第5話
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「…駄目だ体が痛い…胃がチリチリする」
夜になり兵舎外周の大部屋に戻ったパージャは、辿り着くやすぐに自分用のベッドに倒れ伏した。
永続的な痛みなど久しぶりの感覚だ。今日受けた傷を“治らないよう”コントロールしなければならない事がつらい。
室内にはすでにルードヴィッヒ、マウロ、ヒルベルトが戻って今日の成果を話し合っていたらしく、パージャが戻ると様子を窺うようにそろそろと寄ってきた。
「すごい訓練だったもんね…見てた皆、固まってたよ」
話しかけてきたヒルベルトの感想は何の事だとは聞かずとも知れる。
「あれヤバイわ。どこから刃が向かってくるかわかんねーもん。終わった後も手足強ばったままだし、緊張して心臓ものすげー跳ねてるし…死ぬかと思った…いややっぱ死んでんじゃねーの俺…」
「お、落ち着こう…」
「生きてる?俺ちゃんと生きてる?呼吸してる?透けてない?このまま寝たらあの世に到着しそうで寝るに寝らんないんだけど」
わざとらしく怯えて見せれば、マウロとヒルベルトはどう返せば良いのかわからないといったような曖昧な笑顔で誤魔化してくる。
「…団長式強化訓練だそうだ」
そこに割り込んだルードヴィッヒの声は妙に硬く強張っていた。
「あーそれな」
「…何それ…団長?」
「レイトル殿から聞いたんだ。一対一形式で自分の魔具を大量に発動させて、手を使わずに操作しながら相手の魔具を避ける訓練らしい」
顔を上げて、聞き齧りの説明をするルードヴィッヒに視線を送る。言葉にするのは簡単だが、それがどれほど難しいかも聞かされた様子だった。
「えげつないぞあれ。魔具の発動で気力やられるわ、逃げまわんのに体力やられるわ、いつ刃に貫かれるかと思うと寿命縮むわ、ニコルさん容赦ないわってか途中でテンション上げやがるわあのクソ戦闘狂…」
「王族付きの最終試験もあれに近いそうだ。…あの中で、日の出から日の入りまで戦い続ける…」
そこで沈黙が流れた。今日のパージャの訓練は多くの騎士達の目に留まったらしい。そしてそれがどれほど難しい事かも、王族付き“候補”に選ばれた若騎士達は教官から聞かされた。
「…出来るのかな…」
不安を口にしたのはヒルベルトだ。
まだたったひとつの魔具すら満足に扱えない若騎士にとって、それを最終目標に掲げられる事がどれほど絶望を煽るか。
「まぁ…やるしかないんじゃねーの?」
パージャが簡単に語れるのは、若騎士達とは別次元に生きている証拠だ。
「でも」
「現に今の王族付きはそれが出来たから王族付きになれたんだろ?成功した奴がいるんだから不可能じゃないんだ。ごちゃごちゃ考えてねーで自分の教官に言われた通り訓練してればいいんだよ。そしたらいつのまにか出来るようになってんじゃねーの?」
やる前から不可能を口にされるのは、あまり気分の良いものではなかった。ただでさえ身体中に走る傷がじくじくと痛んで苛立ちが募るのに、うじうじと鬱陶しい泣き言など聞きたくない。
「そんな簡単に言うけど」
「言われた通りやりゃいいんだ。こんな簡単なことがあるかよ。向こうだって最初から完璧なんざ求めてねーし、あんたら俺んトコの鬼畜教官みたいに今すぐやり遂げろなんて言われてねーだろ。そんな技量もまだ無いくせによ」
その言葉が鋭く若騎士達に突き刺さるとわかった上で、それでもパージャは我慢できずにぶつけてしまう。
彼らは若い。身も心も。
候補に選ばれるだけの潜在意識は確かにあるが、それでもぬるま湯の世界で育った甘さも持っている。
いつもなら簡単に受け流せる感情が今日にかぎって塞き止められたのは、馴れない環境で不愉快な痛みに苛まれたからだろう。普段のパージャならこんな子供の不安など毛先程度にも気に留めない。
しかし今回は違うのだ。
年齢の割には色々と経験した方だとは思っていたが、パージャも人の子である証だろう。
「…でもさ」
「何だかモヤモヤしてきたわ~。ちょっと夜風に当たってくる」
重い体に鞭を打ってベッドから降りれば、マウロが困惑した様子で袖を引いてきた。
「え…休まないともっと疲れるよ」
「嫌なんだよねー俺。やってもないのにグチグチ言うやつ。無理だ駄目だと思うんなら“候補”降りろよ」
心配してくれたのであろうその手を払いのければ、つらそうな顔をされる。
冷たく切り捨てるのは性分ではないが、今は仕方無い。そう言い聞かせて、パージャは見送られるままに部屋を出た。
「…失敗失敗。明日から頑張りましょうか」
部屋を出て扉に背を預けて呟くその言葉は、中の若騎士達には届かないだろう。
