第7話


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 ゆっくりと去ったはずのパージャの背中は、すぐに人混みに掻き消えてしまう。
「パージャ!!」
「駄目だ!私といて!!」
 パージャを追おうとしたミュズを、ルードヴィッヒは慌てて止めた。
 彼を追うのは危険だと、驚くほど細い手首を掴めば。
「や!触らないで!!」
 まるで汚物をはねのけるような強さで振り払われる。
 とたんに腕より胸が痛んだのは、振り払われたことがショックだったからだとすぐに自覚出来た。
「…パージャ?行っちゃった…」
 姿の見えないパージャを探して、ミュズが悲しげに呟く。ルードヴィッヒとミュズの距離は二歩分程度だが、後ろ姿が遠く感じた。
「…えっと…ミュズ、嬢?」
「……」
 恐る恐る名前を呼んでみるが、返事をしようともせずにミュズはルードヴィッヒから少し離れた位置にしゃがみこむ。
 柵近くなので通行人の邪魔にはならないが、微妙な距離が歯痒い。なんて、今はそんなことを考えている場合か。
 パージャを狙っている者達の数はわからないが、パージャ一人に対して相手も一人なわけは無いだろう。少なくても十人前後はいるはずだ。それほどの数を相手にしようというのだろうか?
 どうすればいい?ガウェに伝えるにも、ミュズがいては王城まで行けても中には入れない。いや、ミュズが中に入る必要は無いのか?だが自分が離れたときにミュズに何かあったら?王城内にも敵はいるのに。
 突然のことに混乱していたので、じっとミュズがこちらを見ていることに気付かなかった。
「…な、何?」
 声が吃ったのは、あまりにも真っ直ぐに見つめられていたから。
 格好悪い。ガウェのように堂々と振る舞えない自分が恥ずかしかった。
「…あなた、この国の人?」
「え?そうだけど…君は?」
 ふと訊ねられた質問に、異国の少女だったのかと暗に考えれば。
「…同じだけど」
 なぜそんな辛そうな顔をするのだろう。
 今にも泣き出しそうで、どうすればいいのかわからない。身内以外の女の子との会話など、今まで数える程度にしか無かったのに。
「…人見知り…しやすいんだね」
「違うわ。エル・フェアリアが嫌いなだけ」
 困惑しながらもミュズの第一印象を告げれば、速攻で言い返された。しかも産まれた国が嫌いなど、聞いたこともない。
「そう…」
 なぜ嫌いなのか、何があったのか。訊ねたくても訊ねられるような雰囲気ではなく、静かに目を伏せた。エル・フェアリア出身だから、自分も嫌われたのだろうか。そんな思いに胸が痛む。
「でもあなたは少しだけなら信用してもいいわ。パージャがあなたの側を離れちゃダメって言ったから」
 告げるミュズは、やはり真っ直ぐにルードヴィッヒを見つめていた。最初もそうだった。ミュズは真っ直ぐ相手を見る。それは彼女の癖なのだろうが、見つめられた側としては、少し気恥ずかしい。
「…どうも」
 ミュズの瞳から逃れるように視線を外しても、見つめられている気配はしっかりと残っていた。今はそんなことを考えている場合じゃないはずなのに、胸が高鳴るのを止められなかった。
「…パージャは王城で苛められてない?痛いことされてない?」
 しばらく間を空けてから訊ねられたのはパージャの近況だが、まるでひどい目にあっているかのような口調に困惑してしまう。エル・フェアリアが嫌いとは言っていたが、これも嫌っているが故の言葉なのだろうか。
「大丈夫…だと思うけど」
 疑問系にしたのは、訓練の厳しさを身をもって知っているからだ。
 特にパージャの教官であるニコルの訓練は厳しい。ルードヴィッヒの教官のスカイやトリック、そしてレイトルから教わる訓練は基本を体に叩き込むことが多いが、ニコルは完全にぶっとんでいる。
 教官には向いていないだろうとは、ニコルから指導を受けた候補全員の正直な思いだ。
 ルードヴィッヒも一度ニコルに訓練を申し込んだが、剣術訓練で死ぬ思いをした。
 最初こそルードヴィッヒに合わせて剣の構え、足さばき、体重のかけ方を教えてくれていたというのに、段々と容赦が無くなっていき、最終的には完全に命をかけたものになった。というか、完全にニコルは戦闘を楽しんでいた。
 始めに教えてくれた事も後ではぶっ飛び、ただ己の本能のままに動くのだ。教えられた通りに動いていたら完全に死んでいる。
「殺すつもりで来い」と教官達は言った。
 ニコルの言葉は「死にてぇのかぶっ殺すぞ」だった。
 そんなニコルにほぼ毎日訓練を受けているパージャの近況を「苛められていないか、痛いことをされていないか」と聞かれれば、言葉に詰まるのは当然だろう。
「……君、彼の妹なんだよね?」
 訓練の話などすれば完全に嫌われる。ルードヴィッヒのせいでなくとも嫌われる。そう思ったので話題を変えるが、ミュズは自分が知りたいこと以外は話すつもりはないらしかった。
「…大切な家族よ」
「そっか…」
 すぐに切られる会話に、相槌しか打てなくなる。これがパージャなら、きっといくらでも会話が続くのだろう。ミュズとパージャが他人同士だったとしても。
 パージャとの会話は面白い。人をおちょくろうとする面を省けばだが。同室になって思ったのは、パージャは会話を合わせてくれるのだ。
 ルードヴィッヒ、マウロ、ヒルベルト。
 同室で、同じ候補で。最初は少しギクシャクとしたが、すぐに全員パージャと打ち解けた。
 パージャは一人一人を見てくれているのだ。しかも相手に合わせて話すので、自然と会話は弾む。
 おちょくられることも度々あったが、それ以外では完全に“頼りになる兄さん”だった。
 今のルードヴィッヒのように、何を話せばいいのかわからずに黙り込むこともきっと無いのだ。たかが天気から、パージャは百通りの話をしてくれるから。
 どうすればパージャのように話せるだろう。
 ミュズと話したくてそんなことを思って、またふとそういう場合ではないと頭が警告する。パージャなら大丈夫かもしれない、だがたった一人で行ってしまうなど。しかしルードヴィッヒの経験の浅い頭では解決案が見つからず、結局ミュズとの会話に頭を使ってしまう。
…彼は本当に大丈夫だろうか?
