第11話
-----
村を出てから三日目を迎えた。
村を下った場所にある町より遠くに行ったことのなかったアリアにとって、目の前に広がる光景はもはや異国だった。
万が一逃げる事態に陥った場合に備えて馬車から外を眺め続けてきたが、これ以上続けても意味がないだろう。
それでも馬車の窓から両腕を出して組み、だれるように顔を預けて外を眺めていたのは単純に今まで見たこともない景色が珍しかったから。
場所はどこかの街を走っているらしく、領兵達と豪華な馬車に街の人間が見世物でも見に来たような顔で視線を向けてくる。
街中だからかあまりスピードは出ておらず、アリアの窓から一番近い位置にいる領兵が馬の背に股がりわずかに八の字に体が揺れるのを眺めて。
何人もの屈強な領兵に守られた豪華な馬車に乗っているのがボロを身に纏ったアリアだなど、様子を見ていた人々にはどう見えるのだろうか。
石畳の上で馬車を揺らされても、ふかふかの椅子が衝撃を吸収して痛くも痒くもない。
こんな贅沢、今までしたこともない。だが幼い頃に父や母の膝の上に座っていた時の方が安心することができた。
そういえば昔一度だけ、兄が自分を膝に乗せようとしたことがあった気がする。どれもこれもアリアの指をすり抜けた懐かしい思い出。
それに比べてここはとても居心地が悪かった。
怯えるほどの恐怖は過ぎ去ったが、それでも漠然とした不安がずっと体を苛んで、用意された食事もあまり喉を通っていない。
「…治癒魔術師様、宜しいでしょうか」
気付けば俯いて石畳に目をやっていたアリアは、馴染みのない呼ばれ方をされたが静かに頭を上げた。
治癒魔術師様。
そんなもの知らないのに。
顔を上げたアリアの目に飛び込んできたのは、馬車に乗せられた日の夜に領兵から借りた伝達鳥の姿だった。
兄に手紙を出した。だがこんなに早く戻ってきたということは、兄に手紙を渡せなかったのか。
しょぼくれて再び地に向かった視線だったが、もう一度領兵に「治癒魔術師様」と呼ばれて顔を上げて。
「兄君様からの返事が入っております。伝達鳥から手紙をお受け取り下さい」
言われた意味がわからずに首をかしげる。
「…え、でも早くないですか?」
「そうですか?この伝達鳥は王城までなら一日かからずに飛べますので普通かと」
驚きすぎて口が開く。一日かからずに王城まで?伝達鳥にそんなことが出来るなんて。
いつもアリアが村長から借りていた小さな灰色の伝達鳥は、手紙を持たせてから帰ってくるまでに半月はかかっていたのに。
体の大きさが関係しているのか、それとも特殊な訓練を受けた伝達鳥なのか。
「どうぞ?」
領兵の腕に胸を張るようにして留まっている伝達鳥は、アリアが窓から離れるとすぐに羽を広げて馬車に同乗してきた。
取り付けられた手紙を受け取れば、伝達鳥は窓から飛び出して後方の領兵の元へ戻っていく。
広げた手紙には確かに兄の文字が刻まれていた。
「っ…」
それだけで泣きそうになる。
不安と恐怖を綴った手紙を送った。もし兄がアリアの現状を知らなければどうなるかと思った。
だが手紙には兄らしいしっかりとした少し強めの筆圧で、突然の出来事への謝罪と安心するようにと書いてあり、それでようやく強張っていた全身から力が抜けた。
“もう大丈夫だから”
“もう怖いことは起きないから”
強制的に馬車に乗せられたアリアの手を窓越しに握って、村長と奥さんは涙をこぼしながらそう告げてくれた。
それでも怖かった。知らない人々に囲まれて、知らない土地に連れていかれて。
でもこの手紙は今回の件に兄が関係していると物語っていて、ようやく安心できた。
「兄さん…」
手紙を折り畳んで、胸に寄せる。
記憶の中の兄は曖昧な輪郭でしか残っていない。アリアが6歳の頃に村を出たきり、給金を送るだけで一度も帰ってこなかったから。
兄が王城で騎士団入りすると聞いた時は冗談だと思っていたのに、それ以降訪れるようになった王城専属の配達の青年は、アリアに兄の近況を報告してくれるようになって。
