第12話
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腕が痺れて動かない。
膝が笑って立ち上がれない。
群れを失って情けなく立ち尽くす出来損ないの獣のようなみっともない姿で、でも地に伏すこともプライドが許さなかった。
「っ…」
訓練場は異様な空気に包まれていた。
悠然と立ったスカイが、目前の地面に両手と膝をつくルードヴィッヒを見下ろしている。
凄まじい訓練だった。
生死をかけたような、家族を人質に捕られたような。
切迫したようにスカイに挑み、その度に遠慮も何もないまま地面に叩き伏せられて。
開始時はもっとちゃんと“訓練”をつけてくれていたはずだ。
なのに段々とスカイはルードヴィッヒに訓練をつけてくれなくなった。
挑めば挑むだけ、無言で叩き伏せられて、叩きのめされて。
苛立ちと焦りに苛まれて、さらに挑んだ。
訓練をつけてもらわないと困るのに。
なぜ真面目に見てくれないのだ。
不満を覚えてちらりとトリックを見れば、こちらを注目してくれているはずなのに何も言わなくて。
スカイはトリックの部下のはずだ。なら上官として注意するべきじゃないのか。
「--余所見してんな」
情け容赦無く脳天に一発喰らって、顔面から落ちた。一気に意識が飛ぼうとするが、根性で繋ぎ止める。
また立ち上がろうとして、立ち上がれないことに気付いた。体力がもう無くなったのだ。
何とか両手と膝で立ち上がろうとしても、何者かに体を乗っ取られたように動いてくれない。骨と筋肉が勝手に震えて、圧迫するような痛みに苛まれた。
同じ場所で訓練中だった周りの騎士達からも異様な視線を送られる。
その目がまるで今の自分を嘲笑っているような気がして、ルードヴィッヒは心の中で「見るな」と毒付いた。
最早声にもならない。
喉は乾燥してカラカラになり、さらに砂ぼこりを吸って酷く傷んだ。唾液も出ない。ボロボロすぎて笑えもしない。
こんなことなら別の王族付きに訓練を頼めばよかった。
そう思えるほど、スカイはルードヴィッヒに訓練を行ってくれなかった。
「…ここまだでだな」
「!?…ま、まだ時間は」
呆れた声色が耳に響き、ルードヴィッヒは我が目を疑うようにスカイを見上げて無理矢理身体をわずかに起こした。
時間の概念などとうに消えているが、まだ訓練が必要なのだ。なのに、背を向けたスカイは振り返りもしなかった。
「訓練に集中出来ないようじゃな」
「っ…」
言われた言葉が鋭く胸に突き刺さり、反論も許されない。
スカイは去り、その後に続くようにトリックも行ってしまい、動けないルードヴィッヒは取り残されるようにその場にぺたりと崩れた。
両腕に頭を預けて、足なんかまるで女の子のように曲げて地に伏す。
「…くそ」
数日苦しんで、ようやく訓練に顔を出せたのに。
止まると思い出してしまう。
ルードヴィッヒを手にかけようとした男への恐怖と、まるで赤子のように手も足も出なかった自分への屈辱に。
動かないと。動け。早く。
「--お疲れ様。少し休もう」
頭の中でぐるぐると同じ思考を巡らせていれば、労るような優しい声で呼び掛けられて、強い力で掴み上げられた。
気力を振り絞って頭を上げれば、レイトルがいつも通りの笑顔で動かないルードヴィッヒの体を起こしてくれる。
こんな簡単な動作にも気力を振り絞らないといけないなんて。
「取り合えず端に行くよ。みんなの邪魔だからね」
邪魔?
自分は邪魔なんかじゃない。
まだ今からでも訓練を。
「…いえ、一人でも訓練は出来ます」
「無理だよ。今の君じゃあ」
だがレイトルは離してくれず、そのままずるずると引きずるように訓練場の端に移動させられた。
待っていたのはセクトルで、地面に座らされた後に、用意してくれていた水を有無を言わさず半ば強制的に口に入れられた。
最後まで飲まされそうになったのを嫌だとはね除けて、無理だと決めつけたレイトルを睨む。
「訓練…出来ます…馬鹿にしないで下さい」
まだ動ける。まだ強くなれてない。
だが体は思うように動かなくて、苛立ちに顔をしかめた所でレイトルが困ったように眉根を寄せて。
「馬鹿になんてしてないよ。…ただね」
「王族付きとして致命的なんだよ、雑念は。そんなんで大切な王家を守れると思ってんのか?王族付き騎士を舐めるなよ。お前の勝手で姫達を殺す気かよ」
レイトルが言いにくそうにしていた言葉を、代わるようにセクトルが遠慮の欠片も見せずにぶち込んでくれた。
「--…」
とても耳に痛い言葉に、唇を噛んだ。
どれだ。セクトルのどの言葉が刺さった?