 互いに無言になってから、けっこう長い間があったと思う。何度目かのパージャの安否を想像した頃に、ルードヴィッヒでもわかるほど他とは異なる雰囲気を醸し出して近付く男に気付いた。
 庇うようにミュズの前に立てば、不思議そうに見上げられる。
「--失礼、紫都ラシェルスコット家のサード様でございますね」
 セカンドネームで呼ばれて、相手がすぐに貴族であると気付いた。
 階級の低い貴族が階級の高い貴族を呼ぶ場合、それが礼儀なのだ。
 男の問いにただ無言で睨み返せば、男はにやりと嫌な笑みを浮かべた。
「そちらの少女をこちらに渡していただけますね」
「--…」
 まるでそうすることが当然であるかのように。
 背後でミュズが立ち上がる気配がして、ルードヴィッヒはさらに庇うように少し下がった。
「…なに?…だれ?」
 不安からか、ミュズがルードヴィッヒの腕にすがる。
 訳を知らないなら当然だ。
「…彼女をどうするつもりだ?」
「なに、パージャ殿との対話に加わっていただきたいだけです。さあ、後は我々にお任せ下さい」
 その言葉で、ミュズは警戒をルードヴィッヒにも伸ばした。触れられていた腕が離れて、空いた隣の空間に距離を取られる。
「…どこの家の者だ」
 警戒されたことに気付きながらも、ルードヴィッヒは男から視線を離さなかった。以前毒を盛ったというのにルードヴィッヒを信用して、パージャはミュズを預けたのだ。
「…ヴェルドゥーラに仕えている、とだけ言わせてもらいますよ」
 男の言葉を聞いてすぐに、ルードヴィッヒはミュズの手を引いた。
「--走って!」
「!!」
 弾かれるかと思った手は弾かれず、ミュズはルードヴィッヒに引かれるままに素直に走り出した。

「…やはり、か」
 逃亡した二人を追わずに、男はため息をついてから黄金色の伝達鳥を指に留めた。
「ルードヴィッヒ・ラシェルスコット・サードは黄都領主に背いた。女共々生け捕りにせよ。生きていればそれでいい」
 男の言葉を覚え、黄金色の伝達鳥は空高く舞い上がっていった。

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 がむしゃらに走りついたのは、どこかの狭い袋小路だった。追われていたらと後ろを振り返るが幸運なことに追手はおらず、勢いよく走っていたところで突然止まったので全身をひどい疲労感が一気に襲ってきた。
 鍛えているルードヴィッヒでも息切れを起こしているのだ。隣のミュズはペタリと地に座り込み、肩で息をしている。
「…やっぱり…パージャは、大変な目に合ってるのね!!」
 途切れ途切れになりながら、ミュズは強くルードヴィッヒを睨み付けてくる。その怒りをルードヴィッヒは静かに受け止めた。
「…すまない」
 パージャが王城に来た理由は知っている。だが同じ平民騎士を庇う為に命を狙われにわざわざやって来たなど、どうやって伝えればいい?
 押し黙るルードヴィッヒから、ミュズは強い視線を外さなかった。
「…私はどうすればいいの?」
 そして強い意思のこもった言葉で訊ねられて、ルードヴィッヒは目を見開いた。
「…私を信じるのか?」
 先ほど男が話しかけてきた時、ミュズは確実にルードヴィッヒも警戒していた。だというのに。
「よくわからないけど…パージャがあなたの側から離れちゃダメって言ったもの。あなたの側が安全ってことでしょ?」
「…あ、ああ」
 信じてくれたのはパージャの言葉があったから。その事実に、仕方無いはずなのにまた胸が痛んだ。
 ルードヴィッヒを信用しているのではない。ミュズはパージャを信じているのだ。
 いや、感傷に浸っている場合か。すぐに思考を戻して、ルードヴィッヒは次の行動を考えた。
 今日もガウェには任務がある。共に城下に来たマウロ達は巻き込めない。どうすればいい?
