第7話


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 ガウェの個人邸に連れてこられて、すぐに風呂場へと通された。
 ガウェの教育係でもあった使用人の老人の指示により手際よく湯が沸かされて、ルードヴィッヒの気がすむまで体を洗わせてくれた。
 ガウェの屋敷に雇われた使用人達は動きが洗練されて無駄が無く、かつルードヴィッヒを労るように気を回してくれた。
 それでも、何度も体を洗って肌に傷がつくまで強く擦っても、あの感覚が消えない。男に触れられた胸元から、舐められた耳元から、嫌な臭いがむせかえるような感覚。
 自分の体の隅々まで汚れてしまった気がして、それがどこまで洗おうとも取れない。
「--痛っ…」
 力を込めすぎて爪が割れる。
 深く割れた爪から血が溢れて、その溢れる自分の血にあの男の血が交じっているような気がして、指ごと爪を切り落としてしまいたくなった。
 使用人達が気を回して用意してくれた香油はすでに空で、優しい花の香りすら気持ちが悪くなる。
 湯浴みのしすぎで気が遠退いた。
 駄目だ。これ以上体を洗っても意味がない。
 ようやく体を洗うことを諦めて風呂場から出れば、脱衣室には誰もいなかったが、綺麗な衣服と蜜の入ったミルクのカップが置かれていた。
 タオルにくるまり、備え付けの椅子に腰かけてカップを手に取る。
 ひと口飲んで、染み渡るような甘さにようやく緊張が少し緩んだ。
 じわりと涙が浮かんで、鼻をすする。
 もう大丈夫なんだ、もう安心なんだ。
 そう思えることがとても嬉しくて、同時にひどく辛かった。

