第7話
第7話
まだ子供の頃に言われた事がある。
両親は揃って町へ買い出しに出かけており、ニコルは幼い妹と小さな家で留守番をしていた。
いつも妹の相手をする時は向かい合って遊ぶのだが、その日は両親がしているように、妹を膝の上に乗せてあやとり遊びをしようとしていた。膝の上に乗せるといっても両親とニコルとでは体格が違うので、必然的にあぐらをかいた中に妹が収まることになる。
普段はそんなことをしないのに突然背中から抱っこをしたから、妹はキャッキャと面白がっている様子だった。
あやとり糸に興味を持たず少しもじっとしてくれないが、今日だけは兄ぶりたいのだ。どうして両親の時のように静かにしてくれないのか、困惑しながらもニコルは笑いながら、逃げようとする妹を懸命に押さえていた。
頼むから、今だけはカッコイイ兄貴でいさせて。
「だめだよ、アリア」
なんて大人ぶって言ってみたり。
馴れないことはするべきじゃないと身をもって痛感しても、今は家に彼がいてくれるから、大人ぶりたかった。妹の世話くらい簡単にこなせる兄であるところを見せたかったのだ。
両親が出掛けてすぐに家を訪ねてくれた彼と会うのはどれくらいぶりだったろう。
とうとう妹がニコルの腕をすりぬけて、椅子に座る彼の膝に両手をついて床にしゃがんでしまった。
わたしの勝ち!
そう言っているような妹の満面の笑顔にムッと唇を尖らせて、自分も彼の元に向かう。
妹は次のニコルの行動を待っている様子だった。その妹の頭には、彼の大きな手が優しく乗っている。
いいな、と思った矢先に、ニコルの頭にも大きな手が触れた。
「成長したな」
凛とした美声が響き、頭を撫でられる。
思わず目を合わせれば、彼は優雅に微笑んで。
「…やめろよ」
嬉しいはずなのに、その手を払いのけてしまった。しかし気分を害した様子はなく、逆にクスクスと笑われてしまう。心はもう大人のつもりなのに。
「--あら」
「--久しぶりだな」
ギ、と鈍く軋む扉の音が聞こえて、町から戻った両親が彼を見て驚いた様子も見せずにそう告げる。
彼はいつも突然なのだ。
「少し寄っただけだ。もう出る」
そっけない返事は、彼が行ってしまうことを語っており。
「っ…」
立ち上がる彼を止めるように、ニコルは一度は拒絶した大きな手を掴んだ。
もっと一緒にいたいと素直に口に出来るほど幼くはない。
彼の立場が村でどういう存在なのかは理解している。
それでも、本音を殺してまたねと口に出来るほど大人でもない。
ただ口をつぐんだまま、今のニコルの出せる一番強い力で彼を止める。子供の力など知れているがニコルの唯一素直でいられる部分を、その日の彼は受け止めてくれた。
いつもは簡単に振り払うくせに。
再びニコルの頭に大きな手が触れるが、今度は彼が立ち上がっていたせいで表情は見えなかった。
「--覚えておきなさい。お前の--」
そこで夢から覚めた。
懐かしい思い出の夢。まだ子供の頃の。今となれば少し忌々しい。
両親は既に他界した。二人とも、穏やかな最期とはいえなかった。
父の最期など、側にさえいられなかったのだ。
だというのに彼は。
「…クソ親父」
苛立ちが全身を包み込み、舌打ちしてからベッドを抜けた。
まだ明け方前で、眠りについてから少ししか経ってないことがわかる。だがこのままでは眠れそうにない。
頭を冷やす為に、夢を忘れる為に。気分転換の為にニコルは静かに部屋を抜け出した。
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エル・フェアリアとファントムの繋がりの片鱗を第五姫のフェントが見つけ出して数日が経った。
事態は今のところ何も変わらず、騎士達は気を張る毎日を過ごす。
ただ、今日はいつもと少し異なる雰囲気を一部の騎士達が発していた。
「お二人さんは今日お仕事?」
「ああ。お前はどうするんだ?今日も訓練か?」
ニコルは朝食を取るために兵舎外周の食堂に立ち寄ったところで、先に食事を済ませたらしく立ち去ろうとしているパージャと出くわした。