 訓練ばかりで緊急時の対応を学ばなかった自分が憎い。ミュズを姫と位置付けるなら、今の状況は王族付きとして失格だ。
--お前の命も危ないぞ
 ガウェに言われた言葉が頭を被い、ゾクリと背中が粟立った。自分の身も危ないなど、本気で考えもしなかった。
--いや、今は彼女の安全を優先させないと
 そしてすぐにミュズを思い返す。ミュズを守らなければ。それが許されない罪を背負ったルードヴィッヒの償いなのだ。
 それでも--
 考えようとすればするほど、頭の中は白く染まっていく。
「…あっち!」
 腕を引かれて、ルードヴィッヒは顔を上げた。
「人通りの多いとこに行くの!!そっちの方が隠れやすいって聞いたことある!」
 ミュズが真剣な様子でルードヴィッヒの腕を引く。まだ息は荒いが、今のルードヴィッヒよりはるかに冷静だった。
「相手は馬鹿じゃないし私の顔は知られている!そんな所に行ったらすぐに見つかってしまう!今は隠れた方が」
 引かれた腕をさらに引き返す。もしここに追手が来たら?袋小路であることも失念しているルードヴィッヒに、ミュズは今までで一番強い言葉を浴びせた。
「あなた頼りないんだもん!!」
 頬をぶたれるようなきつい言葉に、引き返していた腕を止める。
 頼りない。
 ミュズを守るよう任されたというのに。
「それに、きっとすぐにパージャが来てくれるわ」
 ミュズの頭はパージャを中心に回っている様子だった。恐らくさっきのミュズが語った逃げる為の方法も、パージャがミュズに教えたのだろう。そして、ミュズを助けてくれるのも、ルードヴィッヒではなくパージャだと信じているのだ。
「早く!あなたも危ないんでしょ?」
 また腕を引かれて、袋小路を出る。表通りよりも人は少ないが、まばらという少なさでもない道。どこへ行くべきかわずかに迷ったミュズの手を今度こそ迷いなく、ルードヴィッヒは意思を持って強く引いた。
「…こっちだ!!」
 覚えのある道を、目立たないように早歩き程度のペースで進んでいく。
「!!」
 驚いたように腕をこわばらせたミュズに、ルードヴィッヒは強く告げた。
「私にだって考えはある!」
 ミュズの言葉で冷静になれた。
 逃げ切るためなら、何でも出来ると。

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 遊郭街の中にあるひとつの店で、ルードヴィッヒは手のひらサイズの上品な手紙に現状を書き記していた。
 自分一人ではないこと、パージャの行方がわからないこと、追われていること。
 わかりやすく、というより文章をまとめられず結果的に箇条書きにしたためた手紙を丸めて小さな筒に入れ、店の店主に渡す。
「…これを、お願いします」
「あいよ!可愛い子ちゃんだから安くしとくよ」
 やや高い声を意識して小声で伝えれば、快活な笑顔を向けられる。
「あ…ありがとう…」
 可愛い子ちゃん。
 自分の女の子のような容姿はコンプレックスでしかなかったが、今日ばかりは両親に感謝だ。
 伝達鳥を貸してくれるその店には何種類もの鳥達が甲高くさえずり、少し耳に痛いコーラスを延々と聞かせてくれる。ミュズは色とりどりの伝達鳥が珍しいのかポカンと口を開けたまま店内を見回していた。
「嬢ちゃん達見ない顔だけど、どっかの新入りかい?」
「え、ええ…」
「そうかそうか、なら笑顔は忘れるな。第一印象が肝心だからな!でも泣き寝入りだけはするなよ?大変だろうが頑張りな!」
 伝達鳥の支払いを済ませる間も店主は完全にルードヴィッヒを少女と思い込んで話してくれる。
 仕方無いのだが、やはり恥ずかしさは拭えなかった。
「では、よろしくお願いしますね」
「すぐ飛ばすよ。また来てくれよ」
 店主に頭を下げて、ミュズに合図して店を出る。
「…助けてくれそうな人に連絡を取ったから、しばらくこのままやり過ごそう」
 安心させる為に話しかけたのに、ミュズは俯いたまま返事をしてくれない。隣を歩くミュズの様子を見るが、むくれている訳ではないのは雰囲気でわかる。そしてその姿に見惚れている自分に気付いてハッと我に返った。
「…どうかした?」
「歩きにくいの」
 誤魔化すように視線を逸らすが、どのみちミュズはルードヴィッヒを気にはしていなかった。
「私だって同じだよ…」
 ため息をつきつつ、ルードヴィッヒも自分が今着ているドレスの裾を摘まんだ。
 ルードヴィッヒとミュズが着ているのは、同型色違いのドレスだ。
 フリルとリボンの可愛らしいフワフワドレスに着替え、ルードヴィッヒは髪を軽く流すように結わえ、ミュズは短髪を隠すように長髪のウィッグを被っている。
 元々同年代の中でもチビの分類に堂々と入るルードヴィッヒだ。容姿も手伝ってドレスを着れば完全に女の子だった。
 声だけは隠せないが。
「遊郭街で助かったよ」
「女の人たちキラキラしてたね。友達?」
「…友達というわけでは」
 考えがあるとミュズの手を引いて向かった場所は、以前一度だけ世話になったことのある妓楼だった。王城で働く男共の御用達である高級妓楼は若騎士には過ぎた場所だが、上位貴族の息子であるという理由で、成人と同時に兄達に無理矢理連れてこられたのだ。
