第8話


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 ガウェが護衛時間になるまで王城内を散策したいというヴァルツに従い適当に散策に付き合わされているときに、ふいに隣に来たヴァルツはガウェの肩に留まる禍々しい蝶に指で触れてきた。
 フレイムローズの生み出した魔眼蝶に興味が移った様子で、ガウェに色々と質問をしながら蝶の羽を摘まんでみたりとひとしきりこねくりまわす。
 蝶はヴァルツの暴挙に困惑した様子でひらひらと反対の肩に留まり直すが、もれなくヴァルツもついてくるので意味はない。体の周りを蝶とガキにくるくると回られていい加減苛立ち始めた頃に、ようやくヴァルツは落ち着いた。
「ふぅむ…魔眼蝶か。そのままの名前だな。それで、フレイムローズは大丈夫なのか?」
「二日間魔眼蝶を操り、半日を休憩に費やす形で任務に当たっています」
 魔眼蝶を出現させてからのフレイムローズは王城の上階に上がり、中庭を見渡せる露台で王城敷地内全ての魔眼蝶達を操っている。
 騎士達の肩以外にも王城内をひらひらと舞う闇色の蝶は、淡い色合いの多い敷地内では不気味に目立っていた。
「ふむぅ…その半日の間、蝶は消えるのか」
「いえ、魔力の高い魔術師二十名が引き受けます」
「フレイムローズ一人で二日分が、高位魔術師二十人の半日か…せめて魔眼持ちがもう一人いればな」
「…噂をすれば」
 適当に歩いてはいたが、ちょうど休憩に入るフレイムローズと遭遇する。
「む?」
「…はれ?幻覚?ヴァルツ様似の人がいると思ってたんだよー」
 二人の魔術師に肩を支えられたフレイムローズは足取りも覚束ず、今にも倒れてしまいそうなほど憔悴している。
「本物のヴァルツ殿下だ」
「…へぇー」
 思考もままならない様子で、ヴァルツの顔を見ようとするが首も上がらない状態だ。
「…本当に大丈夫なのか?」
「えへへへー、ちょっと寝てご飯食べたら元気満タンですよー」
 そうは見えないと言いたげなヴァルツに不安げな視線を向けられ、ガウェは代わりに魔術師達に訊ねた。
「夜までに回復できそうですか?」
 今から休憩なら再開は夜になるが。
「正直ギリギリですね…いくら魔眼といえども、長期間の発動となれば本体への負荷ははかり知れません」
「せめて治癒魔術師様がいれば、回復も早まるのですが」
 フレイムローズを支える二人の魔術師は男といえど線は細く、小柄だが体を鍛えているフレイムローズを支えるのは少しつらい様子だ。それでもエル・フェアリア唯一の魔眼を必死で支える口調には優しさが交じっている。
 元々魔術師達とは上手くやっていたフレイムローズだ。魔眼を敬遠する騎士達が近くにいるよりは落ち着いて魔眼蝶を操ることに集中出来たろうが、それでも目の前のフレイムローズの憔悴っぷりはガウェも心配だ。
 せめて治癒魔術師がいれば。
 魔術師の言葉は、一語一句違わずガウェの脳裏にもよぎる。思い起こすのは、この国の為に治癒魔術を会得しようと日々独学に励むエルザの健気な姿だ。
「我が国の治癒魔術師を呼び寄せようか?」
 ラムタルには現在五人の治癒魔術師がいる。ヴァルツは善意からそう言ってくれたのだろうが、ガウェも魔術師達も喜ぶことはできなかった。
「…それは有り難いですが…」
「無理でしょう」
 言葉を濁す魔術師の変わりに、ガウェははっきりと告げる。
「なぜだ?エル・フェアリアの危機となれば、兄上だって」
「七姫様が狙われているといえども、ファントム自体が霞のような存在なのです。悪戯かもしれない噂だけの存在と同盟国でもない国の魔眼持ち一人の為だけに重要な治癒魔術師を貸し出すなど、逆の立場だったとしてエル・フェアリアでも有り得ませんよ」
 治癒魔術師とは、それほどに貴重なのだ。
 エル・フェアリアより土地の広いラムタルでさえ、治癒魔術師はたった五人しかいない。
「メディウム家の者達の居場所がわかれば少しは…」
 ぽつりと呟かれた名前に、ヴァルツは首をかしげた。
「メディウム?誰だ?」
「エル・フェアリアに古くからいた一族の名です。生まれつき治癒魔術を会得し、数十年前まで王家と繋がりがありました」
