第9話
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「--お…俺だよ…懐かしいな?昔、一緒に飼われてたじゃねぇか…」
広いだけの薄暗い倉庫の中で、彼は腰を抜かしたまま懇願するようにパージャに話しかけていた。
仲間は全員死んだ。全身が綺麗に揃っている仲間は一人もいない。
奇妙な力で八つ裂きにされた仲間達。一歩歩けば二、三人分の体のパーツを踏んでしまうだろう。
床は一面血と肉に染まり、飛び散る内臓やそこからからはみ出た汚物のせいで、えぐみのかたまりのような酷い臭いが倉庫内に充満していた。
もう生きているのは彼一人になった。
パージャを見てすぐに思い出し、隠れていたからだ。
五十人は揃った見知らぬ仲間達を前に、パージャの一方的な殺戮が始まった。
仲間達の断末魔を耳にしながら息を殺して隠れていたのに、パージャはただ気付かないふりをしていただけで彼を最後に残していたのだ。
「髪の色が違ったから、気付かなかったんだ!お前だってわかってたら、こんな仕事に手を出さなかった!知らなかったんだ!!」
だから助けて。見逃してくれ、と。
五十人近い人間の体を解体しておきながら、パージャには返り血の跡ひとつ見つからない。凄惨な倉庫内において、唯一綺麗なままだった。
パージャがわざとらしく一歩ずつ近付く。彼はその度に這いずって離れて。
「頼む!見逃してくれユークリッド!!」
彼が知る名前で、パージャに懇願した。
「--…」
パージャの足が止まる。
そして、吟味するように静かに目を閉じて。
「…ああ、思い出した思い出した」
「…ユークリッド?」
開かれたパージャの瞳は、彼が知るユークリッドの深い闇色の緋だった。
「今はもうユークリッドなんて名前じゃないんだ。これからはパージャって呼んで」
無表情なままパージャが呟いて、男は数秒後に脱力して笑った。
これからは。
パージャはそう言ったのだ。
助かった。
俺だけは助かった、と。
もはや正常な判断など出来ないような地獄の中で、彼は生き延びたと実感した。
生まれて初めて両親に感謝した。
もし両親が端金の為に彼を変態貴族に売り飛ばしていなかったら、彼はユークリッドには会えていなかった。そうしたら、彼はきっと今頃パージャに殺されていた。
子供の頃は変態貴族に股を開きながら両親を恨み続けた。
成人を向かえて両親を殺した時も、恨みが消えることはなかった。
だが今なら両親に感謝出来る。
あの時幼かった彼を変態貴族に売ってくれたから、ただ蹂躙され泣き叫び続けただけだとしても、ユークリッドと出会わせてくれたから。
こんな無惨な死体の山から生き延びられたのだと。
「いやいや懐かしいなぁ。ユークリッドか。懐かしい。そんな名前の時もあったあった」
思えば、ユークリッドだけは変態貴族の特別だった。
他の子供達が踏みにじられる中で、ユークリッドだけは変態貴族の手綱を引いていたのだ。その時から特殊だった証だ。
最後の最後に変態貴族を兵士に明け渡して、嬲り物として殺されるのを待つだけだった彼と他の子供達を救いだしてくれたのもユークリッドだった。
感謝しかない。
彼は二度救われたのだ。
感謝以外に有り得ない。
両親と、ユークリッド…いや、パージャに
「ありがとう…パージャ」
呟いた掠れた声に、パージャは訳がわからないと言うように眉をひそめた。
「何が?」
その言葉を最後に耳に焼き付けて、彼はこの世を去った。
「これからはって、あの世でって意味だからさ。俺の大事な名前を汚さないでよ」
パージャの不愉快そうな声はもう彼には届かない。
バラバラになった彼の体はすぐに他の死体と見分けがつかなくなった。
「…ユークリッドって、どこの家の時だっけか?」
己の過去を思い返しながら、パージャは倉庫を後にして。
両親に売られ、変態貴族の慰み者として弄ばれ、解放された後もそれ以外の道を知らずに男娼として質の悪い店で働き、まともに生きたいが故に一攫千金に目が眩んでパージャの惨殺に立候補した彼は、生まれてから一度も平凡な幸せを知ることなく見分けのつかない肉片の一つと変わり果ててようやくこの世から解放された。
