第10話
-----
エル・フェアリアの王子コウェルズは王城に戻るとすぐに政務に取り掛かった。
家族との再会は後に回され、ひと息つくこともなく最初にファントムと治癒魔術師の件を聞いて。
そして城下で起きた遊郭街の大量殺人から、王都の状況、国内の領主達との連絡、他国との貿易、税の徴収に、国が運営する施設の現状。それ以外にも数多くの問題。
コウェルズが不在にしていた間の膨大な出来事を全て、聞き漏らすことなく頭に詰め込み、いとも簡単に今後の展開について助言していく。
まるで水を一杯だけ飲むように軽くこなすコウェルズに、大臣達を含めその場にいた多くの者達が舌を巻いた。国王ではこうはいかないと。
もう四年も引きこもったまま政務に現れない肩書きだけの王は、政務棟ではもはや話題にも上がらないほど忘れ去られた存在と化していた。何より、コウェルズが優秀すぎた。
妹である七姫達は美しい母親に似た。
コウェルズはどちらにも似なかった。
父と母のどちらに似ているかを選ぶなら父親である国王なのだろうが、コウェルズは国王の兄である、大戦後に暗殺されたロスト・ロードを髣髴とさせると言われる。
聡明で美しい王子。あの愚王から、よく生まれてくれたと。
コウェルズが王座に座る時を待ち望む声は国内外問わず非常に多いのだ。
その日予定されていた全ての公務を予定より早く終わらせたコウェルズは、王城の自室に戻ると、部屋に呼んだミモザの前でベッドに腰掛けてようやくの休憩にまったりと背中を丸くしていた。
「疲れたぁ…」
ミモザが兄の部屋に入ったときに聞いた第一声はそれだった。
人の目が有るときは振舞いに気を付けるコウェルズだが、家族の前では飾らずにいる。
外交に向かった先は海の向こうの島国イリュエノッドだ。魔術師を連れていれば短時間の空の旅になっただろうが、コウェルズは自身の王族付きと共に陸と海の道を選んだ為に移動時間は長かった。
その疲れを見せずに公務をこなし、ようやく落ち着いて羽を伸ばしている姿はギャップがあって可愛い。
「お疲れ様でした。侍女に何か入れさせましょうか?」
「いや、いいよ。今何か飲み食いしたらすぐに眠れる自信があるからね」
座った体勢からベッドに上半身を預けるように横向きに倒れこんで。
どんな自信ですかと笑えば、片手でポンポンと隣に座るよう促された。
これが賢君の再来と謳われた兄の実態だ。
気さくで気取らない。
遠慮なくベッドに腰を下ろせば、コウェルズはミモザの腕を引いて自分と同じように寝転がらせた。
「きゃ…」
「ミモザもお疲れ様」
小さな悲鳴を発した後に労われて。
護衛達は外に待機させているのでこんな姿を見られることはないが、普段から洗練された姿でいるよう心がけているミモザには恥ずかしくてならなかった。だがこの兄に逆らうなど不可能であることは身をもって理解している。
母が病弱だったからか、父が頼りなかったからか。コウェルズはいつだって妹達の面倒を見て甘やかそうとするのだ。
「まさかエル・フェアリアにもファントムの噂が立つなんてね。しかも私のいない時に」
「仕方ありませんわ。お兄様がいない時にファントムが現れなかっただけ良かったです」
申し訳無さそうに眉尻を下げた表情には、強い責任感が窺える。
ファントムの噂についてはイリュエノッドでも聞かされたはずだ。しかも内容は七姫が狙われるというたちの悪さだ。遠く離れた地にいた兄はどれほど心配していたのだろうか。
「…父上は未だ動かず引き込もっているのか」
そして姿を見せない父にわずかに苛立った声を発した。
「ファントムの件を切り出せば、返事すらくれませんわ」
ミモザも何度となく掛け合った。娘が狙われているかも知れないのに、父は出てきてはくれなかった。もしかしたらという思いが強く存在したのに。
父が引きこもり始めたのは母が亡くなってからだ。
ファントムの件があったから、娘達の為に出てきてくれると思っていた。
大臣や騎士達、国民達が見限ろうとも、ミモザは信じていたのだ。凡庸で構わない。優しい父にまた会いたかった。なのに。
これは裏切りなのだろうか。それとも馬鹿のように父を勝手に信じたミモザが愚かだったのだろうか。
「ミモザがいてくれてよかったよ…でなければエル・フェアリアはとうに他国に潰されていただろう」
「大袈裟な。お兄様ほどの手腕は私にはありません」
「本当の事だよ」
労うように頭を撫でられて、涙がじわりと浮かんだ。それを誤魔化すために、あくびを噛み殺すふりをして。
疲れた?
