第5話


-----

 初めて会った日の事など覚えていない。それくらいガウェはルードヴィッヒが幼い頃からラシェルスコットの邸宅によく訪れていた。
 騎士である為に長居はしなかったが、年に数回、休日を作っては遊びに来てくれたのだ。
 ガウェとルードヴィッヒの父は本当の親子のように仲が良く、ラシェルスコットの三男であるルードヴィッヒのことも弟のように可愛がってくれた。
 どんないたずらをしても怒らない穏やかな人で、この人が騎士だなどと想像もつかなかった。
 実兄二人もガウェを慕っていて、まだ幼いルードヴィッヒが飲めない酒を両親とガウェと兄二人が酌み交わしている様をいつも膨れっ面で眺めていた。
 騎士団に入ることを決めたのは、三年前の剣武大会の時だ。
 各国の代表戦士が優勝を狙う年に一度の大会がその年はエル・フェアリアで開催され、エル・フェアリアの代表にガウェとニコルが出場したのだ。
 ニコルは剣術の代表として出場し、ガウェは武術の代表で大会の舞台に立った。
 応援にかけつけたルードヴィッヒはただ心配しかしていなかった。
 いつも優しい人が武術の腕を競う場に出るなど、想像もつかなかったからだ。
 怪我をしてしまったらどうしよう、ひどい傷がついたらどうしよう。
 それでなくても当時のガウェは大切なものを亡くしてボロボロだったのに。
 頭の中に不安しかなかったルードヴィッヒが見たものは、今まで見たこともないような好戦的なガウェの姿で。
 どんどん勝ち進み、軽々と優勝を手にしたガウェに全身が震えた。
 今まで感じたことのない高揚感に包まれ、ルードヴィッヒはすぐに父に願い出たのだ。
 騎士になりたいと。
 ルードヴィッヒが憧れでなく本気で騎士を目指していると納得させるのに数ヵ月を要し、ようやく頷いてくれてからの父は鬼のようだった。
 ルードヴィッヒにありとあらゆる技術を叩き込み、紫都の領兵団に放り込まれ、息子だからと甘えさせてもくれなかった。
 それでもやり遂げたのは、ガウェに近付きたかったからだ。あの高揚感をもう一度味わいたい。そして尊敬するガウェの隣に立ちたい。
 願ってようやく掴んだ騎士団の世界はしかし、思っていたものとは違っていた。
 どれだけガウェの姿を探しても、生活の場も違う王城騎士と王族付き騎士に接点などほとんど無く、訓練場にもガウェは現れない。
 必須訓練も神の悪戯を疑うほどにガウェのいる日とは当たらず、八つ当たりのように目に入った王族付き騎士に手当たり次第に訓練を願い出ていた。
 会えないならその場所に行ってやる。王族付きの地位を本気で望み、さらに訓練を行っていた矢先に、それが来た。
 王族付き“候補”
 ファントムというイレギュラーに対抗する為に急遽増員された候補に選ばれ、ガウェの目に留まった自分を確認して心から喜んだ。
 だというのに、突如現れたパージャが邪魔をしたのだ。
 今までいなかったくせに。
 存在しなかったくせに。
 ふらりと現れて、ルードヴィッヒが手を伸ばし続けた場所を簡単にかっさらっていった。
 平民だというだけで、天才だというだけで。
 労せずにガウェと肩を並べたのだ。

「無味無臭の劇薬だ。これをあの薄汚い馬鹿な平民に使え」

 ニコルを殺すよう命じられたのは、騎士団入りしてすぐの頃だった。
 訳がわからない。
 なぜ殺さなければならないのか。
 黄都領主である伯父はニコルの存在を許さなかったが、ルードヴィッヒの目に映るニコルはガウェとはまた違う魅力に溢れた男で、ガウェと並ぶ姿は何ら遜色無く憧れの一人だった。
 平民でありながら力を認められ、のし上がった素晴らしい人物。
 だがパージャは違う。
 パージャはルードヴィッヒと同じ立場にいるはずなのに、ガウェやニコルと同じ土俵に立ったのだ。

