第13話
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「--っ!?」
うたた寝をしていたアリアは、ふいに視界が人影の形に薄暗くなったことに気付いて全身を強張らせるように目を覚ました。
「あ、申し訳ございません…起こしてしまいましたか?」
「…いえ」
豪華な馬車に乗せられて半月が経った。
ようやく馴染み始めたところだが、慣れないものもある。
まだ日の高い時刻だが、アリアがうたた寝を始めた頃にちょうど全員休憩をとろうと馬を止め、アリアを起こさないように馬車の窓のカーテンを閉めようと入ってきたらしい。
領兵は何の気も無いので今から少し休憩を取ることを告げ、カーテンについてはアリアに任せると告げて馬車を降りた。
恐怖に引きつるアリアの様子を、寝ぼけていると勘違いしたらしい。一人になったところで、恐怖心を追いやるように膝を抱いた。凄まじいほどの心臓の音が耳元で聞こえて煩い。
外では領兵達の談笑と共に川のせせらぎが聞こえて爽やかなものなのに、アリアだけが存在する馬車の中は鬱々として澱んでいる。
いっそ空気を入れ換えるか外に出た方が気分は楽になるのだろうが、アリアはそれらを選ばずにカーテンごと窓を静かに閉じた。
ここは安全だとわかっているのに、意識すると男性の声が怖かった。考えなければ平気になっていたのに。
婚約者に裏切られた後から始まった地獄を未だに覚えている。忘れたいのに忘れられない。
領兵達とは気安く話せるようにはなったが、ふとした弾みに恐怖が蘇る。
早く兄に会いたい。
今のアリアが心から信用できる男は、ニコルとその父親だけだった。気分を伏せてどうなるわけでもないが、頭の中で兄に思いを巡らせる。
会わない時間の方が長くなってしまった兄。ニコルが村を出たのは、母が死んだからだった。
虚弱体質だったらしい母。アリアとニコルと同じ銀の髪を持った、儚い人。
ニコルの父は成長したアリアが母とよく似ているとは言ってくれたが、幼すぎる頃に母を亡くした為に、あまり顔を覚えていない。水面に顔を写しても、それは自分自身で。
小さな頃に治癒魔術については母から教わっていた。
病気を治すことに長けた母とは違い、アリアは物理的な傷を治すことに強かったらしく、それを重点的に教わり始めた頃に母は亡くなったのだ。ニコルが兵に交じり小さな戦闘で金を稼ぐようになってから。
ニコルの突出した戦闘技術のおかげで金は瞬く間に溜まり、おかげで村も肥えた。だがそれを耳にした賊がある夜押し寄せ、村を破壊していった。
小規模の賊だった為に父親とニコル、他数名の兵士経験のある村人達で撃退できたが、死者はいなかったが負傷者が多かった。
母は病を治すことには長けていても怪我を癒すことには弱かった為に、弱冠5歳のアリアに白羽の矢が立ったのだ。
痛みに泣き叫ぶ者達に囲まれて、恐怖しかなかった。村人達の大量の出血に泣きじゃくった。だがアリアがやらなければ確実に死者が出た。
ニコルになだめすかされ、父にあやされ、母のサポートを経てアリアはやり遂げた。村人達の怪我を全て治したのだ。
しかしその結果として、虚弱な体に無理が祟り、母が死んだ。
母が死んで発覚したのは、父も不治の病に犯されているという事実で。
それまでは母がいてくれた。だが母が亡くなり、父の病も進行を始めた。
怪我に特化したアリアの治癒魔術では父は治せなかった。
せめて父の治療費を稼ぐ為に、ニコルは完全に村を出た。
治療費を稼ぐ為だけに、村に戻らなかったのだ。
戻れなかったのだと、大人になった今ならわかる。
村人達からすれば村が襲われたのはニコルの責任であり、その犠牲者となった母についても、間接的にニコルが殺したのだと責めたからだ。
幼い頃はそんなことを言われていたなんて知らなかった。
大人になって世間を知っていく度に、見たくないもの、聞きたくないものに触れざるをえなかった。
知りたくない知識ばかり手に入れて、欲しかったものは指をすり抜けた。
だがこれからは違うと信じたい。
アリアはニコルの元に向かうのだから。
ようやく再会できる場所が王都だなど、辺境に生まれ育った者には欠片程度にも想像できないだろう。
アリアもそうだった。王都に近付くにつれて立ち寄る街が美しくなっていくのを目に映しながら、それでも未だに想像がつかない。
街並みを見る度にこれ以上綺麗な街は無いと思えるのに、日を追うごとにさらに美しくなっていく。
人々の纏う衣服も豪華になり、同じエル・フェアリアに住むというのになぜこれほどの差があるのかと落胆も覚えた。
綺麗だ素敵だと、それだけ思っていられるほど無邪気でも子供でもない。卑屈な気持ちはどうしても生まれてしまうのだ。
同じような年頃の娘が可愛らしい服を着て、愛する者と手を繋ぎながら幸せそうに歩いていれば尚更。
最初は警戒の為に開けていた馬車の窓も、今では閉め切ることが増えた。他人の幸せを素直に羨ましいと思えるほど心の傷は癒えてはいない。
「うあああぁぁああん!!」
突然外から幼い泣き声が響き渡って、アリアは背中を鞭で打たれたかのように驚いて飛び上がった。
--何?