大人になった兄の姿を想像するのは容易ではなかった。唯一想像するとすれば、まだ兄が村にいた頃にたまに姿を見せていた“彼”の姿からだろうか。その“彼”も兄が村を出ると同時に音信不通になってしまったが。
幼かった頃から今までを振り返れば、他者から見れば決して幸せではなかったのかもしれない。
村人には蔑まれ、早くに両親に先立たれ、婚期を過ぎてから婚約者に捨てられた。
だがアリアには兄がいてくれた。
手紙のやり取りだけでどれほど元気をもらったか。懸念するとすれば、婚約者の件だろう。
兄に報告したのは、むせび泣く毎日を打開したかったからだ。
そして、もしかしたら会いに来てくれるのではないかという期待があったから。
婚約者と別れてから、何故か村での扱いが陰惨なものに変わった。味方は村長と奥さんだけで、とある事件が起きてからはずっと二人と暮らしていた。
思い出して怖くなり、自分自身の体を抱いて。
助けてほしいと口にするのも怖かった。
--でも、もう大丈夫なんだ…
不安だったが、アリアの未来は兄に繋がっているはずだ。自分がなぜ王城に呼ばれたのかはまだ詳しくはわからないが、王城には兄がいるから平気だ。
体の震えを止める為に、深呼吸を何度か行う。
大丈夫。何も怖がる必要なんて無い。
「…あの!」
だからアリアは窓から顔を出して、一番近くの領兵に声をかけた。
憑き物でも落ちたようなスッキリとした表情で呼び掛けられて、領兵はぱちくりと目を瞬かせる。
それも仕方無いことだ。強引に連れ出されてから今まで警戒しか見せなかったアリアから突然はにかんだような笑顔を向けられて、困惑しない方がおかしいだろう。
「…どうされましたか?」
「あの…私の家から持ってきた荷物って、近くにありますか?」
村を出発する際、領兵達は勝手にアリアの自宅に向かい、勝手に侵入した。家の中にある荷物も全て運び出すと説明を受けたので、そこにあるはずなのだ。大切なものが。
「はい。…おそらく全て」
困惑したままの領兵にやや不安げに頷かれ、さらに笑顔を向けた。成人する前から年齢を誤魔化して街の飲食店で働いていたのだ。自然に見える仕事用の笑顔なら接客に煩かった女店主から叩き込まれている。
「手元に置いておきたいものがあるので、少し止まってもらってもいいですか?」
アリアの頼みに領兵は辺りを見回す。どうやら街での位置確認をしたかった様子で、止まっても大丈夫とわかるとアリアに小さく頷いてから、馬上から少し腰を浮かせた。
「全体、止まれ!」
領兵の指示に、隊列が静かに動きを止める。四頭の馬が引く馬車は一番最後にゆっくりと止まり、領兵達の迅速な動きの後に馬車の扉が開かれた。
窓越しではない視界いっぱいに広がる光景。見慣れない街と野次馬達のせいで気分が落ち着かないが、少しだけだろうが辺境から国の中央に近付いただけでとても綺麗な街だ。
アリアが働いていた街は地面も整備されていなかった。剥き出しの岩に、生えっぱなしの雑草。それが普通だと思っていたのに、なんて素敵な街なんだろう。石畳は薄い靴底からわかるほど固くて、多少のゴツゴツとした凹凸が面白い。
「--ぅわ!」
馬車に乗り続けて身体が鈍ったせいか、それとも不馴れな場所だからか、石畳の隙間に足をとられて転げそうになり、近くにいた領兵がすかさず止めてくれた。
「…ごめんなさい」
「急がせてしまっているのはこちらです。足元にお気を付けください」
「はい」
助けてくれた領兵の顔は、アリアより少しだけ高い位置にあるだけだ。それは領兵の背が低いというわけではなくて。
「--あの女の人、おっきい!」
野次馬の中にいた子供が、無邪気にアリアを指差して大声を出した。
母親らしき女性が慌てて子供の手を引いてどこかに逃げたが、アリアや領兵達にもしっかりと聞こえていた。
「気にしないで下さい。慣れてます」
少し動き出そうとした領兵を止めて、苦笑いを浮かべる。
アリアの身長はエル・フェアリアの女性の平均よりかなり高いのだ。小柄な男性ならアリアより低くなるだろう。
同時に胸も大きかったアリアはコンプレックスを隠すように大きめの服を来ているので、端から見ればとても大柄に映ってしまう。