 用意された服はゆったりとした寝間着で、大きさから考えて恐らくガウェのものだろうと思えた。背の低いルードヴィッヒには大きすぎる寝間着が、自分の弱さも知らしめている気がする。
 脱衣室を出たところで、待っていてくれたらしいガウェと出くわした。
「…落ち着いたか?」
「--…ぁ」
 何か言おうとして、声が出なくて、とりあえず頷く。
 本当は落ち着いてなんていない。冷静になればなるほど自分の至らなさに惨めになるばかりだ。
 使用人達は姿を見せない。ルードヴィッヒはガウェに案内されるままにひとつの室内に入った。
 書物庫らしいその部屋は、あらゆる種類の本に囲まれて不思議な雰囲気を醸し出している。
 本の匂いに包まれて、昔ガウェに本をいくつも読んでもらったことを思い出した。ちらりと探す中に、その絵本はいてくれた。
 窓の外はすでに暗く、自分はどれくらい体を洗っていたのかと首をかしげた。
「…すまなかった。すぐに助けに行かなくて」
 促されるままに椅子に座れば、ガウェも向かいに腰を下ろす。
 用意された軽食があったが、食べる気分にはなれなかった。
「お前達を襲った奴らは全て処分した。黄都にいる父にはお前の裏切りは知られてはいないだろうから安心しろ。…命を狙われることはないだろう」
 処分とは?奴らというのだから生きた人間のはずだ。それを処分したということは、人を殺したというのだろうか?
 あの優しいガウェが、パージャのように、…自分のように。
「…人を…殺してしまいました…」
 罪を告白するように、それは口をついて出た。かすれる声は弱々しくて、まるで負け犬だ。
「…か、体を…触られて…頭が真っ白になって…人を…」
 思い出しただけで体が震える。それを語るだけで喉が汚れる。でも止められなかった。
 だってあんな、酷い。
「彼女を…ミュズを守らねばと思っていたのに…私は自分の為だけに力を…」
 ミュズを守ると意気込んでいたはずなのに、結局守れなかった。それどころか醜態を晒して、偶然生き延びている。
 魔力が無ければ今頃嬲り殺されていたのだろうか。ならどういう選択をすればよかったのだ。
「人を…」
 魔力の暴発を起こして、生まれて初めて人を殺した。
 下手をすればミュズも巻き込むところだった。
 自分が怖い。
 何もかも中途半端なせいで生き恥を晒した自分が気持ち悪い。
「……私が初めて人を殺したのは12歳の頃だ」
 ルードヴィッヒの言葉が止み、それまで静かに聞いてくれていたガウェが口にした言葉に、窺うようにその目を見つめる。
「…ガウェ兄さんが?」
 人を殺した?12歳なら今のルードヴィッヒよりも4歳若い、成人もしていない子供ではないか。
「ああ。お前も知っているだろう?『ヴェルドゥーラの喜劇』を」
「…はい」
 ヴェルドゥーラの喜劇。
 黄都のヴェルドゥーラ邸で起きた悲惨な殺人事件を知らない者は少ない。
 黄都領主夫人の愛人が黄都嫡子であるガウェを殺そうとして返り討ちにあった、黄都ヴェルドゥーラの汚点。
「…私は“あれ”で、初めて人を殺した。…お前とよく似た境遇だったかも知れないな」
 ガウェの視線が遠くなる。
 ヴェルドゥーラの喜劇が起きた時、ルードヴィッヒはまだ3歳だった。
「…お聞きしても?」
 周りの貴族達から内容は聞いてはいたが、詳しくは知らなかった。ぽつりと訊ねれば、少ししてからわずかに頷かれた。
「…お前と同じだ。母の愛人には少年嗜好があった。私を殺すよう仕向けたのは母だが…愛人の男は、私を殺す前に…楽しもうとしたんだ」
 声は淡々としていて、まるで感情が読み取れない。何もかも他人事のような口調は、ガウェが忌々しい過去を忘れる為に編み出した防衛手段なのだろうか。
「庭師だったその男の使っていた小屋で…私は人を殺した」
 12歳の、まだ両親に守られるべき子供が、だ。
 しかもガウェの死を願ったのが実母などと、両親に恵まれたルードヴィッヒには考えられなかった。
 ガウェの母といえばルードヴィッヒには叔母に当たる女性で、美しいが、どこか病的な印象のある人だった。
「…お前はまだ小さかったから覚えていないだろうが…それから一年間、私は紫都にいたんだ」
 そして突然、ガウェの声に色が戻る。どこか照れくさそうな、暖かな感情。
「兄さんが?…なぜ…」
「伯父様の計らいさ」
「…お父様が?」
 当時ガウェが紫都に来ていたなど知らない。いや、覚えていないだけだろうが、どうして。
「ああ。事の発端が私の母…伯父様の妹だからだろうな…精神を病んだ私を引き取り、一年かけて落ち着かせてくれたんだ。その時に騎士になる為の訓練も受けた…騎士としての私があるのは君の父上のおかげだよ」
 ガウェがルードヴィッヒの父と語る時、いつも尊敬の眼差しで見ていた事は知っている。だがその理由がそこにあるだなどと知らなかった。
「そんな…お父様はそんなこと一度も…」
「紫都領主は素晴らしい方だ。私も…いつか黄都を背負う立場になったなら、紫都領主のようになりたいと思っている」
 決意を帯びた声は深く重い。
「…ルードヴィッヒ…今日の話はパージャから全て聞いた。後始末も含め全て騎士団が請け負う…お前に危害は及ばない」
 パージャ。
 今日の話を全てなど、いつ話していたというのだろうか。パージャは先にミュズを安全な場所に送っていったはずだ。それほどまで、ルードヴィッヒは体を洗い続けていたというのだろうか。
「…すぐに助けに行けず…すまなかった」
「そんな…ガウェ兄さんが職務中である事は理解していました!」
 ガウェに頭まで下げられて、ルードヴィッヒは慌てて腰を浮かせた。
 ガタリと机が鳴り、用意された軽食の果物がひと粒、皿からこぼれ落ちる。
 伝達鳥は送ったが、ルードヴィッヒの書き方も単調で、切羽詰まったようなものではなかったはずだ。
「いや…ここまで酷いとは私も思っていなかったんだ。…私の浅はかさがお前達を窮地に立たせた」
「そんなことはありません!」
 ガウェが謝るなど。それも、ルードヴィッヒのいたらなさを責めずに。
 ルードヴィッヒの行為行動は若手であろうが騎士団の人間として失格だった。それも王族付き候補に選ばれているというのにだ。ルードヴィッヒを選んでくれた団長達の顔に泥を塗るほどの醜態。
 ルードヴィッヒ自身でどうにかするべき件だったのだ。それをガウェが謝罪するなど間違っている。謝罪を強く撥ね除けるルードヴィッヒに、ガウェは自嘲の笑みを浮かべた。
「…お前は強いな」
 言われた意味を理解できなかった。
 強いはずがないのに。
「私は…人を殺してから数ヵ月…声を失ったんだ」
 立ち上がっているルードヴィッヒの方が視線がわずかに高くなり、ガウェが見上げてくる様子をただ不思議な気分で眺める。
 覚えている気がした。
 記憶も曖昧な幼い頃だ。幽鬼の少年が屋敷にいる気がして、お化けがいると怖くて泣いて、毎晩家族の誰かと寝ていた過去がある。
 あれがガウェだったのだろうか?
「何の因果か…私とお前はよく似た境遇に立ってしまったようだな」
 共に変態嗜好の男に狙われて、共にその変態を殺した。
 だがルードヴィッヒは訓練を積んだ騎士で、ガウェは訓練も何も受けていない子供だったのだ。それでも同じだと言ってくれるのだろうか。
「私は伯父様が私に良くしてくれたように…お前の力になりたい」
「--私は…」
 殺しの感覚がふと体に戻り、そこから穢らわしい指と、男のあの感触がまた全身に蘇る。
「--っ」
「…当分は消えない恐怖だ…何度も何度も…苛んでくる」
 幼いガウェはそれに押し潰されて言葉を失ったのか。
「…負けません…」
 ガウェと同じではない。ルードヴィッヒの心はそこから固まった。
「兄さんが…私に過去を話して下さった…きっと思い出したくもないはずのものを…」
 恥を晒してでも生き残った。
 ならもっと強くなってやる。
 二度と同じ過ちは繰り返さない。
「私を心配してくださった…それだけで、もう…」
 強くなりたい。強くなってやる。
 二度とあんな恥を晒さないように、二度とあんな屈辱を味わわないように、今度こそ、守りたい人を守れるように。
「…私は、もっと強くなります。精神を鍛え、魔具の操作にも力をいれます。騎士として…もっと」
 意志を強く持つ為に語る力への渇望に、ガウェは穏やかに笑い返してくれた。

