第5話
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夏の夜風がぬるく頬に触れる。
湿気を帯びた不愉快な風は、遮るものの無い場所では断続的に吹き続けた。
「そんな所に…どうやって登ったんだ」
「手と足と知恵と勇気を使えば誰だって登れるぜ」
ルードヴィッヒがパージャを発見した場所は、自分達の部屋のある兵舎の屋上だった。
廊下にいた騎士達が屋上に行ったパージャを見ており、その会話を耳にしたから居場所はすぐにわかった。
屋上に上がればパージャは見張り台のさらに上の屋根に登ってだらけていて、絶妙なバランス感覚でギリギリ落ちないラインからルードヴィッヒを見下ろしてくる。
「…ほら、痛み止め。忘れていたぞ」
「おー。さすが王城騎士期待の星。気が利くね」
部屋を出る際にパージャが忘れていった痛み止めの薬が入った袋を持って出たので袋を放れば、上手くパージャの手の中に収まった。
王城騎士期待の星、誰かがルードヴィッヒをそう呼んだのは、ルードヴィッヒの魔力量の多さとガウェの従兄弟であることが所以だ。
魔力の質も良いので、当初は魔術師団に入団する話も出ていたが、ルードヴィッヒは尊敬するガウェの背中を追って騎士団に入団した。
しかし入団すればガウェの近くにいられるのではないかという甘い期待は見事に打ち砕かれ、ようやく手が届きそうになった矢先にパージャに横入りされてしまった。
パージャにはそんなつもりはなかったろう。それでもルードヴィッヒからしてみれば、パージャの今いる位置はルードヴィッヒが最も欲しかった場所だ。だがそんな不満を口にするなど、恥ずかしくて出来るわけがない。
「…室内での事だが…君の言いたいこともわかるが、もう少し優しく言ってやれないか?」
本当に言いたい本心を隠して告げた上辺だけの言葉だが、パージャは真面目には取り合わなかった。
「そーだねー。君達は俺と違ってピッチピチでパッツンパッツンの若騎士だもんねー。めんどくさいねー薄ーいガラスのハートの持ち主は」
「…そういう事ではなくて」
募る苛立ちはパージャがルードヴィッヒを相手にしないからというだけではない。
「…あまり言いたくはないが、君の存在が我々に波紋を広げていることは確かだ」
「へー。例えば?」
王城騎士には勿論のこと、ルードヴィッヒ達王族付き“候補”にも。
最大の波紋は、今日のニコルとの訓練だった。
平民二人が見せつけてくれたのだ。
まるで届かないほどの格の違いを。
「…平民出でありながら、まるで計ったように現れて、候補とはいえいとも簡単に王族付きに近付いた」
「ズルしたって言いたいの?」
「違う!…私達が騎士になってずっと続けてきた努力が無駄であるかのような…君の才能が…」
天才だとセクトルは告げた。
ガウェやニコルと同じ天才なのだと。
「才能ねぇ」
「…なぜ君がガウェ兄さんの下に付けたのか…正直不満だったが、ニコル殿と同じ平民なのだから仕方ないかと思うことができた。しかし今日言われたんだ。…君は天才だよ。ガウェ兄さんやニコル殿と同じ…」
消えてしまいそうな情けない声が自分のものだとは信じたくなかった。だがそれは紛れもなく自分の口から出ている。
「…べつに天才じゃないけど?」
嗚呼、駄目だ。
パージャの返答はルードヴィッヒの神経を逆撫でするに充分だった。
「膨大な魔力を持って何が“天才じゃない”だ!」
上質な魔力を持つと言われたルードヴィッヒを軽々と越す魔力を持っているくせに。それを簡単に操る技量を持っているくせに。
「私達が王族付きになる為にどれだけ努力していると思っているんだ!?ファントムのおかげで異例の“候補”になれたが、その“候補”になる為にどれだけの努力をしたと!」
許せなかった。
自分達が必死の思いでひとつずつ積み重ねてきた努力を簡単に越えていくパージャが。
「…すまない。君が悪いんじゃな--」
自身の怒声に驚き我に返ったルードヴィッヒが胸ぐらを掴まれた事に気付いたのは、すぐのことだった。
「そんなに欲しいならくれてやろうか?この魔力」