 今は楼主に顔を覚えられていてよかったと思う。
 高級妓楼ともなれば客の秘密厳守は絶対である。そこの楼主に簡単に事情を説明してドレスを見繕ってもらったのだ。
 楼主としても貴族第三位であるラシェルスコットに顔を売れるので儲け話だったろう。
 面白がる遊女達数名が現れた時は恥ずかしさで泣きそうになったが。ともかく服装を変え、薄化粧を施され、遊郭街を歩いていても何ら違和感のない二人になったはずだ。
 遊郭街では遊女達がドレスのまま街を歩く姿もよく見られたから。
 妓楼の中にいられたらよかったが、相手は黄都領主から命令を受けている。
 万が一を考えれば妓楼内にはいられなかった。ルードヴィッヒは王都に個人邸宅をまだ建ててはいないし、建てていたとしても追手の監視は入っていたはずだから。
 消去法により結局は人混みに紛れるというミュズの案を採用したことになる。
「!!…」
 二人連れ立って歩く隣を、いかにも場違いな男が走り過ぎていく。ちらりと視線を向けられたが、男はルードヴィッヒとミュズに気付くこと無く去っていった。
「…しばらくはごまかせるだろう。私達もパージャを探そう」
「うん…」
 安堵のため息は二人同時だった。だがパージャを探すにも、どこを探せばいいのかわからない。途方に暮れて、結局は人目を気にしつつ歩き回るしか出来なかった。
 歩行人からちらりちらりと向けられる視線は舐めるようなものばかりで、自分はとにかくミュズが遊女と勘違いされている様子はいたたまれない。ルードヴィッヒが最初にミュズを遊女と勘違いしてしまった時もパージャはこんな気持ちだったのだろうか。
 だが仕方ないと言い聞かせた。ミュズの短髪は女性には珍しく、それだけでも目立つのだから。
「…ねえ」
 互いに無言になっていたが、路地裏に入った時にふと足を止めたミュズが決心したようにルードヴィッヒを見上げてきた。
「なに?」
「…パージャ、誰に狙われてるのか教えて」
 ミュズより数歩進んだ先で足を止めて振り返って。
 ルードヴィッヒの喉がひりつくように固まったのは、それを伝えることが怖かったから。
 自分がパージャにしてしまったことを知られたくなかった。毒を盛ったなどと知られたくない。冷や汗が浮かんだ。
「さっきの男とあなたの会話…あなたが仲間であること前提に話してた。パージャはどんなひどい目に合ってるの?」
 ミュズの真っ直ぐな瞳から逃れられない。
 でも、怖い。
「ねえ…」
 教えて、と。ミュズの声は小さいのに、耳から離れなくなるような響きがある。
「…王城で、権力のある貴族に目をつけられたんだ。平民騎士嫌いの貴族に」
 どう伝えればいい?数秒迷ってようやく告げた内容は、簡単な事実だけ。
「…それだけ?」
「…ああ」
 単純な説明だが、元を辿ればそれだけのはずだ。黄都領主バルナが最初に殺せと命じた相手はニコルだったが。
「なにそれ…最低」
 呟かれた言葉が胸に刺さる。
 最低だと。
 自分でも理解しているはずなのに、ミュズに言われるとひどく苦しくなった。
「あなたもその仲間だった?」
「今は違う!!」
 慌てて否定するルードヴィッヒにミュズは眉をひそめてみせる。
「わかってるわ。パージャがあなたを信用してたから」
 何を言っているの?と、ルードヴィッヒを拒絶しない理由はどこまでもパージャで。
「…お兄さんのこと、信頼してるんだね」
 声に交じる僻みが自分でもわかる。これでは子供と変わりない。もう自分は成人を果たした大人のはずなのに。拳を握り締めながら呟いた言葉に、ミュズはまた首をかしげて眉をひそめた。
「さっきも間違ってたよね?パージャとは家族だけど、兄妹じゃないわ」
「え?」
「家族だけど」
 訳もわからず素っ頓狂な声を上げるルードヴィッヒに、もう一度。
 兄妹じゃない家族?まさかパージャの子供かと想像するが、ミュズの年齢はルードヴィッヒより少し若いくらいのはずだ。
「…ふ、夫婦なの?」
 それ以外でパージャとミュズが家族だというなら、まさか。動揺で声が震える。だがまたも眉をひそめられた。
「夫婦?なんで?」
「え?」
 訳がわからない。と首をかしげられるが、それなら二人の関係は何だというのだ。
 困惑するルードヴィッヒに、ミュズは苛立ったように声を張り上げた。
「血は繋がってないけど家族なの!」
 文句あるのか、と。ムッとした様子でルードヴィッヒを睨み付けてくるが、可愛くしかない。
「…好き、なの?」
「パージャのこと?当たり前でしょ。家族なんだから」
「その…恋愛という意味では?」
 何馬鹿なことを聞いているのだろう。聞いておいて、恥ずかしくなる。気の利いた言葉は何も出てこないくせに。
「何言ってるの?」
 ほっとしたのは気のせいではない。
 ミュズにとってパージャは大切な家族なだけだと。それはルードヴィッヒが両親や兄を、ガウェを大切に思う気持ちと同じはずだ。無意識に顔がにやけて、慌てて自分の右頬を手のひらで押さえた。
「へんな人」
