第9話
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腕を引かれて素直に従ったのは、そうしなければ見境なく泣いてしまいそうだったからだ。
ニコルの力になりたかった。
ニコルの不安を取り除きたかった。
だが拒絶されてしまった。
かつて母がエルザを安心させる為に抱きしめてくれたように、母が亡くなってからは姉のミモザが抱きしめてくれたように、エルザもニコルを安心させたかった。
そこにやましい部分が無かったかと訊ねられると嘘になる。抱き締めることで、胸に抱いたエルザの思いも一緒に届けばと確かに思った。
力を緩めた一瞬の間に抱きしめられて、体は強張った。力強い腕に絡めとられて、呼吸は止まった。
ニコルの力が呼吸を止めるほど強かった訳ではない。今まで家族と何度も交わした抱擁。だがニコルから与えられた抱擁は、今までエルザが感じてきた温もりとは全く種類の異なるものだった。
胸が激しく高鳴り、全身が甘く疼く。
エルザをすっぽりと包み込めるほど大きな体で、まるで覆い被さるように抱きしめられて。髪にニコルの吐息がかかり、どれほど近い距離にいるのかがわかる。
こんな抱擁をエルザは知らない。
体がニコルを求めるような、全てを委ねたくなるような。恐る恐る自分の体をニコルに預ければ、すぐに甘い時間は終わってしまった。
「ありがとうございます。少し落ち着きました」
ニコルの笑顔を見た時に、彼の心をほどくことが出来たと思った。
「もう行きましょう。ファントムの件がある以上、エルザ様の護衛が私一人だけなど皆心配するはずです」
だがほどくどころか、さらに頑なに閉ざされた心に胸が締め付けられた。
どうして、と思う反面、やはりという気持ちも少なからずあった。
ニコルはいつだってエルザとの間に距離を持つ。嫌われているわけでないことは、行動からわかるのに。
身分の差があるから?そう気づいたのは、以前王城に来たミュズという泣きじゃくる少女を見た時だ。
泣きじゃくりながら、それでもニコルに食って掛かっていた少女。エルザには到底真似できない、平民の女の子。
互いに知らない間柄のはずなのに、長年すぐそばで守られてきたエルザとの距離を軽々と飛び越えられた気がした。
飾らないニコルは新鮮で、普段の彼を知らないのだと思い知らされた。
だから知りたかった。
ニコルの理解者になりたかった。なのに。
ニコルとの距離は一気に遠退いた気がした。
いったいどこで間違えたのだろう?
いったいどうしてニコルはエルザを拒絶するのだろう。
クルーガーには理解を求めていたのに。エルザでは駄目なのか。
談話室に戻ってすぐに、ニコルはエルザの手を離した。
先ほどの抱擁など存在しなかったかのように、さらりと簡単に。
「申し訳ございませんでした。もう何も心配はいりません」
淡々と事務的な声でニコルが談話室の全員に頭を下げるのを後ろから見ていることしか出来なくて。
ミモザの憐れむような視線がぶつけられる。
「…なら今後の治癒魔術師の配置について先に予定を話しておきたい。今回のエルザ様の護衛は彼等に任せてついてきなさい」
クルーガーの声にはわずかに怒気が含まれている。
当然だろう。ニコルは護衛時間中にもかかわらず、エルザから離れたのだから。
「了解しました。エルザ様、失礼いたします」
クルーガーと立ち去るニコルに目を向けることなど出来なかった。
目が合ったら、きっと泣いてしまう。
エルザを放ってまでニコルに思われる妹君が羨ましい。
エルザと同い年のニコルの妹。
時間だけでいうなら、ニコルは妹よりもエルザと共にいた時間の方が長いのに。
「…何も解決せんかった様だな」
ヴァルツがガウェに向かって呟いた小さな言葉は、静まり返る談話室に酷く響いた。
何も解決しなかった。
エルザには何も出来なかったのだ。
もう駄目だ。涙が浮かぶ。止まらなくなる。
我慢したのに。必死にこらえたのに。
エルザの震える肩を抱いたのはミモザだった。