いつの間に下りてきた?そんなことを考える余裕もない間に、膝を器用に蹴られて地にくずおれる。胸ぐらを掴んでいた手はまだ離れてはいない。
「っっ、な、に…を!」
「努力…ねえ…。俺が今日まで生き残るのにどれだけ努力したと思う?」
首回りを圧迫する手が離れていき。
「努力した分だけ報われるなら…お前らごときが俺に敵うはずないだろ…」
腹に一発、酷い痛みが走った。
「ッゲホ!!」
腹を蹴られた痛みに顔を歪めたルードヴィッヒが見上げた先で、パージャは渡された痛み止めの薬を袋からばら撒いた。
「お前!!」
「ニコルさんも優しくてさあ。自分の痛み止めも俺に譲ってくれたわけよ。それもこん中に入ってた。だけど飲めなくなっちった。なんでだと思う?」
自分で床にばら撒いたのだろうとは言わなかった。
身体の血の気が引いていく音が聞こえたからだ。
パージャは“気付いて”いる。
「誰かが夕食にも細工するしさ。まぁそっちは侍女が犯人だろうけど」
腹の痛みよりもガツンと重い衝撃が頭を苛んだ。パージャに何かされたわけではない。ただ気付かれてしまったという事実がルードヴィッヒの思考を挫いた。
「“気付ける”程度には“努力”してんだよね。そしたら今度は同室に盛られるときたもんだ」
「…く」
「簡単すぎて腹よじれるわ。…ニコルさんより先に俺を始末しろって、な」
いつ気付かれたというのだろうか。渡された無味無臭の劇薬は、たった一滴を薬に染み込ませただけのはずだ。
「単純だよな?御貴族様も。昨日今日で実行犯が何人もわかるとは思わなかったよ。…ってまぁこれは性格の問題かな?あんたとガウェさんイトコ同士にしては性格似てなさすぎ。ってかあんた正直すぎ」
「…煩い…」
「黙らないよ~。ついでに教えといてあげるけど、薬と薬を合わせたら場合によっては反応起こすから覚えといた方がいいぞ」
しゃがんだパージャが散らばる薬の玉をひと粒掴み、ルードヴィッヒの鼻先に持ってきた。
「----っ!!」
とたんに鼻腔中に刺激臭が充満し、ルードヴィッヒは顔をしかめて逸らす。
「染み込ませてすぐに匂ってたら、あんたみたいな甘ちゃんでも気付けてただろうね」
涙が溢れたのは、悔しさから。だが何の悔しさなのか自分でもよくわからなかった。毒に気付かれたから?
違う。それはもうどうでもいい。ならなぜ。
「ガウェさんに頼まれてんだよね。犯人わかったら伝えるように」
「やめてくれ!それだけはっ!!兄さんにだけは!!」
悲鳴のように声が裏返った。
自分が何をしたのかわかっている。だがそれを知られたらもう。
「…わっかりやすい性格してるよ。ガウェさんに嫌われたくないんだねー。大方ガウェ信者なのをガウェパパに知られて使われたってところか」
「お前に何がわかる!!ガウェ兄さんはいずれ上位貴族十四家の最上位に立つ御方だ!その周りに小汚い者など必要ない!!」
違う、そんなことを言いたいのではない。
「なんでお前が勝手に決めんだよ」
「お前などにわかるものか!!お前達と我々は住む世界が違うんだ!!」
それらは全て、毒の本来の持ち主がルードヴィッヒに語って聞かせた言葉であって本心ではない。
だというのに、なぜ本音を伝えられない?いや、自分の本音がわからない。
唯一わかっていることは、今ルードヴィッヒが口走った言葉は、ルードヴィッヒの本心ではないということだけだ。本心ではないが、毒を盛るという抵抗を無くすために刷り込まれた言葉がルードヴィッヒを離さない。
「はいはい。御託はいいから。じゃあねー」
「ま、待て!!」
去ろうとするパージャを追うために立ち上がろうとして、顔面からぶっ倒れた。
体が動かない。
首を傾いで見たものは、全身を捕らえる植物の蔓だった。
「なっ…」
「動けないでしょ?ちょっとそこで頭冷やしてな。戻ってくる頃には自分の言いたいことの区別もついてるだろ」
どこまで見通されているのだろうか。
身動きのとれなくなったルードヴィッヒに背中を向けて、パージャは当たり前のように屋上から飛び降りた。
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