 一連の様子をじっと見ていたミュズが、初めてルードヴィッヒに笑いかけた。
 胸がときめく。やっぱり、可愛い。
 奇妙な感情だった。剣武大会で勝ち進むガウェを見たときに感じた全身を燃え上がらせるような高揚感とはまた違う、胸を中心に甘く疼くような感情。
 ミュズが笑いかけてくれたというだけで。
「あなた、名前なんだったっけ?」
 だが心地好い甘い感覚も、すぐに崩れ去った。ルードヴィッヒの方は最初に自己紹介したのに。
 よくよく思い返せば、パージャと離れてから今まで、ミュズがルードヴィッヒを呼ぶときはずっと「ねえ」や「あなた」だった。ルードヴィッヒもミュズの名を呼ぶのは少し気恥ずかしさから躊躇いがあったが、まさか覚えられていないなど。
「…ルードヴィッヒ・ラシェルスコット・サードだよ」
 肩を落として再び名乗るルードヴィッヒを、ミュズはどう見ているのか。
「長いよ。何て呼べばいい?」
 ゆっくりと歩みを再開するミュズが隣に来て、そのまま同ペースで横並びに進む。裏路地で人の気配があまり無いが、ミュズばかり見ていて気にならなかった。
「サード…いや、ルードヴィッヒと呼んでほしい」
 どうせ呼ばれるなら、親しい方がいい。貴族の癖でついセカンドネームを告げそうになったが、すぐに訂正した。
 騎士団でも名前に関しては上下関係無く本名なのだから。
「…ルードヴィッヒ」
 初めて名前で呼ばれてまた胸がときめく。
「…なに?」
「ラシェルスコット、サード」
「……」
 だが甘い気分に浸っているのはどこまでもルードヴィッヒだけだ。
「貴族だから、ルードヴィッヒが名前で、ラシェルスコットが家名よね?じゃあサードは?」
「え、名前だよ?」
 そんなこと、初めて質問された。というよりルードヴィッヒ達には名前が二つあることは当たり前なので、疑問に思ったことすらない。
 魔術師は力を奪われないようにという理由で隠し名とも呼ばれるセカンドネームで名前を隠すと聞いたことはあるが、騎士の道を選んだルードヴィッヒにとって名前など詳しく考えた事もない。
 ルードヴィッヒもサードもどちらも名前であり、しいて上げるなら身分によってどちらを呼ぶか変わるくらいだ。
「だから、名前はルードヴィッヒなんでしょ?じゃあサードは名前じゃないでしょ?」
「えっと…家の位の下の者が上の者を呼ぶ時の名前なんだ。本名呼びでは失礼に当たるからね」
 たどたどしい説明だが、間違ってはいないはずだ。
「…ふーん?じゃあ家名で呼べばいいじゃない?」
「個人を呼ぶ場合は家名なんて言っていられないよ。大袈裟になる」
 ミュズはまだ不満そうだが、それを言うなら名前しかない平民の方が変だと思うのだが。価値観の違いがそうさせるのだろうか。
「…貴族って難しいのね?自分の名前だけじゃなくて家族としても名前があって、また自分の名前で?…わからなくなっちゃった。…名前なんてひとつだけあれば充分なのに…」
「…じゃあ、君のことも…ミュズって呼んでいい?」
 話の流れとしてではないが、そう訊ねると思いきり眉をひそめられた。そこまで拒絶しなくてもいいはずだ。
「…嫌なら…」
「…エル・フェアリアの人間は嫌いだけど…あなたはいい人みたいだからいいよ。ミュズって呼んでも」
 許可を得られたが、なんて寂しい許可だろう。
「…ありがとう」
 なぜエル・フェアリアを嫌うのだろう。
 疑問を口にできるほど親しくない間柄が悔しい。
「ルードヴィッヒかぁ。長い名前ね。ティーみたい」
 ふと呟かれたパージャ以外の名前を耳聡く聞き付けて、また胸が痛んだ。ミュズの言動だけで何度上昇と下降を繰り返すのか。
「…ティーって?」
「名前が長いからみんなティーって呼んでる子がいるの」
 言いながら自分の指を折り数えるしぐさを見せるミュズが、可愛くて憎たらしい。
「ルードヴィッヒより長いよ」
 さらりと名前を呼ばれた。それだけでまた頬がにやけそうになるが、今はそれより気になることがある。
「…女の子?」
「男の子だよ」
 質問の返答はすぐだった。
「……そう」
 駄目だ、また下がる。出会ったのは今日が初めてで、ミュズにはそれ以前の知り合いがいることくらい分かっていても、話題にされたら気になって仕方無い。
 どんな男で、どんな関係なのか。
 自分とミュズの関係は棚上げにして訊ねたくなるのを何とかこらえるしかないのが辛い。
「…名前長いし、ルードヴィッヒを分けるなら、ルードとヴィッヒ?変なの」
「…分ける必要は無いんじゃ…」
「…あ、そっか。そうよね」
 貴族は元々名前は二つある。ミュズの不思議な話に返せば、少し寂しい表情をされた。
「--お嬢さん達、どこの店の子かな?」
「俺達の相手してほしいんだけど」
 話しかけられたのは、路地裏のさらに奥に入り込んでしまった時だった。
 人通りの無い路地裏に知らず迷い込んでしまっていたらしい。
「…ごめんなさい、今日はもう予約されてるんです」
 二人の男に壁に追われるように話しかけられて、ミュズを背中に隠した。声を高く意識するが、バレないだろうかと不安になる。