小さく訊ねながら、コウェルズは零れかけた涙を拭ってくれた。兄の優しさに体が綻んで、ようやく自分が強烈に全身を緊張させていたことを自覚する。
ファントムの噂は怖かった。怖いのに、誰にもすがれなかったのだ。
ミモザは七姉妹の長女だ。コウェルズが不在なら、ミモザが先頭に立つ。
「……泣いていいよ」
優しい言葉に、気持ちがすぐに限界を迎える。涙はすぐに溢れた。ドレスの袖で目元を押さえて、口はへの字に曲げて。
誰にもすがれず、誰にも頼れず。
自分が先頭に立たねばならない重圧が苦しかった。普段ならそんなこと思いもしないのに、ファントムの噂なんかに。
コウェルズは気が済むまで泣かせてくれて、ずっと頭を撫でていてくれた。
大きな手のひらはそれだけで頼もしい。強がらずにいさせてくれる存在が側にいてくれるだけで心が落ち着く。
時間ならほんの数分。もう大丈夫。そう思えてようやく最後の涙を拭き取った。
すん、と鼻が鳴るのが恥ずかしかったが、どうせ泣きじゃくった姿を見せたのだからもう後の祭りだ。
「ファントムの噂については…後は様子を見ることくらいしか出来ないだろうね」
「…誰が狙われているのか…」
落ち着いた所を見計らって、まるで泣いてなどいなかったように先ほどの会話を続ける。いつまでもぐずぐずするのは性に合わないと気持ちを切り替えて見せれば、少しだけ笑われてしまった。
「フェントの言う通りなら…七姫の中で最も魔力の高いコレーの可能性が高いが…」
コレーの魔力は七姫達の中でも突出して高い。だが致命的なのは、その魔力を上手く操れないことだろう。
「魔力の操作力で考えるなら、私かエルザか…」
操作力なら、ミモザとエルザは高度な訓練を積んだ魔術師達に引けを取らない。
「操り人形のように宝具を扱わせるならクレアやオデットの可能性もあるね。…エル・フェアリアの知識を手に入れたいならフェントか」
クレアは武術が、オデットは舞踏が得意なので、身体能力に関してなら二人は外せない。そしてフェントの脳内には、エル・フェアリアどころか近隣諸国の歴史文献まで詰まっている。
「全員がそれぞれ狙われる可能性を持っていますわ」
城下ではファントムは七姫の誰かに恋い焦がれたなどという浅い噂も流れているらしいが、そんなはずがない。騎士達も半信半疑の様子だが、フェントが見つけ出したファントムとの繋がりは、最悪の事態すら想定させるのだ。
「解せないのは何故私が狙われていないのかだがな」
「お兄様ったら」
場を和ませるように不満を告げるコウェルズに苦笑して。だが確かにその通りだろう。コウェルズは七姫達の全てを兼ね揃えているのだから。
「はは…長い間任せきりですまなかった。ファントムの噂については全て発覚するまではどうしようもないだろう。明日は私に政務を任せてゆっくり休みなさい」
「え…ですが」
まさか兄は休まないつもりなのだろうか。外交に加え長い帰路を進み、今日も王城に到着してすぐに明日まで予定されていた公務を前倒しで済ませてしまったので一日しっかり休むものだと思っていたので、コウェルズの提案には心から驚いた。
さすがに止めようとしたところを手で制されて。
「ヴァルツも来ているだろう。あまり未来の夫を放置するものではないよ」
昨日突然姿を見せた年下の婚約者の名前を出されてしまった。
ラムタル国には昨日のうちに連絡を入れた。その返事はヴァルツの兄でもある国王直々に「城から放り出せ」だ。
まさかそんなことが出来るわけもなく、当分エル・フェアリアに滞在することが決まった。これでヴァルツは立派な賓客となったのだ。
「…では、明日はゆっくり過ごさせていただきます」
賓客となった大国ラムタルの王弟ヴァルツをいつまでも放置するわけにもいかないということだ。苦笑するミモザに、コウェルズも仕方ないとばかりに笑う。
そこに、扉を叩く軽い音が響いてきた。時間的に夕食で、侍女からの合図だろう。体力自慢の騎士達の扉を叩く音は遠慮なく煩いから。
「じゃあ夕食に向かおうか。久しぶりの兄妹水入らずだ。山菜が多いとありがたいよ」
「あら、イリュエノッドでは海の幸を楽しまれたのでしょう?」
「ああ。どれも素晴らしかった。いつか皆で楽しみたいものだね」
上半身を起こそうとしてコウェルズに引き倒されて、先に起き上がろうとするコウェルズの肩を掴んで起き上がれないようにして。
子供の時のような攻防を繰り広げて、少しだけ遊んだ。こんな無邪気な行為も久しぶりだ。騎士を撒くように中庭を駆け回る遊びも、いつの頃からかしなくなってしまったのだから。
ひとしきり戦ってから、再度のノック音にようやく二人で体を起こす。
纏めた髪もメチャクチャだ。
「サリアは元気そうでしたか?」
手ぐしで簡単に直しながら訊ねたのは、外交先のイリュエノッドの姫君についてだった。
コウェルズの婚約者であるサリア王女は、ヴァルツと同じく来年エル・フェアリアに嫁ぎに来る。
「とても元気だったよ。私とはあまり話してはくれなかったが」
兄が少し不満げなのは、人に好かれやすい性格だと自覚しているコウェルズにサリア王女があまりなついてくれないからだろう。
それは勝ち気なサリア王女の照れ隠しなのだが、複雑な乙女心はさすがのコウェルズにもわからないらしい。
「久しぶりの再会で恥ずかしかったのでしょう」
「ならいいんだけどね。結婚後が少し心配だったところだ」
どうやら本気で少し悩んでいる様子のコウェルズの背中を押して、ようやく揃う家族との夕食を急がせた。
ミモザばかり兄を独り占めには出来ない。妹達も無事の帰りを心待ちにしていたのだから。
-----