 エル・フェアリアにも治癒魔術師はいたのだ。
「…なるほど過去形か」
「はい。今はどこにいるのか…生きているのかも疑問です」
「…もしや先の大戦で襲われたのか?」
「あ、いえ。…大戦後に忽然と姿を眩ませたらしいのです。詳しいことは何もわかりませんが」
 当時のエル・フェアリアには治癒魔術師の女性達がいたのだ。彼女達は大戦にも大きく貢献し、大戦後も王城に住んでいたのに。
 ある日、忽然と全員が姿を消した。
「ふむぅ…まあいないものは仕方ない。しっかり寝かせてがつがつ食わせてやれ」
 ヴァルツが道を開ければ、魔術師達は畏れ多いと言わんばかりに深く頭を下げた。
「へへー。ヴァルツ様ばいばーぃ」
 フレイムローズだけはフラフラでも平常運転だ。
「あやつは本当に王族にも友達感覚だな」
「世間ずれしてますからね」
 呆れた口調のヴァルツだが、不愉快には思っていない様子だ。フレイムローズだから仕方ないというのは、年下のヴァルツにも浸透していた。
「まぁ鳥籠の中で魔眼が開かぬよう厳重に育てられたなら致し方無いか」
 そして、フレイムローズの幼少期を理解した口調で。
「…よくご存知で」
 フレイムローズの過去はガウェも聞かされている。
 魔眼の力の前に狂ってしまった母親。しかしフレイムローズの母はガウェの母と違い“母”であることを選んだ。
「ふ。私をあまり舐めるなよ。お前の幼少期も調べ尽くしておるからな」
「なぜそこまで?」
「趣味だ」
 何て悪趣味な。
 しかし確かに昔から、ヴァルツは何に対しても知りたがっていた。成長し、自ら調べ出す知識を身に付けたのか。
「…なら一人、調べていただきたい者がいるのですが」
 駄目で元々だとガウェから願い出たのは、ガウェの力を以ってしても調べられなかった男の過去についてだった。

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 ニコルがクルーガーに質問攻めにされたのは別室に連れられてすぐの事だ。
 何も言えずにいたニコルに、クルーガーは早馬をさらに急がせるように畳み掛けた。
 妹の魔力について二、三訊ねられ、後はニコルが頷く暇すら与えなかったのだ。
 今までクルーガーがこれほど急いだことなどなかったはずだ。
 大戦を生きた古強者に鋭い目で見据えられ、世界の命運がかかっているとでも言わんばかりの迫力で圧迫されて、戦闘を経験していようがたかが25年生きただけのニコルに有無が言えるわけがなかった。
「ーー…ニコル?」
 未だに刺さるクルーガーの視線に、守るべき人の声も聞こえない。
 ヴァルツがエルザと話したいとの事だったので、ニコルが護衛の交代に訪れてすぐに書物庫に向かった。これはヴァルツの指示ではあるが、なぜ書物庫を話の席に指定したかまでは教えてはくれなかった。
 エルザの護衛に選ばれた魔術師三名と共に書物庫に向かえば、ガウェとヴァルツは先に到着しており、ヴァルツは我が物顔でエルザに椅子に座るよう促していた。
「--あ…すみません、どうされましたか?」
 ニコルがエルザの声に気付けたのは、隣に立つガウェに小突かれたからだ。
 壁際に二人で立ち、魔術師達は反対側へ。
 小突かれて何の用だとガウェに視線を向ければ顎だけでエルザを示され、エルザの心配するような視線にようやく気付いた。
 会話など全く耳に入っていなかった為になぜエルザが自分を呼んだかもわからない。困惑しつつ訊ねれば、エルザの表情はさらに曇ってしまった。
「いえ、何だか思い詰めている様子でしたので」
 顔に出ていたかと内心で舌を打つ。
「…申し訳ございません。少し考え事を。エルザ様の気に留めるような事ではございませんので御安心下さい」
 家族のことでエルザを煩わせるなど出来ないので無難に拒絶すれば、さらにエルザの表情は曇ってしまった。何だというのだ。
「…そう」
「お前は本当に固い男だな」
 しゅんと肩を落とすエルザの正面に座るヴァルツは呆れたようにわざとらしいため息をついてくる始末だ。