ニコルとガウェにはいつも通りの護衛任務が昼過ぎからあるが、王族付き“候補”には丸一日の休みが与えられている。
連日の猛訓練のご褒美というわけではないが、息抜きも必要だとする騎士団長の采配だ。
こいつに限って自主訓練など有り得ないとは思いつつ今日の予定を聞けば、一日だらけるわけではない様子だった。
「前から約束してた感動の再会が待ってるんで、王城出るっす」
「そうか。楽しんでくればいい」
ここに来るまでは王都兵士だったのだから、城下に家族なり仲間なりいるのだろう。ニコルにとっては憎たらしいだけのパージャの妹もいるはずだ。詳しく聞かずにいれば、パージャは眉間に皺を寄せているところだった。
「…怠けるなって怒らないんだ?」
人を鬼か何かだと勘違いしているのかこいつは。
「連日訓練だったんだ。たまの息抜きも必要だろ」
「あたま固いだけが取り柄なニコルさんが…今日は雨かな…やめてよせっかくの感動の再会の日なのに」
呆れるように呟けば、パージャはわざとらしく窓の外から青空を眺めた。
遊ばれている様子に、隣のガウェが遠慮もなく笑うのが腹立たしい。
「…早く行け」
「へいへーい」
厄介払いするようにシッシと手を振れば、パージャは素直に背中を向けた。
「…お前はどうするんだ」
パージャの去った後で食堂の席を確保するガウェが、朝食を取りに行こうとするニコルを止めて訊ねてくる。任務は昼過ぎである為にまだ時間はある。その間どうするのか。
「“いつも通り”だ」
その返しだけで、ガウェは全て理解したかのように席に座った。
今日がいつもと少し様子が異なるのは、王城で働く者達に給金が支払わられる日だからだろう。
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王都は広い。
王城真下の城下町でも、端から端まで馬の全力の足でも一時間はかかるだろう。
パージャは城下町から少し離れた歓楽街の一角で彼女を待っていた。
給金は既に手に入れており、その額には呆れるしかなかった。一年騎士を勤めれば、慎ましい平民なら一生働かず生きていけるだろう。貴族はどうなのかは知らないが。
ともあれ無くさないように懐に隠しておけば、視界の隅に見知った少女を見付けて顔を向ける。
「ミュズ、こっちこっち」
「パージャ!!」
パージャが騎士団入りした当日に王城に殴り込みに来てニコルと大喧嘩した少女だ。
「久しぶりだねー。あらま、また痩せてる」
パタパタと駆け寄ってくるミュズは普段から痩せぎすな少女だったが、以前見た時よりもさらに痩せてしまっていた。
「…パージャこそ…ひどい目にあってない?つらくない?大丈夫?」
しかしミュズは自分の心配よりもパージャをとても心配する。
まるで悪鬼巣窟にでも放り込まれていたかのように心配する姿に、愛しさと申し訳なさが同時に同量芽生えた。
「意外と楽しくやってるよー。前より筋肉ついたし」
ニコル達の強烈な扱きと豊富な食事により望まずとも付いていく筋肉を見せれば、うっすらと残る傷跡の数々に眉をひそめられる。
「傷は訓練でみんな付くんだよ。気にしないで。俺だけすぐに治ってたら怪しまれるだろ?むしろこの程度で済んでて超ラクチン」
何か言われる前に、先回りしてフォローを入れておく。そうしないと、ミュズは後から後から悲しんでいく。パージャの一番欲しいものには気付かないくせに、それ以外には嫌というほど気を揉むから。
呼び出したのは三日ほど前だ。来られるならおいで。そう伝えれば、来るとすぐに返事をくれた。
「今日は初給金もらっちゃったから、心配かけたミュズにたくさん使っちゃおうと思って」
「…いや」
しかしミュズは、パージャが自分を呼んだ理由を拒絶する。
「エル・フェアリアの為に働いて稼いだお金なんて汚い。嫌い」
「まぁたそんなこと言う~」
拒絶されるだろうとは薄々気付いていたが、案の定だ。
「そんな汚いお金なんていらないもん!!」
