第6話


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 新緑宮に訪れたガウェは、開くはずのない扉を押してみながら、かつて共によく訪れた幼い姫との思い出を何度も何度も思い返していた。
『--ガウェ!』
…リーン様
 愛しい姫はガウェを見かけると満面の笑顔を浮かべて駆け寄ってきてくれた。
 秘密の抜け道、秘密の隠れ家、秘密の会話。
 何もかも覚えている。
 あの愛らしい姫君はガウェの全てだったのだ。
『開くかなぁ…』
 最後の日となった当時の会話も一語一句忘れずに覚えている。
 新緑宮を前に、リーンは不安げにガウェの背中を眺めていた。
「これくらいなら…大丈夫、ですよ…ほら開いた!」
『やったあ!』
 新緑宮の扉を締める鎖は脆く、少し手を加えるだけですぐに外れ落ちる。片膝をついて鎖を外したガウェを後ろから眺めていたリーンは、外れた鎖を見て無邪気に喜んだ。
「リーンおねえさま…なか、くらいです…」
 喜ぶリーンをよそに、初めてついてきた妹姫は不安に身を竦ませる。
『大丈夫ですわ!私もガウェもいますもの!』
 何度もガウェと二人で訪れた場所なので、リーンに恐怖心など無かったはずだ。むしろここはリーンにとって王城で唯一人目を気にせずにいられる場所だった。
「…しかし迂闊でした…手袋を汚してしまうとは…」
『手袋ならいくらでも差し上げますわよ。ガウェは本当に手袋にこだわりますのね』
 新緑宮を封鎖していた鎖を地面に置きながら、錆びた鎖で汚れてしまった手袋を眺める。
 姫達にとってはわかりやすく色分けされただけの手袋だろう。しかしガウェにとっては特別な手袋なのだ。
「はい。リーン様の騎士である証ですからね--」