 逃げの言葉は妓楼の遊女達から教えてもらったものだ。
「ええ~、少しも時間無い?さっきから暇そうにしか見えなかったよ?」
 だが男達はルードヴィッヒとミュズを離してはくれなかった。
 遊女の行く手を邪魔する事は客であれ御法度だと教えてもらったのに。
「…ごめんなさい、時間を潰してただけなんです。もう行かなくちゃ…」
 男の一人がミュズに近付こうとして、ミュズがルードヴィッヒの背中にすがったままさらに後ろに下がる。
 何かおかしい…
 そう気付くのが遅かった。
「…お前達--」
「まさか上三位ラシェルスコット家の御子息が女装するなんてね」
 告げられた言葉に舌打ちで返す。迂闊にもほどがある。どうして気付かなかったのか、自分の甘さに反吐が出そうだ。
「探すのに手間取ったが…もう少し目立たない格好を選ぶんだったな?」
「ミュズ、逃げろ!」
 ドンと背後のミュズを押すが、何もかも遅すぎた。
「おっと、逃がさないぜ?君には役に立ってもらわないといけないからな?」
 ミュズに近付いていた男がミュズの細い腕を無遠慮にねじり上げた。
「やめて!汚い手で触んな変態!!」
「何だとこのガキ!!」
 ミュズも負けておらずドレスのまま男を蹴りつけたが、男の怒りを買っただけだった。容赦無く頬を殴られたミュズが頭から地面に勢いよく倒れてウィッグが飛ぶ。負けん気が強いのかミュズはすぐに上半身を起こして男を睨むが、唇は切れて血を流し、額も擦れて広い幅が血で滲んでいた。
「彼女に手を出すな!!」
 激昂して魔具を発動しようとした両腕に男の双剣が素早く乗る。
「--っ」
 わずかに早く気付いて腕を止めたが、気付かず魔具を発動させようと腕を振り上げていたら、完全に手首から先はルードヴィッヒから離れていただろう。
「おっと動くなよ…動けばもっと痛め付けるぜ?」
 間一髪に、脂汗が滲む。
 数日前のニコルとの訓練で、似たようなことがあったのだ。その経験が無ければ、もう腕は無かった。
 借り物の可愛らしい手袋が少し切れて、両手首が薄皮一枚分ほどだけ傷を負う。
…駄目だ。心臓が一瞬止まり、ややしてから酷い脈を打ち始める。
「お前達…私がラシェルスコットの家系と理解して行動することだな!!」
 紫都ラシェルスコットの名を出すが、男は鼻で笑うだけだ。
「威勢がいいが…こっちはヴェルドゥーラの命令で動いてるんだ…ラシェルスコットの末っ子がどう足掻こうが…手も足も出せないんだよ」
「…くっ…」
 黄都と紫都。一位と三位。
 わずかな差に見えるが、黄都ヴェルドゥーラは別格なのだ。
「さぁ立ちなお嬢ちゃん…君にはあのバカ貧民の目の前で飢えた野郎達と“踊る”大役があるんだからな。…痩せぎすだが丁度こんな小綺麗な格好で運がいいぜ」
 腕を捕まれて無理矢理立たされるミュズの顔が青白く変色する。男の言葉の意味を理解したのだ。
「やめろ!!ミュズに触るな!!」
 どれだけ強く叫んでも、男達を威嚇することも出来ないなんて。これがガウェなら、パージャなら、教官二人なら、王族付きなら、腕を振るわずとも魔具を発動させられた。
 それだけの訓練を積んでいれば、ミュズを助けられたのに。魔具を出すどころか、魔力すら放出できない。
 質の良い魔力を持っているのではなかったか?
 魔力の量も、魔術師を唸らせるほどではなかったか?
 持っているというだけで、使えないなら意味がない。焦りばかりが先立って、本来の力を発揮出来ない。いや、元々自分などこの程度でしかなかったのかも知れない。その事実がひどく悔しい。
「…お前そのガキ連れて先に行ってろ」
 ミュズを人質に取られて身動きひとつ取れない間に男はルードヴィッヒの両腕を背中に回して拘束し、男自身も覆い被さるようにルードヴィッヒの背後を取っていた。
 その男の声が、上から落ちてくる。
 先に行っていろとは、どういうことなのか。
 ここで処分するつもりなのかと考えて汗が頬を伝い。
「…またかよ!お前本当に趣味悪いな」
 ミュズを捕らえた男が呆れるように言い捨てる。
 訳がわからず眉をひそめたのはルードヴィッヒもミュズも同じだった。
 趣味が悪い?何が?
「ヴェルドゥーラに逆らった時点でこいつは死ぬ運命だ…なら先に楽しませてくれよ」
 背後から足をさばかれて、倒れ込むようにぺたりと地面に腰を落とした。腕を取られているせいで上半身は姿勢を保ったままだが、一気に視線が下がる。ドレスのお陰で足に痛みは走らなかったが、花を手折るように脆く地についた自分が恥ずかしかった。端から見ればまるで戦力の無い娘にしか見えないだろう。
 違うのに。自分は精鋭揃いのエル・フェアリア騎士団の王族付き候補なのに。
 こんな、こんな…
「好きにしろよ気持ち悪い…御愁傷様だよ、ラシェルスコット・サード。そいつに目をつけられるなんてな」
 呼ばれた名前に、顔を上げる。
「何、を…?」
 ミュズを捕らえた男は敵であるはずなのに、ルードヴィッヒを哀れむように見下ろしている。
「…ルードヴィッヒ…」
 ミュズまでもが怯えた目でルードヴィッヒを見ていた。
 何だというのだ?