「その言い方は傷付くなぁ?どうであれ俺が頑張って働いたお金なんだし」
「……」
ミュズはパージャの無事を確認する為にここまで来てくれたのだろうが、パージャにとって今日は贖罪の一日なのだ。
ミュズが傷付くとわかっていながら黙って王城に入った。その謝罪を込めて。
「ほら、前に桜色の髪留め欲しがってたでしょ?今から見に行こうよ。大好きなサクラだよ~」
「…いや!!」
だがミュズは頑なだった。
「みゅーずー…」
「だって!!」
見上げてくる瞳に涙が浮かぶ。決壊すれすれだ。
繁華街は人通りが多く、その分人目にも付きやすい。ちらちらと向けられる視線から見える感情は、男が女の子を泣かせて…というパージャを責めたものばかりだ。
「泣く?泣くなら俺、王城に戻るよ?」
ミュズの薄桃色の短い前髪に少し触れれば拒絶するように俯かれて、溢れた涙がこぼれるより先に袖で強くぬぐう仕草を見せられる。
「…泣かないもん」
「ならよかった。まだミュズと一緒にいたいからね」
涙声になりながらも強がるのは、まだパージャと共にいたいからだと錯覚してもいいのだろうか。心配だからという意味でなく、ただ傍にいたいという、それだけだと。
そんな甘い思いを期待しながら、有り得ないと心の中で自嘲する。
「まーったく、ミュズはどうやったら機嫌を直してくれるかね?」
お金を使うのが嫌だと言われたら、正直この後はつらい。
女の子向けの可愛い店は下調べしているが、今のままだとミュズは付き合ってはくれないだろう。
ミュズが求めていることはわかっている。だがそれは出来ない。パージャが個人的に、自分勝手に動いていいならすぐにでもそうするが。
「…帰ってきてとは言わないのかな?」
ミュズが求めるのはそれだけだ。
騎士団など辞めて、エル・フェアリアを出て。
「…言ったって帰ってこないでしょ?…それに、必要なことってわかってるもん…」
まるで死刑でも宣告されたかのような口調だった。
俯いたまま、消えてしまいそうな声で。
「んー…ほんとにわかってるのかな?」
「わかってる!!…わかってるけど…どうして私には言ってくれなかったの?」
耐え難い痛みをそれでも堪えるように、ミュズはパージャにすがった。折れてしまいそうな細い腕がパージャの胸を叩く。小さなミュズは、パージャの鳩尾辺りまでしか身長がない。
そこから苦痛の表情で見上げられるのは、何よりも辛かった。
「…ごめんな。ミュズの傷付く顔を見たくなかったんだ」
今でも充分傷付いているミュズの顔がある。だが物事の進行途中と最初では訳が違う。
「言ったら絶対に泣いて止めたでしょ?そしたら俺、動けない自信あったからさ」
「…泣かないもん」
「でも王城に乗り込んできただろ?あれでも俺けっこうヤバかったんだよ?何もかも放り出していいって思えるくらいの力がミュズの涙にはあるんだから」
ミュズの涙は特別だ。今までもこれからも、どんな女の涙にも揺るがされることは無いだろう。ただミュズを除いて。
「…そしたら、俺達の自由が遠退くことになるんだ」
「そんなの…わかってるもん…」
パージャだけのことなら、自分勝手に動けた。だけど“これ”はそんな単純なものではない。運命はパージャを通じてミュズをも絡め取ったのだ。まるでミュズという存在がパージャを操ると言わんばかりに。
「----」
そして運命は、どこまでもパージャに安穏を許さないのだ。
「パージャ?」
パージャのわずかな緊張をミュズは見逃さなかった。
「ん?どったの?」
いつもの軽口で訊ね返してみても、もう遅い。
「パージャこそ…今、何か考えてた…」
「……ありゃま…参ったね。さすがミュズだよ」
今日くらい許してよ。そんなことを思いながらミュズを庇うように脆い肩を抱けば。
「--パージャ殿?」
「うーわールードヴィッヒだ」
警戒していた背中側から聞こえてきた声は、最近とくに聞きたくない声だった。
「…その言い方は無いんじゃないか?」