 あの時汚してしまった手袋と、今のガウェがはめている手袋は色が違う。
 王族付きに与えられる特別な手袋には、自分が使える主君を示す色の刺繍と石が装飾される。
 コウェルズ王子付きには金。
 七姫達には、それぞれの虹の色が。
 ミモザ姫付きには赤
 エルザ姫付きには緋
 クレア姫付きには黄
 フェント姫付きには青
 コレー姫付きには藍
 オデット姫付きには紫
 リーン姫を示す色は、美しい緑だった。
 今のガウェが手にしているのは、鮮やかなエルザの緋だ。
 燃えるようなその色は、ガウェがもはやリーンの王族付きではなくなってしまった事実を見せつけてくる。
「…ガウェ」
 ふと聞こえてきた心細そうな幼い声に、ガウェは我に返った。
「オデット様…護衛はどうしたのです?」
 振り返れば、末の姫オデットがたった一人で後ろに立っていた。王族付きの姿は見当たらず、幼い姫が一人でここまで来たことを示している。
--…なんてことを
 リーンとの思い出に浸っていたい。しかしこの末姫を前に、現実からは目を背けられない。
「今はいけません。ファントムの狙いがわからない以上、決して王族付きから離れないでください。…いいですね?」
 騎士としてのガウェが、やや強い口調でオデットをたしなめる。
 足早にオデットに近付き、片膝をついて視線を合わせる。小さな肩を優しく掴めば、オデットはかつての姫がそうだったように涙を精一杯堪えるような耐え難い表情を見せた。
 リーンが亡くなって五年が経ち、オデットは当時のリーンと同じ年齢を来年に迎えるまでに成長した。
 髪型もリーンが好んだ形を望むために、今のオデットはリーンによく似ている。
 どうしようもない決定的な違いがある為に、ガウェが見間違うことは無いのだが。
「…でも…リーンお姉さまが独りぼっちになってしまうわ。ファントムのせいで…みんな、ここに来るのも駄目だって…」
 とうとう泣き出してしまったオデットが、すがるものを探すようにガウェの首筋に顔を埋める。
 ガウェが愛した姫を、オデットも同じように愛していた。
 愛されるべき姫だった。
 他の姫達と同じように、愛され、敬慕されるべき姫だったのだ。
「…私がリーン様をお独りにするはずがないでしょう?」
「…ほんと?」
 呟きは強い意志を持ち、ガウェが今も変わらぬ忠誠をリーンに誓っていることを知らしめる。
「勿論です。私はリーン様の騎士なのですから」
 リーン姫にそうしていたように、優しく抱き締めて頭を撫でた。
 オデットはまだ幼く、心のままにリーンを思っていられるが、ガウェにはもう許されない。それが羨ましかった。
 近付いてくる気配を察してオデットを抱き上げて新緑宮から離れたのは、ガウェの騎士としての本能がそうさせたせいだ。
「…オデット」
 気配の主はオデットを探していたのだろう。額に汗を浮かべてドレスの裾を汚していた。
「エルザお姉さま」
「…駄目でしょう、一人で歩いては…みんな探しまわっていますわ」
 エルザにも放浪癖があるのだが、それは口にはしない。
 己の魔力で身を守れるエルザとまだ未熟なオデットでは一人で出歩く場合の危険性が違うのだ。
 オデットを下ろしてやれば、心配をかけさせたことを自覚しているらしく、そのままエルザに向かっていく。エルザもしゃがみ、オデットを強く抱きしめた。
「ごめんなさい」
「無事ならいいのです」
 エルザの後ろには、ニコルと数名の騎士と魔術師が静かに待機している。
 今の時間はガウェとニコルの護衛の時間ではないが、ニコルは別件でエルザと行動を共にしていたのだろう。
 視線がかち合うが、互いに声はかけなかった。
「さあ、オデット。今は私とあなたの舞踏の練習時間なのですから、あなたがいないと始まりませんわ。あなたはエル・フェアリアで一番の舞姫なのですから」
 オデットのダンスはオデットの愛らしさも加わり国内外で人気が高い。オデットも暇を見つけた時にはよく踊っているのだが、今はどうしても亡くなった姉姫が頭から離れない様子だった。
「…はい」
 歯切れの悪い返答に、エルザの表情も悲しく曇る。
「ガウェ殿も用がないなら共に護衛に…」
「いいのです…」
 来ないとはわかりつつ訊ねたのだろうニコルの言葉は、エルザによって遮られた。
「当分は…そっとしてあげてください」
「…わかりました」
 この時期にガウェが精神を病むのは皆の知るところであるので、エルザの言葉にニコルは素直に従う。
 騎士達がいるなら安心だとでもいうように、ガウェもそのまま背を向けて新緑宮へふらりと戻った。

 その後ろ姿を止めるものはいなかった。
 精神状態の悪いガウェに指示を出せるのは姫達か王子だけだ。
 エルザとオデットを中心に据えて歩き出せば、少し進んだ先で同じくオデットを探していたのだろう騎士団長のクルーガーと出会う。
「エルザ様、オデット様は…」
「いましたよ。無事です」
 オデットはエルザのドレスに隠れるように身を小さくして、クルーガーを深い憎悪の眼差しで見つめていた。
 口元を強く引き結んで責め立てるように睨み付ける姿は、普段のオデットの愛らしさからは遠くかけ離れている。

…いつからだろうか…
 ニコルがふと感じた違和感。
『ガウェ、お前の顔の傷、いつからだ?』
 それは、数日前に訊ねた何気ない質問で、そこから止めどなく溢れ出てくる疑問の数々。
…いつからだろうか…
 末姫オデットが騎士団長クルーガーを嫌うようになったのは。
「オデット!!」
「…ミモザお姉さま」
「なぜ共も付けずに一人で離れてしまったの!」
 クルーガーと合流してさらに進んだ先で、第一姫のミモザが髪を振り乱しながら強く叱責を飛ばす。
「…ごめんなさい」
「怪我は?怪しい人物には会っていませんか?」
 強い口調ではあるが、オデットの小さな体の隅々まで異変がないか探してこねくる。
 びっしょりと汗に濡れた姿はどれほどオデットを探していたかを如実に表しており、途中で転んだのだろう、美しいドレスが胸元から砂色に変化していた。
「大丈夫ですわ…お姉さま…」
「…一人でどこかに行かないで…」

