第9話


第9話

 ニコルがエルザに腕を引かれて素直に付いて歩いた先は、政務棟の談話室から直接繋がる王城の中庭だった。
 中庭といっても隅の一角で、整然と並べて植えられた樹木のお陰で中庭中央からは死角となっている。
 政務官達の癒しのスポットを独り占めにして、エルザが数人掛けの石造りの椅子に腰を下ろした。
 隣にと促されたがニコルは断り、無言のままエルザの斜め前に立つ。
 妹を王城に呼び寄せるとクルーガー団長は言った。国の為に呼び寄せると。
 しかし妹個人の安全については明言してくれなかった。どころかニコルの不安が的中するような曖昧な濁し方をして。
「私、ニコルの癖を知っていますわ」
 エルザが口を開いたのは、エルザが着席して暫く経ってからだ。
 皆のいる談話室から二人だけで話がしたいと部屋を出て、何を語るのかと思えば。
 癖なら自分でも気付いている。昔からそうだったのだから。
「…癖ですか」
「ええ。…諦めて語ることをやめてしまう癖です」
 王城に来てからはなりを潜めていたその癖だが、行動を共にすることが多い為か気付かれていたらしい。
 無駄だとわかると諦める癖。いったいいつからニコルの体に染み付いたものなのか。
「だから私は決めましたの!あなたに何があったのか、とことん聞こうと!」
 穏やかな口調から一変して、エルザは強い眼差しでニコルを見上げてきた。
「私を置き去りにして、あなたは妹さんの安全を望んだのでしょう?」
 少し意地悪っぽい笑顔を浮かべて、エルザはニコルの手を取る。
「…申し訳ございません」
 場を和ませたかったのかもしれないが、今のニコルには謝罪が精一杯だった。
 とたんに悲しげに眉尻を下げたエルザに、わずかな苦笑いが出た。
「…妹を王都へ呼ぶつもりではいました。それが突然王城に置くことになって混乱しているだけです」
「そんなはずないでしょう。それだけであなたがあのような乱暴な振る舞いをするはずがありません!」
 ああ…この姫は、どこまでニコルを思ってくれているのだろうか。
 エルザにはただの乱暴な振舞いに見えたのだ。家族を思うニコルの必死の思いが。
 ちくり、と胸に針が少し刺さるような悲しみ。
「お忘れですか?私は荒くれた世界で育った貧しい平民です。王家の方々の前では“それらしく”振る舞いますが…私の口の悪さは仲間内では有名なのですよ?」
 騎士なら誰もが王族や賓客の前では改まり、エル・フェアリアの恥にならないよう努める。だが訓練や私生活でまで品行方正な騎士など皆無だ。男ばかりの生活空間では人目を気にせず馬鹿騒ぎなど日常で、殴りあいの喧嘩もある。ニコルはその中でも随一。気に入らなければ平気で女子供にも暴言を吐けることは、以前王城に押し掛けてきた少女との暴言の応酬を聞いていたエルザなら知っているはずだが。
 自嘲気味にエルザを見やれば、真っ直ぐに見つめ返されて思わず顔ごと逸らしてしまった。
「…あなたが嫌がらせを受けていたことは知っています。…ですが命まで狙われていたなんて…」
「昔の話です。もう済んだ事です」
「私では話せる相手になりませんか?」
「…姫の耳に入れる必要のない事です」
 頼むから放っておいてほしい。こんな醜い争い事に姫が介入する必要は無いのだ。なのに。
「誰がそう決めたのですか?」
 エルザはニコルを離してはくれない。
 真っ直ぐに見据えたまま、ニコルを理解してくれようとする。
「私が知りたいのです。あなたの事を」
「…知られたくない事も人にはあります」
「…では誰に理解してもらうつもりなのですか?あなたにとって、王城は妹さんを迎えたくないほどに恐ろしい場所なのでしょう?」
 王城に来てから今まで、こんなに真剣にニコルを見つめてくれた人はいただろうか。それが思いを寄せる相手だなどと、勘違いしてしまいそうになる。
「治癒魔術師の獲得は全ての国の重要事項です。ここでは誰に言ってもあなたの不安は杞憂だと切り捨てられます…私なら…嫌です。怖いです。お姉様や妹達が愚かな理由で命の危険のあるような場所に行くなんて」
 エルザは今のニコルを自分に照らし合わせたのか、緋色の瞳をわずかに潤ませた。
「お願いします。…教えてください。あなたの不安を解消する手助けを私にさせてください」
 なぜここまでしてくれるのか。
 ほだされそうになる気持ちが芽生えるのに、まだ放っておいてほしいという思いが強すぎて胸がもどかしくなる。
 たかがニコル一人の不安をエルザが背負う必要は無いのに。こうやって騎士一人一人を気にかけるつもりなのか。