「申し訳ございません。組まされた相棒が相棒なので固くしていないと駄目なのです」
「はははは!よく言ったぞ!!」
 場を和ませるためにガウェを見やれば、むっつりと睨み返された。
 そしてまた何事もなかったかのようにエルザとヴァルツの話し合いが始まる。
 久しぶりに見かけたヴァルツは数年前と変わらず自由気ままな王弟殿下に見えたが、エルザと真剣に対話する姿はもう立派な大人だ。
 話の内容も、大国ラムタルの未来を見据えた大切なものだ。
 たとえそれが、エルザとラムタル王バインドの婚約の話であったとしても。
 現在エルザに婚約者はいない。類いまれなる美貌は多くの国々の王家の目に留まり、断っても断っても後を立たずに求婚されるのだ。
 なぜエルザが頑なに婚約者を決めようとしないのかはわからなかったが、ニコルは胸の奧で静かに安堵していたのだ。だがエル・フェアリアと並ぶ大国の王が求婚を迫れば…
 他の小国とは訳が違う。断り方一つ間違えれば大きな問題に発展するのだろう。王家が仕方ないと割り切ろうが、大国の国民であるという誇りを持つ民達は黙ってはいない。
 とくにエルザは10歳までバインド王と婚約関係にあった。その後新たな婚約者となったリーンが亡くなった以上、エルザが再びバインドと婚約することに何ら違和感はない。
 エルザに思いを寄せるニコル個人にとって幸運なことは、バインド王が今もリーン姫を愛し、新たな妃を迎えるつもりがない姿勢を貫いているという事実だ。たとえそれが国を揺るがす事態になっているとしても、エル・フェアリアで生きるニコルには何の関係もない。報われることのない片想いでも、今は幸せだった。
「…珍しいな。お前が真面目に護衛に立つなんて」
 そんな王族付きとして逸脱した思いを掻き消すように、ニコルは素直に護衛任務につくガウェに小声で話しかけた。
「…まあヴァルツ様が突然来たから仕方ないか」
 ガウェが素直に任務を全うする理由などヴァルツ以外に有り得ないのだが、こういうところで真面目なガウェに呆れることしか出来ない。
「お前こそ、何かあったか?」
「…わかるのか?」
 問い返されて否定しなかったのは、単にガウェに愚痴を言いたかっただけなのかもしれない。
 レイトルもセクトルもクルーガーも、誰もニコルの不安には気付いてはくれなかった。
 治癒魔術など知らない。それがどれほど貴重かなど知らない。
 だというのに、ニコル自体が何もわからない状況なのに妹を巻き込めという。
 平民にとって命の危険を伴うこの王城に呼べと。
 その怖さをガウェなら理解してくれる気がしたのは、王城に来て一番身近な存在がガウェだったからなのは間違いない。
 騎士歴はガウェの方が長いので階級こそ差があるが、ニコルが王城に来て一番近くにいた友はガウェだった。貧富コンビなどと揶揄され、わざとらしく同室にされ。
 背格好も似ていて、剣術も武術も魔力も、全てにおいて対等に渡り合う唯一の存在なのだ。妹の話もいくつかはしていた。魔力について語ったことはなかったが、それでもガウェなら、治癒魔術師などと訳のわからないものの為に妹を呼ぶより、王城の危険性を理解して拒否してくれるのではないかという期待が離れなかった。
「…妹が来ることになった」
 意を決した言葉に、ガウェは眉をひそめる。
「王城に妹が来る」
「…侍女にでもするつもりか?」
 大事な部分を抜かしたのは、単純に怖かったからだ。少しためらってから、ようやく主体となる事実を伝える。
「いや…妹は魔力で簡単な治癒が出来るんだが」
「---治癒魔術師か?」
 目の色が変わるガウェに、自分勝手な落胆の気持ちが芽生えた。
 所詮こいつも妹を一人の人間ではなく治癒魔術師という特殊な存在としか見ないのだと、甘い期待を勝手に抱いておいて、勝手に落胆する。
「なぜ今まで黙っていた?」
 黙り込むニコルに、責めるような口調がさらに苛立ちを掻き立てた。
 治癒魔術師治癒魔術師と、どいつもこいつもニコルの話を聞かない。妹にとってたった一人の、唯一血の繋がった兄を置き去りにして話を進めていく。
「…知らなかったんだよ。治癒魔術師が国にとって重要なんてな」