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ガウェと離れたヴァルツは、他の騎士達が自分の護衛につく前にふらりと政務棟から離れた。
エルザの護衛騎士が二人とも抜けることになったが、他の護衛達がいるので上手く回すだろうとはヴァルツの勝手な判断だ。
とりあえず城内探索を再開しようと兵舎外周まで足を運び、一つの棟に入って二階に上がった時に彼らを見かけた。
「おかわりいる?」
「いるっ!」
「肉か」
「ぜんぶ!!」
エル・フェアリア兵舎の食堂はラムタルと随分勝手が違う。いつでも好きに食事を楽しめるのは羨ましい限りだが、不味い時も度々あるという博打具合も面白い。
その食堂の中、ちらほらと騎士達がいるにも関わらず、彼らがあまり近付かない空間があった。
その空間の中央にいるのは、物凄いペースで食事を取るフレイムローズと、左右にはレイトルとセクトルだ。
「おお、随分回復した様子だな。安心したぞ」
「ヴァルツ様だぁ!!」
ヴァルツを見つけて、フレイムローズが嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
数時間前までふらふらへなへなだったというのに随分元気を取り戻した様子だった。
レイトルとセクトルはすぐに立ち上がりヴァルツに頭を下げるが、それを片手で制して。
「よい。フレイムローズに良くしてやってくれ。一番の功労者だ」
畏まられるのは距離を感じて嫌なのでそう命じれば、レイトルは肩の力を抜き、セクトルは食事を取りに席を外した。
「へへー」
フレイムローズは誉められてご満悦の様子だが、やはり完全には回復していないらしく頭がわずかにふらふら揺れている。魔力の使用はとても腹を空かせるので、体が食事を求めているのだろう。
「何か不審なものは見つかったか?」
「今のところは何も無いですよ」
見つかっていれば今頃こんなにまったりしている暇などないとわかりつつ、聞いてしまうのは気になるからだ。
フレイムローズはヴァルツを前にしても気楽な様子で、言葉に緊張など一切見せない。
「ファントムの噂とは最終的に何が狙われているのかわかるものなのだろう?七姫の誰が狙われているのか発覚してからでもいいのではないか?」
「それは皆が言っている事なのですが…フレイムローズの強い要望で」
ヴァルツの問いに返したのはレイトルだ。ヴァルツを前にまだ少し緊張した様子を見せはするが、気にかけているのはフレイムローズの体調だとわかる仕草も見せながら。
「だって七姫様が狙われているんですよ。誰も姿を見たことのないファントムに。そんなの…許せない」
「…フレイムローズ」
姿の見えない相手に苛立ちを募らせるフレイムローズの瞳が瞼の下からミミズのように蠢き、抑えるようにレイトルが肩を優しく叩いた。
「ぁ…」
慌てて両瞼を擦って、魔眼は何とか落ち着いた。
そこに席を立っていたセクトルが二人分の食事を取って戻ってくる。
「持ってきました。ヴァルツ様もよければどうぞ」
一つはお代わりの分らしく、セクトルがテーブルに置くとすぐにフレイムローズは大皿の肉にフォークをぶっ立てた。およそ貴族第二位の家の息子がとる行動ではないが、それほど空腹だという事なのだろう。
「おお!気が利くな!」
実はちょっと美味しそうだなぁと気になっていたので、ヴァルツも遠慮なく騎士達の食事をいただく。
調理場で侍女達が「きゃあ」と小さな悲鳴を上げた辺り、まさか王族であるヴァルツが食べるとは思いもしなかったのだろう。
「あ…そういえばヴァルツ様、ガウェは?」
程よく焼かれた柔らかな肉を頬張りながらフレイムローズは思い出したようにガウェの居場所を訊ねてきた。
朝に会った時は起きているのかどうか不思議なほどふらふらだったが、ヴァルツがガウェと一緒にいたことは覚えていたらしい。
「何やら重要な私用に呼ばれて行った」
まさかこんな時期にお家騒動に巻き込まれたなど言えずに言葉を濁せば、三人で目を見合わせて首を傾げる。