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パージャの去った室内は、深い海の底のように重く沈んでいた。
パージャに投げられた言葉の剣が気にしていた部分に深く刺さったのだ。
「…不安になるのはわかるが、否定的になるのは私も好ましくないと思うよ。せっかくクルーガー団長達の目に留まったんだ。私達なら出来るからだよ。きっと」
そう励ますルードヴィッヒの声も沈みきっている。
ルードヴィッヒ達を選んでくれたのは他ならぬ騎士団長達だ。だが自分達の何を見て選んだというのかわからない。
選ばれた時はただ嬉しくて誇らしくて、何をするにも何でも出来る気がした。
だがそんな思いも、各々が教官から出された課題を前に儚く消え去った。
マウロもヒルベルトも、熟練の王族付き騎士から出された最初の課題をこなせずに、笑われたのだ。
自分達も最初はこんなだったなぁと笑っていた教官達が次に出した課題は何とかこなせるものではあったが、最初の課題には遠く及ばないほどに優しく様変わりしてしまっていた。
ルードヴィッヒがレイトルから受けた魔具の操作訓練は基本中の基本だった。だがそれを延々と休み無くだ。
すでに出来る課題を、黙々とこなす。
少しでも気が削がれれば、温和な口調で容赦なく叱責された。元々出来て当たり前の内容なので、誉められることもなかった。
気が遠退けば、後ろからセクトルに魔具で小突かれ、不意にフレイムローズの魔眼で集中力を奪われそうになった。
だが一番悔しかったのは、それ以上の事を教えてくれなかった事だ。
まだ二日目だと言われるだろう。訓練に置き換えれば初日だ。それでも、剣術も武術も魔具操作も、何から何まで半人前以下の若騎士なのだと思い知らされた。
「…でもさ…何か見せつけられた気がしたんだよな」
ヒルベルトの言葉は、全員が思ったことだろう。
「団長に目を止められて入団して、すぐに“候補”に選ばれて、あんなの見せつけられたらさ…自信なくすだろ」
自分達が初歩中の初歩を課題としている時に、パージャは堂々とニコルと最終訓練をこなしてみせたのだ。
パージャの年齢は自分達より少しだけ上のはずだ。だが“平民”だからと侮っていた部分は隠せない事実だ。
なにより、教官達の目がパージャに釘付けになったことが悔しかった。
“戦ってみたいなぁ”
教官がポツリと呟いたその言葉が、どれほどパージャを買ったかを表している。
「……」
パージャは天才だとセクトルは言った。
「…どこに行くんだ?」
訊ねるマウロに、ルードヴィッヒは背中越しに返した。
「…彼と少し話してくる」
夜も更けた時間帯では、普段気にならないはずの扉の軋みも異様なほど響いて聞こえた。
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深夜帯だというのに部屋に戻らない同室の為に、ニコルは仕方無くそこに向かっていた。
心配というわけではない。だがこの時期であるということが、どうしても不安なのだ。
昼前にガウェを見かけた新緑宮に向かえば、案の定彼は扉の前に立ち尽くしていた。
「--まだここにいたのか」
ニコルの声にゆっくりとこちらを向くガウェの表情は、五年前の“あの当時”のガウェに戻ってしまっている。
感情など存在しない、出来の悪い粗悪な人形のような。
「明日の朝はエルザ様の護衛だ。そろそろ戻るぞ」
手招けば、素直に従う。
それは悪い兆候ではないという証で、ニコルは胸の奥でわずかに安堵した。
これで聞く耳を持たない場合は、酷い鬱状態である証拠だからだ。
そうなった場合のガウェは手に終えない。
新緑宮。
五年前、この宮殿内で第四姫リーンが変わり果てた姿で発見された。
たった十歳の姫の遺体は酷く損傷していたらしく、姉妹達ですら葬送式でその姿を見ることは叶わなかった。
新緑宮を含む七色宮はそれぞれに結界が施されており、リーン姫が新緑宮に忍び込んだ際に何らかの力が彼女の魔力と反応した為に起きた悲運な事故として伝えられた。
当時のリーンの王族付きはたった三名と異例の少なさで、さらに全員が別件の任務でリーンから離れており。
「--…」
そこまで思い出して、ニコルは足を止め、後ろをついてくるガウェに向き直った。
「ガウェ…」
訊ねる為に名前を呼べば、唯一残った左側の目だけで俯いた状態のまま見上げられる。
「お前の顔の傷…いつからだ?」
ガウェ・ヴェルドゥーラ・ロワイエットがまだ第四姫リーンの王族付きであった頃、彼の顔に傷など存在しなかった。
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