 言葉に険が宿るのも今のニコルには仕方ないのだろうが。
「だいたい誰も言わなかっただろ…そんなこと」
「…魔力を持つ貴族なら常識だからな」
「どうせ俺は貧しい平民だよ」
 ここでもまた貴族と平民の弊害が出るのか。常識というならなぜニコルが騎士団入りした頃に教えなかった。
「で、いつ来るんだ」
「…はっ、お前も治癒魔術師推進派か」
 ガウェの催促するような言葉に、とうとうニコルは投げ遣りになった。
 ファントムの件も忘れて治癒魔術師を求めて。これでは皆と別の思いに駆られるニコルだけが道化ではないか。なぜ妹を心配する自分が道化を演じなければならない。
「俺や妹、パージャみたいに、探せばもっといるんじゃないか?魔力持ちの平民なんか珍しくないはずだ」
 苛立ちが募り、怒りに声が震えそうになる。
 魔力を持つのは貴族だけだと誰が決めた。決めた者がいるならここに呼べ。決め付けた理由は何だ。平民のニコルは、パージャは、妹は何だというのだ。
 妹に特殊な力が宿るなら、他にもいるはずだろう。エル・フェアリアだけでどれだけの数の人間が住むと思っているのだ。
 何もかもが腹立たしいのは、誰もニコルの不安を解消するつもりがないからか。
「…お前が何に苛ついているのかは知らないがな」
「あ?」
 ガウェの声色がガラリと雰囲気を変える。
 「どうしようもない事で私に当たるな」
 二人同時に掴みかかり、装備に守られた胸ぐらではなく肩にかかるマントが引き千切れた。
 睨み合いは一瞬で書物庫を異様な雰囲気に変え、すぐにエルザが立ち上がり。
「二人とも!」
 責める声に、一部が千切れたマントをゴミを地面に捨てるように押し離した。
 ニコルもガウェも目を合わせない。苛立ちだけは隠さず相手にぶつけるが。
「…何だいったい?」
 間に入ろうとするヴァルツをエルザは止める。
「…喧嘩なさるならどうぞ外へ。何があったかは知りませんが、そんなものは見たくありません」
 凛とした声に責められて、折れたのはニコルだ。先に喧嘩を売ったのは自分だという自覚はある。
「…申し訳ございません」
 それでも、不貞腐れた態度はエルザの前だろうが改められなかった。
「…ヴァルツ様、バインド陛下との件はひとまず先送りにさせてくださいませ」
「駄目で元々の話だ。構わんぞ」
「ガウェ、ニコル、こちらに」
 強い眼差しで見据えられて、しぶしぶエルザに従う。普段はふわりと穏やかな姫が凛と立つ姿は、姉のミモザに似て厳かな様子を見せつけた。
 ニコルとガウェは互いに牽制し合うように、最初からは動かずに数秒経ってからどちらともなくエルザのそばに向かった。一触即発の雰囲気に身構えているのは魔術師達だ。
「--」
 そこに、ふわりと一羽の伝達鳥がガウェの元に舞い降りた。書物庫の開けられた窓から入り込んで、人数にわずかに戸惑いを見せてからガウェの前に羽ばたきながら制止する。
「構いません」
 エルザの許可が出たのでガウェが伝達鳥に人差し指を止まり木に貸してやれば、素直に止まって羽を休めた。
 ニコルは我関せずと先にエルザの元に向かえば、伝達鳥はガウェが手紙を受け取った為に飛び戻るところだった。後ろで手紙を開く音がして、数秒経ってからガウェもエルザの元に足を進めてくる。
「急ぎの用ですか?」
「…いえ」
 再びニコルの隣に立つガウェにエルザがわずかに首をかしげたが、ガウェは少し戸惑いを見せはするもののエルザを優先した。
「いったい何がありましたの?」
 着席したエルザの声色は先ほどと打ってかわって心配するような悲しい声だったが、ニコルは口を開かなかった。
 どうせ言ったところでとささくれた気分が勝って、普段の忠義が顔を見せない。ただどう誤魔化そうかと考えていた矢先に、ガウェに先手をとられてしまった。
「原因はニコルですので、彼から聴いてください」
 カッと頭が熱くなる。勝手に妹を巻き込んだ上に、原因もニコルのせいにするのか。
 ガウェが言う原因が喧嘩という意味だと気付けるほど、今のニコルは冷静ではない。妹の存在をクルーガーに告げたのはセクトルで、妹を王城に呼ぶと決めたのはクルーガーだ。だが今のニコルには自分から話を聞かせたガウェもクルーガー達と同罪なのだ。