顔を合わせれば喧嘩まがいに手合わせを申し込んでくるようになった王族付き“候補”筆頭のルードヴィッヒが、今日は見慣れぬ私服でいる。緑がかる黄色の品の良い上着が、誰に憧れているのかを表すようだった。
ミュズは首をかしげながらルードヴィッヒを見つめ、ルードヴィッヒもミュズを確認してから、慌てるように目をそらした。なんだというのだ。
「君も…こんなところで…その」
「こんなところって何…わーお」
ルードヴィッヒの少しどもるような声は妙に恥ずかしがっている様子で、訳もわからず首をかしげたパージャは、改めて確認した繁華街の正体に目を覆いたくなった。パージャなりに驚いてみたのだが、いつも通りの棒読み台詞が自分でも嘘臭い。意味がわかっていないのはミュズだけだ。
「いや勘違いしないでね…王城に近いしなんか派手で目立つし可愛い系の雑貨屋多いから待ち合わせに丁度いいかと…」
パージャが待ち合わせに選んだ場所は、遊郭街だった。
迂闊だったと臍を噛む。
女の子が好みそうな可愛い店が多くて見た目にも派手だからわかりやすいだろうと選んだのだが、まさかこんな凡ミスをやらかすとは。女の子向けの店が多かったのは、客が遊女にプレゼントを購入する為なのだろう。平民でも裕福層が揃う王都では遊女に大金をつぎ込むなどざらにある。
「待ち合わせ?そちらの女性を…その、買ったのではないのか?」
「しっつれいなー。うちのミュズは売り物じゃありませんー」
やはり勘違いしていたルードヴィッヒの言葉に、仕方ないとはいえカチンとくる。
「ミュズ…」
遊女ではないと知り改めてミュズと目を合わせたルードヴィッヒが、とたんに頬を染めた。
--やばい
直感でそれに気付いた。
ミュズはいつだって人の目を真正面からでも見つめる癖がある。それに痩せ過ぎている分を引いても、ミュズは可愛い。パージャの贔屓目を除いてもだ。
「あ、君の妹の…」
「…妹?」
ミュズという名前は以前ルードヴィッヒには聞かせたことがある。
だが妹という部分を、ミュズは首をかしげながら小さく呟いていた。
王城での件から妹ということにはなっているが、パージャとミュズに血の繋がりなど無いのだ。
「失礼な発言をお許しください。私はルードヴィッヒ・ラシェルスコット・サード。パージャ殿と同室の騎士です」
姿勢を正しすぐに頭を下げて自己紹介するルードヴィッヒに、ミュズの体が強張り、パージャの影に隠れた。
「挨拶はいいからさぁ…あんたはなんでここに?偶然か必然か?どっちよ」
それをルードヴィッヒが気にするより先に、パージャは彼が都合よく現れた理由を訊ねた。
ルードヴィッヒはすぐに首をかしげるが、パージャが先ほど感じた気配の理由にはならない。
「…ヒルベルト達に無理矢理連れてこられて、気が乗らないから逃げてきたところだ」
説明も恥ずかしげに語るルードヴィッヒに、やましい部分は見当たらない。
「…嘘は言ってないね。周りの“あれ”にも気付いてない、と」
どうやら偶然であるとわかり、ようやくパージャはルードヴィッヒに対する警戒心を解いた。
「パージャ?」
「…いったい何を言ってるんだ?」
二人分の不思議そうな声が左右から同時に耳に入るが、パージャはルードヴィッヒに向き直った。
「ルードヴィッヒ、少しの間ミュズを頼めるか?」
言うが早いか、ミュズの背中を押してルードヴィッヒに託す。
「は?」
「パージャ!?」
突然のことに混乱する二人からは視線を外して、パージャを狙う彼らの数を確認しながらルードヴィッヒに告げる。
「ガウェパパの使いの人達が俺に会いに来たみたいなんだよ」
「--!!」
ルードヴィッヒならそれだけですぐに理解出来る会話に、一人取り残されたミュズが怒り出しそうな雰囲気でパージャを睨んだ。
「なに?どういうことなの?」
「すぐ戻るよ。少し人と話してくるだけ。ルードヴィッヒの側から離れちゃダメだよ」
「パージャ!?」
説明も曖昧なままに背中を向け、パージャは奴らのいる方へと向かった。
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