心配する姉をなだめるように、オデットは姉に抱きついた。
 どこかに行かないで。それはオデットに告げたのか、それともたった一人で遠い彼岸に向かってしまった妹姫に告げたのか。
…いつからだろうか…
 そこにもニコルの疑問があった。
 いつからだ?ミモザ姫が妹達にとても過保護になったのは
「オデットったら、また新緑宮に」
「だって、みんないっちゃダメって…」
 新緑宮にいたことを告げるエルザに、オデットはオデットなりの反論を返す。
 あの場所はとても尊い場所なのに、と。
「今だけ、今だけよ…ずっと行っては駄目なわけではありません。みんなあまり外を歩いてほしくないだけ。…ファントムの件が終わるまで我慢して」
 ファントムの噂は、エル・フェアリアの民が思う以上に、そして王城で働く者達が想像する以上に姫達に衝撃を与えてくれた。
…いつからだろうか…
 第三姫クレアはがむしゃらに自身を鍛えるようになり、第五姫フェントは時間さえあれば本の世界にのめり込み、第六姫コレーは、独りぼっちになることを異常に怖がるようになった。
…いつからだろうか…
「…クルーガー、エルザとオデットを安全な場所まで送ってから政務棟へ来てちょうだい。私は着替えてから向かいます」
「いや!!」
 ひとしきりオデットを抱き締めて落ち着いたミモザの指示を強く拒絶したのはオデットだった。
「オデット…」
「クルーガーはいや!!絶対にいや!!」
 慌てて止めるエルザの腕を払って、オデットは強く主張する。
 そして高ぶりが限界に達したように、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちていく。
 誰も何も言えない。
 重苦しい空気の中で、オデットの泣きじゃくる悲痛な声だけが全員の胸を掻きむしった。
「…ミモザ様、クルーガー団長、先に向かってください。エルザ様とオデット様には我々がいますので」
 ようやく口を開いたのは、エルザの護衛部隊の隊長、イストワールだ。
 直属の部下であるニコルとも馴染み深い彼は、この場ではクルーガーに次いで昔から王家に仕えてきた。
「…そうね。お願いするわ」
「頼む」
 そうすることが今は最良なのだろう。
「お任せください」
 エルザとオデットを任せて、ミモザは自分の王族付き達とクルーガーと共に来た道を戻っていった。

 五年前、リーン姫は突然この世を去った。
 その後を追うように、病弱な王妃が衰弱死したのが四年前。
 立て続けに亡くなった二人の母娘を弔う為に、毎年秋頃に慰霊祭が行われることになっているが。
「…今年は延期か、中止になりそうだとミモザお姉さまが言っておりましたわ」
 愛する家族を弔う為の行事が延期になるかもしれないほどの。
「…今は七姫様達の安全確保が優先です。慰霊祭に乗じてファントムが現れることも考えられますからね」
 悲しげに呟いたエルザを慰めるように、隣にいたニコルは生真面目に返した。だかそんな当たり障りない言葉でエルザの憂いが晴れるわけがない。
「華やかにとは思ってはいません。…ですがせめて…私達だけでもお母様とリーンに花を送りたい…」
「そのお気持ちだけで、リーン様も王妃様も喜ばれますよ。もし七姫様に何かあれば、そちらの方がお二人とも悲しまれます」
「お花を送るだけでも駄目なの?」
 すがるのはオデットだ。
 困惑するニコルに、助け船を出すようにイストワールが口を開いてくれた。
「…まあ、それくらいでしたら、慰霊祭が中止になる場合は皆と相談しましょう。こちらとしても七姫様達が集まってくれていた方がお守りしやすいですからね」
 場を和ますように優しく微笑む隊長も、胸の内ではニコル達と同じことを思っているはずだ。
 なぜこの時期なのだろうか、と。
 七姫や騎士達が悲しみに暮れるこの時期に、なぜファントムなどに身を裂かなければいけないというのだろうか。

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