「ニコル!」
 ガウェを睨み付けたニコルに再び凛とした声が動きを押さえつけた。
「…いえ、何でもありません。少し苛ついてしまっただけです」
「その理由を仰ってください」
「エルザ様の気に留めるような事ではありません」
「いい加減になさって。お客様のいる場で私情に走ったのはあなたでしょう」
 誤魔化せる状況ではなくなった事実が腹立たしい。
 いつもは深く追及せずにいてくれるエルザが今日に限って。しかも内容はニコルの神経を逆撫でするものだ。
 愛しい姫。だが今は憎らしい。
「何なら席を外すが?」
 ガウェは既に押し黙る態度を示しており、ヴァルツが一応気を使って立とうとしたので、ニコルもごまかすことを諦めた。
「…いえ、構いません。いずれ知れ渡る事ですので」
 知れ渡る。レイトルやセクトルだけでなく団長が目の色を変えた案件だ。しかも中心にいるのは平民の娘。波風が立たないはずがないのだ。
「私の妹のアリアが王城に召喚されます…治癒魔術の使い手になる可能性があるので」
 案の定、と言えばいいのか。エルザとヴァルツは固まり、魔術師達はざわついた。もう何度目の反応だろう。鼻で笑う気力も無い。
 知らないのはニコルばかりで、誰も彼もが治癒魔術師の貴重さを理解して、驚き喜ぶ。
「なんて良い時期に!先ほどまでガウェ達と治癒魔術師の話をしていたところなのだ」
 何だそれは。そんな会話なんて知らない。
「ニコル、お前はメディウムの一族だったのか?」
「メディウム?…何のことですか?」
 ヴァルツに問われた意味がわからず、ニコルは眉をひそめた。治癒魔術師だけでも理解不能だというのに。
「素晴らしいことではありませんか。それがなぜ喧嘩になるのです?」
「----…」
…やはり駄目だ。
 無理だ。
 エルザですら、妹が王城に来ることを望むのか。
 この恐ろしいだけの王城に。
 自分の身は自分で守らねばならない王城に。
 婚約者に裏切られてひどく傷付いているはずの妹を。
 素晴らしいと言ったか?
 何も知らず、なぜそれを言う。
 知らなければ許されるのか。ならなぜニコルは許されない。
「ニコル?」
「…申し訳ございません。失礼します」
 知らないならば知らせなければ。平民にとって王城がどれほど危険な場所なのかを。
 許されないとはわかりつつも、勝手に頭を下げて、勝手に書物庫を退出した。
 後ろから聞こえてくるエルザの呼び止める声も、妹の危機の前には何の足止めにもならなかった。
 クルーガーの居場所なら知っている。政務棟の最上階。ミモザが政務を行う場所にいるはずだ。
 そこに向かうまでに、数人の王城騎士達とすれ違った。顔はよく覚えている。普段からニコルを嘲る騎士達だ。だが今はニコルを見つけても何も言ってこなかった。
 普段は馬鹿なくせに、ニコルがブチ切れている様子には気付いた様子だ。それがまたおかしい。普段通り嘲ればいいものを。そうすれば堂々と八つ当たり出来たのに。騎士として中途半端に鍛えた回避能力が、今はただ目を逸らすだけに留めさせている様子だった。
ーー小汚い平民ごときが
ーー良識の無い
 言葉の嫌がらせならもう慣れた。
 糞貴族達の言葉は自分達は品があるとでも言いたげな内容ばかりで、内容の薄い悪口の棘などニコルに刺さることはない。
 それでも王城騎士時代の嫌がらせは全て覚えている。力で敵わないならと、ニコルの身の回りから、考え付くありとあらゆる嫌がらせをされてきた。
「王城にいれば泥臭さも抜けると思っていたが、泥そのものだったようだな」
 黄都領主の言葉も覚えている。
 ニコルが泥だと言うなら、お前は何なのだ。たった一人の息子に疎まれた爺が砂金だとでも言いたいのか。
「…ニコル?」
 ニコルが政務棟の最上階につく前に、目当ての人物には出会えた。
 どうやらミモザの政務は終わっていたらしく、政務棟の一階にある開け放たれた談話室で休憩していたところを見つけ、ノックも無しに室内へと入る。