いや、探すまでもなく全てだ。
針を全身に刺されるような痛みが、ルードヴィッヒから反論を奪った。
「言い過ぎだよ…私たちでよければ、聞くよ?」
躍起になって訓練を望んでいたのは確かで、レイトルの申し出に傷む胸が癒されるような感覚だった。
「少し休憩したら場所を変えようか」
声の調子は強制感があるのに、レイトルだというだけで少し穏やかな色に変わる。
ひと息ついて冷静になれば今日はもう訓練など出来ないことはすぐに気付けて、ルードヴィッヒは力無く頷いて静かに全身の痛みを受け入れた。
何とか自力で動けるようになったのは数十分経ってからだった。
レイトルとセクトルは何も言わずに待ってくれて、動けるようになった時にはルードヴィッヒの頑なになった気持ちもほどけており、先ほどの喧嘩腰の言葉を謝罪した。
二人は何も気にしてはいない様子で、まだ足元の覚束ないルードヴィッヒに合わせてゆっくりと歩いてくれた。
連れていかれた先はまさかの兵舎内周の彼らの部屋で、今更だとは思いつつルードヴィッヒは困惑して部屋に入るのを躊躇した。自分はまだ階級の低い王城騎士なのに、王族付き以上の高階級の騎士達が住む兵舎内周に足を踏み入れるなんて、畏れ多くて緊張してしまう。
だが二人は気にしていない様子だった。
「あの…本当に私が兵舎内周に入ってもいいのでしょうか…」
「構わないよ。難しく考えなくていいんだから」
おいでおいでと手招きされて部屋に入れば、ルードヴィッヒの使う六人部屋とは違う二人部屋で、二人部屋のはずなのに広くて。
ちょっと羨ましい、そう思った瞬間に、セクトルから際どい発言を聞かされた。
「女を連れ込んでるやつもいるからな」
「お、…女性を!?」
兵舎は侍女達が仕事で入る以外は女人禁制のはずだ。
「そうそう、隣室の二人なんか侍女を取っ替え引っ替え」
自分のベッドらしい片側に座り、レイトルも隣の部屋を指差しながら恥ずかしげもなく教えてくれる。
取っ替え引っ替えということは、つまりそういうことで。
想像してしまい顔を赤くさせたルードヴィッヒをからかうようにセクトルがニヤリと笑った。
「妓楼の女を呼ぶやつもいるしな」
だからどうしてそんなことを教えてくるのか。
まだ性に関して大っぴらにできるほど馴れていないルードヴィッヒには聞くだけでも顔から火が出そうになる。
同室の同期達も、パージャに女を悦ばせる性技の方法を教えてもらう者とルードヴィッヒのように話から逃げる者に分かれるのに。さらに赤くなったルードヴィッヒをクスクスと笑いながら、レイトルが「椅子に座りなよ」と中央に設置されたテーブルと椅子に促してくれる。
まだ体がつらかったので素直に甘んじれば、テーブルに置かれていたのは過激な体位の春画だ。
「うわぁ!」
「あ、悪い。ニコルに押し付けられたの置きっぱなしにしてたんだ。引っくり返しとけ」
ニコル殿が!?と心で叫んだルードヴィッヒは、その春画を買ってきたのがガウェとフレイムローズであることを知らない。
ニコルへの嫌がらせの為に買われただけの春画だったが、過激なそれがまさかルードヴィッヒの中にあるニコルの評価を少し下げたことにニコルは気付かないだろう。
さらに赤くなりながら親指と人差し指で、まるで汚いものにでも触れるように摘まんで引っくり返す。どうして自分が…とニコルにわずかに恨みを抱けば、ルードヴィッヒの様子に気付いていないのかわざとなのか、二人は隣室の騎士が女性を招き入れる会話をまだ続けてくる始末だ。
「あんまり気にしなくて大丈夫だよ。よくある話だし」
「ゲーム感覚だな。あれは」
さすがにゲームとは酷くないだろうか。
「そんな…女性に対して失礼です」
レイトルとセクトルが悪いわけではないが批難すれば、少し困ったようにまた笑われた。
「そういう男もいるってだけだよ。似たような女性もいるし、もちろんみんなそうって訳でもないよ」
それは女性に対してまだ楚々とした印象しかないルードヴィッヒには信じられない話だ。
頭に浮かんだのは可愛らしいドレス姿のミュズで、そのドレスは妓楼から借りたものではあったがミュズがそうだとは思いたくなかった。
