるわ…」
「珍しい」「本物か?」「王城の騎士だぞ」
野次馬達に囲まれて、身動きが取れなくなる。仕方無く馬を降りれば、目の前の若い娘が見上げてくる所だった。
「…いったい何があったのですか?この人だかりは?」
自分の顔がどれほどのものかは理解しているので出来れば男から話を聞きたかったが、目が合ってしまっては仕方がない。仕事であることを全面に押し出すよう真面目に問うが、若い娘は頬を染めながら恥ずかしそうにたどたどしく吃るだけだ。
「…それが…」
それでもニコルに情報を伝えようと一軒の店を指差す。
「…ありがとう」
娘に礼を言ってから馬の手綱を引きながら人混みをかき分け進めば、野次馬の先にあった酒場の異常な光景が目に入り込んできた。
阿鼻叫喚の店内。店内は破壊し尽くされ、垂れ流された吐瀉物や糞便の臭いが凄まじい。どう見ても店内の全員の気がふれていた。
「これは…」
その光景は何度か目にしたことがあった。しかしいずれも訓練中の出来事であり、訓練であるが故に“彼”も手加減をしていた。
「フレイムローズの…魔眼」
手加減のされていないそれを浴びて、訓練中ですら見たこともない狂った姿を見て、何の訓練も受けていない一般人が無事に正気を取り戻すとは到底思えなかった。
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王都の城下町で起きた不可解な事件は、店内にいた全ての者達が発狂した為に闇の中へと閉ざされて終わった。
騎士団長がガウェに命じたのはファントムの件などではなく、ガウェ自身の事件の収束なのだと知らされて。
たった一人の亡くなった姫のために簡単に他人の人体を潰せるガウェと、妄信的なまでに王家に絶対の忠誠を誓う魔眼持ちのフレイムローズ。
ニコルが王城に戻った時にはすでに二人は騎士団長に報告を済ませた後で、まるで事件など無かったかのようにいつも通りに見えた。
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そしていつも通りのまま服を返され、土産と称した嫌がらせの春画を渡され。
「--何だよこれ!!」
今朝のように五人揃った夜の食堂で、ニコルは渡された春画を思いきり床に投げつけた。
「ひどい!せっかく選んだのに!!」
フレイムローズは抗議するが、顔がにやけているので嫌がらせでしかないことはもろばれだ。
「お前の為にエルザ様によく似た春画を探してきたんだぞ。有りがたく受け取れ」
「ふっっざけんな!似てねぇ!違う!いるかこんなもん!!」
わざわざ拾うのはガウェだが、ガウェの口元も珍しく笑いの形に歪んでいる。
「クレア様の春画もあんまり似てないね。春画なんてこんなものか」
「おい、クレア様はもう少し胸あるぞ」
レイトルとセクトルも土産の絵を眺めており、こちらは文句を言いつつも満更でもなさそうだ。
「ニコルもちゃんと受け取ってよ!俺達の戦利品なんだから!!」
「だからいらん!!」
騒ぎを聞き付けて、ちょうど食堂に来ていた先輩騎士達までもが春画に興味を示してくる。
「なんだよニコル、こんなのが好きなのか?」
「だいぶマニアックだな…」
「違います!!」
誰も彼もが面白がってニコルを苛めてくるが、ニコルにそれらを軽くかわせる技量は無い。
「うわ、この体勢すごいな…」
「ニコル殿…他人の趣味にとやかく言うつもりはありませんが、あまり女性に無理強いをしてはいけませんよ」
「違、だから違うっつってんだろうがぁっ!!」
集まり始めた騎士達の悪ふざけに、相手が先輩や上司であれさすがにキレたのは短気の成せる技だった。
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騒々しい夕食を終えて、疲れた様子で部屋に戻る。
春画は何枚かは引き取り手が見つかったが、結局多くがニコルの手元に残ってしまった。
「ちゃんと整理しておけよ」
ため息をつきつつ部屋の中央のテーブルに纏めて置けば、後から入ってきたガウェに文句を垂れられた。
「お前な…」
もはや口喧嘩をする気力も残っておらず、疲れた体をベッドに預ければ、軽く軋む音が妙に耳に残った。
ガウェは中央テーブルの椅子に座り込み、自分用に買ったらしい絵画を眺め始めている。
珍しい、単純にそう思った。
本を読む姿は見かけるが、一枚の絵を真剣に眺めているガウェなど見かけたことがない。
「…おい、お前とフレイムローズの後始末、俺がやったんだぞ…」
気になったのも手伝ってベッドから降りて適当な文句を言いつつガウェの手元を覗き込み、わずかに息をひそめた。
「…リーン様の絵…少し大人だが、よく似てるな…」
ガウェが魅入る理由がわかった。
あまりにも美しい、大人に成長したリーン姫だったから。
「…見るな。減るだろ」
「お前な…はぁ…明日はエルザ様から逃げるなよ。お前を心配して俺を城下へやったんだからな」
「…さあな」
「……ったく」
結局間に合わなかったのだが、それはもはや仕方の無いことだ。
再びベッドに戻れば、今日の出来事がチカチカと脳内を走り抜けていく。
リーン姫がもし生きていれば今年で15歳。成人を迎え、婚約者のいる国に嫁ぐ年だった。
絵画として描かれたリーン姫はどこかエルザ姫に似ている気がして、その絵画を眺めるガウェがエルザ姫を見つめているような気分になり、果てはエルザ姫とガウェが見つめ合う姿が脳内でいとも簡単に描かれて、ニコルは無理矢理その考えを吹き飛ばした。
だが--…
彼女の優しい態度に、一縷の望みを考えてしまいそうになる頭が悔しい。
貧しい村に産まれた平民が国で一番の美貌を持った姫に恋い焦がれるなど、不毛にも程があるというものだろうに。
エルザ姫。その美しさを思い浮かべながら、ニコルは今日の激動を忘れるかのように静かに瞼を落とした。
第1話 終