…違う。ミュズの視線は、ルードヴィッヒからわずかに外れている。
 視線の先を追うように後ろを向こうとして、言葉を失った。
 首筋に当たる不愉快な感覚。男の立ち位置から、嫌に濃く汗臭い匂いから、そして不愉快な感覚から、押し付けられているものが何であるか気付いた。
「こんな上玉、今犯らないと一生できないだろ?…ヴェルドゥーラも嫡子のせいで少年趣味には理解を示してくれないからな…」
 こんな、自分が…まさか。
 紫都ラシェルスコット子息である自分に。
 お前達などが触れることすらおこがましいほど高貴な身分にいる自分に--
 男の勃起したそれを、強く押し付けられて。
「そいつは少年趣味野郎なんだよ…」
 哀れむ声が耳を苛む。
「や、め…っ」
「やめろ変態!ルードヴィッヒを離せ馬鹿野郎っ!!」
 あまりのことに涙が浮かんだ。
 女の子じゃないのに。
 弱くなんかないのに。
「もっと若い方が好みだが…形だけとはいえさすが騎士だな…引き締まって…だが肌触りもいい…」
「ひっ…」
 男がたった片方の手だけでルードヴィッヒの両腕を拘束し、余ったもう片方の手を首筋に這わせ、胸元に侵入させていく。
 気持ちの悪い手つきでまさぐられ、屈辱に吐き気がした。
「おっと、魔具は出すなよ?…とは言っても、騎士になりたての奴がこんな状況で出せるはずないがな」
「あーあ…女顔でも男だぜ?見てられねえよ、気持ち悪い…」
 駄目だ、無理だこんなの。とうとう堪えきれず流れた一滴の涙も拭えない。
「人の趣味にとやかく言うな…にしても、傷だらけだな…鍛えてはいるわけか。…まぁ、無意味だったわけだがな。っはははは!」
 訓練でついた数々の傷を嘲る声が耳元で聞こえる。
 無意味?あれだけ訓練を積んで、死ぬ思いを何度もして、それが無意味?
「ほら、歩け!行くぞ」
「やだ!ルードヴィッヒを離せバカ!!死ね変態!!」
「やかましいガキだな!鳴くなら向こうについてから鳴け!!」
 連れていかれようとしているミュズの声が遠い。こんな姿を見られて、こんな醜態を晒して、
「…そう強張るな…すぐに良くなるさ…」
 胸元の生地を一気に剥がれた。
 露になる肌を嬲られる。
 乱れた髪と耳元に男の舌が這う。

--団長式強化訓練、だそうだ。

 そう言ったのは誰だった?
 いつ?
 あ、そうだ。
 初めてパージャとニコルの訓練を目の当たりにした夜に、ルードヴィッヒ自身が口にした言葉だ。

「君もあれをするんだよ」

 魔具の訓練に付き合ってくれたレイトルはルードヴィッヒに向かってそう言った。
 あれをする。
 団長式強化訓練。
 手を使わず、魔具を発動させて操作する。
 そんなこと出来るはずない。
 だって出来ない。
 あんな、パージャみたいな、ニコルみたいなことをやれなんて。
 出来るわけがない--

「------」

「ルードヴィッヒ!!」
 露出した肌に生暖かい水飛沫を大量に浴びるのと、ミュズの叫びが聞こえたのは同時だった。
 腕を拘束していた気持ち悪い男の手が離れ、胸をまさぐっていたもう片方の腕が肩からぼとりとルードヴィッヒの前に落ちる。
 離れる?落ちる?
「う、うわああぁあ!!」
 悲鳴を上げたのはミュズを連れていこうとした男だった。
 なぜお前が驚くんだ?
 見上げた先のミュズと男が赤く染まっていた。
 いや、視界すべてが真っ赤に染まっている。
 体は自由で、後ろに男の気配はしない。代わりにあるのは、いくつもの自分の魔具。ただし、霞のように朧気でまともな形をしたものはひとつもない失敗ばかりだ。
 ルードヴィッヒの背中から黒い翼を生やすように、暴発した彼の魔力は彼を守った。
 真後ろにいた男を切り裂き、肉を潰して。
「----ぁ…」
 とたんに感覚が戻る。全身に浴びた男の赤い血と、赤く染まった肉片。魔具が骨や筋を裂きながら肉を切った感覚までも、ルードヴィッヒに戻った。
「うわあああぁぁぁぁっっ!!」
 ミュズを拘束していた男が、あまりの出来事にミュズから手を離す。
「ーーガフッ!!」
 そのまま逃げようとした男の腹を貫く異常な太さの植物の蔓が見えた。
「…さすがに一人で数十人相手はキツいわ…夏場のゴミ庫のゴキブリみたいに沸きやがって…」
 男の腹から魔具の蔓を引き抜きながら、やや疲れた様子でパージャが立っていた。不機嫌な様子で、だがパージャにはわずかな服の乱れすら見えない。
「パージャ!!」
 ミュズの声は、今までで一番嬉しそうな色をしていた。パージャの側に駆け寄るミュズの頭に、優しく彼の手が乗る。
「下っ腹に穴空いたくらいじゃすぐには死なねぇって。お前はまだ生かしといてやるよ。状況説明するやつ必要だろ?俺を襲った奴らは全員死んでるから、説明しといてね」
 赤い血溜まりを作りながら地面にのたうち回る男に告げてから、パージャはミュズの顎をつまんで上向かせる。
 パージャは完全に無表情だ。だがそれこそが、パージャを本気でキレさせたことを物語っていた。
「…おーいルードヴィッヒ…ミュズを任せたのに、何で怪我してるわけ?」
 ルードヴィッヒの様子などには気にも留めずに、ミュズの顔の傷について怒気を孕んだ言葉をぶつけてくれた。