尋常ではない泣き声と、馴染んだ領兵達の慌てる怒号が次々と耳に押し入ってくる。
異常事態には馬車から降りないように言われていたが、泣き声は幼い子供の痛がる声だ。
思わず馬車の扉を開けたアリアの視界に飛び込んできたのは、領兵達に囲まれたアリアと同じ年頃の娘と、娘に抱かれた1、2歳の幼児の姿だった。
幼児の手のひらは真っ赤に染まり、領兵達が止血を試みているが止まる気配がない。
「--見せてください!」
駆け寄ったのは無意識だった。
アリアの声に領兵達は驚くが道を開けてくれ、アリアはすぐに幼児の元に駆け寄れた。幼児を抱いた娘は母親らしく、顔を真っ白にして我が子の傷にひたすら自身の衣服を当てて血を止めようとしている。
「任せてください、止血しますから!」
アリアの強い言葉に母親はびくりと肩を震わせ、泣き濡れた顔を向けてくる。
アリアの行動は迅速だった。
子供を守ろうとする母親の腕を掴み止めてから、幼児の手のひらを優しく開かせて自身の手をかざす。
幸い深い傷ではなく、アリアは意識を集中させて幼児の手の傷に己の魔力をあてがった。
白く清らかな淡い輝きがアリアの全身から溢れ、幼児の傷に流れ込む。嫌々と痛みから逃れようともがいていた幼児も、自分の身に起こる不思議な現象に目を見開いて。
止血は簡単に済む。だが重要なのはその後の肉や皮膚の再生だ。
幸いなことに幼児はアリアに注目して、静かになってくれている。今の状態のままいてくれたら助かるのだが。
「お水を汲んできてください」
領兵に指示を出せば、誰かが既に用意をしてくれていたらしく澄んだ水がすぐに隣に置かれた。
その水で幼児の手のひらの血を洗い流す。
傷口はまだあるが、完全に血は止まっていた。
その不思議な現象に、母親を含め領兵達も目を見張る。だがこれで終りではない。
アリアは再び傷口に手をかざし、細胞の再構築に全身全霊を込めた。
大人しい子でよかった。そうでなければ気が散って、上手くいかなくなるから。
今まで何度もやってきたことだ。意識を集中させて、傷付いた手の再生を--
その光景に誰もが息を飲んだ。
丸見えになっていた肉の内側が、繊維を一つ一つ繋ぎ合わせるように引っ付き始め、元通りになっていく。
ここで気を散らされたら終りだ。
水をかけたおかげで目視出来るが、別の組織と繋がってしまったら、もう一度切らねばならない。
時間にすれば本当にわずかの間だった。それでも、どう動くかわからない幼い子供だった為に必要以上に気力を使った。
「--ありがとうございます!ありがとうございます!!」
聴力すら遮断して集中していた中で、突然母親の感謝の声がアリアの耳に飛び込んできた。
見れば幼児の手のひらには、先ほどの傷が嘘のように消えて、元通りのふにふにと柔らかい手に戻っている。
幼児は涙の筋を頬に残したままきょとんと首をかしげており、母親は我が子を強く抱き締め、涙を絶え間なくこぼしながらアリアの癒しの手にすがって感謝を述べていた。
上手くいったのだ。よかった。
ほっとひと息ついたとたんに、さりげなくではあるが領兵達によってアリアと母親は引き離された。
領兵の一人が母親に謝罪を繰り返しており、母親の方も子供から目を離してしまったからと謝罪して。
「彼の剣の鞘が一部欠けていまして…近付いた子供がそこから刃に触ってしまったんです」
隊長の男性が申し訳なさそうに説明をしてくれる。
すんでのところで領兵は気付いて身を引いたが、逆にそれが仇となり幼児の手のひらを傷付ける結果になってしまったらしい。
母親は子供を抱いて、何度もアリアに頭を下げて行ってしまった。
子供を傷付けてしまった領兵は隊長から強く叱責を受け、部隊の最後尾に移動させられて。
鞘については替えがないということで、欠けた部分は木の枝と布を巻いて補われていた。
「アリアさんがいてくださってよかったです。助かりました。…こんな失態をお見せすることになってしまい申し訳ないです」
「あたしの力がお役にたてたなら嬉しいです。誰かが怪我した時の為にあたしがいるんですから、気にしないでください」
謝罪なんてと両手をふるが、部隊を率いる立場にいる人間として、こんな失態はあってはならないことなのだろう。まさか子供に怪我を負わせるなどと。
その真面目な姿が父親と被る。歳も父親が生きていればちょうど隊長と同じくらいのはずで、それが少し悲しかった。
「今日は遅くなってしまいましたので、近くの街に寄ってそこの兵舎に泊まります」
いくつか会話をしてから、再び馬車に戻る。すぐ近くに街があるとのことだったので、少し馬車に揺られるだけで到着するだろう。
痛い思いをした幼児には悪いが、あの騒動のお陰で陰鬱だった気持ちが吹き飛んだ。閉めていた馬車の窓を開けて、わずかに茜に染まり始めた空を、アリアはぼんやりと眺めていた。
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