第11話
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その日の朝食の時間になっても、エルザは自室から出ようとはしなかった。
ベッドに寝転がり、涙の筋をいく筋も残しながら不貞寝して。
抱き締めるように胸に寄せたニコルの手袋が、まるで形見のように見えるほどだった。
エルザの部屋の外では、彼女を守る騎士達が全員集まっていた。
召集をかけたのはエルザを守る護衛部隊の隊長イストワールで、集まった中にはパージャの姿もある。
「--そういうわけで、ニコルはエルザ様の姫付きから外れることになった。以後はニコルに替わり、パージャにガウェと行動を共にし、エルザ様の護衛についてもらう」
クルーガーから聞かされたニコルの護衛部隊離脱を事務的に告げれば、集まった騎士達から不満とも諦めともつかない妙な表情を見せられる。
ここにいるのはパージャを除いて全員、長くエルザの護衛に従事してきた騎士達だ。エルザの胸に秘められた思いにも気付いている。
エルザがニコルに恋い焦がれていることはエルザの王族付き達全員の知るところではあったが、さすがに昨夜告白までしたことを知るのはガウェとパージャだけだ。
表立ってエルザを応援は出来なかったが、ガウェが護衛をニコルに任せて放棄するのをいいことに、エルザがゆっくりと休める時間はわざとニコルに護衛時間の交代を頼んだ者達もいる。
毎回というわけにはいかなかったが、ニコルもエルザを好いているだろうことを見越して。
それが何故こんなことになるのか。
誰も、まさかニコルからエルザの側を離れたいと言うなど予想していなかった。
それはニコルの妹のことをあまり知らなかったのもあるが、それを知ったとしても、エルザしか知らない者達にはやはりニコルが妹の安全を優先させるなど想像が難しいのだ。
幼い頃からエルザを守ってきた騎士達なら尚更だ。それこそ娘のように妹のように、大切に守ってきたのだから。
「…隊長」
手を上げたのは、昨日の昼にエルザの護衛に付いていたクラークだった。
ニコルに掴みかかった彼は、やはり納得いかないと不満を隠そうともしない。
「何だ?」
「治癒魔術師が到着するのは約ひと月後のはずです。なぜ今すぐニコルが外れることになるのですか?」
クラークの問いに、全員の目が一斉にイストワールに向かう。まだ時間はあるはずなのにと。
ニコルが団長から頭を冷やすという名目でフレイムローズと行動を共にするという命令を受けたことは知っているが、そうだとしてもなぜ。
「詳しくは知らんが、治癒魔術師を迎えるにあたり準備が必要との話を魔術師団長直々に頂いた」
「ニコルが恐れているのは妹がニコルと同じように酷い嫌がらせを受ける可能性でしょう?国が心待ちにしていた治癒魔術師に危害を与えようとする者などいるはずが」
説明したところでクラークは納得しないだろうと彼の性格を理解している騎士達は口には出さずに思ったが、クラークの言葉は誰もが思っていることだった。
「誰も彼もが、崇高な意志を持っているわけではない。…特に安穏に満たされたこの国では尚更だ」
イストワールはニコルの心情を直接聞いた。
暴れたいだけ暴れさせて、飲みたいだけ飲ませて、そうしてようやく吐かせた胸のうちを、ただ静かに聞いたのだ。
王城内にいる者達の真摯な存在の少なさには気付いている。
かつてリーン姫も、心無い者達の餌食となり悲しむ毎日を送っていた。
イストワールの説明に付け足すように口を開いたのは、ニコルよりも年上ではあるが王族付き経験の浅い騎士だった。
「…将来性のある騎士団や魔術師団の男達の中に未婚女性が一人入るというのも…侍女達の一部には我慢ならないようですし」
眉をひそめたのはクラークだけではなかった。
「…何だそれ?」
「声高らかに騒いでましたよ」
いったい何のために王城で働いているのだ。
愚かな侍女長が去って優秀な女性が侍女長の任についてからは優秀な侍女達が王城で働くようになったというのに、兵舎の、特に外周を長く任される侍女達は夫探しに余念がない者ばかりだ。
「…これだから女は」
吐き捨てるように呟いたクラークの言葉に、また別の若い騎士が噛み付いた。
「その言葉は聞き捨てならない。侍女達全員がそうというわけではないだろう」
「サイラス殿は醜い女社会を学んだ方がよろしいのでは?」
「何だと」
クラークと若い騎士、サイラスの口論に周りの騎士達が静かに押さえにかかる。
「よさないか、見苦しい」
ここはエルザの部屋の前なのだ。
イストワールの静かな叱責に、二人はばつが悪そうに俯いた。
「ニコルの抜けた穴は大きい。だか妹君にニコルが思うような不安が無いとわかれば、ニコルは姫付きに戻ると約束している」
一概に不安といっても想像などつかない。
クラークの視線が、後ろの方で静観の姿勢を見せていたガウェに向けられた。
「…ガウェ殿、ニコル殿から何か聞いていないのか?」