 ニコルは何も答えず、エルザも静かに返答を待っている様子だった。
 風の抜ける音だけが時間は動いているのだと教えてくれるほどに、二人は静止したまま動かない。ゆるやかな時の流れが、まるでこの世界にはニコルとエルザだけしか存在しないとでも伝えてくるようだった。
「…そちらに座っていただけますか?」
 どれくらい互いに無言のままいたのだろうか。これ以上待っても無意味と悟ったらしいエルザは、自分が座る長椅子の対となっている反対側の長椅子にニコルを促した。
「…ここですか?」
「はい」
 エルザの口調は強く、最初に促された隣でないならとニコルも素直に従い。
「これでよろしいですか?エルザさ、ま--」
 視界が薄暗くなり、頭から柔らかな温もりに包まれた。
 どうなっている?いや、そんなことより。
「え、エルザ様!?何をっ…」
 エルザの豊かな胸の膨らみが遠慮もなく顔に押し付けられて、状況を把握した瞬間に声が裏返った。
 慌てて引き剥がそうとして、察したエルザが離れまいとニコルに絡めた腕に力を込め、さらに胸の感触が強くなる。一気に顔が火照り、確認しなくても自分の顔が赤く熱くなっていることが手に取るようにわかった。
「エルザ様!」
 離そうと再々度エルザの華奢な腕を掴むが、頭上すぐ近くから「お願い」と涙ぐむようなか細い声で囁かれ、抵抗を諦めた。
「……私が不安な時、よくお母様がこうやって抱き締めてくださいました」
 ニコルが大人しくなってようやく、エルザが突然抱き締めたその理由を語る。
 お母様。四年前に亡くなったクリスタル王妃は、愛に溢れた優しい女性だった。
「…お母様が亡くなった後も、お姉様が私を抱き締めてくださいました」
 大丈夫だからと、心配いらないからと、身をもって伝えるための行為。
 抵抗を止めたニコルも確かに感じたのは、心地好い温もりだ。
 だがエルザが母やミモザから抱き締められて感じた温もりとは別の種類のはずだ。ニコルが男である以上、想う女性に抱き締められて、豊かな胸の膨らみを押し付けられて純粋な温もりだけ味わうなど不可能だ。
「私はあなたが苦しむ姿を見たくありません。あなたは…言っても無駄だと悟るとすぐに諦めて、苦しみの中に身を置くのでしょう?」
 だというのに、エルザは懸命にニコルを癒し励まそうとする。
 ニコルの癖に気付いて、ニコルの苦しみも理解しようとする。
 慈愛に満ちて、同時に残酷な抱擁で。
「…少しだけ、お許しいただけますか?」
「え?」
 訊ねればわずかにエルザの腕の力が緩み、その一瞬を逃さずにニコルはエルザを引き離し、立ち上がってから強く抱き締めた。
「きゃっ…」
 小さな驚きの声が、今度はニコルの胸元から聞こえてくる。
 エルザの美しい緋色の髪から芳しい花の香りを嗅いで、エルザが潰れてしまわないギリギリまで力を込めて。
「ニコル…」
 上擦る声はどこか色気を感じさせて、エルザが体を預けてくるのを感じた。
 鉄の装備の上からではエルザの全てを感じることは出来ない。だがそれでも充分すぎるほどの柔らかさと温もりをエルザは持っていた。
 ニコルがエルザを抱き締めた時間はごくわずかのはずだ。ゆっくりと名残惜しむように体を離せば、切ない表情で見上げられるところだった。
 上気した頬が、潤んだ瞳が、戸惑うような唇が、全てが劣情をそそる。
 エルザにとって抱擁は相手を安心させるためのものなのだろう。だがニコルには相手が他人である以上、女性を“抱く”という行為のひとつでしかない。
 行為の後に抱き締めるなら、満ち足りた気分に浸れただろう。しかしこれでは生殺しだ。
「あ、の…」
「ありがとうございます。少し落ち着きました」
 エルザが欲しいだろう言葉の一つを聞かせれば、案の定嬉しそうに微笑んで。
「では」
「もう行きましょう。ファントムの件がある以上、エルザ様の護衛が私一人だけなど皆心配するはずです」
 次のエルザの言葉を制して、談話室に戻る為にその細い手を引いた。
「…ニコル?」
「もう心配なさらなくて結構です」
 怪訝そうに眉をひそめるエルザに、完全な拒絶の言葉を。
「っ…」
 とたんに気付いて泣き出しそうになるエルザから視線を外して、ともすればしゃがみこんで泣きじゃくる可能性があったので、強引に引っ張って談話室へと戻った。
 これ以上の追求は姫であれ許さない。暗に告げたその言葉を、エルザは重々理解していた。

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