「私を虚仮にした罪だ。殺せ」

 今朝、伝達鳥からその言葉を聞いた時は、まだ従うつもりなどなかった。
 ならいつ、心が傾いだのか。

 鉄で建てられた兵舎の床に額を預けていたルードヴィッヒが頭を上げたのは、近付く人物に気付いたからだ。
「--ガウェ…兄さ…」
 見上げた先にある見知った顔は、今まで見たこともないような悲しい表情をしていた。
「…外せ」
「へいへーい」
 ガウェのひと言で、さらに後ろにいたパージャがルードヴィッヒを捕らえていた蔓の魔具を消し去った。
 パージャの隣にはニコルがいて、困惑した様子でルードヴィッヒを見つめている。
「…なぜ彼は?」
「大丈夫大丈夫。俺とあいつが喧嘩しちゃっただけ。ヴェルドゥーラさんちのおにーちゃまがいいようにしてくださるわ」
「…お前、頭でも打ったのか?」
「真面目に返さないで。恥ずかしいから」
 パージャに背中を押されて、二人が屋上から立ち去る。
 残ったガウェが、倒れたままのルードヴィッヒの上体だけ起こしてくれた。
 声が出ない。
 言葉が出ない。
 ガウェの目をまともに見られない。
 自分が何をしたのかわかっているから。
「私の父に上手く使われたようだな」
 ガウェの声はいつもと同じ優しい色をしていて、しかしそれがルードヴィッヒの胸の奥を強く締め付けた。
「…お前が何かいたずらをしても、私は怒ったことがなかったな」
「…私は兄さんの為に--」
 だから、そんなことを言いたいわけではないのに。
「今日は怒る」
 頬が突然熱を帯びて、それが痛みに変わる頃にようやく平手で叩かれたと理解した。
 今までどんな悪さをしても、口頭ですら怒らなかった人を、ここまで怒らせてしまったと。
「……ご、めんなさっ…」
 最後まで言い切る前に喉が潰れたような音を発する。
 混乱状態で呼吸が乱れたせいだ。
 涙が止まらなくなり、横隔膜が痛んだ。
 そして、なぜ自分がこんな馬鹿なことをしたのかを理解した。
 魔が差したのだ。
 パージャを殺したかったわけではない。
 苦しめたかったわけでもない。
 ルードヴィッヒの未成熟な心が、ふらりとそうさせてしまった。
 たった一滴の毒。
 黄都領主が小瓶全てを使えと言っていた中で、ルードヴィッヒの心に一滴分の魔が。
 それでも許されることではないが。
「パージャを雇ったのはクルーガー団長だ。ヴェルドゥーラ氏に狙われたニコルを守る為にな…」
 告げられた真実に息が出来なくなる。
 ならパージャは、来るべくして来たというのか。何の苦もなくルードヴィッヒの欲しかった場所を手に入れたのではなく、命を狙われることを自覚して。
「他に仲間は?」
「…わかりません…」
 ようやくまともな声が出てくれた。だがなんて情けない声だろう。
「…そうか」
 きっと失望された。
 それだけのことをしてしまったのだ。
「団長に報告すれば、お前は騎士団から永久追放だろうが…」
 ルードヴィッヒはただ頷くことしかできなかった。
 きっと家にもいられなくなる。
 父にも失望される。母を泣かせることになる。兄にも、嫌われてしまうだろう。
 あれだけ望んだ夢を、魔が差した弱い心のせいで潰した。
「…だがお前が今騎士団からいなくなるのは好ましくない」
 言われた意味が理解できず、ルードヴィッヒはぼんやりとガウェを見上げてしまった。夜空のせいで表情はわからないが、まっすぐにルードヴィッヒを見つめてくれる黄の瞳だけは理解できた。
「お前はどちらに仕える?現黄都領主か、次期黄都領主か」
 その意味を頭の中で何度も繰り返し考えて。
 また涙が止まらなくなった。
「…兄さ…あなたです…私はあなたに仕えたい…」
 卑劣な行動に出たルードヴィッヒに与えられたチャンスが眩しい。
 この人は、ルードヴィッヒを理解した上で許される為のチャンスをくれようとしているのだ。
「…なら私に仕えろ。今後、二度とニコルとパージャには手を出すな。…そして--」
 ガウェが静かに語る言葉をひと言も漏らすまいと、ルードヴィッヒはその全てを自身の胸に深く刻み込んだ。
 潰されても文句など言えない立場のルードヴィッヒを救い上げてくれた。もう二度と、この人を失望などさせない、と。

-----

『例の薬はどうした』
 可愛らしい伝達鳥の口から発される不機嫌な低い声に、ルードヴィッヒは小さく唇を噛んだ。
「…訓練が非常に厳しく…あまり食事が喉を通らない様子で」
『ふん。甘えた根性だな。まあいい。薬はいつでも用意させよう。結果を楽しみにしているぞ』
 ガウェの父親である黄都領主バルナとのやり取りは、明け方近くに行われた。
 ひと気の無い場所を選んだのは、聞かれては困る内容だからだ。
「あの、伯父様…」
『どうした?』
「…私以外にも彼等を狙っている者はいるのですか?」
 恐る恐る訊ねた声は不自然ではなかっただろうか。
 数秒ほど沈黙が流れ。
『…そこまで首を挟まなくていい』
「…すみませんでした。…失礼します」
 返ってきた言葉は新たな情報にはなり得ないものだった。
 対話が終わり、伝達鳥がパタパタと飛び立っていく。
 その姿を見送りながら、ルードヴィッヒはガウェの言葉を思い返していた。