俯いたエルザには姉の顔など見えないが、談話室からヴァルツを含めた護衛達が立ち去る気配に気付き、ミモザがそう指示したのだと知った。
複数の足音が静かに遠退いて、最後に解放されていた扉が閉められる。まるでニコルとの距離を完全に引き裂くような軋む音に、とうとう落涙が始まった。
「…私には何も出来ませんでした」
「そんなことはありません」
わっと泣き始めて、顔を両手で被って。
するとすぐに、いつものように姉が優しく抱き締めてくれた。
エルザがよく知る温もりだ。ニコルに抱き締められた時とは全く異なる、安心できる温もり。
--あ、そうか…
ようやく気付く。
親しい家族だからこそ、この安心は与えられるのだ。
エルザはニコルにときめきこそすれ、安心は得られなかった。
体を疼かせた緊張感。
同じことをエルザは先にニコルに行ったのだ。
それは、妹のことでざわつく胸をさらに荒立てたことだろう。
「…ニコルは何も話してくださらなかった」
ただ静かにニコルが話せる時が来るのを待っていれば、今日は駄目でもいつかは話してくれたかもしれない。なのにエルザは急いでしまった。ニコルの癖を知っていながら、完全には理解していなかったのだ。
「…話すだけが解決の方法ではありません」
ニコルの吐息が熱くかかった髪を、ミモザは知らず優しく撫でてくれる。
「ニコルにとっては、自分の不安を口にするよりも、それを知ったあなたが悲しむことの方がつらかったのでしょう」
「ですがっ…」
本当にそうだろうか。そう思えたなら、どれほど気持ちが浮かび上がるだろうか。
「気を付けてあげればいいのです」
エルザは間違えたのだ。その間違いを埋めて、もう一度ニコルの傍に近付く事が出来るなら。
「…はい」
間違いなどおかさずに生きていられたらいいのに。
止まらない涙をこぼし続けて、エルザは嗚咽を漏らしながらミモザに強くすがった。
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ーー席を外して。
ミモザが目だけでそう合図を送れば、ミモザ付きの騎士達は護衛に不馴れな魔術師達とヴァルツを談話室の外へと促した。
騎士達は談話室の扉近くからは離れなかったが、ヴァルツは先ほどの中庭に出たエルザとニコルを思い出しながら、少し離れた場所へと歩く。
「エルザのやつ、ニコルを抱きしめていたな」
確認を取るように後ろにいるガウェに訊ねてみるが、聞こえているはずなのに返事をしないのは肯定か。
以前エル・フェアリアに来たときから随分勝手が違ってしまった。それとも自分の視野が広がった証拠か。
「…もしかせんでも、エルザはニコルに惚れているのか?」
ヴァルツがまだ小さな頃からわかりやすかったエルザ。
先ほどの大胆な行動には驚いたが。
「…ニコルの命を狙っているのは私の父です」
ヴァルツの問いに、ガウェは別の答えを返した。
平民というだけで毒を。ニコルが忌々しく吐いた台詞にエルザがどれほど青ざめたことだろう。
「ヴェルドゥーラか…また厄介な」
ヴァルツも一度だけ会った事がある。黄都領主、バルナ・ヴェルドゥーラ。
全てを見下したような男。笑顔でヴァルツに接しておきながら、目だけは決して笑わなかった。
「団長は、息子の私がヴェルドゥーラの思い通りにならない理由が平民のニコルが悪影響を及ぼしているからと思っている様ですが」
「…エルザか」
吐き捨てるような言葉に、ガウェが静かに頷いた。
エルザが恋をしたから。それも、平民であるニコルに。それはどこの王家でも許されない恋心だろう。
「数年前のエルザはお前に惚れていたと思うのだがな」
だがヴァルツが知っているエルザは、ガウェを一心に思っていたはずだが。首をかしげれば、ため息混じりの返答をされた。
「あれは惚れたと言うより、憧れだったんでしょう。何にせよ、随分昔の話です」
素っ気ない声には、当時ガウェを慕っていたエルザに対する思いなど微塵も見当たらない。
「…で、なぜエルザ絡みでニコルを殺そうとするのだ?ヴェルドゥーラはそこまでエル・フェアリアを案じる性格だったか?」