ミュズがそんな風なはずがない。有り得ない。というか猫っ可愛がりしているパージャが許さないだろう。勿論、家族として。
「で、何に悩んでるの?」
悶々と考えてしまった時に本題を切り出されて、わずかに言葉に詰まった。
流されるようについてきたが、いざ本題になると自分の不甲斐なさを知られるのが恥ずかしくなる。
「…やっぱりいいです…」
「話したいからついて来たんでしょ。私達は話を漏らすつもりはないよ」
「それに、いつまでもグズグズされたらこっちの士気にも関わる。王族付き候補から外されたくないだろ」
レイトルとセクトル。一見すれば正反対の二人なのに幼馴染みである為か息はぴったりで、それに挟まれると妙に流されてしまう。
レイトルは穏やかに。セクトルは歯に衣着せずに。
「…はい」
「なら」
「急かしすぎだよ。ゆっくりでいいから」
絶妙のタイミングでレイトルがセクトルを止める。
そして必要なタイミングでセクトルがレイトルの濁す言葉を刃に変える。
騎士団内で名物コンビ扱いされるのも頷けた。
どうせもう後戻りは出来ない。それに今の状態のままだとスカイだけでなくトリックも訓練をつけてくれないだろう。
それだけは避けたい。
訓練が必要なのだ。今すぐに強くなりたい。
だからルードヴィッヒは、数日前に我が身に起きた出来事をかいつまんで話し始めた。
「…先日城下に下りたときに、賊に狙われ…魔力の暴発を起こしてしまい…」
表向きはルードヴィッヒの殺人も未だ見つかっていない大量殺人犯と絡んだことにされているので詳しくは告げずに、なるべく当時を思い出さないように。
声が震えそうになるのを堪えて、冷静を装いながらルードヴィッヒは言葉を続けた。
「下手をすれば、一緒にいた女の子を巻き込むところでした」
俯いてテーブルに視線を落としながら、レイトルとセクトルからは見えない位置で両手を強く握り締める。
魔力の暴発など、どれほどの人が体験するというのだろうか。
コレー姫はたまに魔力の暴発を引き起こすと聞いたことがあるが、それ以外では耳にしない。
俯いたままのルードヴィッヒに、レイトルが何の気もなく訊ねてきたのはミュズの事で。
「恋人?」
「違います!!…違います」
慌てて否定しながら、なぜか悲しくなった。
恋人じゃない。
でも気になる女の子だ。
パージャからミュズを頼まれたのに、ルードヴィッヒには守れなかった。
どころか巻き込んで傷付けてしまう所だったのだ。
「がむしゃらに訓練を続けようとした理由はそれかよ」
「…はい」
ルードヴィッヒの魔力の質は良い。だが扱い方がわからなければ無意味だ。いっそ笑い飛ばしたいくらいに悔しい。
あれほど訓練を積んだのに、何もかも無駄だったのだから。
「どうしても、早く魔具を完全に操れるようになりたいんです。…ですが、訓練をすればするほど…上手くいかなくて…」
ただでさえ数日動けなくて他の候補達に遅れを取ってしまったのに。
「焦りすぎだね」
レイトルの呟きにただ唇を噛む。焦りすぎなど、そんなこと自分でもわかっている。でもルードヴィッヒには、焦る以外に方法がわからない。
「…後から来たパージャ殿があんなすごい魔具を操れるのに…」
「卑屈になって出来るものじゃないだろ」
「わかってます!…とにかく…早く強くなりたいんです」
もう二度とあんな苦汁を嘗めたくない。
ただ一人の女の子も守れずに、何が騎士だ。
体を好き勝手にまさぐられて、何が鍛えただ。
あげくに相手を討てたのが混乱からの暴発など。
「…それだけ?」
レイトルの視線が痛い。
「他に理由は無い?」
「…はい。ありません」
思い出したのは初めての殺人だ。
生まれて初めて人を殺した。
パージャは気にするなと言った。だが気にせずにいられるか。
ガウェは何度も苛む感覚だと言った。その通りで何度も吐き、あまりの気持ちの悪さに自分が汚染されてしまったかのようだった。
それらを忘れる為にも、強くなりたかった。
強くなれば、もうあんな思いは味わわずに済むはずだ。屈辱も恐怖も、何もかも。
「お前は魔力量はあるんだし魔具を操れていないのは圧倒的な経験不足だろうから、日々訓練を積めばいずれ好き放題発動できるようになるだろうが」