「これは…そいつが…」
 唇の端を伝う血をドレスの袖で拭きながら、ミュズは地面に転がっている男に目を向ける。
「ひっ…」
 パージャの冷めた視線に気付き、男は息を飲む。深手を負って腸のこぼれた腹を抱えながら、這いずるように逃げようとして。
「あ、そ」
 次の瞬間には、男の体から首が落ちていた。
「やっぱ説明いいわ」
 いとも簡単に人が死んだ。その光景にさらに震えが止まらなくなった。
「…ルードヴィッヒ!ねえ、しっかりして!!ルードヴィッヒ!!」
 パージャの無事を確認したからか、ミュズはルードヴィッヒの元にも駆け寄ってくれる。服が血で汚れることも構わずにしゃがんで肩をつかんで揺さぶって、ルードヴィッヒを心配してくれた。
「…何があった?」
「ルードヴィッヒが殺した男が…ルードヴィッヒのことを…襲おうとしてて…」
 ミュズの背後に立ったパージャは、冷めた視線のままだ。怒りも収まってはいない。怒りをルードヴィッヒに向けることは無かったが、救ってくれる様子も無かった。
「…世間知らずのお坊っちゃまには刺激が強すぎたのか。ミュズ、顔以外に怪我は?」
「私は平気…ねえルードヴィッヒ!もう大丈夫だよ!ルードヴィッヒ!」
 パージャはミュズを心配して、ミュズはルードヴィッヒを心配する。
 ミュズの様子に黙ったパージャが何を思っているのかなど知るよしもなかった。
「……ごめんな、ミュズ…巻き込んで」
「そんなの後でいい!ルードヴィッヒを助けて!!」
 ふと漏れたパージャの謝罪も受け入れずに、ミュズはただルードヴィッヒの意識を戻そうと肩を揺さぶり続けてくれた。
「--ルードヴィッヒ!!」
「うーわ、おっそ…」
 四人目の声は、高い位置から。
 騎士団の服を着たままのガウェが馬に跨がっており、急いでくれた事実をありありと見せる様子で馬から下りて近付くのを、パージャは呆れるように吐き捨てていた。
「…何があった」
「何もかも終わったトコだよ…」
 あまりに遅い登場。ガウェは肉片にまみれた真っ赤な血のドレスを纏うのが誰なのか気付かない様子だったが、俯いて震えるのがルードヴィッヒだと気付くと血に汚れることも躊躇わずすぐに片膝をついた。
 ルードヴィッヒに触れようとした手をミュズが強く払って、ルードヴィッヒを守るように抱き寄せて。
「…この死体達の伝達鳥が私の元に来た。父上の伝達鳥だが、何を勘違いしたのか私の元にな」
 ルードヴィッヒを庇おうとするミュズの様子に怒りなど見せずに、ガウェは自分の元に来た男達の伝達鳥について話した。ルードヴィッヒもガウェに伝達鳥を飛ばしたのに、それは届かなかったのだろうか。
「…あんたが親玉?あんたのせいでパージャとルードヴィッヒが!!」
 ガウェの説明にミュズは激昂して詰め寄り、ガウェに血のついた手で殴りかかった。
「おやめなさいなミュズちゃん」
 さすがにパージャが止めるが。
「…お前は」
「うちの子をお前呼ばわりやめてもらえます?」
 ミュズを思い出したガウェの言葉には冷たく返していた。
「…話しは後で聞かせてくれ。ルードヴィッヒは私が預かる」
「ルードヴィッヒをどこに連れていく気よ!!」
 血濡れのルードヴィッヒを守るように、ガウェは自分のマントを外して頭からかけてやる。ルードヴィッヒを立ち上がらせようとするガウェにミュズが激しく食ってかかり、またパージャが止めるはめになった。
「ミュズ、この人は大丈夫だから。ルードヴィッヒや俺の味方」
 納得は出来ない様子だが、ガウェを睨み付けながら、ミュズはようやく口を閉じた。
「私の屋敷で血を落とす。お前は団長の元に行け」
「いいの?団長には話さないんじゃなかったっけ?」
「…死者が出たなら話は別だ」
 目の前に広がる凄惨な光景に眉をひそめながら、忌々しい様子ではあるが仕方無いと言い捨てる。
 気を楽にしたのはパージャだ。
「あーよかった。向こうの倉庫にも死体めいっぱい転がしたから、どうすりゃいいかと思ってたんだよね。騎士団が動いてくれるなら安泰だよ」
 本気で言っているのか、悪い冗談なのかわからない。だが詳しく聞く前に、パージャはミュズの手を引いてしまった。
「ミュズは途中まで俺とおいで。ウインドを迎えに来させるから」
 この場から一刻も離れたいというような姿勢でミュズの手を引くが、ミュズは動かない。
「ルードヴィッヒはその人に任せたらいい。今回のことちゃんとミュズに説明するから、ね?」
 まるで駄々をこねる幼子に言い聞かせるような口調で説得するパージャから手を離し、ミュズは今も呆然とするルードヴィッヒの手を握りしめた。
「--ミュ、ズ?」
 汚れることも構わずに、暖かな手でルードヴィッヒを癒してくれる。体の強張りが、少しだけ落ち着いた気がした。
「…ありがと、またね」
 それだけをルードヴィッヒの耳に残して、ミュズはパージャの元に戻った。
 ミュズの手の温もりは消え始めるが、感触はしっかりと残っている。
「…もう大丈夫だ。来い」
 ガウェにゆっくりと肩を押されながら、ルードヴィッヒも馬の背に乗せられた。

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