国の為に、王家の為にニコルを亡き者にするというならヴァルツにもまだ理解できる。だがバルナはそんな祖国思いの男ではないはずだ。
「父の頭の中には黄都の繁栄しかありませんよ。…繁栄の為に、私とエルザ様の結婚を望んでいるのです」
「…なるほどな。黄都ヴェルドゥーラともなれば、小国に嫁ぐより姫の地位が下がらずに済むわけだし、ヴェルドゥーラとしても最高の妻だ」
それなら理解できる。
エルザが昔ガウェを恋慕っていた事実はバルナにも知れている事だろう。ヴァルツの兄であるラムタル国王がエルザとの婚約を破棄した時はさぞ天を崇めたはずだ。そのままガウェがバルナの言う通りエルザに愛を語っていたなら、もしかしたら今頃子供でもいたかもしれない。
しかし現実は今だ。
エルザは王城にいて、結婚相手が決まらないままニコルに思いを馳せている。
「だが、たかが黄都領主ヴェルドゥーラに大国ラムタルほどの力はないだろう」
小国からの求婚ならバルナの指示で簡単に潰せるだろうが、エル・フェアリアと同等のラムタルなら、いくら黄都ヴェルドゥーラであれ手も足も出せない。
「それで、エルザ様は頷かれましたか?」
「無理だな」
しかしヴァルツは即答でエルザと兄王との婚約を否定した。
「あれは意志が固い。…すでに何かしらの考えがあるようだ」
一対一で真剣に話した。
ヴァルツが持てる限りの少ないカードを全て出して。だがエルザは頑として頷いてはくれなかった。そしてそこにニコルに対する恋心は存在していなかった。
ニコルへの思いとは全く別に、エルザは他国へ嫁ぐことを拒んでいる様子だった。
「いったい何を考えておるのか」
かつてヴァルツの父親が治めていた当時のラムタルは酷い有り様だった。
兄のバインドとエルザの婚約が決まった当初も、父親とその側近達はまだ幼いエルザの可憐な美しさを前に、将来を思い舌舐めずりしたという。
だがもう今のラムタルは違う。兄は父を討ち、歪んだ側近達を粛清した。今のラムタルなら、エルザが王妃の座についても傾がないだけの揺るぎない意志があるのに。
「…冷静に現状を受け入れていらっしゃいます」
「何だ、何か知っているのか?」
まるで当事者であるかのようか口調だったが、ヴァルツが問いただすより先に、どこから飛んできたのか黄金色の伝達鳥が、ガウェの肩に迷いなく着地した。
「…また伝達鳥?」
伝達鳥はガウェと馴染みがある様子で、ガウェの頬に頭をすり寄せる仕草を見せる。
「…黄都で飼っている伝達鳥です。…私も幼い頃に飼育の手伝いを何度か」
ガウェも驚きつつも懐かしい様子を見せる。だが伝達鳥が口を開き。
「ーールードヴィッヒ・ラシェルスコット・サードは黄都領主に背いた。女共々生け捕りにせよ。生きていればそれでいい」
伝達鳥が覚えた男の声と言葉に目を見開いて、静かに固まった。
物騒なメッセージに、ヴァルツは先ほどガウェに届いた手紙の存在を思い出して、勝手にガウェが手紙を仕舞った胸元をさぐり取り出す。
内容は、箇条書きにされた現状報告だ。追われているとは書かれているが、まるで緊急性を見せない書き方をしている。
自分達は大丈夫なので、時間が空いたならパージャを見つけてくれと。混乱したが故の箇条書きであることは、震えた文面で理解できた。
最初にガウェがこの手紙を見た時には、ニコルと掴み合いの喧嘩を始めそうになりエルザに止められた最中だったので、細部まで気付けなかったのだろう。
「構わん。行ってこい」
「失礼いたします」
焦る様子で走り去るガウェなど、滅多に見られるものではないだろう。
「平民パージャ、か…面白そうな男だ」
パージャの過去を調べてほしいとガウェは言った。黄都領主嫡子でも調べられなかった謎の男の過去を。
何の手違いでかガウェの元に来た伝達鳥が飛び立たないよう手の中に納めながら、ヴァルツは興味深いパージャを想像してクスクスと微笑んだ。
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