「そんなことより、コウェルズはいつ戻ってくるのだ?」
そして目下一番知りたい情報を求めれば、フレイムローズがフォークをくわえたまま肩をがくりと落とした。
しょんぼりした姿だけ見れば、フレイムローズがヴァルツより年上になど見えない。
「それが…予定では今日だったのですが、明日に」
「うぅ…」
フレイムローズに代わり説明をするレイトルの隣で、魔眼が脱落した。
「何だ、一日のことではないか。その程度の変更はよくある事だろう」
「んぅー…」
フレイムローズはテーブルに伏せて額をゴリゴリと擦り付けている。これが世にも珍しい魔眼持ちだなどと他国に知られたらどう思われることか。
「風邪を引いて同行出来なかったのは自分の責任だろ」
「うー」
セクトルに軽く責められるように注意されて、子供のような不満の声を出す。
エル・フェアリアの王子が他国に外交に向かう日にフレイムローズが風邪を引いて同行できなかったという調べはラムタルでも掴んでいた。そしてフレイムローズが風邪を引いた理由も。
「大方、わざと風邪を引いたのだろう?」
「え?」
「わざと?」
呆れるようにフレイムローズの内心を告げれば、レイトルとセクトルは目を丸くして。
「コウェルズの婚約者がいるイリュエノッドは現在、魔眼の邪神教が問題になっている。そんな所に魔眼持ちのフレイムローズが賓客の一人としてイリュエノッドの王城に入れば…どうなるかは話さずとも悟れるだろう?」
エル・フェアリアとは海を隔てた場所に位置する島国イリュエノッド。その内情もラムタルには筒抜けで、フレイムローズが王子達に遠慮してわざと同行出来ないよう風邪を引いたのも理解出来た。風邪など引かなくても口頭で同行を辞退すればいいのにそれが出来ない辺り、フレイムローズの精神年齢はまだ幼い。
「そんなことが…」
「確かにフレイムローズは遠慮すべきですね」
状況を把握した二人が同情するような視線を送る中で、今まで自分の胸の内を話せなかったフレイムローズがようやく解放されたと言わんばかりに拗ねたまま思いを吐露する。
「みんながどうやって俺だけを留守番させるか話し合ってるの知ってたんだ…だから毎日お腹出して寝てたのー。風邪引くように頑張ったのー!!」
いくら精神年齢が幼かろうがフレイムローズはもう大人であり、子供の頃なら見えなかった大人達の隠し事にも気付いてしまう。
フレイムローズが抱える王家、特に王子への忠誠心を考えれば、周りの者達も同行するなとは簡単には言えなかったのだろう。
「だが良かったではないか。お前が王城に残ってくれたお陰で、姫達の安全が増したのだからな」
「…へへ」
フォローするわけではないがフレイムローズが王城に残ってくれたことを誉めれば、まだ不貞腐れてはいるが満更でもなさそうに少し笑った。
「ひと月もすればエル・フェアリアにも治癒魔術師が到着する。もしファントムの件が解決していなければ、治癒魔術師の力でお前の負担も軽減されることだろう」
「え?…でも治癒魔術師はラムタルからは借りられないってさっき…」
ニコルの妹が治癒魔術師である可能性がわかったのは今日のことだ。フレイムローズは首を傾げたがレイトルとセクトルの表情が曇ったことに気付き、ヴァルツはこの二人は既に知っているものとしてフレイムローズにだけ視線を合わせた。
「ラムタルの治癒魔術師ではない。れっきとしたエル・フェアリアの治癒魔術師だ」
長年待ち焦がれた治癒魔術師の発見に、フレイムローズは口をぽかんと開け、ようやく意味が理解出来た時には既に満面の笑みを浮かべていた。
「…やっと見つかったんだ。よかったー!!これでエル・フェアリアの不安が一つ無くなるね!!」
「ああ」
治癒魔術師が存在するだけで、国の安全は更に高まる。だがその代償を抱えたのはニコルだ。
素直に喜ぶフレイムローズはニコルの不安を知らない。素直に喜べないレイトルとセクトルはニコルの不安を知っている。
“知る”という行為がどれほど残酷な事なのか。知りたがる癖を持つヴァルツはよく理解していた。
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