この中でニコルと一番親しいのは同室であるガウェのはずで。
漠然とした問いかけに、ガウェは無表情のまま首をかしげた。
「何かとは?」
「…何がそんなに不安なのかとか…いろいろだよ!!」
からかうような態度に苛立ったクラークは声を荒らげるが。
「お互いに深入りした話はしませんからね。…ニコル殿が今も命を狙われているのは事実ですが」
最後の言葉に目を見開いて固まった。クラークだけでなく、パージャ以外の全員が。
言葉にならないというような愕然とした表情を浮かべる騎士達を眺めながら、パージャはやれやれとため息をつく。
「…言っちゃうんすか」
その言葉は、パージャも内情を理解していると告げていて。
「どういうことなのか話しなさい」
イストワールを中心に全員の視線がガウェに向いて、異様な雰囲気がその場を包み始める。
命を狙われるなど、そんなことがなぜ、と。
「…平民を殺したいほど嫌う者がいるのは事実です。現にパージャも家族を人質にとられかけました」
「ちょー怖かったー」
「こんな時にふざけるな!!」
ガウェの言葉に馬鹿みたいな合いの手を入れたパージャを、クラークが強く怒鳴り付ける。
ぶー、と膨れるパージャを放置して、また別の騎士がガウェに訊ねた。
「ニコルを亡き者にする為に、治癒魔術師を人質にする可能性があると?」
有り得ないと言いたげな声色に、笑いが漏れる。それはいったい誰に対して向けられた嘲笑なのか。
「崇高な意志を持たぬ愚か者なら、後先考えずにそうするでしょうね。漠然とではありますが、それにニコル殿は気づいています。…だからあれほどまでに固執するのでしょう」
妹は酷く傷つけられたと言っていたのだ。
婚約者に裏切られた者の気持ちなどガウェにはわからない。だが愛するものを傷つけられる気持ちなら、痛いほど。
「…ファントムの噂に、治癒魔術師の安全確保…」
「ほんと、イベントって重なりますよね~」
「お前も命を狙われているんだろ!!何をのんきにしているんだ!!」
どこまでも軽いパージャを、クラークはまた怒鳴り付けた。しかし今度はぶーたれることもなく、優美にすら見える微笑みを浮かべて。
「俺は死にませんから」
根拠の見えない言葉に、誰もが息を飲んだ。
「っ…どこから来る自信だ」
人を小馬鹿にでもするような姿に、それ以上はパージャを責められなかった。
「…ガウェ、その話を団長は知っているのか?」
「はい」
そして命を狙われるという重大な事実に、イストワールが眉根を寄せながら訊ねて。
直属の部下が命を狙われているのだ。心中穏やかにいられるはずがないだろう。
不愉快そうに口を閉じたイストワールを見て、ガウェはパージャに訊ねた。
「…パージャ、ここにいる騎士達の中には」
それは、パージャにしか意味のわからない言葉だ。
「いないいない。ちょー崇高な意志の持ち主ばっか。さすが選ばれし王族付き騎士達」
誉めているのか貶しているのかわからない様子に、イストワールは怪訝そうにガウェを睨み付けた。
何を言いたい。何を知っている。そう視線だけで語りかけてくるような姿に、正体を晒した。
「…ニコル殿の命を狙っているのは私の父です」
「なに!?」
「ニコル殿はそこまでは気付いていませんが」
最初は秘密裏に解決しようと考えていた。だが事態は大量の死者を出す結果に陥ってしまった。
ここまで父を放置してきたのはガウェだ。
「…ヴェルドゥーラ氏が…」
「有り得る話でしょう?」
信じられないと言い出しそうな口調に、それだけを返す。
ニコルは今まで上手く回避してきた。だからこれからも勝手に自分の身は自分で守るだろうと思っていたのに、団長自ら動いてパージャがやって来た。
「俺が騎士団入りした最大の理由だし。バルナ・ヴェルドゥーラの息のかかった馬鹿を探して回れって」
皆の視線がパージャにずれて、突然の平民騎士の追加の実態を晒して。
「じゃないと、魔力高いってだけでこんなちゃらんぽらんがすぐに騎士団入りできるわけないじゃーん」
その為にパージャの家族と、ルードヴィッヒが巻き込まれた。
ルードヴィッヒが今日も体調を崩して熱を出してしまったことも聞かされている。
「…治癒魔術師の件は、本当に間の悪い時期での発覚でした。父の件に関しては内密にお願いします。ニコルに知られたら…」
「…城から消えるだろうな。妹を連れて。で、その話を我々に聞かせて、何を手伝わせたいのだ?」
先手を打つようなイストワールの言葉にガウェは一瞬押し黙る。
それを決断したはずなのに、いざ口にしようとすれば、今までの思い出が邪魔をした。
「…そうでなければ話さなかったろう」
長年騎士達を見てきたイストワールにはお見通しで。
「--…」
飲み込みそうになったその決断を、ガウェは静かに語って聞かせた。
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