「私は今すぐに強くなりたいのです!」
今すぐに誰よりも強くなって、もし願いが叶うなら時間を巻き戻したい。
数秒ほど室内に無音の時間が流れ、ようやく口を開いたのはセクトルだった。
「…魔具に関してはお前の方が訓練積んだだろ」
「はいはい…」
投げ出すような口調にレイトルが苦笑いを浮かべる。
首をかしげたルードヴィッヒに、レイトルが立ち上がって近付いた。
「私の独自の訓練方法なんだけど、聞く?」
ルードヴィッヒの向かい側の椅子に座り直して、試すように視線を合わせて。
いつもと変わらない穏やかな物腰のはずなのに、なぜか気持ちがざわついた。
「…お願い、します」
レイトルの課す魔具訓練といえば、基本を身体に叩き込むばかりだったが。
「…パージャの花の生体魔具を覚えてる?」
訊ねられたのは、初めて候補に選出された日のことだ。
「妃樹の間の?」
「そう」
亡くなられた王妃の愛した広間に集まった七姫と騎士達と上位七家の領主達。
パージャという特異点の存在に異議を唱えた黄都領主バルナ・ヴェルドゥーラとパージャ本人の口論に雰囲気が悪くなった妃樹の間で、最後にパージャが空気を悪くした詫びにと発動した、大量の薄桃色の花。
あれほどの力をルードヴィッヒは見たことがなかった。
部屋中を埋め尽くさん勢いの美しい花々は、独特の構造をした妃樹の間を何よりも美しく彩ったのだ。
「みんな見落としてるんだけど、魔具は絶対に武器である必要は無いんだ。魔力を物質化したものが魔具なんだからね。現に魔具の扱いに長けたガウェやニコルは、人も空を飛べるほど巨大な鳥を発動できる。ニコルは地方兵時代に必要だったとかで装備一式も出せるし」
「…すごい」
術式でなく魔具で空を?そんな話しは聞いたこともなくてにわかには信じられないが、ニコルの装備については耳にした事がある。
ニコルが騎士団入りする際に行われた特別な実践試験で披露したという噂だ。
「身近なものでいいんだ。髪留めでも、指輪でも、何でもいい。何か一つ身に付けられるものを決めて、一日中発動できるように意識を集中させてごらん」
一日中発動出来る身に付けられるもの。そんなもの、考えたこともなかった。
魔具とは刃であるという固定化された認識がそうさせたのだろうが、まさかそんな使い方があるなんて。
「そうやって、魔具を発動し続ける為のコツをつかむんだ。やってみて損はないよ」
「…レイトル殿は何を身につけ続けたのですか?」
「簡単に髪紐をね」
説明するより見せる方が早いとばかりに、レイトルの差し出した手のひらに魔力の霧が発生して形を成した。
本当にどこでも見かけるようなシンプルな髪紐で、言われなければ魔具だとは思えない。触ってみても、感触も髪紐そのものだ。
「昔は髪が長くてね。あと魔具上達の願掛けも込めてたんだ。王族付きになれたら髪を切ろうと思って」
レイトルは本来、騎士団入りを果たせなかったはずの貴族だと聞いた。魔力が最低量しか無かったからだ。
だがそれ以外の剣術武術に特化し、実力主義の者達に認められたのだと。しかしそれだけでは王城騎士にはなれても王族付きにはなれなかったはずだ。だというのに、レイトルは若くして王族付きに選ばれた。
レイトルとセクトルが王族付きに選ばれたのは三年前の事で、20歳で選ばれるということがどれほどの出世スピードかは騎士団に籍を置く者にはすぐわかる。
思い返せば恐ろしい限りだ。
騎士団の王族付きの中でも若手の分類に入るガウェ、ニコル、フレイムローズ、レイトル、セクトルの五人が集まるという事実が。
それぞれが敬遠される特徴があって、それぞれが実力者なのだから。
その若手実力者の一人が目の前にいる。
「…やってみます」
レイトルが行った訓練は簡単そうに見えたが、
「--!」
レイトルと同じような髪紐を発動させようとして出てきたものは、鉄の塊のような硬度を持った髪紐らしきものだった。
しかもよじくれて、一瞬だけ見ると丸焦げの蛇のようだ。
「難しいでしょ?」
「…はい」
訓練で発動するのがどうしても硬度を必要とする剣ばかりだからか、今までの固定概念が邪魔をする。