 普段真面目なニコルの無遠慮な姿に驚くミモザを無視して、クルーガーに近付いて。
「何をしている、エルザ様の護衛はどうした」
「団長、申し訳ございませんが、やはり妹の件はもう少し考えさせて頂けないでしょうか」
 言葉遣いは温厚に。だが苛立ちは隠さない。
「妹と話す時間をください。そうでなければ王城へは呼べません」
 せめて妹の意思を尊重したい。
 しっかりと話した上で、危険性を伝えた上で妹が来たいと言うなら止めはしない。それくらいの時間は許されるはずだ。だというのに。
「…もう決まった事だ。既に魔術師団長にも話してある」
 決まった?ニコルに考える暇と時間を与えず勝手に決めただけだろうが。
「なら妹には王城に来ないよう伝えます」
「既にお前の生まれた地方の領主に掛け合って早馬を走らせた後だ」
 その迅速さに、また頭の中が白くなりそうだった。
 開けっぱなしの応接室にノック音が響き、ニコルの後を追ってきたらしいエルザ達が入室してくる。
「早ければひと月で王城に到着できる」
 それを気にも留めずに、クルーガーは静かに言い放った。
 エルザがいればニコルは冷静でいられると判断したのだろうが、ニコルはエルザを置いてここに来たのだ。
「ニコル、私も先ほどご家族の話を聞いたばかりですが、治癒魔術師の存在はエル・フェアリアにとって、いえ、どこの国にとっても欠かせないのです。それに…ご家族が妹君しかいないなら尚更、近くにいた方が何かと安心でしょう?」
 安心?
 安心だと言ってのけたのか、この世間知らずの姫は。
「…平民だからという理由だけで食事に毒を盛られる事の何が安心なのですか?」
 諭すようなミモザの言葉に冷たく返して強く睨み付ける。ニコルの遠慮も何もない鋭い視線にミモザはビクリと肩を窄め、エルザは毒という言葉に口元を手で押さえた。
 静まり返る室内で、誰も彼もがニコルから目を離さない。
「蔑まれる事も、ありとあらゆる嫌がらせも、命を狙われる事すらも…全て耐えてきました。それは私自身が騎士であることを誇りに思い、卑怯なものに負けるつもりなど毛頭無かったからです。ですが妹は違います」
 怒り狂いそうになる気持ちを静めて、冷静に思いを伝える。
「他の多くの男達のように兵士を目指しているわけではない、ありきたりでも平凡な幸せを望む普通の村の娘です」
 その平凡な幸せを奪われた妹を。
「平民だからというだけで煙たがられ、命の危険もあるような場所にアリアを置くことは出来ません」
 大切なアリアをこんな危険な場所に連れてくるなど。
「…ニコル」
 エルザの震えた声が胸を苛む。
「……王城でアリアに危害が及ばないと言えますか?安全を約束して下さいますか?」
 せめてそれさえ約束してくれるなら、約束して成し遂げてくれるなら。
「何を言おうが、こればかりは曲げられん」
「団長!」
 だがクルーガーは冷酷で。
「現在治癒魔術師が存在しないのはエル・フェアリアのみ。治癒魔術師が一人いるだけで、どれほど国の安全性が高まると思うか考えなさい」
 駄目だ。声が出なくなる。
 それはニコルの悪い癖だった。
 口を閉じたニコルをどう見たのか、ミモザは優しく労るようにニコルの手を取る。
「…平民といえども希少な治癒魔術師なら誰も手を出さないはずですし、あなたが望むなら護衛を多く付けさせましょう。ニコル、どうかよく考えてください。持って生まれた力を一番活用出来る場所は、貴方も妹君も王城に他なりません」
 話すことを諦めたニコルの背後から、ミモザに握られた手とは反対の腕に寄り添う温もりが広がった。
「お姉様、クルーガー、どうかニコルと二人で話をさせてくださいませんか?」
 エルザの声がすぐ隣から聞こえる。
「お願いします」
 落ち着いた穏やかな声。それは芯の太さがわかる暖かな音。
でも。
 何もかもが突然すぎて、思考はいつも置き去りにされていく。
 考えを巡らせば巡らせるほど、当の出来事はいつも先に進んでいってしまうのだ。


第8話 終
 
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