「…そして--まだ私の父に使われているよう振る舞え。何かあればお前の身も危ないからな」
 愚かな行為をしたルードヴィッヒを、まだ心配してくれる。
「…ガウェ兄さん」
「ほんっと、宗教みたいにガウェガウェ言うね」
「うわあ!!」
 昨夜の出来事に思いを巡らせていた時に耳元で囁かれて、ルードヴィッヒは本気で驚いた。
「な、なぜ君がここに!!ってか?」
 いつの間に近付いたのか、パージャが真後ろに立っていた。
 飄々とした普段通りの様子で、ニヤつくでも怒るわけでもなく。
 昨日、毒を盛られたというのに。
「おーおー、派手に殴られたな。頬っぺた真っ赤っかじゃないの。女の子だったら責任取らされる事態だわこりゃ」
 自分も容赦なくルードヴィッヒの腹に一発蹴りを入れておきながら、まるでガウェだけが暴力を振るったような言い方に少しムッとするが、咎める権利などルードヴィッヒには無い。
 ルードヴィッヒが静かに口をつぐんでいれば、パージャも何かを待つように黙ってしまった。
 頭を冷やせとパージャは告げた。
 戻ってくる頃には自分の言いたいことの区別もついてるだろ、と。
 パージャは気付いていたのだ。
 ルードヴィッヒの本心が別にあることを。しかしそれがどこにあるのかわからず混乱していたことを。
「…私はガウェ兄さんについていくと決めたんだ!!…だから」
 どうしてパージャに毒を盛ったのか。
 ガウェの為ではなく、自分の為でもなく。
 魔が差しただけだなんて、どうやって言えばいい?
「…すまなかった」
「許さん」
 謝罪の言葉を光の早さで弾き飛ばされて、一気に頭に血が上った。
「はあ!?こ、この私がお前ごときに頭を下げているんだぞ!!」
「いやいや、なぞの決心からひょいと出て来た謝罪の言葉だけで頭は下げてないでしょ」
「充分だ!!」
「それを決めるのは被害者側だからね。毒を盛られた立場の人間として謝罪だけでは許さん」
 ルードヴィッヒの罪を掲げられてしまえば、反論などできるわけもなく。
「…何をさせる気だ」
 まるで弱味を握られたような声を出したのは、単純にパージャの言いなりになることが悔しかったからだ。
「そうだなぁ…そうだ。王族付きと候補の騎士達が全員いる前でガウェさんの事を「ガウェお兄ちゃん」って呼んだら許してやる」
「な……できるわけないだろ!!そんなことを言ったらガウェ兄さんまで辱しめることになる!!」
 何を言い出すかと思えば、なんて最悪なことをさせようとするのだこの男は。
「それがいいんじゃんか。あのすまし顔が歪むのが見たいんだよ」
「いやだ!!絶対に言わない!!」
「じゃあ許さなーい」
「…許さなくて結構だ。ガウェ兄さんの不評に繋がるようなことは一切しない!!」
 まるで毒を盛られた事が単なる遊びだったかのように思えるほど、パージャは掴み所を見せなかった。
「仕方ない。じゃあ“パージャお兄ちゃん”で許してやる」
「なぜ私が君を兄と呼ばなくてはならないんだ!頭がおかしいのか!!」
「うわ酷い。弟が欲しかっただけじゃーん」
 駄目だ、ペースを崩される。
 パージャに転がされるのが癪に障るが、語彙数と頭の回転スピードでは勝てる気がしなかった。
「妹がいるんだろう!!泣いて連れ戻そうとするくらい愛してくれる妹が!!」
 このまま負けたくなくてがむしゃらに言い放った言葉は、パージャにはぶち当たるものがあったらしく、わずかに表情が陰った。
「…ああ、ミュズか」
「…名前まで知らない!」
 傷付いたような表情が、自嘲気味に歪んで見えた。
「ほんと、すぐ泣くんだよね…俺の為に…」
 およそパージャのおちょくった性格からは想像もつかないほど影の深い声を残して。
「!?」
 話題を逸らすかのようにパージャが視線を窓の向こうへやったのでつられて外を眺めて、何もないではないかとすぐに視線を戻した時にはもう、パージャの姿はどこにも見当たらなかった。


第5話 終
 
6/6ページ
応援・感想