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「やーやー、戻ったのかいお坊っちゃま」
 ガウェの邸宅から王城に戻ったルードヴィッヒを迎えてくれたのは、いつも通りのパージャだった。
 今日あんなことがあったなどと想像もできないような軽さだが、どうすればそんなふうに受け止められるのかと不思議になる。
「ほーれほれ、魔眼蝶」
「あ、ああ…」
 パージャの肩に留まるフレイムローズの魔眼蝶に軽く触れればパタパタと羽ばたいて、黒い鱗粉から新たな魔眼蝶が生まれてルードヴィッヒの肩に留まった。
「…思ったほどパニクってないな?安心したよ」
 冷静に見えるならそれでいい。もう二度と醜態を晒すつもりなど無いから。
「…ミュズに怪我を負わせてしまった…すまなかったな」
「…いやいや…ちゃんと投げ出さずに側にいてくれて助かったよ。ありがとな」
 パージャはルードヴィッヒならミュズを守れると思ったからこそ託してくれたのだ。なのにルードヴィッヒはミュズを守れなかった。
 パージャは人をおちょくるくせに、よく人を見ていて…傷付かないように気を回してくれる。
 どうすればそんなふうになれるのだろうか。
 視野の広さがただ羨ましい。そして同時に恐ろしかった。
 ガウェから聞いた、パージャと敵との戦闘の場になった倉庫。
「…君は…」
 どうすれば、パージャのように全てを受け止めきれるのか。
「いや…いい」
「は?ちゃんと言ってくれませんかね?気になって眠れなくなるでしょ。こっちの上官は二人とも不眠とか気にかけてくれる人じゃないんだからね」
 どうすれば、凄惨な事件の直後にでもおどけた調子でいられるのか。
「…ガウェ兄さ…ガウェ殿から聞いた。倉庫内に…首と四肢を切り取られた死体が大量に…」
 パージャが指定した場所の倉庫で、五十人前後の体のパーツが見つかった。
 正確な人数はわからない。それほどまでに、バラバラだった。
「…全て、君が?」
「だったら?」
 あまりに軽い口調に、背筋が粟立った。どうすれば、そんなふうに平気でいられるのだ。
「君はいったい…どんな環境で育ったんだ?」
 ルードヴィッヒの質問にパージャは答えなかった。
「私はたった一人を殺めただけであんな……あんなこと…普通じゃいられないはずだろう…」
 人として間違っている。何もかもを受け入れるにもほどがある。どんな環境で、どんな境遇で育てばパージャになるというのだ?
「生きるために必要だったってだけだろ?」
 当たり前だと言わんばかりの声色はどこか面倒臭そうで。
「あんたは殺されることがわかってて“わかりました。さあどうぞ”で簡単に首を差し出すのかよ?」
「…だが」
「あんま考えんなよ。あんたの考え方で言うなら…もう“綺麗なまま”じゃいられないんだからよ?」
 ポンと肩を叩かれて。
「でもまぁ…俺を毒殺しようとしてたやつの考える事じゃないよな?」
 言葉で首を絞められた。
 魔が差したとはいえルードヴィッヒがやろうとしていた事は、人殺しではなかったか。
「安心しろよ。あの毒の量じゃ死ぬまではいかないことくらいわかってたから。じゃあな。今日の件は全部騎士団が誤魔化してくれるらしいから、適当にしてろよ」
 くるりと背中を向けるパージャが、自分達の部屋とは別方向に歩いていく。
「…君はいつ…初めて人を…」
「さぁな」
 パージャを追うことは出来ない。だが最後の質問には答えてくれた。
「俺が知ってる俺は、もう人殺しなんて何も感じてなかったよ」
 何の感情もない声で、まるで昨晩の夕食のメニューを忘れた程度の軽さで。
 感覚があまりにも違いすぎて。
 そのまま歩き去るパージャを、ただ眺めることしか出来なかった。


第7話 終
 
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