胸については領兵達ですら戸惑うように視線を外す姿を何度か見ている。
「治癒魔術師様、あちらの馬達にご自宅の荷物を運ばせています。どのような物をお探しで?」
領兵に引かれて近付いてくる馬は二頭だけで、アリアの家から運び出された荷物は左右対称になるように胴体に吊り下げられていた。
「二つあるんです。本と木箱を…本は一冊だけなんですぐわかると思います。木箱はこれくらいで…」
説明をすれば、荷物を整理して詰めたらしい領兵が手際よく一つの袋を開けてすぐに本を取り出す。
あった。良かった。
安堵するアリアの元に本は届けられて、
「言われた本はこちらですか?」
「はい!…ありがとうございます」
渡された本を胸に抱く。
母が残してくれた大切な本だ。何度もめくったせいでどこもかしこも擦れているが、大事に大切にしてきた。
領兵達も荷物を運び出す時に気を付けてくれていた様子で、新しい傷もない。
「後は木箱だ」
「確かこっちの袋に詰めた気が…」
もう一つ頼んだ木箱も探してくれていて、こちらは少し手間取っていたが見付け出してくれた。
「こちらでしょうか?」
「それです!」
渡された木箱は両手に収まる小ささで、細やかな模様が彫られている。それをゆっくりと開ければ、中から二つの首飾りが現れた。
深紅の石を中央に添えた二つの首飾りは、木箱と違いわずかに薄汚れている。
「…よかった」
中身も無事だ。
「随分古いものですね」
隣にいた領兵も、木箱との差に驚いた様子だった。
「大切なものです」
「す、すみません」
「あ、責めたわけじゃ…付けようとはあまり思わなかったものだけど…」
それは“彼”が兄に送ったものだった。
二つあるので一つはアリアがつけるよう言われたらしいが、兄は片方をつけようとはしなかった。
結局二つともアリアに渡されたそのネックレスはなぜかつけると気持ち悪くなってしまい、今まで首に飾れなかったのだ。
だか今は、どうしてもつけていたかった。
木箱から取り出して首にかける。
「っ…」
途端に首から全身に悪寒が走った。
いつもこうだった。
まるで悲鳴でも上げるように、ネックレスは全身を軋ませるのだ。
それでも、慣れれば大丈夫のはず。
鎖骨の少し下で揺れる二つの石にそっと触れれば。
「--付け方を間違えている。だから気分が悪くなるんだ」
背後の高い位置から男性の低い美声が降ってきた。
まるで全身を愛撫するかのような優しい声には、アリアの幼い頃の記憶を刺激する音色がある。
「な、何者だ!!」
「治癒魔術師様から離れろ!!」
領兵達の動きは迅速だった。
全員が武器を携えて、アリアと背後の男を囲うように陣形を作る。
だが人質のように男の前に立つアリアに危害が加わらないように、それ以上は動かなかった。
男はさほど気にしていない様子で首飾りを優雅な手付きで外し、最後に頭をゆっくりと撫でてくれた。
知っている。
その大きな手のひらを。
落ち着いた雰囲気を。
誰にも真似できないような美声を。
「待って!!」
警戒を強めた領兵達に叫んで、アリアは振り返った。
身長の高いアリアでも見上げなければいけないほどの人。男は仮面越しにアリアを見下ろしてくる。
仮面など、どうしてつけているのかわからない。でもすぐに気付いた。
長く美しい髪の銀色は、ニコルとよく似ている。やはり“彼”だ、と。
「どうして…なんでここにいるの?」
声が震えたのは、ずっと会えない人だったから。会いに来てくれないのは、アリアに興味がないからだとずっと思っていた。
だって“彼”が村に訪れる理由はニコルだけだったから。
「…大きくなったな。母親に似て美しく育った」
見上げたままのアリアの頬に涙が一粒こぼれていたらしい。すらりと美しい指で涙を掬われて、また頭を撫でられた。
どうしよう。こんなに胸が締め付けられるなんて。
「…ととさん!!」
懐かしすぎる再会が、こんな場所でだなんて。
どうしようもなく胸が熱くなって、嬉しくて、安心して。すがりつくように彼の胸に抱きつけば、彼も懐かしむように、そっとアリアを抱き締めてくれた。
-----