「二、三日もすれば何とか形にはなるよ。急いだって明日までに完全に出来るわけないんだから。あとこれは私のやり方だから、いろんな人に訓練方法を聞いて回ればいいよ」
「ありがとうございます!」
清々しいまでにはっきりとした感謝の言葉が自然と出て、声の大きさに思わず赤面した。
オヤジ騎士かとスカイの名前を出されてさらに赤面して、顔を隠すように俯いて。
だが先ほどまでの焦りはいつの間にか消えており、次はうまく出来るような気がして、ルードヴィッヒは髪紐ではなく思いきって硬度など関係のない髪留めを想像し、発動させた。
何の飾り気もないシンプルな髪留めは女の子の付けるカチューシャのように見えなくもない。
「…まじか」
「いえ!想像してたより何か違います!!もっと小さなピン的なものを想像していました!!」
駄目だ。出来そうな気がしたのに、やはり剣とは勝手が違うらしく難しい。
「あはは。いいんじゃない?いっそそれで。前髪ごと上げたら訓練で邪魔にならないし」
頭に付けるよう促されるが、こんなものを付けたらそれこそ女の子のようにならないだろうか。
だが思いきって付けてみれば、視界がクリアに見えて。
「どう?」
今まで何度か前髪に邪魔されてきたが、これはかなり楽かもしれない。
「…視野が広がってすごく楽です」
言った瞬間にカチューシャが消えて前髪が下りてきてしまった。
「あ…」
「まだ始めたばかりなんだから、少しずつでいいんだよ」
上手くいかないのは歯痒いが、訓練とはまた別で気分が重苦しくならない。
「…あの、みんなにも話しても宜しいでしょうか?」
ふと脳裏に浮かんだのは同じ候補の仲間達だ。
こんな方法があるなんてきっと誰も知らないはずだと思うと知らせたくてたまらなかった。一応レイトルに訊ねてみれば、好きにしていいよと許可を貰えて深く頭を下げる。
「行っておいで。君も今日の訓練でもうヘトヘトだろうし。お腹も空いてるんじゃない?」
そういえば魔力の消費後はひどく空腹になることを思い出してお腹をさする。今まで別のことに頭をとられていたせいか、空腹については見落としていたらしい。指摘を受けて、ようやく体が食事を求めていることに気付いた。
「また何かわからないことがあれば聞きにくるといいよ。候補の仲間にも気兼ねせず訊ねにおいでって伝えておいて」
「はい、ありがとうございます!」
返事も大きく立ち上がれば、訓練で酷使した身体はまだ本調子ではないらしく少しよろけた。だが倒れるまではいかず、腕でテーブルを持って何とか身体を支えて、再度二人に頭を下げてからルードヴィッヒは部屋を後にした。
空腹がつらいが今教えてもらったことをみんなに伝えたい。候補に選ばれた仲間として黙っていたくはなかった。
身体は重いが、気持ちは大分楽になった。兵舎内周を抜けて外周に帰りるルードヴィッヒの表情は、憑き物がひとつ剥がれたようにすっきりとしていた。
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「単純だな」
「そっちの方が上達するよ。彼は」
窓から外を眺めればちょうどゆっくり歩いているルードヴィッヒが見えて、少しだけでも力になれただろうかと互いに顔を見合わせた。
様子がおかしいとトリックが言った通り訓練に没頭する為の理由がそこにはあって、まだまだ自分達は見る目を養わなければと思い知らされた。
「…なあ、ニコルのところに行かないか?」
ニコルの妹への負い目からニコルに合わせる顔がないと避けていたセクトルが、自分から会いに行きたいと告げたのは護衛に選ばれたからだろう。
冷淡に見えて、思いやる心も人一倍あるのだ。信頼を寄せる仲間には特に。
「…そうだね。伝えにいこうか」
思い立ったがとばかりに部屋を出て、ニコル達のいる王城に向かう。
「…みんなが一気に動き出すから…少し寂しいよ」
変わらずにいられることなんかあり得ないのだ。
時間は一定の速度を保って進み続けるものだから。
いつだって、たった今起きたはずの出来事を、気付けば懐かしんでいる自分がいるのだ。
第12話 終